後悔 1
――自分が出来ること、自分にしか出来ないこと、今しか出来ないこと、今出来ること。やらないときっとあとで必ずあなたが後悔する。
予定よりも随分早く岐路に向かえた社用車の中で、穂高は半月ほど前に答えた雑誌のインタビュー記事を読み返していた。
まだ明るい日中のオフィス街を、車窓越しにふと見つめる。灰色のコンクリートジャングルの手前で、かすかにゆがんだ笑みを浮かべる自分の姿が窓ガラスに映っていた。それに気づいた途端、くぐもった自嘲が抑え切れずに喉の奥から漏れ出した。
「社長? 何かおっしゃいました?」
助手席に座る秘書の馬宮が振り返り、不審そうな視線を向けて来た。
「ああ、いや、別に。思い出し笑い」
「気持ち悪いですね。また何か面倒なことを考えついたんじゃないでしょうね」
ひと回り以上年上のこの秘書は、その立場の割には平気でストレートな表現を口にする。それは彼女が、望にとって戸籍上の祖母に当たる久我貴美子の学生時代の後輩でもあるからだろう。彼女から見た穂高は、雇用者というよりも“先輩の娘婿”という印象が強いらしい。キャリアウーマンであると同時に、望と同世代の娘を持つ親の先輩でもある。彼女は穂高にとって腹心の部下であると同時に、親としてのよき相談相手でもあった。
「違いますよ。久し振りに陽の高い時間に帰れるから、少しは望と話す時間が取れるかな、と」
一方的な願いでしかないそれを、まるで期待が叶うと勘違いしているような口調で馬宮に告げてごまかした。
「あら、望さんは貴美子先輩のところへ泊まるって聞いてますけど」
奥さんから聞いていないのかと彼女に問われ、穂高は一瞬答えに詰まった。
「そ、うだったっけ。ああ、そうか。忘れてた」
「彼女はまだストライキ続行中、ですか」
「自分の非は認めているものの、俺の介入がどうにも気に食わなかったらしい」
「カネでことを済ませる、横暴だ、ってところ、ですか」
だから一発くらい殴れと言ったのに。そう言う彼女に、苦笑しか返せなかった。
馬宮が呆れた溜息をついて、姿勢を前に戻した。それを目の片隅で捉えていた穂高も、車窓から外を眺めながらまた小さな溜息をつく。
娘といえども、女だ。殴るのはためらわれる、という一面も確かにあるが。
(そんな資格、俺にはないやろう)
何も気づかず、何も知らず。“また”望を守ることが出来なかった。
その事件を臭わせる一報を知らせて来たのは、信州の藪医師だった。
《芸能プロダクションのホリエプロ所属、北城大樹、こいつの埃を叩くと、てめえにも厄介なネタが出て来るらしい》
それに加えて上を押さえろと打診された大公出版、名指しで出された『週刊女性エイト』というキーワードを耳にした途端、瞬時に穂高の勘が警戒の鐘を鳴らし始めた。
『ホリエプロの北城大樹、確かサンパギータとかいうユニットのエグゼプティブマネージャーですよね』
《ほう、知ってるのか。顔が広えな》
『いや、愛美さんから、芳音がバンドを組んでどうのという話を聞いていたんで。本気でそっちの進路を考えているなら何か支援出来ることがないかと思って、ちょっと情報をかじっていた程度です。それで、エイトを抑えろというのは?』
《てめえで調べるのが一番だろ。お前の性格上、人から聞くのは我慢ならんって類の話のようだ。こっちにとばっちりはゴメンだぜ》
『……望に関すること、ですか』
藪は穂高のその問いに答えなかった。答えなかったことが、答えだ。
『……調べてみます。状況によっては、先生にお手数掛けることになるかも分かりませんが』
《おう、構わねえよ》
『プライベートの案件になりますね。報酬は、どうさしてもらいましょか』
少しの沈黙のあと、それまでの険しい口調を随分と和らげ、彼は
