動き出す
夏、という季節。望が「キライ」と公言してはばからないもののひとつ。だが、梅雨を過ぎればからりと乾いた空気の中で過ごせる、信州の夏ならば話は別だ。
「んと、カードにコスメに着替えは二日分あれば、あとは向こうで買えるし。あ、それと藪じいへのお土産と、それから」
明日から、八月。明日からは、しばらく信州で過ごせる。やっと明日という単語でその日を思える今に気づくと、望は自然とだらしなく笑んでいく自分の頬を巧く引き締められなかった。
荷物のチェックをしたのは、これでいったい何度目だろう。やっと宅配に出せると思うだけで、今の望を童心に返した。
ドアホンが宅配便の来訪を告げると、望はお決まりのやり取りを集荷の担当と二、三交わしてオートロックを解除した。デジタル時計の分を刻む数字がまたひとつ明日へと近づいた。
「集荷はこれで全部でしょうか」
「あ、はい、そうです。それで全部」
伝票処理をしている担当に声を掛けられた望は、デジタル時計から彼に視線を戻してそう答えた。
「壊れ物などはありますか?」
「いいえ……あ、この箱だけ、要冷蔵でお願いします」
比較的日持ちのする食材を入れたダンボール箱を指差すと、彼はそれに『クール便』のシールをぺたりと貼った。
「信州の藪診療所さま方、安西望ご本人さまでお届け。ご不在時はお隣の赤木さまへお預け、ですね。基本的には明日の昼ごろがお届け予定になりますが、今はお中元や旅行パックなどが多い時期なので、少し到着が遅れる場合もありますけど、大丈夫ですか?」
「ええ。明日の夜なら藪じいに内緒で私が直接受け取れるから、ちょっとくらい遅くても本当は都合がいいくらい」
本当はサプライズにしたい品だから。そんな余計なお喋りが口を突いて出た。
「夏休みを利用して、おじいさん、おばあさんのところへ、といったところかな?」
顔馴染みになっている担当の彼が、望のお喋りにつき合ってくれた。
「ええ、十二年ぶりに会うの。藪じいや、その助手をしている赤木さんや、懐かしい人たちといっぱい会って来ようと思って」
「信州と言えば、避暑で有名なところですよね。最高の旅先で、羨ましいなあ」
彼は営業トークの「お預かりします」の言葉や伝票控と一緒に、「気をつけていってらっしゃい」という個人的な言葉と爽やかな笑みを望に残していった。
「ありがとう。お願いします」
久し振りに、望の口から弾んだ声がこぼれ出た。
夕方、特に出掛ける予定はないが、淡い期待が望に出掛ける準備をさせていた。
「あら、のんちゃん。明日は信州なのに、こんな時間から出掛けるの?」
そう言ってキッチンへ顔を覗かせたのは、下で暮らしている泰江だ。明日から当分離れ離れだから、一緒に外食でもと打診しに来たという。
「今日はもう予約のお客さまがおしまいになったの?」
「うん。キャンセルが入ってね。時間が取れたからつい嬉しくなって来ちゃったけれど、先約があったなら、別にいいの」
無理な笑みを浮かべてそう返す泰江の気遣いが、嬉しいような、それでいて寂しいような。そんな想いが望に苦笑を浮かばせた。
「お母さん」
望は手にしていたルージュをドレッサーにことりと戻した。
「外食もいいけれど、たまにはここでご飯を食べない? 一緒に作ろう?」
泰江が一瞬ほんの少しだけ口角を上げて開き、大きく見開かれた彼女の瞳が少しだけ潤みを帯びた。
「いいの? 私、のんちゃんみたいにお料理が上手じゃないよ?」
「私だってご飯ものは人並程度にしか作れていないじゃないの。じゃ、決まりね」
望は空っぽになった手を、ハンガーに掛けてあるエプロンに伸ばして微笑んだ。
あり合わせのもので作るビーフシチュー。それでも泰江とキッチンに並ぶのは昔から嫌いではなかった。いつからこのキッチンで一緒に立つことがなくなったのだろう。気づけば穂高の不在時は、下の部屋にある泰江のキッチンで食事を作るのが当たり前になっていた。
ビーフシチューをコトコトと煮込みながら、泰江が隣でサラダを作る。望はボウルにドレッシングを作っていた。時計を見れば、午後の七時を随分と過ぎている。確実に諦めるしかない時間になっていた。
「のんちゃん、代わろうか?」
そう言われて初めて気がついた。泰江が代わろうと言っているのは、タマネギのすりおろし。望の頬に涙が伝っていた。
「ううん。もう終わるから、大丈夫」
慌てて腕で涙を拭う。だけど泰江には、ばれてしまった。
「ねえ、のんちゃん。本当は私に気を遣ってくれたんじゃないのかな。約束があったんじゃあないの?」
芳音くんと、というひと言が、オリーブオイルとタマネギを混ぜる望の手を止めさせた。
「……約束なんか、してないわ。ただ、一緒にご飯食べようって電話くらいあるかなぁ、って」
思っただけ、という言葉の語尾が震える。明日になれば会えるのに、どうしてこんなに落ち込んでいるのか自分でも解らなかった。
「そっかぁ。芳音くんがいつも声を掛けてくれてたんだよね。学校見学に日程を合わせたのも、一緒に帰ろうっていうのも、全部」
――のんちゃんは、自分から、声を、掛けてみた?
