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不誠実な婚約者と結婚式を挙げたら愛人に刺されました

作者: 星森 永羽
掲載日:2026/03/22




 フレデリック・アルノルト第1王子14歳の誕生日を祝う式典は、王宮らしい豪奢さに満ちていた。


 磨き上げられた大理石の床は光を反射し、天井のシャンデリアが宝石のように輝いている。


 私は、列を成す貴族たちへの挨拶をようやく終えた。


「疲れたか? セレスタ」


 黄金色の髪を揺らしながら、フレデリックが私を覗き込む。


 鮮やかなサファイアブルーの瞳は、相変わらず自信に満ちている。


「ええ、少し休憩してくるわ」


「送っていくよ」


「いえ、バルコニーで少し風にあたったら、すぐ戻るわ」


「そうか。わかった。

 俺は談話室で、いつもの」


 いつものメンバーとカードゲームする、という意味だ。


「ええ、わかってるわ」


 婚約者は満足げに頷き、群衆の中へ戻っていった。


 私は、会場の端にあるバルコニーへ向かう。


 胸元にかかる宝石のネックレスが、月光のような光を受けて淡く輝いた。



 外に出ると、夜風が頬を撫でていく。


 華やかな喧騒が遠のき、ようやく息がつけた気がした。


 友人のイリスとアマーリエと、一緒にケーキでも食べようかな……。


 そんなことを考えていた時だった。


「ごきげんよう、公女様」


 甘く濃い香水の匂いが、風に乗って届く。


 振り返ると、ワインレッドの長い巻き髪を揺らしたイザベル・クライン前侯爵夫人が立っていた。


 赤紫の瞳は妖艶で、歩くだけで空気が変わるような存在感がある。


「この度は、ご出席ありがとうございます。イザベル・クライン前侯爵夫人」


 私は礼儀正しく礼を言う。


 すると、彼女は唇をゆるく吊り上げた。


「あら、まだ結婚していらっしゃらないのに妃のようね」


「そのような意図は……」


「若いから仕方ないわね。

 いくら正妻でも王族は、独り占めできないものね。可哀想よね」


 何を言いたいのか理解できず、私は思わず首を捻った。


 イザベルは、まるで私の反応を楽しむように1歩近づく。


「わたくしが殿下の閨教育の師なのは、ご存知?」


 ……この人が?


 胸の奥が、ひやりと冷えた。


「っ、年頃になれば閨教育を受けるということは聞いていますが、講師がどなたかまでは把握しておりません」


 私が答えると、イザベルは唇を歪めた。


「授業内容が、どんなか聞きたい?」


 下卑た笑みを浮かべ、わざとらしく肩を揺らす。


 視線が、私を値踏みするように舐めた。


「夫人。王族の講師は皆、守秘義務を負っているはずです。

 契約内容を、ご確認ください」


 イザベルの表情が、一瞬で険しくなる。


「っ、まだ12歳の癖に、ずいぶん生意気ね!」


「それは、準王族である私に向かって言ってるのでしょうか?」


 言い返すと、イザベルは舌打ちしそうな顔で踵を返し、ドレスの裾を乱暴に揺らしながら去っていった。


 その直後、バルコニーの入り口から軽い足音が近づいてくる。


「どうしたの?

 今すごい形相したおばさんと、すれ違ったんだけど」


 ライトブラウンの髪を揺らし、アレクシス・アルノルト第2王子が現れた。


 同じ歳とは思えない落ち着いた雰囲気で、白いシャツと紺の礼服がよく似合っていた。


 伏し目がちの睫毛が長く、横顔は彫刻のように整っている。


 私は先ほどの出来事を、そのまま伝えた。


 アレクシスの表情が曇り、青い瞳が鋭く細められる。


「両親に言って解雇して貰うから、気にしないで」


「ありがとう」


 彼は小さく首を振った。


「セレスタが嫌な思いをする必要なんてないよ。

 あんな人、王子の教育に関わらせる方が問題だし」


 穏やかな声なのに、芯の強さがあった。


 私は胸が温かくなるのを感じた。




 フロアに戻ると、ちょうどダンスタイムが始まったところだった。


 シャンデリアの光が反射し、貴族たちの衣装が波のように揺れている。


 しかし──フレデリックの姿がない。


 胸がざわついたが、その前にアレクシスが歩み寄り手を差し出した。


「兄が戻らないなら、僕と踊ろうか」


 断る理由はなかった。

 私はその手を取る。


 アレクシスの手は温かく、リードは丁寧で優しい。


 ステップを踏むたび、緊張がほどけていく。


 伏し目がちの長い睫毛が揺れる。


 曲が終わる頃には、私はすっかり落ち着いていた。


 ──だが。


 礼を交わした瞬間、背後から低い声が飛んできた。


「……何で、ファーストダンスを弟で踊るんだよ」


 振り返ると、フレデリックが立っていた。


 鮮やかなサファイアブルーの瞳は不機嫌に細められ、いつもの余裕の笑みは影も形もない。


 少年とは思えないほどの存在感があり、王族らしい華やかさが怒気と混ざって迫ってくる。


「え、だって──」


 言い訳を言い切る前に、腕をぐいっと引かれた。


「いいから来て」


 強引に引き寄せられ、踊り始める。


 その瞬間だった。


 ふわり、と鼻先をかすめる香り。


 甘く、濃く、どこか大人びた香水の匂い。

 私のものではない。

 フレデリックが普段つける香りでもない。


 この匂い──。


 ワインレッドの巻き髪。

 妖艶な赤紫の瞳。

 いやらしい笑み。


 “殿下の閨教育の師なのはご存知?”


 イザベルの声が耳の奥で蘇る。


「……どうした?」


 フレデリックは気づいていない。

 自分の肩口から漂う香りの意味にも。


 私は笑顔を作ろうとしたが、胸のざわつきは消えなかった。




 帰りの時間になり、玄関前には父の馬車が停まっていた。


 夕陽に照らされ、辺りはオレンジに染まっている。


「今日は本当に、おめでとう。

 そろそろ、お暇するわ」


 私がそう告げると、フレデリックはいつもの王族らしい笑みを浮かべた。


「ありがとう。また次の茶会で」


「え?」


 思わず声が漏れた。


 いつもなら、まだ離れたくないと子どもみたいにごねたり、家まで送ると言い張ったりするのに。


 フレデリックは私の反応など気に留めないように、軽く背中を押してきた。


「玄関まで行こう」


 まるで──早く帰れと言っているみたいだった。


 戸惑いながら馬車に乗り込む。

 扉が閉まる音がやけに大きく響いた。


 何かおかしい……。


 胸に棘が刺さったような違和感が残ったまま、馬車は王宮を離れていった。




 その後も、令嬢の茶会や王妃教育で王宮に足を運ぶたび、誰かが含みを持たせるように言ってくる。


 “王子には愛人がいるのよ”

 “知らなかったの?”

 “まあ、婚約者でも独り占めはできないものね”


 笑いながら、憐れむように、あるいは楽しむように。


 父に相談し、密偵を放ってもらった。

 だが返ってきた報告は、ひとつだけだった。


 “特に何もない”


 そんなこと、あるだろうか。


 不安は、あの日の香りのように消えずに残り続けていた。




 ハイデン侯爵邸の庭園は夏の花が咲き誇り、噴水の水音が心地よく響いていた。


 白いテントの下には可愛らしいケーキや焼き菓子が並び、12歳の令嬢たちが華やかなドレスを揺らして談笑している。


「そういうわけなのよ」


 私は、これまでの出来事をすべて話した。


 ミルクティーブロンドの髪をふわりと揺らしながら、イリス・ハイデン侯爵令嬢が目を丸くする。


 黒髪ストレートのアマーリエ・グランツ伯爵令嬢は、深い紫の瞳を細めて私を見る。


「殿下には聞いたのですか?」


 私は首を振った。


「自分専属の密偵を持った方がいいわ」


 イリスが小声で言う。


「どうやって?

