後悔 4
キッチンで湯の沸騰を訴えていたケトルが、いつの間にかやんでいた。気がつけば、穂高の背をあやすようにそっと叩いていた泰江の手が、シャツをきつく握りしめる所作に変わっていた。
腕の力を緩めると、彼女はゆっくりと身を剥がし、キッチンへ向かいながら呟いた。
「話してくれて、ありがとう」
反抗期だから今は任せて欲しい、という当時の貴美子からの言葉を信じてなどいなかったと彼女は言った。
「職場の上司だった頃から、貴美子さんのお願いは命令、って解ってるから引き下がったけど。何か隠し事をしてるんだろうな、って、思ってた」
また何かあったのか、と問われた瞬間、自分でも驚くほど両の肩が大きく浮き上がった。
「……」
咄嗟に黙り込んでしまった。話すつもりで訪ねたのに。
穂高は居心地の悪い間を埋めるように、フローリングからゆるりと立ち上がった。
「私ね、のんちゃんや穂高さんに、家族って認められてないんだなぁ、って、その時、本当は、すごく、泣いたんだぁ」
不自然なほど穏やかな声が、ティーポットに注がれる湯の音に溶けていく。
「だけど、ある出来事があって、のんちゃんか穂高さんが、いつか話してくれるだろう、って、思い直して待っていたの」
疲れた身体をソファへ埋める穂高に、ぎくりとさせるひと言が泰江の口から告げられた。
「畑山聖斗くん――あの子ね、お父さんに殺された日の昼間、のんちゃんに会わせてくれって訪ねて来たの」
その言葉に弾かれ、背もたれから身を起こした。
「な、ん、だと?」
泰江はそれを待っていたかのように、穂高の前にフレーバーティーをことりと置いた。
「レモングラスのハーブティー。気持ちが少し、落ち着くから」
そう言って浮かべる彼女の微笑は、まがいものだった。
「彼、目がもう普通じゃなかった。ひどく痩せていて、目も血走っていて。大きな声で喋るから、ここへ招き入れたの。これを飲ませるために」
そう言った泰江は、穂高の目の前に置いたハーブティーを指差して寂しげに笑った。
「利用するつもりであんなことをしたんじゃない、って。本当に、のんちゃんが好きだったんだって。のんちゃんはね、彼を芳音くんに見立てていたらしいの。……彼には見えない芳音くんっていう存在が、彼の嫉妬を駆り立てたんじゃないかな、って、その時の私は思ったの」
「泰江……お前、知っとったんか」
「うん。色々考えたら、穂高さんに話せなかった。それに、翌朝にはあんな事件が起きたって知って、警察の方が最後に聖斗くんと会っていたのが私だったから、ってことで訪ねて来たりもしたし」
言えない気持ちがすごく解った、と苦笑をまじえてぽつりと零す。
「穂高さんやのんちゃんが心配してくれていたとおり、私、ふたりの前で知らない振りをするので精一杯だった。すごく、自分を責めてばかりいたの。今思うと、無駄な時間を過ごしてた」
そう語って隣へ腰掛けた泰江の横顔を見れば、涙ひとつ浮かばせずにまあるい笑みを湛えたままだ。
「私って、転んでもただでは起きないんだよ。転ぶたんびに、どんどん、もっと強い自分になれる。だから翠ちゃんは、穂高さんとのんちゃんを私に託してくれたと思ってるんだ」
私は、強い。自分へ言い含めるように繰り返す。穂高が貴美子と問題を分かち合いながら葛藤していた時間、泰江は独りきりでそれの克服に挑んでいた。そう考えると抑え切れない感情がこみ上げて来る。穂高は隠して来たことを打ち明ける前とは異なる意味で、彼女の小さな身体を抱き寄せた。
「……ごめん」
「そう思ってくれるなら、今度はちゃんと、話してくれる?」
穂高は彼女の問いに小さく頷き、北城大樹と望の間にあったことと、その後の望とのやり取りを彼女に話した。
部屋を満たすラベンダーの香りが気を和らげる。口に含んだレモングラスティーが、ほどよく思考を集中させる。
「――そういう運びにして、表向きはあくまでも復興支援という形にした。ホリエプロも大公出版も、北城の素行には手を焼いていたらしいねんけど、奴のコネクションにうまみがあったさかい、切るに切れなかったらしい」
「それでミハラ芸能の敷島さんを美女木社長に紹介したんだ?」
「ああ。北城と互角の敷島なら、美女木の持っていき方次第でホリエプロの看板プロデューサーの餌に食いつくやろうと思う」
「若い頃、短気を起こして縁切りしないでおいてよかったね」
「……内助の功、ありがとうございます」
そんな報告を終える頃には、ふたりにわずかばかりの笑みが宿る程度の余裕が生まれていた。