パキ、パキ、とレタスを千切る音に紛れ込ませて、泰江が語句を刻んで問い掛ける。
「なんで私から」
「だって、今は、のんちゃんが、会いたいんでしょう?」
「……芳音は、そうじゃない、ってこと?」
「う~ん、ちょっと、違う、かな。きっと、芳音くんはね」
中途半端なところで言葉が止まる。それがなぜなのか解らなくて、促す視線を泰江に投げた。
「今、頭の中がパンク寸前なんじゃないか、と思うの。声を聞いて、私はそう感じたなぁ」
「声? って? え?」
「今日ね、サロンに電話をくれたんだぁ。のんちゃんがパパさんや私に内緒で藪先生のところへ行くんだと思っていたみたいで、ゴールデンウィークに偶然のんちゃんと会ったってことから、いろんないきさつを丁寧に話してくれたの」
――ちゃんと無事に送り返すから、のんと会わせてください。
穂高とよく似た姿かたちをした彼の、土下座で懇願しているイメージが浮かんで思わず笑ってしまった、と彼女は小さく笑って言った。
「うそ。今まで一度も連絡なんかして来たことなかったくせに」
「そんな勇気を出せちゃうくらい、何かに対して必死だったんじゃあないかなぁ。マジメで律儀な、いい子に成長してるんだなぁ、って、すごく嬉しかった。のんちゃんがパパさんや私に対して後ろめたい思いをしないように、って考えたんだろうね。昔に戻りたくて、約束してからの事後報告になっちゃってすみませんでした、って、言ってた。彼も色々迷っていることがあるんだろうねぇ」
そんな話を聞きながら、ビーフシチューを掻き混ぜる。謝ることなんか何もないのに。そんな望の思いと泰江のこぼしたその言葉が重なった。
「親だからこそ、話せないこととか、あると思うの。のんちゃんの意思で、渡部薬品の社長令嬢っていう面倒な立場にいるわけでもないし。その肩書きのせいで、友達と一線引いてしまう、というのも解る気がする。だから、芳音くんに、のんちゃんをよろしくね、ってお願いしたんだぁ」
こちらも色々あって、信州への息抜きを提案していたところだから、今回の旅行は公認だということも合わせて彼に伝えてくれたという。
「のんちゃん。芳音くんにかまを掛けてみたら、彼も北城さんとのことを知ってるって判った。芳音くんと会ったのは、あの人と一緒にいたときだったんだね」
望のシチューを撹拌する手が止まり、コトコトという音がやけに響いた。望の握るレードルが、鍋の縁をカタカタと早く細かなリズムを刻んだ。
「……お母さん」
「芳音くんからじゃなくて、パパさんから聞いてたの。頼りない、情けないお母さんで、ごめんね」
サラダボウルにこんもりと盛られた野菜に、望の仕上げたドレッシングが掛けられる。それが泰江の心がこぼす、涙のようにぽたぽたと垂れた。
「一番知られたくない人に知られて、苦しかったよね。ごめんね、気づけなくって」
「……ごめん、なさい……」
やっと紡いだぎこちない本心を耳にした泰江は、子どもの頃と同じように、望の頭をくしゃりと撫でて
「心のお洗濯をして、また笑顔で帰って来てね」
と言ってまあるい笑みを返してくれた。
「シチュー、どう?」
その話はおしまいとでも言いたげに、泰江が弾んだ声で尋ねて来た。
「あ……うん。いい感じ」
望は髪を掻き上げる振りをして、潤み掛けた目許をそっと拭いながら同じ口調で返事をした。
「じゃ、いただきましょうか」
「うん」
待ってましたと言わんばかりに、オーブンで焼いていたフランスパンがチンと焼き上がりの合図を高らかに告げた。
泰江はキッチンで話したあとは、北城とのことについて一切触れることがなかった。
彼女は、いつもそうだ。ただひたすら、待っている。待っていることをあからさまにすることなく、ただひたすら待ち続ける。彼女のそういうスタンスは、望の心の色次第で解釈が変わる。突き放されていると感じるときもあれば、話したくないこちらの心を尊重してくれているようにも受け取れる。自分で考え結論を出せと言外で諭していると見える内容だったこともある。
(今は、どういう意味で、なんだろう?)