 傭兵ギルドにいるような人は王宮に潜入できないでしょ」


「騎士団だとか低位貴族だとかに、お金を握らせるのよ」


 イリスは当然のように言う。


「そうね……そうしてみようかな。

 それで──もし愛人がいたら、どうすればいいの?」


 自分の声が少しだけ震えた。


「そんなの婚約破棄でしょ。

 14歳で愛人なんて信じられない」


 イリスは怒ったように眉を寄せる。


「そんな簡単に婚約破棄できるわけないでしょう」


 アマーリエが冷静に言い返す。


「でも……」


 イリスは唇を噛む。


 私は紅茶を一口飲んだ。

 甘い香りが広がるのに、胸の奥は重いままだった。


 閨教育が子作りの練習なのは知っている。


 けれど、具体的にどんなことをするのかは知らない。


 ロマンス小説では、キスして体に触れられた女性が「あんあん」と声を漏らし、次のシーンでは朝になっている。


 あれで子供ができるのか。


 私はカップを持つ指に力が入るのを感じた。




 結局、密偵の件はイリスに頼むことにした。


 自分の侍女に頼めば、父に報告が行く可能性が高い。


 そして後日、イリスの密偵から報告が届いた。


 フレデリックの閨教育はとっくに終わっているのに、イザベルを王宮に留め、愛人として扱っている──。


 紙を持つ手が震えた。


 けれど、思ったよりも心は静かだった。


 もし何も知らないまま偶然、不貞を見てしまっていたら、きっとショックで立ち直れなかっただろう。


 だが、段階を踏んで覚悟していたせいか、心に浮かんだのは1つだけだった。


 ──やっぱり。


 公爵である父の密偵が調べられなかったはずがない。


 婚約破棄させないために、わざと隠していたのだろう。


 ということは──父に婚約破棄を頼んでも、断られるということだ。


 私は考えた。

 私なりに、必死に。


 フレデリックが婚約破棄を認めてくれれば、親たちがどう言おうと破棄できる。


 ならば、彼自身に認めさせるしかない。


 そのためには、決定的な証拠が必要だった。


 やむを得ず、不貞現場に突入することにした。


 正確に言うと、私に使用が許可されている王太子妃の部屋から、夫婦の寝室へと続く扉を通った。


 手には書類を持っていた。

 婚約破棄の同意書だ。


 殿下が署名すれば、それで終わる。


 私は深く息を吸い、扉を押し開けた。


 ベッドの上に、フレデリックとイザベルが裸でいた。


 2人は私に気づくと、慌ててシーツを引き寄せて体を隠した。


 私は思っていた。

 浮気現場に踏み込めば、フレデリックは慌てて謝罪し、すぐにでも破棄の書類にサインするだろうと。


 しかし現実は違った。


 フレデリックは倦怠感を隠しもせず、まるで知らない人のような冷めた目でこちらを見た。


「何の用だ?」


 その声音に、胸がぎゅっと締めつけられた。


 心臓がバクバクして、怒りなのか、悲しみなのか、緊張なのか、自分の感情がわからなかった。


 ただ、手に持っていた書類を差し出した。


「サインしてください」


 フレデリックは紙を受け取り、目を走らせる。


「……婚約破棄? そんなことできるわけないだろう」


「あなたと私がサインすれば、親たちだって折れるでしょう」


 私が静かに言うと、フレデリックは鼻で笑った。


「何か勘違いしてないか。

 政略結婚っていうのは国家事業、国政なんだ。

 個人の感情は関係ない」


 その瞬間、心がすっと冷えた。


 元々、2人は仲が良かった。

 婚約してから2年間ずっと。


 けれど──感情は関係ないと言われたのだ。


「……なるほど。承知しました」


 自分でも驚くほど冷静な声が出た。


「でしたら、ここに一筆書いてください。

 我々の結婚は政略であり、個人の感情は関係ないと」


 私は婚約破棄の書類の裏を差し出し、ペンを渡した。


 フレデリックは私の冷たい表情に気圧されたのか、しぶしぶとペンを走らせる。


 サラサラと紙の上を滑る音だけが部屋に響いた。


「サインも入れてください。

 そうすれば、すぐにでも出て行きます」


 フレデリックは署名した。


 私は書類を受け取り、静かに踵を返した。


 扉を閉める音が、やけに大きく響いた。




 書類を手に廊下を歩いていると、角を曲がったところでアレクシスと鉢合わせた。

 ライトブラウンの髪が揺れ、深い青の瞳が私の顔を見た瞬間に曇る。


「どうしたの、そんな顔して。

 具合悪いの? 救護室に行く?」


 声を聞いた途端、足元がふらついた。

 視界が揺れ、体が傾く。


 アレクシスが素早く腕を伸ばし、私を支えた。

 細身なのに驚くほど、しっかりした力だった。


「救護室へ」


 アレクシスが従者に短く命じる声が聞こえた。




 気づけば私は救護室のベッドに横たわっていた。


 白い天井が、ぼんやりと揺れて見える。


 アレクシスが椅子に座り、心配そうにこちらを見つめていた。


「急に意識を失ってしまって」


「ごめんなさい、迷惑かけて」


「気にしないで。大丈夫?」


 私は彼に今日あったことを話した。


「そんなことが……。

 両親にクライン前侯爵夫人を出入り禁止にするように言うよ」


 私は首を振った。

 白金の髪が枕の上で揺れる。


「前のようにフレデリック殿下と仲良くなることは、2度とないから構わない。

 ただ……これからどうやって婚約破棄するか、できない場合どうするか調べるわ」


 アレクシスは眉を寄せ、拳を握った。


「僕も手伝うよ。悪いのは兄だし」


「うーん、でも……」


 やり方がわかっても、アレクシスから情報が漏れれば両家に先回りされるかもしれない。

 そう思うと、簡単に頼るわけにはいかなかった。


「まあ、必要になったら言って」


 アレクシスはそれ以上踏み込まず、ただ寄り添ってくれた。




 それからすぐ私は、王宮での王妃教育を中断し領地へ戻った。



 後日、イリスから手紙が届いた。


 フレデリックは私にバレたのを期に、愛人の存在を隠さなくなったという。

 相手は複数。

 しかし、イザベルは行方不明になったらしい。


 おそらく──王家の誰かが消したのだろう。




 領地に戻った私は、ただ引きこもっていたわけではなかった。


 むしろ──王宮にいた頃よりも、はるかに強く、賢くなっていった。


 ガヴァネスからは、政治・法律・経済・外交・軍事を徹底的に叩き込まれた。



 イリスの助けを借りて作った最初の密偵を核に、領地の商人、下級騎士、王都に出入りする職人など、さまざまな層に協力者を増やしていった。


 公爵家の密偵とは別のルート──父に繋がらない、私だけの情報網。



 婚約破棄の条件、王家の権限、貴族院の裁定、国外逃亡時の扱い、財産分与の例外規定──。


 あらゆる法律や制度を読み込み、どんな状況でも生き残るための道を探した。


 気づけば、知識量は若い貴族令嬢の域をとうに超えていた。



 さらに、王家に没収されないよう、商会を通じて複数の国に個人口座を開設した。


 宝石、金貨、書類資産を分散し、万一のときはすぐ国外へ逃げられるよう準備を整えた。


 王宮で過ごした2年間よりも、領地での3年間の方が、私ははるかに“生きる力”を得ていた。






 王都の学園での入学式。


 代表挨拶が終わり、退場の合図が響いた。


 新入生たちが、ざわめきながら教室へ向かう。


 彼は私の進路を塞ぐように立っていた。


 3年ぶりに見る──フレデリック。


 隣には見知らぬ令嬢が寄り添い、ピンクの髪を揺らしている。


 私は一瞥もくれず、その横を通り過ぎた。


 背後から名前を呼ぶ声がしたが、無視した。

 足を止める理由は、どこにもない。


 フレデリックが追いかけてきて、腕を掴もうとした瞬間、別の手がその動きを遮った。


 アレクシスだった。

 深い青の瞳が兄を見据えている。

 12歳の頃より背が伸び、細身の制服がよく似合っていた。


「邪魔するな、アレクシス」


「兄上、ローゼンベルク公爵から接近禁止の通告を受けたでしょ」


 父名義で送った文書──“公務以外は接近禁止、連絡は従者を通じて”。


 周囲の生徒たちが、ざわつき始める。


「あれがなんだ。一方的なものだ。俺は承諾していない。

 婚約者が話しかけて、何が悪い」


 私は冷たく告げた。


「私たちの結婚は政略であり、国家事業であり、国政ですので、個人的な感情は関係ありません。

 ですから私語は謹んでください。

 プライベートに立ち入らないでください。迷惑です」


 フレデリックは言葉を失った。

 アレクシスは小さく息を吐き、私の横に立つ。


 私達はフレデリックを置き去りにして歩き出した。


 今度は──追いかけてこなかった。





 入学して初めての休日だった。


 王都の屋敷でのんびりと本を読んでいると、侍女が封筒を持ってきた。


「殿下からでございます」


 フレデリックの名が記された封蝋。

 3年前なら胸が弾んだかもしれない。


 封を切ると、丁寧な筆跡で長々と書かれていた。


 ──直接話し合いがしたい。


 ──入学式で話しかけたのは、首席でなかった理由を聞きたかったから。


 ──未来の王妃として、どこまで教育が進んでいるのか確認したい。


 ──外であれだけはっきり拒絶したら、不仲だと思われてしまうので態度を改めてほしい。


 読み終えた瞬間、胸に冷たいものが落ちた。


 私は侍女に手紙を渡した。


「金庫に入れておいて。後で必要になるかもしれないから」


 侍女が頷いて去っていく。


 私は机に向かい、返事を書くためにペンを取った。


 ──直接の話し合いはしない。


 ──王妃教育は受けていないし、今後も受けない。


 ──不仲だと思われた方が都合がいいので、態度は改めない。


 簡潔で、必要最低限の言葉だけを書き連ねた。


 封を閉じたとき、不思議なほどの静けさがあった。


 3年前の私なら泣いていたかもしれない。

 けれど今は、ただ淡々と現実を見つめているだけだった。




 それ以上フレデリックから返事が来ることはなく、ほっとしたのも束の間──


 学園の廊下を歩いていると、入学式のときにフレデリックの隣にいた令嬢が、わざわざ進路を塞ぐように立ちはだかった。


 ピンクの髪を揺らし、涙を含んだようなブラウンの瞳でこちらを睨んでいる。


 密偵から連絡を受けてるので名前は知っている。

 タチアナ・ローレンス男爵令嬢だ。


 もちろん無視して通り過ぎる。


「待ちなさい」


 背後から声が飛んだが、私はそのまま教室へ入った。


 すると彼女が、ずかずかとついてきて、生徒たちが驚いてこちらを見る。


「何なのよ、無視して!

 あなた婚約者に対して酷いじゃない。

 リックが可哀想よ!

 態度を改めなさい」


 教室がざわつく中、イリスがすっと前に出た。

 ミルクティーブロンドの髪がふわりと揺れ、ミントグリーンの瞳が冷たく光る。


「この学園で許されてるのは、正式な挨拶をしないことだけよ。

 格上の相手に名乗りもしないで喚くのは不敬よ」


「私は先輩なんだから、私の方が上でしょ」


 タチアナが言い返した瞬間、教室が静まり返った。


 そこへアレクシスが入ってきた。


「どうした?」


 イリスが肩をすくめる。


「この女がセレスタに絡んだのよ。

 “婚約者に対する態度がひどい”って」


 アレクシスの表情が冷たくなる。


「男爵令嬢が、王子と公女の婚約に口を挟めると思ってるのか?」


「なっ、だから学園では私が先輩だって──」


「貴族の婚姻は家と家との契約なのに、なぜ何の関係もない、それも低位の貴族令嬢が口を出すんだ?