『そうさな。望をたまには寄越して来いや』
と、遠回しな言い方で、克美や芳音には内密にしておくことを前提にという打診を報酬と表現した。
大公出版の桑原社長は、穂高がまだ十代の頃に起こした傷害事件の時以来、ずっと穂高を追い回して来た、当時『エイト』の記者だった女性だ。食えない女性ではあるが、利害の一致が認められれば巧く懐柔出来る相手とも言える。彼女のひと声で渡部薬品に対する世論への情報操作を可能にして来たこれまでだ。先方への見返りは“イケメン専務としてマスコミの見世物になる”という、なんとも受け容れがたい屈辱も味わわされたが。
移動中の車内で藪の報を受けた穂高は、その場で大公出版の桑原社長にアポイントを取った。
その一方で興信所を使い、ホリエプロの北城大樹を洗い出した。その結果。
『な……んだ、と……?』
事務所所属のアーティストを始めとした若者たちからの証言の数々、証拠写真や携帯電話の通信履歴などの資料を見て愕然とした。携帯電話番号のひとつに、望の携帯番号が載っていた。
『お借りしたお嬢さんの写真をお返しします。チトセと名乗っていた少女は、安西社長のお嬢さんに間違いないそうです』
調査人、松野が淡々とした口調で断言した。穂高自身が海藤辰巳興信所に匹敵すると認めるほどの、優秀な興信所の社長自らが調査した結果だ。松野がまさか、望の預金口座まで調べ上げて来るとは思ってもみなかった。
『……お世話さんでした』
社長室の応接ソファに深く埋もれた穂高は、その時そのままソファの向こうに別世界を夢見た。そのまま深く沈んでしまいたかった。
『心中お察しします。この案件は、私独りで調査したものですので、外へ漏れる心配はございません。……私自身を社長がご信頼してくだされば、という条件つきになりますが』
ソファに沈んだまま、考えること数分。穂高の決断は早かった。
『望が奴から受け取った金を全額ホリエプロに返す。“チトセ”の情報を知っている関係者の情報をすべて洗い出して欲しい。期間は一週間、それ以上は待てない。こちらは大公出版と交渉に入る。こちらの交渉に応じれば、そのままホリエプロに交渉を持っていく』
ソファから身を起こして彼を直視する頃には、元の眼光が戻っていた。松野は穂高の見据える視線に怯むことなく、席を立ちつつ確認の言葉を返して来た。
『勝算はあるのですか。下手を打てば、お嬢さんが刑事告訴されかねない状況ではありますが』
彼にしてはらしくもない、小さな声で不安を告げる。被害者リストに彼と同姓の少女の名前に鉛筆でチェックした跡がついていたのを、穂高は見逃していなかった。
『親が何者であれ、望自身はただの小娘だ。それも十八歳未満のな。渡部を維持するためならなんでもする。例え娘を除籍してでも。それが私のスタンスだと知っているのが大公出版だ。タレント気分でマスコミにツラ出ししている芸能プロダクション幹部のスキャンダルと、どっちが美味いネタなのか。大公出版やホリエプロなら適切な判断が出来るだろう』
『そうですか。それならば、安心しました』
『詳細は後日ということで構わないだろうか』
彼は苦笑しながらイエスの返答を寄越し、同情の眼差しで『お互いに親ばかですよね』と、ついでのように告げて社長室を立ち去った。
『長いつき合いなだけある、ってか。俺が望を切るわけがないのもバレバレか』
口許は笑むのに、眉間に刻む皺が、穂高の痛覚を刺激する。調べているその時間、松野は独りでこんな思いを抱えたまま任務を続行していたのだろうか。そう思うと、理性では割り切れない罪悪感が松野に対しても湧き上がった。
偶然にも、彼の娘もまた北城大樹の犠牲者だった。
穂高にとって、難問は大人社会のそれよりも、むしろ望との摩擦解消にあった。
