第4話:勝利(スプリント)
冷たい沈黙が支配する地下室で、三日が経過しました。 「見えない敵」に見つかる前に、飢えと渇きという、もう一つの「死」が二人を飲み込もうとしています。
エララが期待した「勇者」にはなれなかった海斗。 しかし、彼もまた「生きる」ことを諦めてはいません。
チート能力を持たない彼が、唯一持っている武器(脚力)を使い、 生きるための「勝利」を掴み取りにいきます。 彼の、命を賭けたスプリントが始まります。
冷たい沈黙が、地下聖堂の空気を石のように固めていた。
三日が過ぎた。
持ち物は、何もない。海斗が纏う薄い陸上用のウェアと、エララの、今はもう泥と埃に汚れた上質なワンピースだけ。ポケットの中で擦れる日本の硬貨は、何の価値も持たない金属片の虚しい重みだ。
水も、食料も、尽きている。
飢えはすでに鋭い痛みの段階を通り過ぎ、内側からじわじわと体温を奪う、鈍い虚脱感に変わっていた。
「……っ」
壁にもたれたエララが、小さく身じろぎする。
その唇は乾ききって白くひび割れ、浅い呼吸を繰り返す彼女は、ぐったりとして意識も朦朧としているようだった。
このままでは、あの「見えない敵」に見つかる前に、飢えと乾きが二人の命を確実に刈り取る。
海斗は、無言で立ち上がった。
危険を承知で、地上へ出る。それ以外に、選択肢はなかった。
「……絶対に、ここを動くな。声も出すな」
力なく頷いたのかどうかも判然としないエララにそう言い残し、海斗は地上へと続く階段を、石を踏む音すら殺して慎重に上った。
◇
昼なお暗い、廃墟の街。
海斗はまず、崩れた壁の陰に身を潜め、埃っぽい地上の空気に肺を慣らしながら、じっと周囲の気配を探った。
世界は、死んだように静まり返っている。
どれくらい経っただろうか。
不意に、大通りの空気が陽炎のように揺らめいた。
来た。例の「見えない敵」。空間の歪みが、まるで決まったルートを巡回する警備員のように、一定の速度で移動していくのが見えた。
(あいつの動きを、読む……!)
その瞬間、海斗の思考が切り替わる。
飢えも、焦りも、絶望も、全てが意識の表面から消え去り、精神が針の先端のように研ぎ澄まされていく。
ここは、400メートルのトラックの上だ。
敵は、隣のレーンを走るライバル。
その呼吸、ストライド、ペース配分。全てを読み切り、自分のリミッターを外し、限界を超えるための一瞬のタイミングを見計らう。
海斗は、心の中で秒数を数え始めた。
歪みが角を曲がってから、再び同じ場所に戻ってくるまでの時間を、呼吸を殺して、何度も、何度も。
(巡回周期は、およそ15分。移動速度は、早歩き程度。ルートは大通りを中心とした円周……)
――勝負は、奴が最も遠ざかる、7分後からの30秒間。
目標は、道の向こう側にある、半壊した食料品店らしき建物。
距離にして、約120メートル。
海斗は息を殺し、心拍を制御する。
クラウチングスタートの要領で、瓦礫の地面に指をかけ、全身の筋肉を瞬発の直前までしなやかに弛緩させた。
今だ。
地面を蹴った。
それは、生存のためのスプリント。
瓦礫の山を避け、崩れた馬車の残骸を跳び越え、最短距離を一直線に駆ける。
風を切る音だけが、耳元を通り過ぎていく。
陸上競技で培った全てが、今、この一瞬に、生きるための技術として結実していた。
およそ15秒で目標の建物に到達。
残りの15秒で、店の中を獣のように素早く確認する。
荒らされていたが、奇跡的に、打ち捨てられた棚の奥に埃を被った乾パンの袋と、半分ほど水が残った瓶を見つけることができた。
すぐに身を翻し、元いた隠れ場所へと全力で戻る。
30秒後、彼は地下聖堂の入り口である壁の陰に滑り込んでいた。息一つ乱れていない。完璧なペース配分だった。
英雄の戦利品には程遠い、みすぼらしい収穫。
だが、それは間違いなく、二人の命を繋ぐための、現実的な「勝利」だった。
◇
地下室に戻ると、エララは眠っているようだった。
物音で目覚めさせないよう、海斗は静かに、手に入れた乾パンと水を傍らに置いた。少し濁った水は、煮沸もしていないから腹を壊すかもしれない。それでも、飲まないよりはマシだ。
ふと、エララの体が、カタカタと小さく震えているのに気がついた。
地下聖堂の空気は、思った以上に体温を奪う。
海斗は無意識に、自分が着ていた薄手のジャージの上着のジッパーを下ろし、脱ぐと、そっと彼女の体の上に掛けてやった。
その布の感触で、エララが、うっすらと目を開けた。
焦点の合わない瞳が、海斗を捉える。
海斗は、バツが悪そうに視線を逸らした。
エララは何も言わなかった。
ただ、自分の体に掛けられた、異世界の匂いがするジャージと、傍らに置かれた食料を、黙って見つめていた。
やがて、彼女はゆっくりと身を起こすと、乾パンの袋に手を伸ばした。
一口、また一口と、その乾いた咀嚼音だけが静かに響く。
文句も、なかった。
だが、感謝の言葉も、なかった。
しかし、海斗の言うことを聞かずに、一人で意地を張ることはもうしなかった。
言葉はない。だが、それは確かな変化だった。
この日を境に、二人の奇妙な共生関係が始まった。
敵を倒す、派手な勝利ではありません。 ですが、これは高槻海斗が、陸上選手として培った全て(分析、ペース配分、瞬発力)を注ぎ込んで掴み取った、現実的な、そして命を繋ぐ「勝利」です。
文句も感謝もない。 けれど、差し出された食料を口にし、掛けられたジャージを無言で受け入れたエララ。 二人の間にあった深い亀裂に、か細いですが、確かな「共生」の橋が架かった瞬間でした。
しかし、このまま地下室に隠れ続けても、いつかは限界が来ます。 そんなある日、偵察を続けていた海斗が、「次」の可能性を見つけます。
次回、二人は新たな賭けに出ます。
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