第8話:塔の脱出
塔の「平穏」の正体は、他の生存者を「生贄」に捧げることで得られる、偽りの安全でした。 そして今、その秘密を知ってしまった海斗とエララが、次の「生贄」として狙われます。
部屋を包囲され、逃げ場はない。 外には、生贄を待つ「見えない敵」がいる。 まさに絶体絶命。
ですが、海斗は戦士ではありません。彼はアスリートです。 「戦士」の包囲網を、「スプリンター」がどう突破するのか。 第二章、決死の脱出劇が始まります。
(間に合え……!)
高槻海斗は、全速力で塔へと駆け戻っていた。
あの恐るべき「掟」の全貌を知った今、彼の背筋を凍らせているのは、廃工場の怪物ではない。塔の中にいる、人間だった。
一刻の猶予もない。
リーダーたちが、自分とエララを「次の生贄」候補として勘定に入れる前に、ここを脱出しなければならない。
息が、喉に張り付く。
あてがわれた小部屋の扉を蹴破るようにして飛び込むと、エララは、何も知らずに、小さな寝息を立てて眠っていた。その無防備な安堵の表情が、海斗の胃を締め上げた。
「――起きろ、エララ! 逃げるぞ!」
海斗は、エララの体をためらいなく乱暴に揺さぶり、叩き起こした。
「え……カイト? なに、です……?」
寝ぼけ眼で状況が理解できないエララの手を掴んだ、その時だった。
部屋の入口に、影が差した。
リーダーの男が、武器を手にした生存者たちと共に、まるでそこが定位置であるかのように静かに立ちはだかっていた。
「……気づいたか、小僧。思ったより、勘がいい」
リーダーは、もはやあの温厚な指導者の笑みを浮かべてはいなかった。
その瞳は、逃げ場を失った獲物を見定める狩人のように、絶対的な優位性をもって冷え切っている。
「これも、生きるためだ」
彼は、まるで世界の真理でも説くかのように、静かに言い放った。
「五十人が生きるために、二人が犠牲になる。合理的な判断だろう?」
「……っ」
「恨むなよ。君たちが我々の立場でも、きっと同じことをしたはずだ」
周囲を、ゆっくりと生存者たちが取り囲んでいく。音を立てない、訓練された動きで。
あの老兵もいた。苦渋に満ちた顔で、しかし寸分の狂いもなく、ボウガンをこちらに構えていた。
狭い部屋の中、逃げ場はない。
絶体絶命。
だが、海斗の心は、不思議なほど冷静だった。
恐怖は、一周して思考の表面から消え去っていた。
スタートの号砲を待つ、あの極限の集中力。
(敵は、戦闘のプロ。だが、思考は「戦士」のものだ)
(真正面から向かってくる敵を、武器で制圧することしか知らない。そのための包囲網だ)
海斗は、戦士ではない。
アスリートだ。
「――行くぞ!」
海斗は絶叫すると同時に、エララを脇に抱え直し、包囲網が最も手薄な方向――彼らの予測の真逆、袋小路であるはずの壁際へと走り出した。
「愚かな!」
男たちが嘲笑い、武器を構える。
だが、海斗の動きは彼らの予測を、その思考の枠組みを遥かに超えていた。
彼は、壁際に無造作に積まれた木箱を、一切減速することなく踏み台にした。
それは、常人には不可能な、重力を無視したかのような跳躍。
壁を蹴り、空中で体を捻り、包囲していた兵士たちの頭上を、まるで障害物を越えるように飛び越え、反対側へと着地する。
「なっ!?」
驚愕する男たち。彼らの「戦士」としての思考が、その異常な機動に追いつかない。
その一瞬の空白。それこそが、海斗が賭けた全てだった。
出口へと続く、狭い通路。そこへ向かって、全力でスプリントする。
「撃て! 逃がすな!」
リーダーの怒声が飛ぶ。
ビュン、という重い風切り音と共に、数本の太い矢が、海斗が先ほどまでいた場所の壁に深く突き刺さった。
通路の入口で、あの老兵がボウガンを構え直していた。
真正面から、目が合う。
老兵の瞳が、一瞬、確かに揺らいだ。
彼が見たのは、死に物狂いで逃げる少年と、その腕に必死で守られる、怯えきった少女の姿。
彼の穂先が、ほんの数センチ、下にずれる。
その、一秒にも満たない躊"躇。
それが、全てだった。
海斗は老兵の脇をすり抜ける。風圧で、老兵の乾いた頬の皺がわずかに揺れた。
エララと共に塔の外、死の街へと転がり出る。
だが、安堵する暇はなかった。
塔の目の前。生贄の男が喰われた、あの廃工場があった方角。
闇の中から、ぬらりと、あの赤黒い単眼が姿を現す。
リーダーたちが、生贄を差し出す契約相手のスペクターが、そこにいた。
前門の人間、後門の怪物。
「……っ!」
海斗は、唇を噛み切らんばかりに奥歯を食いしばる。
裏切られた希望を背に、再び、死の街へと走り出した。
信じられるのは、己の脚力と、この腕の中にいる少女の、か細い温もりだけ。
人間への決定的な不信をその胸に深く刻みつけて、二人の終わらない逃避行が、また始まった。
第8話「塔の脱出」、お読みいただきありがとうございました。 そして、ここまでが【第二章:生存者の掟】となります。 お付き合いいただき、本当にありがとうございます。
木箱を駆け上がり、兵士たちの頭上を跳び越える。 武器を持たない海斗だからこその、常識外の「跳躍」での突破でした。 老兵の最後の「躊躇」がなければ、それも叶わなかったかもしれませんが……。
しかし、安息の地だと思った場所は、最悪の「裏切り」の場所でした。 「前門の人間、後門の怪物」 信じられるのは、己の脚だけ。
人間への深い不信を胸に、二人は再び、死の街へと放り出されます。
次回より、【第三章:因果の残響】が始まります。 絶望的な逃避行の中、二人は初めて「世界の謎」の欠片に触れることになります。
もし「第二章、息詰まった!」「海斗、よくやった!」と少しでも思っていただけましたら、 【ブックマーク】や【★★★★★】での応援、どうぞよろしくお願いいたします! (皆様の応援が、二人の逃避行の支えとなります!)




