後悔 2
サロンを兼ねた泰江の部屋のリビングでは、来客のある日中は常にアロマが焚かれている。エレベーターを降りて玄関の扉を開けると、ラベンダーの香りが穂高を慎ましやかに迎え入れた。
「おかえりなさい」
柔らかな声――もうひとつの奥ゆかしさが、穂高の帰宅を快く迎え入れた。
「ただいま。今日はあと何人予約が入ってるん? 夜も入ってるとか?」
脱いだスーツのジャケットを泰江に手渡しながら、予定外のフリータイムを彼女に使えるかどうかを確かめた。
「何時までだろう。あとひとり、いるんだぁ」
どこか含みを感じさせる謎解きめいた答えに、思わず彼女の方を振り返る。
「あ?」
「ここに、ひとり」
そう言って苦笑を浮かべた彼女は、穂高を右手で指差した。
「このひと月ほど、ここで過ごす時間が多くなったよね、穂高さん。甘えん坊さんな顔をよく見せるし。何か、吐き出したいことがあるんじゃないのかなぁ、って」
出会ってから二十一年、妻として自分の傍らに置いてから十二年が経つ。なのに相変わらず“可愛らしい”という表現の似合う彼女が、穂高を癒すまあるい笑みを零してくつくつと見透かしたように笑う。
「独りで抱え込んだらダメだよ、って、言っているのに」
彼女は爪先立ちで小さな身丈を精一杯伸ばし、ありったけの力で穂高の首にしがみついた。
「そんな翠ちゃんを見て来て、つらかったんでしょう? 私だって、あの頃の穂高さんとおんなじ気持ちなんだよ。全部穂高さんと分かち合うために、私がいるんだから。ね?」
仕事のことじゃないでしょう、と見抜かれた。望か芳音、もしくは克美に関する悩みではないか、と核心を突いて来る。そのくせ声音は柔らかい。穂高の中に高く築いた虚勢という名の防波堤が、音を立てて崩れ落ちた。
「……泰江」
一気に押し寄せて来る感情の津波に流されまいとしがみつくように、小さな身体を抱きすくめる。
「やっぱりお前も上で一緒に暮らそうや」
泰江の意向を汲んで一度は諦めたその願いを、数年ぶりに口にした。望の言う“泰江独りさえも大切に出来ない”という手厳しい批難の理由が、それ以外に思いつけなかった。
「急に、どうしたの?」
おどけた声で問い返す彼女から聴きたいのは、そんなはぐらかす言葉ではなかった。
「やっぱり普通やないって、こんな形。泰江かて家族なのに、なんで上にはお前のものがひとつもないんや。おかしいやろう? いつまでも翠のものを置いておくのも、俺を気遣っているのなら見当違いや」
今更口にしたところで取り返しのつかない、後悔と恨みの言葉が抑え切れずに溢れ出す。
「望に妹か弟を作ってやりたかった。そうしたら血の繋がりなんかを意識しなくて済む」
「それは、そんなことないよ、って私」
「望が」
泰江の言い繕うような自己主張を聞く余裕さえ失くしていた。
「望が……俺のどこが、何が、お前を大事に出来てへん言うねん。妥協して、譲歩もして、これでも我を抑えてる。これ以上どうしたらいいのか、あいつが何を考えているのか、どうしたらこっちの本意が伝わるんか……解らん」
口惜しさが、掻き抱いた泰江の髪を強く掴ませる。痛みで引き攣れる彼女の頬の動きが、触れ合う穂高の頬にも伝わった。
「……のんちゃんに、そう言われたの?」
ゆっくりと問い掛ける彼女の右手が、穂高の背をそっと叩いて一定のリズムを刻む。答えの代わりに小さく頷いた。
「のんちゃんは、まだ十七歳だよ。理屈で割り切れないいろんなもの、家族にしかぶつけられない時期なんだから。見守って受けとめることも、パパさんの仕事。こうやって私に吐き出してくれたらいいから、疑わないであげて。ね?」
「解ってる。けど、あいつに拒まれ続けるの、もう限界」
再び穂高の背にリズムを刻み始めた泰江の右手が、またぴたりと止まった。
「……何か、あったの?」
吐き出す、という意味とは異なる意識で、ある種の覚悟をもって泰江に口火を切った。
「……泰江に、隠して来たことがある。すまん」
顔を見て話す勇気がなかった。穂高は彼女を懐に納めたまま、その場に腰を落とした。