 当主でも許されないぞ」


 タチアナの顔が真っ赤になる。


「関係あるわ!

 リックがこの人と結婚した後、私も後宮に入るんだから」


 教室中がざわめいた。


 アレクシスは眉をひそめる。


「それを兄が言ったのか?」


「え、はっきりは言ってないけど、“愛してる。ずっと一緒にいよう”って……そういうことでしょ」


 アレクシスは深く息を吐いた。


「兄は誰にでも言うよ。

 今、君が1番お気に入りなのかもしれないけど、だからと言って調子に乗るな」


「そんな……嘘」


 タチアナの瞳から涙がこぼれ落ちた。


 アマーリエが静かに前へ出た。

 黒髪ストレートが揺れ、深い紫の瞳がタチアナを射抜く。


「学園内は無礼講ではありません。

 私たちが正式に抗議したら、あなたの家は簡単に潰れるんですよ」


 タチアナの顔が青ざめる。


「……リックが守ってくれるわ」


 震える声で言い返したが、その言葉はすぐに打ち砕かれた。


「兄が君を庇っても、両親がノーと言えばそれまでだ。

 家に帰ったら両親に伝えるよ。

 兄の愛人ごときが公女に突っかかったと」


 アレクシスの声は静かだったが、教室の空気が一気に冷えた。


 タチアナは怯えたように後ずさり、そのまま逃げるように教室を出ていった。


 アレクシスは、ため息をついた。


「兄のせいで、すまない……」


「気にしないで。

 ──皆、ありがとう」


 私が言うと、イリスが身を乗り出した。


「処す? 処すよね?」


「こっちで処理する」


 アレクシスが淡々と言い、クラスメイトたちは一斉に怯えたように背筋を伸ばした。




 ──昼休み。


 庭のテラス席で、私たちはランチを広げていた。


 春風が心地よく、花の香りが漂う。


 イリスがデビュタントの話を楽しそうにしていて、アマーリエも微笑んでいた。


 その時だった。


 フレデリックがタチアナを連れて現れた。


「タチアナを潰すと脅したそうだな!」


 私たち4人は、ぽかんとした。


 そして、ゆっくりと顔を見合わせた。


 イリスが小声で呟く。


「……誰が、そんなこと言ったの?」


 アマーリエが眼鏡を押し上げる。


「事実を述べただけですが」


 アレクシスは深い青の瞳で兄を見据え、静かに息を吐いた。


 私はパンをちぎりながら、淡いアメジストの瞳でフレデリックを見た。


 アレクシスが静かに立ち上がった。

 深い青の瞳が兄を真っ直ぐに射抜く。


「兄上。今日はもう帰った方がいい。

 家に帰ったら、父上と母上に心の病気を見れる医者を呼んでもらうから」


 フレデリックの顔が真っ赤になった。


「ば、バカ! 何てこと言うんだ?! 変な噂が立ったら、どうしてくれる」


 イリスが紅茶を置き、ミントグリーンの瞳で冷ややかに言う。


「今はもう悪い噂しかないですよ、殿下には」


「そんなことない! 俺たちは今、真実の愛で結ばれた奇跡のカップルとして小説化されたりしてるんだ」


 私達は絶句した。


 私はゆっくりと立ち上がり、フレデリックを見つめた。


「その真実の愛を貫くために、私との婚約を破棄して、彼女に王子妃になってもらってください。

 そうすれば家も潰されなくて済むでしょう」


 フレデリックは目を見開いた。


「っ、男爵令嬢が王妃になれるわけないだろう」


「真実の愛で乗り越えてください」


 イリスが続ける。


「ください」


 アマーリエも眼鏡を押し上げながら。


「ください」


 アレクシスが肩をすくめる。


「それがいいよ」


 フレデリックは、顔を真っ赤にして叫んだ。


「バカ! そんなことしたら廃嫡されるに決まってるだろう!」


 私たち4人は顔を見合わせ、ひそひそと相談を始めた。


「(廃嫡……)」

「(自分で言った)」

「(理解してるんだ……)」

「(じゃあ何でやってるの?)」


「おい! 何してるんだよ! ひそひそするな!」


 フレデリックが怒鳴るが、誰も相手にしなかった。


 私は、スカートの裾を整えた。


「もう、ここでランチするのは諦めて、早退して王宮に行きましょう」


 イリス、アマーリエ、アレクシスの3人が同時に頷いた。


「はあ?! な、何を……」


 フレデリックが声を裏返した。


「父上に、ありのままを話すに決まってるじゃないか」


 アレクシスが淡々と言い放つと、フレデリックは変な声を出した。


「ファッ」


 ファッってなんだろう。

 昔、少しでも好意を持った自分が恨めしい。


「やめ、やめろ」


「言われて困ることしなきゃいいだろう」


 アレクシスの言葉に、イリスもアマーリエも頷いた。


「時間が勿体ないから早く行きましょう」


 私が立ち上がると、3人も歩き出した。

 フレデリックは慌ててついてくる。




 重厚な扉が開き、私たち4人は謁見室へ進んだ。

 フレデリックも青ざめた顔で後ろに続く。


 アレクシスが前に出て、淡々と事の次第を説明した。


 説明が終わる頃には、フレデリックの顔は紙のように白くなっていた。


 王はゆっくりと立ち上がり、鋭い視線をフレデリックに向けた。


「愛人の管理ができないところか、自分も一緒になって騒ぎを起こすなど言語道断」


「あ、愛人の管理は、セレスタの仕事です」


「違います」


 私は即答した。


「違わない」


 フレデリックが子どものように言い返すが、王の怒気は増すばかりだった。


「婚姻後に妾や側室を持つのは政治的な理由か、跡継ぎができない場合だ。

 今のお前の愛人たちは子供を産んだり、国の役に立ったりしているのか?」


 フレデリックは、口を開いたまま固まった。


 答えられるはずがない。


 イザベルは行方不明。

 他の愛人たちは、ただの遊び相手。

 国の役に立つどころか、問題しか起こしていない。


 謁見室の空気が、ひりつくように冷たくなった。


 王は深く息を吸い、鋭い眼光でフレデリックを見下ろした。


「国民は、お前の性欲を満たすために税金を払ってるのではない」


「も、申し訳ありません」


 フレデリックは肩を震わせ、視線を床に落とした。


「では、交際している女たちを切れ」


「そ、それは!」


 フレデリックが顔を上げた瞬間、私は一歩前に出た。


「むしろ、今の愛人たちに王妃教育を受けさせたらいかがです?

 その中で1番優秀な女性を王妃にするのです。

 どちらにせよ純潔を奪ってしまった貴族令嬢は、責任を取らなければなりません」


 貴族社会において、未婚の令嬢が純潔であることは婚姻の絶対条件と言っていい。

 王妃候補ならなおさらだ。


「俺は誰の純潔も奪ってない! そういうことは未亡人や閨係としかしない」


 フレデリックが必死に言い返す。


 私は彼を見つめた。


「では真実の愛は、どうするのです?」


「結婚する時に別れる」


「それは期間限定の恋であって、真実の愛ではありません」


 フレデリックは、冷や汗をかいている。


 王は深くため息をついた。


「……後日、講師陣を集めて王族適正試験をする」


「えっ」


 フレデリックの声が裏返る。


「お前は愛人たちを集めろ。

 そしてセレスタ、アレクシスも一緒に受けろ。

 それで今後の方針を決める」


 謁見室の空気が重く沈んだ。


 フレデリックの顔は青ざめ、アレクシスは静かに頷き、私はただ淡々と受け止めた。




 王宮の廊下を、私はスキップしながらぐるぐる回っていた。


 王族適正試験で、わざと赤点を取れば──婚約解消。

 その確信が胸の奥で弾けて、体が勝手に動いてしまう。


 勢い余って足がもつれた瞬間、腕を引かれた。


「少し落ち着いて……」


 アレクシスが支えてくれていた。


「だってやっと婚約解消できるわ、これで!」


 私は両手を上げて万歳した。


 イリスとアマーリエが顔を見合わせ、くすりと笑う。


「私たち、先に帰るわ。

 2人は今後のこと話すといいよ」


「え、何で? 一緒に会議を──」


 言い終わる前に、2人はさっさと帰っていった。


 ぽつんと残された私とアレクシスは、仕方なく彼の部屋へ向かった。




 静かな部屋で、香りのいいお茶が湯気を立てていた。


 アレクシスはカップを置き、少し緊張したように口を開いた。


「今後のことなんだけど」


「ええ」


「兄と婚約解消したら僕と……結婚するよね?」


 私は頷いた。


「そうね。自動的に、そうなるわね」


 アレクシスは一瞬、ほっとしたように息をついた。

 けれどすぐに、どこか不安げに視線を落とす。


「その……気持ちは、どうなのかな?」


「気持ち?」


「僕を好きかな」


 私は少し考えてから答えた。


「そうね」


「え、好き?」


「まあまあ好き」


 アレクシスは固まった。


 そして、肩を落としながら小さく呟いた。


「……そっか。仕方ないよね。兄があれじゃ」


 私は紅茶を一口飲みながら、彼の横顔を見つめた。


 彼が浮気するとは思わないが、兄が兄だから……。


「……例の人、媚薬飲まされてたのかと思ってたけど、何人も愛人いるんじゃ違うわよね」


 例の人──とは、もちろんフレデリックのことだ。


 イザベルに媚薬でも盛られてたのかと、心のどこかで思っていた。


 私は紅茶を、くるくる回しながら呟いた。


「それなら従者や側近が気付くと思う」


 アレクシスは静かに答える。

 深い青の瞳が少しだけ曇った。


「でも年々、頭が悪くなっていってない?