スプーンを運ぶ手が、思わず止まる。ちらりと正面の彼女を盗み見た。
ひと口シチューを口に入れては、具材の美味を味わうようにゆっくりと噛みしめ、少しだけ口角を上げて飲み下す。
「ホント、美味しい」
望をほこりと温めてくれる満面の笑みが咲き誇り、細く垂れた目尻がより一層下がる。この瞬間が、堪らなく好きだ。
「お母さんのそれってお世辞に聞こえないから、私、すごく有頂天になる」
「だって、本当に美味しいんだもの。のんちゃんのお陰で、苦手だった牛肉を食べられるようになったんだよぉ、私」
「ほらね。だから私は料理の腕はあんまり上がらないのよ。けなす人がいないから」
望がそう言って苦笑をもらすと、泰江はむきになって望の弁を否定した。彼女の母親らしからぬふくれっ面が、望の苦笑を爆笑に変える。釣られた泰江も苦笑を浮かべ、お互いに「何むきになってるんだろう、私たち」なんて言葉と一緒にゆるい笑いが溢れ出す。緊張が解け、いつもと変わらない食事風景に戻っていった。
食事は命の源。ほかの命をいただいて、自らを生かす、神聖な儀式。いつからそんな価値観が自分の中に生まれたのかは解らない。ただ、少なくても記憶している中では、思春期前にはその概念がすでに存在していた。だから、穂高と食事をともにするのが嫌だった。美味しくいただくのが命への誠意と思うのに、食事を美味しく味わえないから。意識して食材やレシピに意識を向けることでやり過ごす癖がついていた。
「のんちゃん」
泰江にそう呼ばれて、そんな物思いから今に返る。
「はい?」
「いつか、パパさんにも食べさせてあげてね。すごく、本当に、すごく美味しいから」
巧く、返事が出来なかった。極上の味わいを堪能したはずの舌が、痺れてゆく。舌が巧く回らず、望はスプーンをかたりと置いた。
「……ごちそうさま」
「ごちそうさま。美味しかったぁ」
食べ終わってからのひと言だったのは、残すのが嫌いな望の性格を知ってのことだろう。その後の泰江は、やはりそれについても何も語ることなく、食後の紅茶を用意しながら他愛のない話へ話題を変えた。
玄関先まで継母を見送る。彼女が思い出したように大きく目を見開いたかと思うと、ポケットをまさぐり、ドアキーを取り出した。
「肝心なことを忘れるところだったぁ。これ、別荘のキー。赤木さんにその都度お願いするのも大変でしょう?」
その鍵につけられているキーホルダーを懐かしい思いで眺める。すっかり色褪せてしまったものの、そのキーホルダーのラベルには、翠の手書きで書かれた『玄関』の二文字がまだうっすらと残っていた。
「お母さん……いろいろ、ありがとう」
「どうしたの? 改まって」
受け取った鍵を胸の前で握りしめ、少しだけ勇気を振り絞る。
「私、本当は黙ってでも信州へ行くつもりだった。もっと素直だった頃の、綺麗な自分に戻りたくて。あそこへ帰れば、どんな自分だったか思い出せるかも知れない、って思って。どうせパパは反対するに決まってる、って思ってたの。だけどパパからそう言った。それはお母さんがパパにそう言ってくれたお陰でしょう?」
そうでなければ、理屈が通らない。疚しい過去を持つあの人が、克美の住むあの場所へ行く許可など下すはずがないから。そんな話を、泰江の目を見て話すだけの度胸はなかった。彼女に自分の内面を見透かされるのが、怖い。
(……怖い? 見透かされるって、何を?)