「あいつは……翠と同じ轍を踏もうとしてる」
望に関する“秘密”をようやく泰江に打ち明けた。
三年前のあの日も、今日のように突然スケジュールがぽかりと空いてしまい、暇を持て余す夕刻だった。部下に夏期休暇があっても、経営陣に実質的なそれは皆無に等しい。いわゆる盆休みと言われる時期は、泰江の繁忙期でもあった。休暇を利用してカウンセリングやセラピーを受けようとする客の予約で、朝から晩まで彼女の身柄もセラピストとしての時間も、彼らによってびっしり埋め尽くされるからだ。
穂高は中学二年生だった当時の望に携帯電話を持たせなかった。好奇心旺盛な思春期であると同時に、彼女は人一倍探究心と、そしてとても残念なことに突き詰めていく拘りが強い。話に聞く出会い系サイトへのアクセスや、裏掲示板と呼ばれる類のものを彼女の目に触れさせるべきではないと考えてのことだった。
『……芳音には、パパのケータイをあげたくらいなのに』
イエスかノーという簡素な返事しかしなくなっていた望が、珍しく反抗の姿勢を見せたくらいそれを欲しがった。それが余計に穂高を警戒させた。嫌なところが自分に似たものだと、当時はそっと苦笑する程度だった。
持論を曲げない頑固さを悔やんだのが、夕立の激しかったあの日の夕刻。友達と映画を見に行くからと泰江に告げて出掛けたらしい望が、なかなか帰って来なかった。ヒーリングという行為は、施す泰江にもかなりの精神的負荷が掛かる。仕事中に余計な雑念を入れてクレームを誘発する事態を避けたかった、というのは、今思えば自分自身への言い訳だろう。
望には、生まれた時から母親に近い存在が数多くいた。そのひとりである泰江にさえ、望はどこか他人行儀な気遣いをする。翠の遺したディスクが、そういった面で泰江を母親として受け容れ切れない心理を形作ったのだろうか。そんな迷いがないではなかった。迷っているまま、結局その存在が望の前に泰江から置かれてしまえば、穂高にあれこれと言う権利がないような気もした。同性にしか解らない泰江と翠のやり取りや交わす想いが、その行為にこめられている気がして何も言えなかった。そんな状況の中、彼女を守るのは、実の父親である自分だけの責務だと思っていた。そして自分なりに、それは実行出来ているとばかり思って過ごしていた。
夕立にしては長く激しい雨が降ったその日、あと一分も歩かないうちにマンションのエントランスへ辿り着ける、という距離のところで穂高は夕立に見舞われた。
『……ちっ』
堅苦しいスーツから部屋着に着替え、暇の余りにコンビニへビールを買いに出たのが災いした。心の中でそんな愚痴を零しつつ、開き直って濡れながら歩いた。モノは考えようだ、もう一度シャワーを浴びたあとのビールは、きっと今すぐ飲むより格段に美味い。
そんなことを考えながら、やもめのように自分で玄関の鍵を開ける。買って来たビールを冷蔵庫へ無造作に放り、穂高は着替えを手にバスルームへ向かった。
雨で冷えた身体を熱いシャワーで適度に温め、カランを閉めたとほぼ同時に、玄関の開く音が聞こえた。
(お。やっと帰って来た)
急いでスウェットを身につけながら、望に説教する程度を考える。時刻は七時をとうに回っていた。あらかじめ伝えていれば問題のない時間とは思うが、連絡手段がない望との外出時の約束として、帰宅予定を過ぎるのは厳禁とさせていた。
(まあ、まずは理由を聞いてから、それ次第やな)
玄関からかすかに聞こえて来る物音を聞きながら、穂高は脱衣場から通路へ出た。風呂上りの素足だったので、日頃なら室内履きの立てる足音が、その時たまたま立たなかった。
『!』
玄関のたたきにへたり込む望の後ろ姿を見た途端、タオルドライしていた穂高の右手が力を失ってだらりと落ちた。