 最後に会った14歳の頃より酷いのだけど」


「純粋に恋愛脳なんじゃないかな。

 執務は、ちゃんとしてるんだよ」


「ふうん。だったら廃嫡されないんじゃない?」


「微妙なところだね。

 女関係で大きなトラブル起こすか、仕事サボるかすれば廃嫡だと思う。

 別に僕は王になりたいわけじゃないから、兄がまともになってくれればありがたいよ」


「……あれが王で大丈夫かしら……」


 1度まともになったところで、また恋をしたらおかしくなるのではないか。


 そんな不安が胸をよぎった。


 そこへ扉がノックされ、使用人が顔を出した。


「殿下、王妃陛下がお呼びです」


「今、来客中だよ」


 アレクシスが軽く手を振る。


「もう、お暇するわ」


 私が立ち上がると、アレクシスが慌てて声をかけた。


「そう? ならデートの約束だけでも」


「まだ第1王子殿下の婚約者なのでダメよ」


 そう言ってスカートを整える。


「わかったわかった」


 アレクシスは肩を落としながらも、どこか嬉しそうだった。


「じゃあ、また学校で」


 私は軽く手を振り、部屋を後にした。




 廊下を歩いていた私は、突然背後から腕をつかまれた。


「失礼します、公女様」


 兵士4人が現れ、そのまま私と侍女を囲んで連行していく。


 ──嫌な予感しかしない。




 重い扉が閉まり、兵士に拘束されていた腕がようやく解かれた。


 目の前にはフレデリック。

 3年前よりも背は伸びているのに、どこか幼く見えた。


 そして、ここは彼の部屋だ。


「ずいぶん派手にやってくれたじゃないか」


「近付かないでと言ったでしょう」


 睨むと、フレデリックは肩をすくめた。


「話がしたいだけだが、そちらが応じないなら手荒な真似をしよう」


「はっ、何を……?」


「もうすぐ君のデビュタントだろう。

 それまで監禁する」


「はあ?!」


 思わず声が裏返った。


「君が従順にすれば帰してやるよ」


 従順──?

 何を言っているのか本気でわからない。


「……何の話がしたいの。さっさと終わらせて」


「焦るなよ。君の家には、もう使いを出した」


 胸の奥が冷たくなる。


「まず王妃教育が3年止まってる。

 父の試験までに詰め込めるだけ詰め込んでもらう」


「は? 何? 嫌よ」


「君は王妃候補なんだぞ」


「私が1度でも王妃になりたいと言ったことがあるの?」


 フレデリックは不満げに眉を寄せた。


「婚約した時は、君も嬉しそうだったじゃないか」


「まだ人を見る目がなかったの」


 その瞬間、彼の表情が歪んだ。


「そんなに浮気されたのが許せないか?!」


 私は一瞬、言葉を失った。


 ──許せない?

 違う。

 もう“許す・許さない”の段階ではない。


「は? 今となっては、もうそんなことどうでもいいわ。

 私は、あなたと結婚する気なんか1ミリもないもの」


 はっきり言い切ると、フレデリックは髪をかきむしった。


 ……何してるんだろう、この人。


「何故だ? 君が領地に行くまで、うまく行ってたのに」


 え?

 本気で言ってるの?


 何で、私が領地に行ったと思ってるんだろう。


「なんだか宇宙人と話してるみたい。

 あなたと関わると、ただ消耗するだけで何のプラスにもならない。

 疲れる。虚しくなる。苛立つ。

 自分の人生にとって、ただただマイナスの人」


「っ……そんなに俺が嫌いか」


「いや、だから好き嫌いとかのレベルじゃなくて、もう生理的に受け付けない」


 その瞬間、フレデリックは膝から崩れ落ちた。

 床に手をつき、そのまま動かない。


 ……え?

 死んだ?


 しばらく様子を見たが、ぴくりとも動かない。


 私は、そっと部屋の扉へ向かった。

 侍女はいない。先に帰されたのかもしれない。


 ──とりあえず、正気に戻る前に帰ろう。


 私はスカートをつまみ、できるだけ音を立てないように廊下へ出た。

 そして、全力で走った。


 心臓がどくどくと鳴る。


 ──あの人が追ってくる前に、絶対に屋敷へ戻らなきゃ。




 角を曲がった瞬間、人影とぶつかった。


「わっ、ごめん。大丈夫?」


 アレクシスだった。

 深い青の瞳が、驚きと心配で揺れている。


「うーん……」


 少しクラクラして、壁に手をつく。


「全力で走ってたの? そんなに婚約解消が嬉しかったの?」


「ち、違……フレデリックに監禁されかけて」


 言った途端、視界が揺れた。


 アレクシスの腕が私の体を支え──そのまま抱き上げられた。


「え?」


 アレクシスってば、私より少し背が高いだけなのに、意外と力持ちね。




 ふと目を開けると、薄暗い部屋の天井が見えた。


「ここどこ?」


「僕の寝室」


「きゃっ」


 人がいると思わず、跳ね起きる。


「ごめん。気絶しちゃったから。

 救護室だと兄が来るかも、と思って」


 ……だからって寝室は。

 誤解されたら面倒だ。


「ありがとう。でも変な噂が立つといけないから、もう帰るね」


「噂になっても別にいいよ」


「だけど……」


「むしろ、その方が婚約解消できるかもしれないよ」


 アレクシスは軽く笑った。


「それは、そうだけど。

 不貞から結ばれたカップル、というイメージは良くないんじゃ?

 それに、まだ次はアレクと婚約するって決まったわけじゃないし」


 アレクシスは一瞬だけ目を伏せ、すぐに柔らかく微笑んだ。


「兄があれだけ大っぴらに浮気してるんだから、セレスタのイメージは悪くならないよ。

 それに兄との婚約は政略なのだから、次は僕になるのは決まったも同然さ」


「うーん、そうだけど……」


 純潔を失ったと思われたら困るし。

 そういう噂は、どれだけ否定しても勝手に広がる。


 やっぱり帰ろう──そう思ってベッドから降りようとした瞬間、手をぎゅっと握られた。


「結婚するまで、その……そういうことはしないから警戒しないで」


 アレクシスの声は真剣で、どこか不器用だった。


 ……警戒は、あまりしてないけど。


 懐かしい感覚が胸をよぎる。


 婚約して少し経ってから、14の誕生日前まで──

 フレデリックも、こんな感じだった。


 帰ろうとすると引き留めて、

 “もっと一緒にいたい”

 そんなふうに。


 でも、それは世界が狭かったから。


 彼の近くに行ける異性が、私だけだったから。


 今は違う。

 私も、彼も、そしてアレクシスも──

 3年前とは別の場所に立っている。


 アレクシスの手は温かくて、優しかった。


「アレクの閨教育係は誰だったの?」


 訊ねると、アレクシスは固まった。


「え? きゅ、急に、そんな……」


 私はじっと見つめる。


 アレクシスは視線を泳がせ、観念したように小さく呟いた。


「……カーヴェル夫人だよ」


「えっ?!」


 思わず声が裏返った。


 カーヴェル前子爵夫人といえば──かなりの高齢。

 それはもう、マザコンというよりババコン。


「……年上が好きなの?」


「違うよ! 兄みたくなったら嫌だと思って……最後までしてないよ。

 基本的に言葉で説明受けて……」


 アレクシスは耳まで赤くして弁解する。


「ふうん。でもアレクは婚約者いないし」


 第2王子は、第1王子(もしくは王太子)に男児が生まれてから結婚する決まり。

 だからアレクシスには婚約者がいない。

 女性を囲っても不貞にはならない。


 アレクシスは唇を尖らせた。


「いないけど、誤解されたくないから」


「誰に?」


 アレクシスは一瞬固まり──


「鈍いな、もう!」


 顔を真っ赤にして怒り、バッと立ち上がって部屋を出ていってしまった。


 扉が閉まる音が響く。


 ……え?

 何で怒ったの?


 私はぽつんと残された。


 


