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召喚されたら、俺の武器は「逃げ足」だけだった。 〜チートなし陸上選手、少女と二人で絶望世界を生き抜く〜  作者: 品川太朗


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第一話:召喚と蹂躙

この物語は、もしも「チート能力」を持たない平凡な高校生が、 本当に絶望的な異世界に召喚されてしまったら――というお話です。


彼に与えられた武器は、剣でも魔法でもありません。 ただ、陸上競技で鍛えた「脚力」だけ。


世界を救う英雄ではなく、ただ生き延びるために「逃げ続ける」少年の物語。 少しシリアスで、息苦しい展開が続くかもしれませんが、 彼の逃避行の行方を、どうか見届けていただけると幸いです。


それでは、第一話をお楽しみください。

湿った土と、忘れられた石の匂いが、地下室の冷たい空気に澱んでいた。

壁に穿たれた松明の炎が、床一面に刻まれた複雑怪奇な魔法陣の幾何学模様を、ゆらりと舐める。その定まらない光は、儀式の中心に立つ二人の男女の顔を、まるで水底にあるかのように青白く照らし出していた。

男と、女。

少女の父であり、母であった。

二人の顔には、眠れぬ夜を幾重にも重ねたような疲労が、深い影となって刻まれている。だが、その瞳の奥に宿る光だけは、焼き入れられた鋼のように冷たく、微動だにしなかった。

「……本当に、これでよかったのかしら」

母親が、祈りとも吐息ともつかない声で囁く。

それは疑問の形をしていながら、もはや後戻りはできないという事実を、己の心臓に最後の杭として打ち込むための言葉だった。

視線が、部屋の隅にある小さな寝台へと注がれる。そこには、この世界の惨状など知らぬげに、安らかな寝息を立てる娘の姿があった。

彼らのたった一つの宝物。この崩れゆく世界で、何に代えても守り抜きたかった未来。

「信じるしかない。あの方の言葉を」

父親が、乾ききった唇で応じた。その声は、妻を励ますためというよりも、自らの覚悟を固めるための呪文に近かった。

あの方――数年前、絶望の淵にいた二人の前に、まるで運命そのものが形をなしたかのように現れた、謎の女性。

未来を知るかのような助言。あまりにも荒唐無稽なその救済の計画を、それでも信じると決めたのは、故郷が炎に蹂躙されていく音と、娘の未来を守りたいという、ただその一心からだった。

二人は視線を交わし、数秒の間、互いの瞳の奥にある同じ決意を確かめ合う。そして、無言のまま静かに頷き合い、魔法陣へと向き直った。

両腕が掲げられる。

詠唱が始まった。

それはこの国の歴史のどこにも記されていない、禁忌の言語。あの日、あの女性から授けられた、時と因果の理を捻じ曲げ、「鍵」をこの絶望の座標へと呼び寄せるための呪文。

「――時空の果てより来たれ! 我らが世界の特異点! 因果の鎖を断ち切る者よ!」

父親の絶叫が、石の壁に反響した。

呼応し、足元の魔法陣が眼を灼くほどの凄まじい光を放つ。空気がプラズマのように灼け、空間そのものが軋みを上げるような圧力が二人を襲った。

命が削られていく。己の魂が、この儀式を稼働させるための燃料として、激しく燃え上がっていく感覚が、痛みとなって全身を貫いていた。

――あと、100メートル。

肺が灼けつく。熱い鉄の楔を打ち込まれたようだ。

酷使した全身の筋肉が、乳酸の海で悲鳴を上げている。

視界の端がじりじりと黒く霞み、耳鳴りが思考の表面を掻き乱す。

苦しい。いますぐこのトラックに倒れ込み、すべてを投げ出してしまいたい。

だが、足は止めない。止めてはならない。

高槻海斗たかつき かいとは、オールウェザーの硬いトラックを、ただひたすらに踏みしめ続けていた。

400メートル走。

それは、無酸素運動の限界という壁を突破した先で、どれだけ自分の精神を律し続けられるかを問う、孤独で残酷な競技だ。

滲む視界の先、ゴールラインがわずかに近づいてくる。

(いける。まだ足は動く。自己ベストを、更新できる――!)