自分で浮かべたその言葉に、望自身が首を傾けた。
「パパさんと克美さんのこと、まだのんちゃんは気にしてるの?」
望よりも低い位置から、そっと小さめの手が頬へ伸びる。促されるようにそっと顔を上げれば、困った笑みが望の視線を待っていた。
「パパさんから相談されたの。私はそれがいいよ、って答えただけ。信州へ行って、パパさんとママさんが、どれだけお互いにとって欠けてはならない存在だったのか、ゆっくり知って来るといいと思うよ。そしたらきっと、克美さんとのことだって、いつか赦せる日が来ると思うから」
克美では翠の代わりにさえなれない。泰江らしくないほどのキッパリとした強い口調でそう告げられた。
「……お母さんは、それでいいの?」
「どうして? 私は充分過ぎるほど、パパさんから大事にしてもらってるよ?」
「だって! おかしいでしょう? パパの今の奥さんはお母さんなのに」
「のんちゃん」
溜め込んで来たものを爆発しそうな勢いでまくし立て始めた望の言葉を遮るように名を呼ばれた。
「本当に好きな人が出来たら、きっとのんちゃんにも解るよ。……もうそういう人が、のんちゃんにはいるのかも知れないけれど」
「……どういう、意味?」
そう問い返すと藪蛇になる。それが解っているのに問い詰めてしまったのは、そうでもしないと急に痛み始めた胸の苦しさを吐き出せなかったからだ。
「私は、のんちゃんの味方だから。例えパパさんが何をどう言おうと」
寂しげな、そして哀しげな微笑が、泰江の丸みを帯びた面に宿る。
「翠ちゃんがのんちゃんに一番してあげたくて出来なかったこと。私が翠ちゃんにしてあげたくて、巧く出来なかったこと。きっと、今度こそ、ちゃんと守ってみせるから」
そう言って望の頬を撫でる泰江の手がスライドし、柔らかく望の髪をすき下ろした。
「どんなことがあっても、何があっても、絶対に心のふたを閉じないでね。あなたには、私がいるから。あなたは認めたくないだろうけど、パパさんだって本当はのんちゃんの味方なんだよ。それに何よりも、芳音くんがいるから。のんちゃんは、独りぼっちじゃあ、ないからね」
「お、母さん、あの」
言っている意味が解らないんだけど。そう突っ込める雰囲気ではなかった。
「えへへ~、ごめんね。なんか、ヘンなことを口走っちゃった」
彼女はそう言って苦笑すると、逃げるように玄関の扉を開けた。
「お見送りが出来なくてごめんね。芳音くんによろしくね」
望の「うん」という返事さえまともに聞き終えないうちに、泰江は玄関の扉を閉めた。自分だけが知らない何かが動き出そうとしている、そんな気がした望の肩が一度だけぶるりと震えた。
翌八月一日。勝手に期待して肩透かしを喰らった昨夜とは違う、確実に芳音との再会が叶う日。
一応の義務として定形文に近い挨拶メールを穂高に送り、あとは受信拒否設定にしてやった。赤木一家ともきっと会うことになるだろう。彼らの子どもたちは、確か小学生と幼稚園の年長になっていると芳音から聞いた気がする。東京でしか入手出来ないレーズンサンドならば、子どもたちに喜ばれるだろうか、などと考えながら電車のルートを考えた。
「あ、大事なもの。予備のルーズリーフも買っておかなくちゃ」
望は百円ショップで買った安物の手帳を手に取って呟いた。
システム手帳の中には、これまで赴いた店のメニューやそれに使われていた食材、教えてもらえた限りのレシピなどがすべてまとめられている。最後に信州を訪れてから十二年も過ぎているのだ。きっと今は新しいお店や有名になったお店もあるに違いない。まだ漢字すらろくに知らない頃に行ったきりだから、当時は美味しいと思っていても、メモなど取っていなかった。
時計を見れば、渋谷で芳音と待ち合わせた正午まで、まだあと三時間も余裕がある。
「あと、ほかに何をして時間をつぶせばいいかしら」