 扉を開けて居間に向かうと、アレクシスがしゃがみこんでいた。

 膝を抱えて、耳まで真っ赤にしている。


 ……可愛い。


 私は無言で近づき、ほっぺを高速でつつきまくった。


「ちょ、ちょっと……!」


 アレクシスが慌てて私の指を掴んだ。

 そのまま手を離さず、視線をそらしながら言う。


「僕はこっちで寝るから、セレスタはベッドで寝てよ」


「私、夜ご飯食べてないわ」


「わかった。メイドに用意させるよ。座ってて」


 アレクシスは立ち上がり、まだ赤い耳のまま部屋を出ていった。






 デビュタント当日。

 煌びやかな会場。

 私はアレクシスと腕を組み、堂々と入場した。


 王族の席へ向かい、陛下と一緒に挨拶を受けていると──


 息を切らしたフレデリックが駆け込んできた。


「どういうことだ! 迎えに行ったら、もう出たと言われた!」


 アレクシスが涼しい顔で答える。


「それは僕が、兄上に開会時間をずらして伝えたんだよ」


 ……なかなか酷い弟だ。


「なんだと?! まさか一緒に入場したのか」


「婚約者が変わるのは時間の問題だ、と周知したね」


 フレデリックが掴みかかろうとした瞬間──


「やめないか。みっともない」


 王の一喝が響いた。


「しかし!」


「お前の相手は、あちらだろう。間違えるな」


 視線の先には、タチアナが不安そうに立っていた。


 タチアナは学園で王族・高位貴族に言いがかりをつけ騒ぎを起こしたため自宅謹慎中だったが、今日は特別に出席が許されている。


「……何で」


 フレデリックは呆然と呟く。


「兄上、さっさと真実の愛のところに行けよ。

 僕はセレスタを守るから」


 アレクシスの言葉に、フレデリックは迷いながらもタチアナの方へ歩いていった。




 やがて音楽が流れ、私はアレクシスと踊ろうと手を伸ばした。


 その瞬間、腕を掴まれた。


 強引な力でフロアへ引きずり出される。


 フレデリックだった。


 サファイアブルーの瞳が、焦りと執着で濁っている。


 私は仕方なく踊り始めた。


 視線をふと横に向けると──


 タチアナが壁際で、じっとこちらを見ていた。

 その瞳は不安と嫉妬で揺れ、今にも泣き出しそうだ。


「真実の愛が、こちらを見てるけど」


 私が淡々と言うと、フレデリックは眉をひそめた。


「放っておけ。彼女は、俺の婚約者じゃない」


「直になるでしょう」


 その瞬間、腰をぐいっと引き寄せられた。


「っ……!」


 息が詰まるほどの力。

 周囲の視線が一斉に、こちらへ向く。


「俺が結婚する相手はセレスタだ。

 婚約は解消しない。

 どれだけ君が嫌がろうと、縛り付けてでも置いておく」


 耳元で低く囁かれ、背筋が冷たくなる。


「何の恨みがあるの、私に」


 問いかけても、フレデリックは答えなかった。


 ──1曲目が終わる。


 離れない。


 ──2曲目が終わる。


 まだ離れない。


 ──3曲目が終わる頃には、


 会場の空気は完全に凍りついていた。


 貴族たちはひそひそと囁き合う。


「第1王子殿下……様子がおかしい」

「第2王子殿下が睨んでいるぞ」

「セレスタ嬢、逃げられないのか……?」


 アレクシスは遠くから、こちらを見つめ拳を握りしめていた。

 今にも飛び出してきそうなほど、怒りを隠していない。


 タチアナは壁際で震えながら、唇を噛んでいる。


 フレデリックの腕は、まるで檻のように私を拘束していた。


 ──このままでは、何かが壊れる。


 3曲も踊らされ、ようやく音楽が止んだ。


 私はすぐに距離を取ろうとした──が、腰を掴まれて動けなかった。


「家まで送る」


「えっ?! まだ、あなた以外と踊ってないんだけど」


「必要ない」


 ぐいっと腕を引かれる。


「ちょ、ちょっと──」


 そこへアレクシスが割って入った。


「兄上、その辺にしろよ」


「うるさい。俺の婚約者を、俺が送っていくのは当たり前だろ。

 だいたいお前には務めがあるだろ」


 デビュタントの女性は、王子と踊ることができる。


 本来ならアレクシスもフロアに出て、順番に相手を務めなければならない。


「そっちだって、そうだろう」


「うるさい、どけ」


 フレデリックの声は苛立ちで震えていた。


 アレクシスは引かず、冷たい声で告げる。


「そんなことしてると、すぐに廃嫡になるぞ」


 ──ピタッ。


 フレデリックの動きが止まった。


 私の腕を離すと、何事もなかったかのようにデビュタントの女性へ向かい、踊り始めた。


 ……切り替えが早いのか、思考が浅いのか。


 アレクシスが私の方へ向き直る。


「休憩所で休む?」


「……そうね」


 会場の空気は混沌としていた。

 ひそひそ声、ざわめき、視線。


 このままでは余計な噂が広がる。


 私は侍女とともに、王族の控え室へ向かった。


 ──まだデビュタントは始まったばかりなのに、すでに疲れた。




 控え室で侍女に髪を整えてもらいながら、私は深く息をついた。


 デビュタントの会場は、まだざわついている。


 そこへ使用人が慌てた様子で入ってきた。


「メルヴィル子爵夫人とブランシェット男爵夫人がお見えです」


「伝言だけ聞くわ」


 使用人がドアの向こうへ戻ると、すぐに揉める声が聞こえてきた。


 侍女が確認に行き、戻ってくる。


「婚約者を変えたのか聞きたいそうです」


「王宮から正式に発表があるまで何も言わないわ」


 侍女が、それを伝えに行った──はずだった。


 しかし次の瞬間、2人が使用人を押し退けて控え室に乱入してきた。


「ここは王族専用の控え室よ」


 私が冷たく言うと、メルヴィル夫人が必死の形相で訴えた。


「ですが! ローゼンベルク公爵令嬢が婚約者であるのかは、私たちの人生を左右することなのですよ」


「確かに左右するわね。

 この事は陛下に報告します」


 2人の顔が一気に青ざめた。


「き、聞いていただければ納得されます!」


 私は眉をひそめる。


 ブランシェット夫人が震える声で続けた。


「私たちは3年前に、フレデリック殿下の愛人になりました。

 しかし、そのせいで婚家と不仲なのです。

 ローゼンベルク公爵令嬢と結婚後、後宮に召し上げて貰えないと困ります」


「それを、なぜ私に? 決めるのは第1王子殿下でしょ?」


 メルヴィル夫人が縋るように言う。


「ローゼンベルク公爵令嬢が結婚なされば、妾の存在を反対されないはずです」


「そうね」


 私は淡々と頷いた。


 ブランシェット夫人が涙目で訴える。


「ローゼンベルク公爵令嬢以外の、嫉妬深くて強力な女性が正妻になったら、私たちは行くところがないのです」


「修道院に行けば?」


「ひどい、そんな……」


「どんなに正妻が反対しても、第1王子殿下が押し切ればいいでしょう」


「そこまでの寵愛は受けてないのです……」


 ──知らないよ。


 私は呆れ果てて立ち上がり、控え室を出ようとした。


「お願いです。お助けください!」


 メルヴィル夫人が裾を掴まんばかりに縋りつく。


 私は振り返り、淡々と告げた。


「何か勘違いしてないかしら?

 第1王子殿下に愛人になるよう言われた時に、私に一言相談し許可を得た上でなり、日陰の身として一歩下がり、私を立ててきたのであれば情けをかけたでしょうけど」


 2人の顔が、みるみる青ざめていく。


「勝手に泥棒行為をしておいて、被害者に何とかしてくれというのは、お門違いだわ。

 もう1回言うけど、このことは陛下に報告します」


 メルヴィル夫人とブランシェット夫人は、その場に崩れ落ちた。


 私はスカートを翻し、控え室を後にした。




 曲の切れ間、アレクシスが慌てて駆け寄ってきた。


「戻ってくるの早いね」


「休憩にならないんだもの、まったく」


「どうしたの?」


 私は先ほどの出来事を簡潔に説明した。


 アレクシスの表情が一瞬で険しくなる。


「それは僕から父に言っておくよ。

 もう疲れただろう。家まで送っていく」


「ありがとう、そうするわ」


 アレクシスは、そっと私の手を取った。

 その手は温かく、先ほどの混沌を忘れさせるような安心感があった。


 ──デビュタントは、まだ終わっていない。

 けれど、今日の私はもう十分頑張った。




 馬車が静かに揺れる。

 夜風がカーテンを揺らし、アレクシスの横顔が淡い光に照らされた。


「兄が、いつもごめん」


「あなたが謝ることじゃないわ。気にしないで」


 アレクシスは少しだけ表情を緩めた。


「今日、僕の贈ったドレス着てくれて嬉しかった」


「私も綺麗なドレス着られて嬉しかった」


「良かった。兄から送ってきたのは、どうしたの?」


「婚約解消になった時に、まとめて返すために物置に入ってるはず」


「そっか。縁起悪いもの近くにあると運が下がるから、もう返してしまえば?

 その分、僕がプレゼントするから」


 思わず笑ってしまった。


「それって独占欲なの?」


「そうだよ。少しはわかるようになってくれて嬉しいよ」


 アレクシスの声は穏やかで、どこか照れていた。




 春の陽気が心地よく、私たちは学園の中庭で昼食をとっていた。


「昨日の修羅場は正直、見ていて楽しかったです」


 アマーリエが紅茶を飲みながら言う。


「本当よね。私も取り合われたい」


 イリスが頬杖をつく。


「趣味が悪すぎるわ。

 それにデビュタントに続いてすぐに建国祭があるから、また修羅場かもね。

 でもその後、王族適正試験よ。うふふ」


 私が笑うと、イリスが首をかしげた。


「疑問なんだけど。

 王妃教育サボってるセレスタは、適正試験に落ちて婚約解消になるっていう予定でしょ?

 でも、そうしたらアレクシス様とも婚約できないんじゃない?」


「第2王子妃は、そこまで厳しい王妃教育受ける必要ないですよ」


 アマーリエが即答する。


「でもアレクシス様が王太子になったら?」


「なってから教育受けても間に合うでしょう。

 即位するまで、まだまだ時間はあります」


 アマーリエの冷静な分析に、イリスは感心して頷いた。


 私は紅茶を口に運びながら、ふと空を見上げた。


 ──実は、王妃教育と同レベルの教育を、すでに受けていることを2人には言ってない。


 これから起こることを思うと、胸が少しだけ高鳴った。





 建国記念式典が終わり、私は王宮の自室へ戻った。


 夜のパーティーまで、まだ時間がある。


 軽く休憩して、着替えて──それでも余るほどの時間。


 だから少しだけ昼寝をした。


 ……はずだった。


 ふと目を開けると、視界にフレデリックの顔があった。


「──っ!!」


 悲鳴を上げかけた瞬間、口を塞がれた。


「大声出すなよ」


 頷くと、ようやく手が離れた。


「何してるの?」


「はっ、ここは第1王子妃の部屋だ。

 俺がいても不思議でないだろう」


 私は首を捻った。


 ……いや、誰の部屋であれ、許可を得てから入るものでは?