「公私混同させたって、後悔してるのかな」
穂高と同じフレーバーティーをすすりながら、泰江はさらりと核心を突いて来た。
「それもある。けど、それと同じくらい、自分の判断がまずかったんと違うかなと思わせるんは、今回望が加害者なのに、すべてを揉み消してしもうたこと。俺の中で、筋が通らん。せやけど、表沙汰にすればよかったっていう罪悪感は、正直なところ未だにない」
口にする傍から、カップを握る手に力がこもる。思い返せば返した分だけ、北城に対する制裁が甘かったとさえ思えてしまう。
「……歯痒い。望に俺の思うところがひとつも伝わらへん」
殺しても飽き足らない奴が、ふたりもいる。内ひとりは、己の犯した罪に苦しむこともなく一瞬にして逝ってしまった。もうひとりは社会的に失脚したものの、当然の権利とばかりに家族と何食わぬ顔をして平和に生きている。
「自分の娘なのに、何を考えているのか解らへん。なんでそないに自分を粗末にするのか。どうして俺にそこまで敵意を持つのか、結局こっちが筋を曲げてまで示してみても、あいつには何ひとつ伝わってへん」
言葉に置き換えたことで、燻っていた混沌が明確になる。久しぶりの泣き言に、カップを手にした右手から、次第に力が抜けていった。
「俺のどこが間違っているんやろう……解らへん」
疲れたように、背もたれに身を預ける。ずり落ちた身体の気の向くままに、だらりとだらしなく両脚を投げ出せば、いい年をしているのにまるで子供そのものだ。穂高はどこか俯瞰で自分を見ている、そんな自分に自嘲した。
「……なんにも間違ってない。と、思うよ。少なくても私は、そう思う」
泰江が言葉を選び選び、短く区切って呟いた。
「聖斗くんが訪ねて来た時、私ね、心理士失格だったの。“好きだったから”、それが何? そう言って彼の頬を思い切りぶった。彼は理解をして欲しくて私を訪ねて来たんだろうに。本当の好きって、どういうことなのか、彼のしたことがどれだけのんちゃんに消えない傷を残すことなのか、諭すべきだったのに……彼を言葉で追い詰めて殺してしまいそうで、追い出したの。ひどいよね、私」
瞼を閉じて聴いていた穂高の耳に、彼女の“ひどいよね”という言葉は白々しく聞こえた。
「今も、その、北城さん? という人。その人がもし目の前にいたら、とことんまで追い詰めているんだろうな、って、思う。私は穂高さんみたいに広い目でなんか見れないから。……のんちゃんが、何よりも最優先」
くす、と小さな笑い声が漏れる。そっと瞼を少しだけ開けて彼女の背中を盗み見た。わずかに覗く彼女の頬に、キラリと光るものが伝っていた。
「……のんちゃん……こんなこと、大したことじゃない、って、必死なんじゃないのかな……。そんなの、間違ってるのに……どうして私たち、あの時ちゃんと守ってあげなかったんだろうね。……ほかの何かを全部後回しにしてでも、償っていくのが、親、じゃあないのかな……」
ごめんね、と、彼女が言う。その視線は穂高にではなく、そしてこの場にいない望にでもなく。
「翠ちゃん……偶像にしてて、ごめんね」
彼女はキャビネットに飾っている翠の方を見つめていた。
間違っていたこと。穂高はそれをひとつだけ解った気がした。
「泰江。来週、望さえその気であれば、信州の藪のところへ行かせようと思うてる。あいつは行くと思うか」
穂高はそのこと自体の是非については、彼女に確認を取らなかった。恐らく同じことを考えている。そう確信出来たから。
「きっと、喜んで行くと思うよ」
「藪は恐らく既に事情を知っていたから、俺に連絡を寄越したんやと思う」
彼が望を寄越せと打診して来たのは、望が翠と同じ徹を踏む未来を憂いでのことだろう。
“傷だらけの、天使”
かつて克美が心友の翠をそう評していたことを知っていた。そのファンタジーをそのままに、子供たちに伝えていた。苦い思いも重い過去もすべて隠し、幸せな頃の彼女だけをふたりに語り伝えて来た。それが、間違っていたと言えば間違っていたのかも知れない。
「望独りで行かせて大丈夫やろうか」
店には行くなと望に伝えたことを告げる声がくぐもった。
「……きっと、聞かないよ。だって、穂高さんの子だもの」
「やっぱ、そか……」
しばらく考えを巡らせた末、穂高は意を決したように身を起こした。
「藪に根回しをして来る」
「芳音くんの同席を?」
「――ああ」
双子のように、ふたりでひとつのように生まれ育って来たのに。大人の事情で無理やりふたりを引き剥がした。それが最も悔やまれた。