待ち合わせた渋谷までは、ドア・トゥ・ドアで一時間もあれば余裕で行ける。残り二時間をどう過ごそうかと思い巡らせたその時、ふと急に本末転倒な自分に気がついた。何も今すぐ家を出る必要などないのだ。
「ま、いっか」
誰にともなくそうこぼし、望はショルダーバッグを手に取った。
戸締りを確認し、バッグの奥底に鍵をしまう。すぐに開いたエレベーターの扉をくぐり、一階のボタンを押す。降りていくエレベーターの中で、朝一番にもらったメールをまた読み返した。
――おはよ。ガッコの説明会、正午終了予定だけど、前後するって注意書きがあるから、終わったら速攻電話する。
説明会の会場、渋谷なんだ。戻る形になっちゃうけど、待ち合わせ場所は、渋谷・ハチ公前で。クレームは受けつけませーん(笑)←早く会いたいから。
From Canon――
早く会いたいから。そのワンセンテンスを読むたびに、お腹の真ん中がむずがゆくなる。つい鼻で笑ってしまう。昨夜の不穏な空気を掻き消してくれる。
――ぞくり。
掻き消してくれたはずの空気を思い出し、また望の肩が小さくすぼまった。
「きっとお母さんは、カウンセリングを終えたあとだったから、その気分を引きずっちゃっていただけよ」
今朝はいつもと同じ、ゆるい笑みを浮かべて普通に会話を交わせていた。昨夜の母は、ちょっと疲れていただけなのだ。
今朝おまじないのように言葉にしたそれを、もう一度心の中で復唱した。
むせるような熱気にも関わらず、夏休みに入った渋谷はいつも以上に混雑していた。日傘を差すのがためらわれるほどの人の多さに肩身を狭くする。日傘を小さく折りたたみ、バッグの中へ押し込んだ。都内にしか店舗がない洋菓子専門店で、望が太鼓判を押しているレーズンサンドをひとつ買う。
「ありがとうございました」
店員の声に振り返って軽く会釈をするとほぼ同時に、自動扉が静かに閉まった。ウィンドウに映る自分に目を向けると、望はまた無意識に自分の服装をチェックした。
真っ白なワンピース。ノースリーブの上に羽織ったのは黒いレースのボレロ。膝丈のタイトスカートは、実際の年齢よりも少しだけ大人に見せてくれると思って選んだけれど。
「おばさんくさい、かな」
流行を追うのが好きではないので、自然と時代に左右されない自分好みに偏ってしまう。
真っ白なワンピースと、少しかかとの高い真っ白なパンプス。たとえ暑くても、栗色の髪を束ねずにしておくのが、楽しみがあるときの望の常。遠い遠い昔、芳音と一緒に見た写真の中で微笑む、若い頃の翠を真似ることが、少しでも自分を綺麗に見てもらえる方法だと思っていた。
「……やっぱ、私じゃあ似合わない、か」
翠にも当てはまる、きつい性格を表す吊り目なのは同じだけれど。彼女ほど大きく女性らしい目の形ではないのが、自分だ。翠くらい大きな目なら、俯き加減の角度から見上げてみれば、きっと可愛い女性を演出出来るだろうと思うけれど。自分の切れ長の目では、きっともっと怖い顔になってしまう。
「……」
望はきゅっときつく唇を噛んで、振り切るようにウィンドウへ背を向けた。
ハチ公前に向かうと、ひときわ目立つ長身が無駄にぴょこぴょこ踵を上げ下げしているらしく、人より頭ふたつ分近く高いそれを上下させては辺りに目を凝らしていた。
(……電話くれるって言ってたくせに)
心の中でそんな文句を浮かべているのに、心臓がコトコトとせわしなく働き始める。
春に会ったときとほとんど変わらない、素朴な雰囲気。彼の周辺だけ時がゆっくりと流れているような、穏やかな空気が漂っていた。十二年ぶりに会ったときには全体的に長く伸ばしていた髪を後ろで束ねていたけれど、今の彼は耳の下辺りの長さまで切り落とし、尻尾のように細く長いひと筋だけが背中辺りまで伸びて括られていた。
