第6話:偽りの平穏
本日より、【第二章:生存者の掟】が始まります。
希望とも罠とも知れぬ「狼煙」を目指し、死の街を駆け抜けた二人。 ついにたどり着いた「塔」には、確かに「人」の営みが存在していました。
温かい食事、安全な寝床。 二人が初めて手にする、安息の地。 ……しかし、本当に?
サブタイトル「生存者の掟」の意味とは。 新たな物語の幕開けです。
塔への道のりは、これまでの潜伏とは質の違う、死と隣り合わせの綱渡りだった。
地下聖堂という、たとえ気休めであっても身を隠せる安全地帯を失った今、二人は常に剥き出しの獲物だった。
「見えない敵」の巡回ルートを予測し、そのわずかな隙間――海斗が計算した数十秒の空白――を縫って移動しなくてはならない。
開けた大通りは、不可視の捕食者にとって格好の狩場だ。
高槻海斗はエララの小さな手を、自分の指が白くなるほど固く握りしめ、建物の影から影へ、まるで獲物を狙う肉食獣のように、しかし実際はその真逆で、獲物として狙われないよう細心の注意を払いながら進んだ。
自分の心臓の音が、敵の気配よりも大きく耳につく。
アスリートとしての極限の集中力が、皮肉にも、ここでは「逃走者」としての生存本能と直結していた。
その全てを動員して、二人は数時間かけ、ついに目的の塔へとたどり着いた。
その麓は、瓦礫や廃材で組まれた、お世辞にも堅牢とは言えない粗雑なバリケードで固められている。
だが、その上に立つ武装した見張りが数人、死んだ街には不釣り合いなほど鋭い視線を周囲に向けていた。
希望の狼煙を上げていた場所は、同時に、生存者たちの最後の要塞でもあった。
「――待て。何者だ」
バリケードの向こうから、神経質に研がれた野太い声が飛ぶ。
海斗たちが瓦礫の陰から姿を現すと、複数のボウガン(クロスボウ)の穂先が、寸分のブレもなく一斉にこちらを向いた。その殺気に、エララが海斗の背後で息を呑む。
見張りの中の一人、歴戦の雰囲気を纏う老兵が、厳しい顔で前に進み出た。
彼の視線は、まず海斗の異様な衣服に注がれ、その材質と機能性を値踏みするように細められる。次に、その背後に隠れるように立つエララへと移った。
幼い少女の、泥に汚れ、疲れ果てた姿。その瞳に浮かぶ、怯え切った色。
それを見た瞬間、老兵の険しい顔つきが、ほんの僅かに、だが確かに緩んだ。
「……子供か。まあ、入れ」
許しを得て、二人は要塞の中へと足を踏み入れた。
その瞬間、海斗は別世界に来たかのような眩暈に似た錯覚に陥った。
外の、死と静寂に支配された街とは裏腹に、塔の内部には、確かに人の営みが存在していた。
低い話し声。汗と埃の匂い。衣類を補修する女たちの針の動き。壁に寄りかかって武装を整備する男たちの、油と鉄の匂い。
誰もが決して楽観してはいない。だが、その目には、海斗が地下で感じていた焦燥や恐怖とは違う、どこか鈍い、諦観にも似た光が宿っていた。
「ようこそ。大変だったろう」
奥から現れたのは、四十代ほどの、リーダー格と思しき男だった。
この飢えた世界には不釣り合いなほど均整の取れた体躯に、理知的な瞳。彼は、まるで客人を迎えるかのように穏やかな笑みを浮かべ、海斗に手を差し出した。
「私は、ここのまとめ役をしている。君たちのような生存者を発見できて、何よりだ」
海斗は、その差し出された手を、握り返すことができなかった。
その夜、二人は久しぶりに温かい食事にありついた。
具のほとんどない、塩味だけの薄いスープ。
しかし、冷え切った体に染み渡るその熱は、何よりも贅沢に感じられた。
エララは、最初はこわごわと、やがてこの数日間の飢えを思い出すかのように夢中になってスプーンを口に運んでいた。
スープ皿を空にしたエララが、潤んだ瞳で海斗を見上げた。
その顔には、地下聖堂で失われていた年相応の安堵が、ようやく戻っている。
「……ここにいれば、もう、逃げなくてもいいのですね?」
その純粋な問いに、海斗は曖昧に頷くことしかできなかった。
このコミュニティに漂う、不自然なまでの「平穏」が、彼の警戒心を少しも緩めさせてはくれなかったからだ。
(おかしい)
海斗は、熱のないスープを一口含み、その違和感の正体を探る。
(何もかもが、整いすぎている)
この絶望的な世界で、なぜこれだけの食料が(たとえ僅かでも)安定して存在する?
なぜ、彼らはこんなにも落ち着いていられる? まるで、明日の食料の心配をしなくていいかのように。
そして何より、なぜ、塔の周囲は、あれほどの安全が保たれているのか。
見張りの兵士たちの緊張感は、本物だった。だが、それは、海斗が経験してきた、あの「見えない敵」と対峙する死線上のそれとは、明らかに異質だった。
彼らは、不可視の理不尽な「死」を恐れていない。
では、一体、何を警戒している?
第6話「偽りの平穏」、お読みいただきありがとうございました。
久しぶりの温かいスープに、思わず笑顔がこぼれるエララ。 読者の皆様も、海斗と一緒に、ひとまず「よかった」と安堵していただけたのではないでしょうか。
しかし、海斗は気づいています。 この「平穏」が、あまりにも不自然であることに。
なぜ、食料は安定しているのか。 なぜ、「見えない敵」の脅威がここまで薄いのか。 この「整いすぎた」コミュニティが隠している、生き残るための「掟」とは一体……。
絶望の世界で出会った「人間」は、果たして「希望」となるのでしょうか。
もし「この塔、絶対何かあるだろ…」「海斗の疑念が気になる!」と少しでも思っていただけましたら、 【ブックマーク】や【★★★★★】での応援、どうぞよろしくお願いいたします! (皆様の応援が、海斗の疑念を深く掘り下げる力になります!)