「何の用でしょう?」


「ドレスを用意した」


 ……。


 今回は事前に贈られてこなかったから、デビュタントで私がアレクシスの贈ったドレスを着ているのを見て、諦めたのかと思っていたのに。


 まだ続ける気らしい。


 私はため息をつき、淡々と告げた。


「そんなに王になりたいなら、真実の愛をうちの養子にできないか聞いてみます」


 私に付きまとうのは、ローゼンベルク公爵の後ろ楯が欲しいのだろう。


 フレデリックの表情が一瞬で険しくなる。


「俺はセレスタと以外、結婚しない」


「私は、あなたとだけは結婚しない」


 空気が、ぴしりと割れたように感じた。


 しばらく睨み合っていたが、先に視線を外したのはフレデリックだった。


「俺のドレスを着ないなら、ここから出さない」


 ……また監禁。

 呆れを通り越して、もう感情が動かない。


「私を守れない男に、パートナーを名乗る資格はない」


「俺がいつ守れなかったというのだ」


 私は淡々と指を折って数えた。


「最初の閨係から、真実の愛から、えっと──先日はメルヴィルとブランシェット。

 迷惑ばかりかけて何のつもり?」


 メルヴィル夫人とブランシェット夫人は登城禁止になった。


 フレデリックは、むっとした顔で言い返す。


「子供ができなければ側室をとるし、後宮の管理は君だ」


「だから?」


「女たちを諌められないようでは王妃は務まらない」


 ……ああ、もう本当にダメだ、この人。


「宇宙人さんの持論は常識ではないのだから、さも当然のように語るのやめてくれる?

 あなたのマイルールを人に押し付けるのは傲慢以外の何でもないわ」


「君が何を、どう言おうと婚約者は俺だ」


 ──話すだけ無駄。


 私は起き上がり、洗面所へ向かった。

 歯を磨き、気持ちを切り替えて部屋に戻ると──


 フレデリックはいなかった。


 静まり返った部屋に、夕方の光が差し込んでいる。




 アレクシスにもらったドレスに着替えようとした瞬間、扉がノックもなく開いた。


 フレデリックが立っていた。


「そのドレスはやめろ」


 ……何て性格悪いんだろう。


 王宮のメイドたちは第1王子の命令に逆らえない。

 私も部屋から出られない以上、従うしかなかった。


 仕方なく、フレデリックが用意したドレスに着替える。


 鏡に映る自分を見て、思わずため息が漏れた。


 ──この人と結婚する未来だけは、絶対にない。




 パーティー会場にフレデリックと入場すると、ざわめきが走った。


 ──婚約解消かと思われていたのに、また同行している。


 そんな空気が、会場中に満ちていた。


「では婚約者の義務は終わりましたので、これで」


 私は距離を取ろうとした。

 しかし、腰をがっちり掴まれる。


「なっ──」


「今夜は、ずっと一緒にいる」


「嫌です!」


「静かにしないと叱られるぞ?」


 脅しのような甘い声。


 私は会場を見回し、助けを求めるようにフレデリックの“真実の愛”を探した。


 タチアナがいた。

 壁際で、こちらを見ている。


 私は助けを求めて、手を伸ばした。


 ──が、タチアナは目をそらした。


 何で!


 他に愛人がいないか探す。


 フレデリックはクスクス笑っていて、神経を逆撫でする。


「真実の愛に見られましたよ」


「だから?」


「っていうか、真実の愛がいるのに、他にも愛人がいて、文句言われないのですか」


 フレデリックは、私の皮肉などまるで届いていないかのように平然と続けた。


「文句言う女とは、すぐに別れる。

 そもそも“真実の愛”は、俺が言い出したことじゃない。

 タチアナが将来、後宮に上がるために吹聴して歩いただけだ」


 ……は?


 私は一瞬、言葉を失った。


 フレデリックは、さらに続ける。


「学園内では彼女といるが、外ではわざわざ会わない」


 ──つまり、学園内限定の“真実の愛”。

 外では別の愛人。

 そして私には執着。


 意味がわからない。


「真実の愛も他の女性も、結婚後に後宮に上げると契約したら、どうですか?

 そうすればトラブルにならないでしょう」


「召し上げるつもりはない。

 結婚する時に別れると言ったろう」


 ……。


 問答に疲れ、私は黙り込んだ。




 ダンスタイム。


 私はまたフレデリックに腕を掴まれ、強引にフロアへ連れ出された。


 ──この人は、嫌がる相手に興奮する性癖なのか。

 それとも拒絶されるのが、プライドに触るのか。

 あるいは、公爵家の後ろ盾がどうしても欲しいのか。


 どれにせよ、我が家が放蕩王子を支援するはずがない。


 3曲続けて踊らされ、ようやく離れようとした瞬間──また掴まれた。


 そこへアレクシスが来る。


「1曲、お相手願いたい」


「断る」


 婚約者が「ダメ」と言えばダメ。

 それがこの国のルール。


 私とアレクシスは唇を噛んだ。




 まだパーティーの途中なのに、フレデリックは私を連れて、王子妃の部屋へ戻ってしまった。


 着替え終えて居間に行くと、食事が並んでいた。


 パーティーや式典の日は、ほとんど食べられないのを知っていて用意したらしい。


「腹が空いたろう」


「空きましたけど、あなたとは食べません」


「いくら強情をはっても、もう家には帰れないぞ」


「は?」


「花嫁修行の名目で同居の許可を得た。君の父に」


 ──は?


 頭が一瞬、真っ白になった。


 セレスタは無言でフレデリックを見つめた。


 ──あのやろう。


 父は王妃教育を中断して領地に戻るときも、フレデリックに接近禁止の書状を送るときも渋っていた。


 父の弱みを握って、私が強引に実行してきた。

 だがここに来て、王子の圧に屈したらしい。


 いや、そもそも──

 私たちが結婚することが父の望みなのだろう。


「王族適正試験まで教師を呼んで、ここで勉強してもらう」


 フレデリックは当然のように言った。


 私はもう、疲れていた。

 強引で、しつこくて、話が通じなくて。

 抵抗する気力すら削られていく。


 寝室に行き、湯浴みして、早々に寝た。





 早く目が覚めた。


 カーテンの外は薄暗い。


 メイドを呼ばずに支度しようと寝返りを打った瞬間──


 横にフレデリックが寝ていた。


 悲鳴を上げそうになった。


 パニックホラーの世界である。


 これだけ拒絶されている相手に寄り添って寝るなんて、信じられない。


 そして──純潔は大丈夫かと焦ったが、特にそういった形跡はなかった。


 胸を撫で下ろすと同時に、背筋が冷たくなる。


 この人は、拒絶されても拒絶されても、平然と境界を踏み越えてくる。


 その異常さが、じわじわと恐怖に変わっていった。



 こっそりベッドを抜け出し、そっと扉へ向かった。


 ──が、兵士に阻まれた。


 見張りがいた。


 ……本気で監禁する気なのだろうか。


 その瞬間、背後で気配が動いた。


 振り返る間もなく、フレデリックに抱え上げられ、ベッドへ戻される。


「もう少し寝ててくれ」


 そう言うと、彼自身がすぐに眠りに落ちた。


 私は呆然としながら、寝顔を見つめた。


 ──昔のことが、ふと蘇る。


 婚約してから、王妃教育のために王宮へ通い、週に1度は茶会をした。

 それ以外の日も、休憩中に会いに来てくれた。


 10歳の子供が王宮で厳しい教育を受けるのは、不安で、苦しくて。

 でも、フレデリックが支えてくれたから乗り切れた。


 あれは思えば、依存に近い好意だったのかもしれない。

 他に頼る人がいなかったから。


 互いに、狭い世界にいた。


 私は裏切られた気持ちだったが──

 環境が変われば、関係性が変わるのは当たり前なのかもしれない。




 気付いたら寝ていて、起きたときにはフレデリックの姿はなかった。


 メイドを呼んで支度を済ませ、ブランチを食べていると──講師が来た。


 王妃教育。

 内容は全部わかっている。


 でも、フレデリックと婚約解消するために“知らないふり”を続ける。


 これを2週間も続けるのかと思うとうんざりする。


 けれど部屋から出してもらえない以上、仕方ない。


 そのとき──外が騒がしくなった。


 ドアが勢いよく開く。


 汗だくのアレクシスが入ってきた。


「大丈夫? 何かされた?」


「監禁されただけよ」


 アレクシスの眉が跳ね上がる。


「あのやろう……本当に……さあ、ここから出よう」


 しかし、見張りの兵士が立ちはだかった。


「邪魔をするな」


 アレクシスが鋭く言う。


「しかし第2王子より第1王子の方が権限は上です」


 それは次男の辛いところだ。


 アレクシスは悔しそうに唇を噛み、私に向き直った。


「父上に言いつけてくるから待ってて」


 そう言って部屋を出ていく。


 私はホッと息をついた。


 ──家に帰れる……?


 ……でも。


 また引き渡されるんじゃない?