上下しているのは、頭だけではないらしい。肩が随分と早い上下を繰り返し、よく見れば苦しげな皺が眉間に寄っている。息の上がっている様子が見て取れた。Tシャツの上に羽織っているシャツも、重ね着をしているのに濡れている。それが十メートルほどの距離からでもよく判った。濃い目の空色のシャツに藍色が混じっているのは汗のせいだと思われた。
(自由席なんだから、時間なんていくらでもあるのに。こんな暑い中を、よく走ったわね)
半分呆れて、半分くすぐったい。望は自分のそんなわけの解らない初めての感覚をどうしていいのか持て余し、なかなか近づく一歩を踏み出せないでいた。なんとなく、自分を必死で探している芳音の姿をずっと眺めていたかった。
しかし現実は、そうそう望の思い通りにはならない。それは随分前から解っていたことだけれど。
「あ」
つい声が漏れる。向こうの唇も、望と同じ形をかたどった。
(な、なんて顔)
してるのよ、と続くはずの言葉を思い浮かべる間もなかった。子どもの頃と少しも変わらない、自分を見た瞬間に浮かべる、ほっとしたような全開の微笑。あっという間に近づいて来て、それが途端に見えなくなる。視界が薄暗くなったかと思うと、濃い空色しか見えなくなった。
「よかった……来てくれないかと、思った」
頭上から怯えたような声が降る。息苦しさに耐え兼ねて、望は芳音の懐からやっとの思いでどうにか顔だけ彼の方へ向けた。
「ちょ」
せっかく頭だけでも自由になったと思ったのに、また元の場所にぽすんと納められてしまった。彼から漂うシトラスの香りに混じって、別の臭いが望の心拍数を跳ね上げた。
(……男の人、の、汗の、臭い……)
息が浅く、苦しくなる。体中が強張っていく――でも。
「芳音、どうしたの?」
あの、逃れたくなるような嫌悪や恐怖とは、少し違う感じがした。
「約束したでしょ? 芳音、終わったら電話くれるって言ったじゃない。電話がないから、のんびり買い物しちゃってただけよ」
望よりも随分と大きなくせに、子どもみたいに震えている。そんな彼の背中へそっと腕を回し、あやすように二、三度叩いた。
「……そ、うだっけ」
「そうよ。どうして私が来ないなんて考えになっちゃうかな」
「え、あ、や、えっと。だから、なんていうか、俺、遅れちゃったし、お昼を二十分近く過ぎてるから」
彼の震えが、止まった。望の騒がしかった心臓も、次第に落ち着きを取り戻していく。そしてふたり同時に気づく。そこが公衆の場であることを。
「っていうか、私、今、ものっすごく恥ずかしくてしょうがないんだけど」
「う、う……わーっ、ごごごごごごめんっっっ! ごめんなさいっ!」
そう言って絶叫している芳音の方が、行き交う人にまともに顔を晒していて恥ずかしいと思うのだけれど。望の意地悪心が、それを黙っておくと決めさせた。適切な距離が確保されると、彼がいきなり望の手を取り、改札に向かって全力で人ごみを掻き分け始めた。
「え、ランチは? 行きたいお店があるって」
「行くかああああ! クソ恥ずかしいっ、とにかく逃げるっ」
「逃げ、何その犯罪者ちっくな言い方」
繋いだ手は、温かい。じっとりとまとわりつく気持ち悪い夏の空気なのに、そこだけが爽やかなくらいにからっとしていて心地よい。
(……あったかい……)
髪の隙間から覗く彼の、首まで真っ赤に染まった後ろ姿を見上げ、望はくすりと小さく笑った。
やっと、時間を気にすることなく、芳音とたくさん話すことが出来る。昔の自分を思い出すキーパーソンとも言える彼と、時間を巻き戻せる――やり直せる、かも知れない、自分を。
望は掴まれた自分の手首を彼の手の中でくるりと回し、彼の手首にそっと触れた。一瞬だけ彼がこちらを振り返り、驚いたように大きく目を見開いた。にこりと微笑み返してみれば、彼の手がするりと下りて、望の細い指に彼の長くしなやかなそれが絡まった。