第2話:見えない敵
訳も分からぬままエララの手を引き、必死に走り出した高槻海斗。 しかし、彼らが逃げ込んだ廃墟の街で目にしたのは、あまりにも一方的な「死」の光景でした。
本当の絶望は、ここから始まります。
肺が、酸素を拒絶している。
高槻海斗は、小さな少女――エララの細い腕を掴み、半ば引きずようにして、薄暗い石造りの通路をひた走っていた。
儀式の間で抱え上げた時とは違う。瓦礫が積み重なった床を全力で駆けるには、その小さな体ですら致命的な重りだった。今はただ、腕を掴んで引く。それしかできない。
背後でまた、何かが崩落する轟音が地響きとなって足元を揺さぶる。
天井から降り注ぐ砂塵が、汗で濡れた喉に張り付き、焼けるような渇きを助長する。咳き込みそうになるのを必死で嚥下した。
腕に引かれる少女は、とうに涙も枯れ果てたのか、あるいは恐怖で声も失ったのか、ただ「ヒュッ、ヒュッ」と、か細く空気を切るような呼吸を繰り返すだけだった。
どれだけ走っただろうか。
曲がり角をいくつも抜け、もはや方向感覚も失った頃、あの赤黒い単眼の気配が遠のいた、と本能が告げた。
不意に、壁が崩れた先の闇に、外の光が差し込んでいるのが見えた。
海斗は躊躇なくそちらへ進路を変え、積み上がった瓦礫の山をほとんど這うようにして乗り越え、地上へと転がり出る。
そして、息を呑んだ。
そこは、死んだ街だった。
天を突くはずだった壮麗な尖塔は、半ばで無惨に折れ、空洞の黒い墓標のように突き立っている。
かつては美しい石畳が敷き詰められていたであろう道は、砕けた家々の残骸と、それが何だったのかも判別できない黒焦げの物体で埋め尽くされていた。
空は、厚い黒煙に覆われ、太陽の光を遮断している。まるで永遠の夕闇が訪れたかのように、すべてが色を失った世界。
人の気配はどこにもない。
ただ、時折、空間そのものが熱せられた鉄板の上のように陽炎のように揺らめき、この街を支配する「何か」の存在を、不気味に示していた。
「……ッ!」
海斗は咄嗟にエララの小さな体を抱え直し、崩れた壁の陰へと音を殺して身を潜めた。
視線の先、かつて広場だったであろう場所の中心で、数人の兵士が必死の形相で剣を構えている。
だが、その切っ先は虚空を向いていた。彼らが何と戦っているのか、その姿は見えない。
次の瞬間。
兵士の一人の体が、何の抵抗もできぬまま、まるで熱したナイフで分厚い肉を抉るかのように、音もなく両断された。
悲鳴が上がる間もなかった。
鮮血が、色を失った石畳に飛び散る。
「う、ぁあああ!」
残った兵士たちが恐怖に叫びながらやみくもに剣を振り回すが、その刃は空虚な空気を切り裂くだけだ。
空間の歪みが、まるで嘲笑うかのように彼らの背後に回り込む。不可視の刃が閃いた、と海斗が認識するより早く、兵士たちの動きが止まった。
それきり、動く者はいなくなった。
あまりにも一方的で、静謐なまでの殺戮。
「ひ……っ」
腕の中で、エララの体が氷のように硬直するのが分かった。
(戦う? 馬鹿を言え。あんなものと戦うなど、崖から飛び降りるのと同じ、ただの自殺行為だ)
戦慄が、背筋を冷たい汗となって駆け上る。
理解した。
この世界で生き延びるために必要なのは、英雄的な覚悟や、錆びついた剣ではない。
ただひたすらに、あの「見えない敵」の視界から隠れ、その気配から遠くへ、一秒でも長く逃げ続けること。
400メートル走で培った、己の限界を見極める冷静な思考が、そう結論付けていた。
「あ……ぁ……」
その時、エララの喉から、圧し殺していた嗚咽が、音となって漏れそうになった。
それは、この静かな死の世界において、自らの居場所を告げるに等しい、致命的な音だった。
海斗は、ためらうことなく、その小さな口を、自分の汗ばんだ手で強く、強く押さえつけた。
第2話「見えない敵」、ここまでお読みいただきありがとうございました。
敵は「見えず」、そしてあまりにも強大です。 チート能力を持たない主人公・海斗が、アスリートとしての洞察力で導き出した答え。 それは「戦う」ではなく、「隠れて、逃げ続ける」こと。
これが、この物語のサバイバルの、そして海斗の戦い方の基本姿勢となります。
エララの口を押さえ、息を殺す二人。 この絶望的な状況から、彼らはどうやって生き延びるのか。
もし「二人の逃避行を、もう少し見届けたい」「頑張れ」と少しでも思っていただけましたら、 ページ下部の【ブックマーク】や、評価【★★★★★】で応援いただけますと、作者の大きな励みになります。
次回、地下に潜んだ二人に、最初の「対立」が訪れます。 どうぞよろしくお願いいたします。