真っ白だったはずの、タイトなノースリーブのワンピース。買ってやったその日、一緒に買い物へ行った泰江に「ママみたい」と嬉しそうに試着していたと聞いたその服が、泥と血のどす黒い赤と茶色で醜いまだら模様に変わり果てていた。むき出しの腕や脚に幾つもつけられた擦過傷からは、わずかながらもまだ血が滲んでいた。髪は乱れたまま濡れそぼち、力なくうな垂れた頭は、穂高の位置からではどこを見ているのか解らなかった。ただならない何かに巻き込まれたのが明らかだった。
『の』
名を呼ぼうと喉に力をこめるが、かすれて音にならず、がさがさの音だけが聞き苦しく漏れた。そのわずかな音にさえも、彼女は大きく肩を揺らした。
『……かえ、って、たんだ、パパ』
おかえりなさい、という声が、力なく震えている。ゆっくりと振り返る望の顔を見て、穂高は完全に言葉を失った。腫れた左頬。切れた唇。泣き腫らしたと思われる両の瞳が、自分ではない遠くを見つめている。
『慣れない靴なんか、履いていったから、派手に、転んじゃった』
無理に笑みを浮かべ、立ち上がろうと廊下に手をつく。
『いたっ』
望の幼さを残す丸い顔が、歯を食いしばったために少しだけゆがんだ。横へ揺れて倒れていく望の許へ、穂高は咄嗟に駆け寄った。
『の、ぞみ』
ようやく絞り出せた声は、望と張り合うほどに力なく。
『い』
腕に抱えた娘の全身が、一瞬にして強張った。
『いやあああああああああああ!!』
穂高は思い切り突き飛ばされ、突き飛ばした望もまた、自分の力の反動で玄関のたたきへしりもちをついた。怯えた目をして、そのまま玄関の扉まで後ずさりして固まった。
『いや……イヤ……触らないで……このにおい……あいつと一緒……』
臭い――汗の臭い。
望の気配を感じ、汗が引かないうちに慌てて着替えた。既にまた湿り気を帯びたスウェットは、きっと自分では解らない汗の臭いを撒き散らしていたのだろう。個人差の有無はさておき、そんな状態でどうしても防ぎ切れない臭気は、汗と、もうひとつ――体臭。男の発するそれと女のそれが違うことなど、大人であれば誰でも知っていることだ。だが、まだ少女の望が、どうしてそれを認識している?
そこに考え至ると、違う種類の汗が穂高の背を厭らしく伝った。
『誰と、どこに、いた』
震える穂高の声は、望の耳には怒気を孕んでいると聞こえたのか。
『ちがう……私は、そんなつもりだったんじゃ、ない……』
耳を塞いで頭を強く左右に振る望。穂高の声が届いているのかも解らなかった。
『望。何があった』
『私……まだ中学生だよ……、誘う、って何よ。そんなこと、考えるわけないじゃん……そう言ったのに……』
『誰だ。山下さんと出掛けたんじゃなかったのか』
『カナと木島くんがそうだからって……私、やだって……言ってるのに……』
歯痒さと苛立ちが、穂高を性急にさせた。
『望っ、山下さんでのうて、本当は誰といた!』
ぐいと思い切り腕を掴み、暴れるのを防ごうと力いっぱい彼女を抱きしめ、羽交い絞めにして問い詰めた。
『ィヤアアアアア!!』
『聞けっ、誰といた!』
何があったか、と訊く必要などなくなっていた。襟元から覗く彼女の白い胸元に、いくつもの認めたくない穢れた跡が残されていた。
さっきまで冷えたビールを望んでいたのに、それまでの蒸し暑さが嘘のように引き、腹の底が冷え切っていた。
望を抱き抱えたまま、再び浴室に戻る。熱めの湯温に設定し、服の上からシャワーを浴びせた。
『イャ、っぷ……っ』
『落ち着け。とにかく身体を温める』
自分も濡れると構ってなどいられなかった。きつく抱きしめた望の肩に、背中に、傷だらけの腕や脚、全身に、熱い湯を浴びせ続けた。強張った望の体が温まっていくと、次第に彼女から力が抜けていった。
『ひ……ぃ……っく……』
『望、パパが解るか?』
『パ、パ……わ、たし』
『よう帰って来たな。……堪忍』
少しずつ望を包む腕の力を緩めていく。洗い場のタイルにあひる座りでへたり込んだ望は、穢れを落とすとばかりに流れる湯を両手いっぱいに貯めては口をすすいで吐き出した。
『……私、きたない……』
『汚くなんか、ない』
遠いいつか交わしたその言葉。
――穂高、アタシのこと、汚いって思わないの?