『私の口座が凍結されてるんですけど。どういうこと?』
職場まで押し掛けて来た望が、馬宮の制止も利かずに社長室に飛び込んで来たなり、開口一番言い放った。それが六月半ばのこと。
『その前に、お前の方から何か申し開きがあるんと違うか』
敵意をむき出しにして挑む視線を投げつけて来る望を見て、可愛さ余って憎さ百倍、という昔の言葉が脳裏を過ぎる。デスクへ近づいて来る望を冷ややかに見つめ返した。
『三年前にお前を守り切れなかった俺へのあてつけなのか、この稼ぎ方は』
淡々と告げた穂高の言葉で、望の顔色が打って変わって青白くなった。近寄る歩みがぴたりととまる。
『……父親のくせに、実の娘を調べたの?』
『親にそうさせるような罪を犯したのは、誰や』
その後に続いた長い沈黙は、今思い出しても穂高に唇を強く噛ませる。望の無言は、肯定の証。彼女のその反応を見るまで、どこかでまだ娘の無実を信じていた。
立ち上がりたい衝動を目の前に組んだ両手に力をこめてどうにか抑え、努めて冷静な声音を意識しながら彼女に問い質した。
『金が必要ならば言えと言うてあるはずや。二百万もの大金を、一体何に使うつもりでいた?』
『……名ばかりの父親に話す義務なんかないわ』
つま先が、デスクの下でせわしなく床を叩く。カーペットがその靴音を吸い込んでゆく。
『独立も出来ていない小娘が、親に一人前の口を利くな』
憎々しげに睨み返す強い瞳の中に、亡き翠を垣間見る。正確には、翠の中にいた“アンダー”、もうひとりいた、翠の別人格。それが穂高を少しだけ落ち着かせる。本人にも自覚のない、愛情を試すような憎まれ口と偽りの敵意。それを感じられるうちは、まだ取り戻せる。その希望を捨てられなかった。
『いくら時代が変わったとは言うても、前科のレッテルは大きなマイナスになる。今回はどうにか外へ漏れるのを防げたさかい、お前が警察の世話になるような事態は避けられたが、二度も見逃す気はない。お前は何がしたいんや。これ以上、泰江に対する隠しごとを増やすな』
もっと、自分を大切にしろ。翠がどんな思いをその名に託したか、それをよく考えろ。そう告げる穂高の声は、ほんの少しだけ震えていた。
『……お母さん独りさえ大切に出来ない人なんかに言われたくないわ』
『どういう、意味や』
『自分の胸に手を当てて考えてみれば?』
我慢の限界を越えた。がたんと椅子が派手な音を立ててひっくり返る。
『望っ』
彼女の腕を捉えるよりも一瞬早く、彼女がデスクの前から数歩後ずさりした。椅子の倒れた大きな物音を聞きつけ、馬宮が社長室へ飛び込んで来た。
『社長?! 望さん、どうしました?』
『馬宮、望を部屋から出すな』
『え?』
馬宮が反射的に扉の前に立ちふさがった。あと数歩でドアノブに手が届きそうだった望が、恨めしそうに穂高の方を振り返る。
『横暴! 人権無視! ほったらかしのくせに、こんなときばっかり親ヅラなんかしないでよっ!』
そうわめく望の腕を左手で軽々と捉えて自由を奪い、右手を彼女の頬の位置まで持ち上げる。
『……』
開いた掌は、彼女の頬を打てなかった。泣くまいと堪える必死な瞳が、逆境に負けまいと歯を食いしばる翠と重なり勢いが殺がれた。
『……金の使途を言え。理由によっては金の工面を貴美子さんに相談するさかい。それなら望も、もうこんなアホなことはせえへんのやろう?』
だらりと落ちた右腕は、穂高の完敗を示していた。
『……学費。専門学校の。私、渡部の跡を継ぐ気なんてないから』
その理由に呆れ返る。そこまで彼女を追い詰めていた自分に嫌でも気づかされ、答える声に力が入らなかった。
『お前にそんなものを望んでへん。俺は一度もそんなことをお前に強制したことなんかなかったはずや。どこでそういう勘違いをした?』