 冷たい不安がじわりと広がった。




 ぼんやり待っていると、アレクシスがとぼとぼ戻ってきた。

 肩が落ちていて、見ただけで結果がわかる。


「君の父に正式に許可とってるから、監禁は叱責するけど……ここで暮らして勉強するのは口出せないって言われた」


「ここは私の部屋でしょ」


「そうだけど?」


「だったらアレクも、ずっとここにいてくれない?」


 アレクシスは一瞬きょとんとしたが、すぐに意味を理解した。


「でも兄に出ろって言われたら? 奴は正式な婚約者だし」


「……試験で私が不適格なら婚約解消できるだろうから、それまで我慢しましょう」


 アレクシスは少し考え、真剣な顔で言った。


「あの、よければ……貞操帯、用意しようか?」


「え?」


「あ、いや、ごめん。兄が強引だから心配で……」


「つけたことないけど、そうね……つけてみよかしら」


 アレクシスは、ほっと息をついた。


「すぐ用意する。他に欲しいものは?」


「今は特に──」


 そのとき、扉が勢いよく開いた。


「ネズミが侵入したと報告を受けた。

 人の婚約者の部屋で何をしている」


 フレデリックが現れた。


 アレクシスは一歩も引かず、冷ややかに言い返す。


「散々蔑ろにしてきて、今さら“婚約者”と名乗るのは厚かましいと思うが」


 フレデリックは眉一つ動かさず、淡々と反論した。


「パーティー前にはドレスを贈り、当日はエスコートしてダンスを踊る。

 季節ごとに手紙とプレゼントを送る。

 何か違うか?」


 アレクシスは、兄を真っ直ぐに見据えた。


「それさえすれば大っぴらに浮気して愛想尽かされても、監禁していい理由になるのか?」


 フレデリックは眉一つ動かさず答える。


「監禁というのは、セレストが勝手にそう思っているだけだ。

 きちんと出かける先を言い、許可を得たなら出られるさ」


 ……それを世間では“監禁”と言うのだが。


「浮気については謝罪したのか」


 アレクシスが低く問う。


「何度も言わせるな。結婚する時に別れる」


 アレクシスの声が、さらに低く沈んだ。


「兄上……必要なのは謝罪であって、それは責任放棄だ」


 フレデリックは本気で理解していないように首を傾げる。


「結婚する時に別れる、と言っているのだから問題ないだろう」


 その歪んだ理屈が部屋に響く中、私は静かにアレクシスへ向き直った。


「アレク、私の護衛騎士になって」


 アレクシスは一瞬だけ目を見開き──

 すぐに理解したように頷いた。


「え、あ……なるほど。わかった」


 その瞬間、フレデリックの表情がわずかに揺れた。


 アレクシスは、自分の騎士に目配せした。

 騎士が即座に剣を抜き、柄をアレクシスへ差し出す。


 アレクシスは両手でそれを受け取り、セレスタの前に跪いた。


 フレデリックの顔が強張る。


 私は剣の先を、アレクシスの肩の上に置いた。


「……セレスタ、誓いの言葉を」


「私は、アレクシス・アルノルトに命じます。

 私の名誉を守り、

 私の意思を尊重し、

 私の自由を侵す者から、私を守りなさい」


 アレクシスは、深く頭を垂れる。


「この命に代えても、あなたを守る。

 あなたの自由を奪う者が誰であろうと、私は剣を向ける」


 フレデリックの表情が凍りつく。


 “誰であろうと”──

 その言葉は、兄であるフレデリックも例外ではない

 という宣言だった。


 部屋の空気が張り詰める。


 私は静かに剣を下ろし、アレクシスを見つめた。


「……ありがとう、アレク」


 アレクシスは柔らかく微笑む。


「セレスタが望む限り、僕は君の騎士だ。

 兄上、これで僕は正式な護衛騎士になった。

 ここにいる権利がある」


 フレデリックは唇を噛みしめ、怒りとも焦りともつかない表情で睨みつけた。


 そして、吐き捨てるように言った。


「……学校に戻れ。俺も戻る。

 君は家庭教師に学んでいろ」


 踵を返し、部屋を出ていく。


 扉が閉まった瞬間、重苦しい空気がふっと軽くなった。


 アレクシスは立ち上がり、私の肩にそっと手を置く。


「……君は1人じゃない」


 その言葉は、胸の奥に静かに染み込んだ。




 居間で、アレクシスとフレデリックの3人で夕食をとっていた。


 アレクシスとは穏やかに会話し、笑い合っている。


 その空気が気に入らないのか、フレデリックの眉間には深い皺が寄っていた。


「おい、何でお前がセレスタの隣なんだ?」


「身内だから」


 私がさらりと言う。


「次の婚約者だから」


 アレクシスが追い打ちをかける。


「ぐっ……」


 フレデリックの喉が詰まった。


「俺はセレスタと結婚する、と言ってるだろう」


「呼び捨てするの、やめてください。

 ローゼンベルク公爵令嬢です、殿下」


 フレデリックは言葉を失い「……はあ、もういい」 と席を立った。




 夜。ベッドに入ると、扉が勢いよく開いた。


「何で、お前がここに!」


 フレデリックが叫ぶ。


 ソファにはアレクシスが横たわっていた。


「今日から、ここで寝るんだ」


「出て行け、馬鹿!」


「僕は護衛騎士だから」


「ぐっ……」


 フレデリックは悔しそうに唇を噛み、諦めたように私のベッドに入ろうとする。


「ゲストがいるの」


 メイドに合図した。


 居間から、タチアナが入ってくる。


「なっ……!」


 フレデリックの顔が引きつる。


「あなたさえ良ければ、隣の夫婦の寝室で眠ってくれないかしら」


 私は穏やかに言う。


「……わかりました」


 タチアナは小さく頷き、続き扉から夫婦の寝室へ向かった。


「早く行った方がいいわ」


 促すとフレデリックは迷い、そしてタチアナを追った。


 扉が閉まる。


 アレクシスが肩を竦める。


「あの子が純潔捧げれば責任とって側室にしないといけないし、そうなったら“婚約者との結婚前に側室なんて”ってことで婚約破棄」


「上手くいくといいね」


 アレクシスが微笑む。


 すると──


 隣の部屋から、突然叫び声が響いた。


 私は思わずドアに耳を当てた。


 タチアナとフレデリックが激しく言い争っている。


 ──どうやら、フレデリックに“責任を取る気がない”ことに気づいて揉めているらしい。


 アレクシスが肩を竦めた。


「今日はダメかも」


 がっかりして眠りについた。






 王族適正試験の結果が発表された。


- フレデリック

 勉強はできるが、人としては問題あり。

 ただし“王としての素質”はある。


- アレクシス

 非常に優秀だが、野心がない。


- セレスタ

 人格は王族に向いているが、王妃に必要な教養が足りていない。


- タチアナ他2名

 論外。


 国王は頭を抱えた。


「……どうすればいいのだ……」


 私は静かに口を開いた。


「第1王子殿下の婚約者でいる限り、私は王妃教育は受けません」


 国王は深く息を吐き、決断しようとした。


「やむを得ない。セレスタはアレクシスの婚──」


 その瞬間、フレデリックが割って入った。


「残念だが、もう遅い」


 嫌な予感が背筋を走る。


 そこへ使用人が駆け込んできた。


「大変です! 号外が配られております!

 “3ヶ月後にフレデリック殿下とセレスタ様が結婚”と……。

 王子の正式な表明だと!」


 場が凍りついた。


 私は、ゆっくりとフレデリックを見た。


 彼は勝ち誇ったように微笑んでいた。


 アレクシスは拳を握りしめ、震えていた。


 国王の顔色が変わった。


「……フレデリック。お前」


 フレデリックは、まるで自分が正しいと信じて疑わない顔で言った。


「婚約者と結婚するのは当然でしょう」


 アレクシスが一歩前に出る。

 声は低いが、怒りが滲んでいた。


「兄上……これは越権行為だ。

 国王の承認もなく、勝手に結婚を公表するなんて」


 フレデリックは弟を睨みつける。


「黙れ。俺はセレスタと結婚する。それだけだ」


 その瞬間──国王が決断した。


「わかった。アレクシスを王太子にする。

 23歳までに即位できるようにしろ」


「っ、承知しました」


 アレクシスは深く頭を下げた。


「なっ! ……まあいい、セレスタが手に入ったなら王位は要らん」


 フレデリックは吐き捨てるように言った。


 アレクシスの瞳が鋭く光る。


「そんなに好きなら、大事にしておけば良かっただろう。

 なんで傷つけたんだ」


「うるさい。お前が口を挟むな」


「やめろ、頭が痛い。

 下がれ、バカ息子」


 国王が額を押さえた。


 フレデリックが下がろうとしたとき、タチアナが震える声で呼び止めた。


「あの……私は、どうなるんですか?」


「俺は君を後宮に召し上げるなんて、1度も言ったことない」


「で、でも……私たちは真実の愛で……あなたも私を愛してるって何度も言ってくれたのに、どうして……」


「セレスタと結婚するまでは遊ぶが、結婚した後はセレスタ以外、傍に置かない。

 結婚の日も決まった。君とは、もう関わらない」


 タチアナの顔から血の気が引いた。


「そんな……だって、ひどい……!

 私はもうあなたのお手付きだと思われてるから、今更まともな縁談なんて来ない……」


「婚約者のいる男と、後先考えずにベタベタしていた君にも問題がある」


 フレデリックは一瞥もくれず、立ち去った。


 タチアナが泣き崩れそうになっている中、国王が冷たく声をかけた。


「そこの令嬢」


 タチアナは、びくりと顔を上げる。


「邪魔だから失せろ。

 必要以上にセレスタの前に出るな」


 タチアナは呆然としたまま兵士に腕を取られ、外へ連れ出された。


 扉が閉まる。


 国王は重く息を吐いた。


「さて……今後のことを考えねばならんな」






 厳かな音楽が流れ、フレデリックと私の“結婚式”が始まった。


 牧師が問いかける。


「おふたりは、これから王族として国のため民のため、貢献していくことを誓いますか?」


「誓います」


 フレデリックは満足げに答える。


「誓います」


 私は淡々と答えた。


「では婚姻届にサインを」


 フレデリックから順にサインしていく。


「これで婚姻届は受理されました」


 会場に拍手が起こる。


 私は、すっと歩き出した。


「おい、待て。

 誓いのキスと指輪の交換は?」


「しないよ」


 アレクシスが現れ、当然のように私の手を取った。


「おい、何でお前がエスコートするんだよ!」


 フレデリックが叫ぶ。


「僕の妻だから」


 アレクシスは平然と答えた。


「は?」


 牧師が静かに告げる。


「この婚姻届は“新郎の兄が弟の代理としてサインする”と書いてあります」


「はああ?!」


 フレデリックは婚姻届をひったくり、目を皿のようにして読み返した。


「なんだこれ! こんなもの無効だ!