――汚くなんか、ない。全部ひっくるめて、まるごと全部、愛してる。
翠とよく似た声と口調で、同じ言葉を口にする。過去と今が不協和音を轟かせ、穂高の胸に錐でねじられたような痛みが走った。
『……もう、芳音に会えない……こんな私じゃ……ッ』
望の小さな嗚咽が浴室に響き、それをシャワーの音が慰め程度に隠していた。
安定剤を飲ませ、望を眠らせてから病院へ向かった。翠がかつて世話になっていた国立医療センターだ。
『傷がひどいですね。明らかに強要されたものでしょう』
自分の立場を利用して裏口から受診を申し立てた穂高に対し、担当した婦人科の医師が無機質な声でそう告げた。
『告訴をお考えでしたら、洗浄の前に証拠として患部の撮影が必要となりますが』
問診室の椅子に腰掛け、膝の上で握りしめていた両の拳が一度だけぴくりと浮き上がった。
『……撮影は、勘弁してください。告訴する気もありません』
『二次被害の懸念、ですか。安西社長ともあろうお人が、それに怯えるとは意外ですね』
なんとでも言えばいい。そう思った。
『お嬢さんが泣き寝入りしたら、場合によっては、第二、第三のお嬢さんが生まれてしまう可能性がありますよ』
彼が彼なりのあるべき正義を諭しているのは解っていた。だが、感情がそれについていけなかった。
『刑事告訴したところで、こちらが一生傷を背負うのに対し、相手はまだ人生のやり直しが利く年頃には出所して来るんですよ? 一度露見すれば、人の口に戸は立てられない。火種は煙が立つ前に消すに限る。それが、自分の身を以て知った経験から出た結論です』
この病院で、渡部薬品の騒がしい過去を知らない医師はいない。穂高が暗にそれを臭わせると、担当医は大きな溜息をつきながら、ずれた眼鏡を押し上げた。
『……解りました。メンタルヘルス科にカルテを回しておきます。翠さんの主治医だった栗林教授の後継の医師をご希望されるんでしたね』
『そうです。よろしくお願いします』
『……心中、お察しします』
患者を無機質なモノとしか見ていなさそうに見えた彼が、初めて眉間に深い皺を刻んでそう言った。
入院病棟の個室へ戻り、ただひたすらに眠り続ける望の傍らでひと晩を過ごした。
一睡も出来ない心境の中、当時の穂高が考えていたこと。
巡る因果。繰り返される同じ過ち。持論の崩壊。何が正しくて、何が過ちだったのか。
たった数時間の間に穂高を奈落の底へ落とした出来事が、穂高を遠い過去へとタイムスリップさせていた。
――死を以て贖ってもらうよ。
二十年以上前に聞いたその言葉。克美の義兄であり内縁の夫だった海藤辰巳が零した吐露。彼にそんな言葉を吐き出させたのは、まだ当時中学生だった翠を加虐していた翠の実兄が犯した行為だった。
今なら、その心情が解る。人の心というものは、想像は出来ても完全な理解など不可能だというのが、穂高の行き着いた結論だったはずなのに。
辰巳が克美を『Canon』という名の鳥かごに閉じ込めて護ったように、自分もそうしておけばよかったと悔やんでいた。あんなにも辰巳を心の中で糾弾し続けて来たにも関わらず。
その一方で、やはりそれを是としない自分も根深く残っていた。辰巳がそうした結果、今の克美は彼の喪失によって心が蝕まれている。辰巳とよく似た面差しの穂高を極端なほど避け続け、結果的に子供たちに不本意な別離を強いている。
翠の男嫌いは異常だった。その原因になった行為と同じ厄災が、娘の望まで呑み込んだ。翠のような哀れな道を辿らされる未来しか、望には残っていないのだろうか。
『……自分を穢いなんて、言いなや……』
小さな寝息を立てる望に、そっと頬を撫でてそう呟いた。
同じ言葉、同じ災い、繰り返される因果を感じざるを得なかった。
混沌とした思考の中、穂高の中で決定事項とされたこと。それは、守れなかった罪を、生涯掛けて望に贖うこと。そしてもうひとつは、望を貶めた者に対する粛清だった。