『あなたの言うことなんか、全部、これっぽっちも、ひとつも信じられないし、信じない』
まるで意味が解らなかった。自分のことをひとつも信じられない、という言葉は、これまでに何度も聞かされて来た。贖っても、償っても、決して赦されることがない。その根底にある彼女の拘りがどこにあるのか、穂高は未だに解らなかった。
『俺がどうすれば、お前は俺を赦してくれるんや?』
彼女を掴んだ左腕もだらしなく落ち、そして頭もだらりと垂れた。かちゃりと静かに扉の閉まる音が居心地の悪い沈黙の中に響いた。
『……別に。もうなんにも望んでなんかいないわ。出て行けっていうなら出て行くし。今ならまだ、どんな手を使ってでも自力で生きていこうと思えば生きていけるもの。でも』
言葉の途中で口を挟みかけた穂高を制するように、逆接の言葉が紡がれた。
『自分を安売りするようなバカな真似は、もう二度としない。お母さんに隠しごとを増やしたくないから。それについてだけは、パパに同意するわ』
久し振りに“パパ”と呼ばれた。それに驚き、言葉を失った。
『のぞ』
『帰るわ。貴美子さんには、自分のことだから自分から頭を下げに行く。余計なことはしてくれなくていいわ』
扉を開けて出て行こうとする背中へ、引き止めるように打診を投げた。
『夏休み、藪のところで少し羽を伸ばして来るといい。会いたいと連絡があった』
立ち去る脚が一瞬ぴたりととまり、穂高の慈しむ栗色の髪が柔らかく宙で天使の羽をかたどった。
『……行っても、いいの?』
堪えているのがあまりにも判りやすい、口の端がひくついたいびつな唇。緩い弧を描く両の瞳が切なげに潤むそれは、穂高によく似た目許のはずなのに。どこか翠を思い出させる、胸が痛む種類の微笑。
『……藪のところだけ、ならな』
途端に微笑は掻き消え、そしてその姿も扉の向こうへ消えた。
『引っ叩いてやればよかったのに。バカね、穂高くん』
入れ替わるように入って来た馬宮が、個人としての私見を口にして苦笑いを浮かべた。
『因果応報、ですかね。自分も親を散々困らして来たんで、どうしたらいいのかよく解らない。娘だと尚のこと』
因果応報、廻り巡る。そんなフレーズが穂高の中に、嫌な意味合いを帯びて廻り出す。
三年前に起きた、穂高が隠蔽したひとつの事件。あの日を境に、望が変わった。それ以前から何かしら腹に一物を含んだ態度ではあったが、完全に穂高の存在を否定したのは、あの事件からだ。
『馬宮』
『はい?』
『三年前のあの事件……俺の判断は、間違ってたんやろうか』
問い掛ける口調が、地の関西弁になってしまった。彼女が答えに窮しているのが嫌でも判る。馬宮は穂高の生の声に、秘書の仮面を完全に引き剥がされて、真っ白な顔で俯いた。
『……解らない。でも、私もきっと、穂高くんと同じ対応をしたと思う。……実際に被害を受けた娘に、それを親の自己満足だとそしられたとしても』
『……堪忍。殺生な質問をしてしもた』
『いえ。コーヒーでもお持ちしましょうか』
『いや、次の会議の資料に専念する』
穂高はそれだけ言って深々と身体を折り曲げる馬宮に退室を促した。
マンションに着くと、穂高は運転手にねぎらいの言葉を掛けて見送り、最上階ではなく二階のインターホンの番号を押した。
『はぁい。あ』
「ただいま。今日は望、貴美子さんちやて?」
『うん。ごめんなさい。のんちゃんに黙っていて欲しいって言われて。夜になったらメールで知らせるつもりでいたんだけど、早かったんだね』
「アポをドタキャンされてん。そっち行ってもいいか?」
『うん。ロック開けるね』
舌足らずな声がそれを最後に途切れると、オートロックの自動扉が開き、穂高を無機質に迎え入れた。