 だいたい事前に、きちんと書面の内容を確認したはずだ!

 なぜ内容が変わってる?!」


 牧師は淡々と答えた。


「殿下の側近が誓約内容を確認して帰られた後、その書面は破り捨てました」


「なん、だと……」


「教会は独立した機関です。

 王家の配下ではありません。

 なぜ私たちが、あなたに従わねばならないのですか」


 フレデリックは絶句した。


 牧師は静かに、しかし厳しく告げた。


「神は不貞を嫌います。

 そして正しい者の味方です」


 フレデリックは膝から崩れ落ちた。


 アレクシスが優しく、しかし皮肉を込めて言う。


「これから披露宴だから、兄上も出席してお祝いしてほしいよ」


 フレデリックは頭を抱え、動かない。


 そこへタチアナが飛び出してきて、フレデリックを支えようとした。


「リック……!」


 しかし──


「邪魔だ」


 突き飛ばされた。


「きゃっ……!」


 タチアナは床に倒れ込む。


 その瞬間、フレデリックの中で何かが完全に壊れた。


「ふざけるな、アレクシス!

 セレスタを返せ!!」


 私は前に出て告げた。


「あなたに婚約破棄の書類を突きつけた12歳の頃から、私はあなたのものではありません」


「なぜだ! 俺は婚約者の義務は果たした!

 君が王妃教育を中断して領地に引きこもっても、叱らなかったじゃないか!」


 ──自分が悪いのに、なぜ“叱る”という発想が出てくるのか。

 恩着せがましいにも、ほどがある。


 アレクシスが前に出た。


「ダメだ、もう。行こう」


 セレスタの手を取ろうとした瞬間──


「待て!! ふざけるな!!  勝負しろ!!

 俺が勝ったらセレスタを返せ!!」


 アレクシスは呆れたように言った。


「すでに婚姻届が受理されてるのに、今さら勝負も何もない」


「嫌だ……!

 セレスタ……捨てないでくれ……!

 愛してるんだ……本当だ……」


 アレクシスは鋭く言い放つ。


「だったら、大切にすれば良かっただろう。

 誠実な態度で。

 言ってることと、やってることが全然違う」


 フレデリックは必死に言葉を吐き出した。


「違わない!

 俺は閨教育を受けてから、セレスタにそういう欲望を抱くようになった。

 セレスタは当時11歳……欲望を向けていい年齢じゃない。

 けれど、発散しないと無体なことをしてしまうと思って……」


 アレクシスの表情が冷たくなる。


「思った結果が、“何人もの愛人を堂々と侍らすこと”か」


「バレないようにしてたさ!

 けど、あの女──イザベルがセレスタを挑発したせいで気付かれた。

 何人もの愛人を持ったのは、どれも本命じゃないと思わせるためだ。

 本当に愛してるのは、セレスタだけだと……!」


「真実の愛は、どこ行ったんだよ」


 アレクシスが呆れた声で言う。


「だから、あれはタチアナが勝手に吹聴しただけだ!

 俺と身体の関係すら持ってない!

 何とも思ってない!

 俺が愛してるのはセレスタだけだ!!」


 その瞬間──タチアナの顔が歪んだ。


「……もう許せない!」


 タチアナはナイフを構え、セレスタへ向かって突き進んだ。


 アレクシスが即座にセレスタの前へ出る。


 次の瞬間、フレデリックが2人の間に飛び込み、衝突を受け止めた。


 会場に悲鳴が上がる。


 タチアナはその場に崩れ、フレデリックはよろめきながらもセレスタを振り返った。


 その表情には、初めて見せる“安堵”の色があった。






 教会の救護室は白いカーテン越しに柔らかな光が差し込み、静けさに包まれていた。


 私は血のついたウェディングドレスの裾を握りしめながら、アレクシスの横顔を見上げた。


「僕がついてるから、セレスタは王宮に戻って。

 ウェディングドレスも血がついたままだ」


「そうだけど……あなた1人でここへ置いていくのも」


 アレクシスは穏やかに微笑んだ。

 長い睫毛が伏せられ、その影が頬に落ちる。


「疲れて倒れると困るよ」


 そのとき、かすれた声が聞こえた。


「……セレスタ」


 私は思わず振り返る。


「あ……」


 サファイアブルーの瞳が、薄く開いていた。

 王家の象徴のような華やかな顔立ちが、今は弱々しく見える。


「気付いたの、兄上。

 女に刺されて意識を失ってたんだよ。

 命に別状はないって」


 アレクシスが淡々と説明する。


「……セレスタと2人にしてくれ」


「だけど」


「何もしない。……できない」


 その声は、いつもの傲慢さとは違い、どこか折れたようだった。


 アレクシスは私を1度見てから、静かに頷く。


「何かあったら呼んで」


 そう言い残し、救護室を出ていった。


 扉が閉まると、部屋は再び静寂に包まれた。


「……セレスタ」


 私はフレデリックのそばに椅子を引き寄せ、腰を下ろした。


 近くで見ると、彼の顔はいつもよりずっと幼く見える。


「愛してた。本当だ……傷つけて、ごめん」


 私は息を呑んだ。


 フレデリックが“謝る”なんて、思ってもみなかった。


 その言葉は、あまりにも遅く、あまりにも脆くて──胸の奥が静かに揺れた。


 フレデリックは、弱々しく息を吐きながら天井を見つめていた。


「結婚したら──初夜の前に謝ろうと思ってた。

 もし許してくれなければ、許してくれるまで手を出すのは我慢しようと……」


 私は息を呑んだ。

 そんなこと、初めて聞いた。


「本当は、もっと早く謝りたかった。

 でも君は突然領地にこもって、俺の手紙も訪問も拒否した。

 だから意固地になってしまって……」


 フレデリックは、苦しげに眉を寄せた。


「俺は君以外、娶るつもりはなかった。

 歴代の王の中には、たくさんの側室を持ってる方もいた。

 なのに、なんで俺だけこんなに拒否される……?」


 彼は言葉を探すように、ゆっくりと続けた。


「それに……心のどこかで、君が嫉妬して怒ったり、すがりついて泣くことを期待してたんだ。

 本当に俺を愛してるなら、するはずだと」


 私は息が詰まり、心が冷たくなるのを感じた。


「だけど寝室に乗り込んできた君は、12歳とは思えない冷たい瞳で俺を射貫き、動揺することなく婚約破棄の書類を突きつけてきた。

 まさか、そこまでなんて考えなくて……」


 フレデリックは苦笑とも溜息ともつかない息を漏らした。


「なぜ俺が捨てられなければならない。

 親が決めた婚約者なんだから、別れられるはずないだろうと思った」


 フレデリックは起き上がろうとして痛みに顔をしかめたが、それでも体勢を変えて私の方へ身を寄せた。


 大きな手が伸び、私の頬に触れる。

 その手は、いつもよりずっと弱く、熱かった。


「……でも、もう遅かったんだな。

 初夜にいくら謝っても、君の心は……」


 その瞬間、私は堪えきれず涙が溢れた。


 あまりにも遅すぎたことへの、どうしようもない感情だった。


 フレデリックは私の涙を見て、静かに目を伏せた。


「俺は臣下降籍して遠い領地にいく。

 君はきっと素晴らしい王妃になる。

 遠くから幸せを祈ってる」


 私はゆっくりと頷いた。


 フレデリックはかすかに微笑み、最後の言葉を紡いだ。


「さよなら、俺の愛した人」







 教会の高い天井から光が降り注ぎ、白い大理石の床に反射して揺れていた。


 私は純白のウェディングドレスをまとい、薄いベール越しにアレクシスを見つめる。


 彼のライトブラウンの髪は陽光を受けて金色に輝き、深い青の瞳は静かに私を映していた。


 牧師の声が響く。


「汝は健やかなる時も、やめる時も──」


「誓います」


 アレクシスの声は落ち着いていて、どこか誇らしげだった。


「汝は健やかなる時も、やめる時も──」


「誓います」


 私の声は震えず、まっすぐに響いた。


「では、誓いのキスを」


 アレクシスがそっと手を伸ばし、私のベールを上げる。


 長い睫毛が揺れ、伏し目がちの横顔が美しい。


 私は胸が温かくなるのを感じた。


 ──この人となら、きっと歩いていける。


 教会を出て階段を降りると、外の光が一気に広がった。


 イリスが花びらを撒き、アマーリエは深い紫の瞳で微笑んでくれた。


「良かったね」

「おめでとうございます」


 2人の声が祝福の風に溶けていく。


 馬車に乗り込むと、アレクシスがほっと息をついた。


「一時はどうなるかと思ったけど、なんとかなったね」


「婚約期間なかったわ」


 アレクシスは笑った。

 柔らかい笑顔は少年のようで、けれどどこか頼もしい。


「そうだね。0日婚だ」


「でも……今まで一緒にい──」


 ふと視線を感じて外を見ると、沿道にフレデリックが立っていた。

 式に出席しないはずだったのに。


 胸が少しだけ痛んだ。


「どうした?」


 アレクシスが覗き込む。


「何でもない」


「そっか。

 披露宴、楽しみだね。

 半年前に兄が刺されて、延期になったから」


 当然ながら、タチアナは処刑となった。


 フレデリックは王位継承権を剥奪され、辺境の子爵になった。


「そうね。そのあと初夜ね」


 アレクシスが吹き出した。


「学校卒業するまでしないよ!」


「そうなの? 避妊薬を飲むのかと思った」


「どうして、そんな理性を試すようなこと言うんだ? ひどいじゃないか」


「ふふふ。子供ができたら休学すればいいのよ」


「また、そういうこと言うんだから!」


 馬車はゆっくりと進み、祝福の鐘が遠くで鳴り響いていた。


 私はアレクシスの横顔を見つめる。


 この人の隣でなら、私はきっと幸せになれる。






□完結□



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