そう確信し、最後の一滴を絞り出そうと歯を食いしばった、その瞬間だった。

世界が、捩れた。

「え――?」

踏みしめていたはずのトラックの感触が、足の裏から消えた。粘土のように歪み、眼前を駆けていたライバルの背中が、水に落とされた絵の具のように風景に溶けていく。

重力が消え、上下左右の感覚が崩壊する。

何かに掴まれ、引きずり込まれるような、抗いようのない力。

意識が、遠の――

「――ッ!」

次に海斗の体を襲ったのは、背中に突き刺さるような硬い石の感触と、全身の皮膚を粟立たせる悪寒だった。

反射的に息を吸い込むと、肺を満たしたのは埃の匂いと、何か腐った果実のような甘い芳香、そして、それに混じり合う生々しい鉄の匂い。

「なんだ……ここ……」

思考が追いつかない。

目の前には、見たこともない古めかしいローブを纏った男女が倒れ込んでいる。まるで命を使い果たしたかのように、ぐったりと。

足元には、今はもうおぼろげな光を放つのみとなった、巨大な紋様。

薄暗い、石造りの部屋。

そして――部屋の隅、小さな寝台で、幼い女の子が身じろぎしたのが見えた。

その時だった。

ズガァァァァンッ!!

鼓膜が破れそうな轟音と共に、背後の壁が内側から爆散した。

凄まじい爆風と粉塵が、思考停止した海斗の体を叩きのめす。

何が起きたのか、海斗には全く分からない。

ただ、壁だった場所に開いた大穴の向こう、深淵のような闇の中に、何かがいる。

空気が陽炎のように揺らめき、その中心に、赤黒い、悪意に満ちた単眼が光っているのが見えた。

「ぐっ……!」

倒れていた父親が、最後の生命を振り絞るようにして身を起こし、震える足で海斗と娘の間に立ちはだかる。

その手に、淡い光が灯った。盾のように薄く、しかし確固たる意志を持って展開する。

直後、盾に不可視の何かが叩きつけられ、激しい火花が散った。父親の体が大きく揺らぎ、膝が砕けるように折れる。

「早く……!」

母親が、床を這いずるようにしながら、海斗に手を伸ばした。

その顔は絶望に染め抜かれていたが、瞳だけが、この世のすべてを託すかのように必死に何かを訴えかけていた。

「エララを……この子を……頼みます……!」

託された言葉の意味を、海斗は音としてしか認識できない。

だが、母親が指し示した寝台で、目を覚ました少女――エララが、事態を理解できずに恐怖に目を見開いているのが、嫌というほど分かった。

次の瞬間、甲高い金属音と共に閃光が迸り、父親が命懸けで展開した光の盾を、いとも容易く貫いた。

母親の悲鳴は、なかった。

父親の呻き声も、なかった。

二人の命の火は、あまりにも静かに、そして一瞬で虚無へと吹き消された。

「お父様、お母様ッ!」

エララの絶叫だけが、死の静寂を切り裂いた。

海斗は、ただ呆然と、目の前で起きた現実を見つめていた。

夢だ。これは悪い夢だ。そうでなければ説明がつかない。

しかし、頬を伝う粉塵のざらついた感触と、鼻腔の奥にこびりつく死の匂いが、これが現実だと冷酷に告げていた。

闇の中、赤黒い単眼が、今度は海斗と少女を捉え、再び不吉に光る。

殺される。

そう本能が理解した瞬間、海斗の思考は、恐怖を飛び越えて一つの命令形に集約された。

陸上選手として、この身に染み込ませてきた、ただ一つの行動原理。

――走れ。

海斗は弾かれたように動いていた。

泣き叫び、固まっている少女の細い腕を掴み、その小さな体を無理やり抱きかかえる。少女は抵抗したが、構わなかった。

爆散した壁とは反対側。かろうじて形を保っている古い扉へと、スタートダッシュの要領で全力で駆け出す。

なぜ、自分がここにいるのか。

あの男女は、誰だったのか。

自分たちを襲ったあの「眼」は、何なのか。

何も分からない。だが、今はそれでいい。

高槻海斗は、見知らぬ世界の、見知らぬ石の上で、ただ生き延びるために。

腕の中で震える、この温かく小さな命を守るために。

走り、始めた。

高槻海斗の、あまりにも突然で、理不尽なスタート地点です。 召喚された瞬間に両親を失った少女エララと、 唯一の武器が「脚」しかない陸上選手。


この絶望的な状況から、二人は「見えない敵」の手から逃げ切れるのか。 それとも――。


もし、この二人の運命が少しでも「気になる」「続きが読みたい」と思っていただけましたら、 ページ下部より【ブックマーク】や【★★★★★】での評価をいただけますと、 作者が全力で執筆する励みになります。


ぜひ、海斗たちの逃避行にお付き合いください。 どうぞよろしくお願いいたします。

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