ゾンビは勤勉
第1章 ゾンビは勤勉
汚染地帯の外周、俗に言う限界汚染圏。人が生存出来る限界域だ。
空は鉛のように重く、灰色の雲が低く垂れ込めていた。太陽の光は滅多に届かず、街は薄闇に沈んでいる。
風が吹くたび、瓦礫の隙間から灰が舞い上がり、空気は鉄と油と焦げたプラスチックの匂いを含んで肌にまとわりつく。遠くでは、崩れ落ちた高速道路の残骸が軋み、どこかで錆びた標識が風に鳴っていた。
奈落が出現したのは平成28年だ。今から9年前なのに、この街は数十年以上放置されてた様に見える。
そんな荒れ果てた廃墟に、コーヒーの香りは異質だ。仁は、まだ暖かい缶コーヒーを揺らしながら、ぼんやりとつぶやく。
「うーん、美味いような気がする……死んでから味分かんなくなったけど」
亜人の味覚は鈍い。
亜人。死を持つ生者。奈落の影響を受けた生者。
足元では、先程まで人の形をしていたものが僅かに蠢いている。
ゾンビ。動く死者。奈落が作り出した遺体。世界を滅ぼす奈落の隷僕。
ゾンビは死者から、亜人は生者から変化した存在だ。
空気の中に混じる死者の匂いは、腐敗臭とは違う。どこまでも無機物な異臭。ゾンビの残骸は泥のようだ。
奈落の影響を受けた存在には、銃もナイフも無意味だ。爆弾で全てを破壊しても数時間で復元する。だから同じく奈落に影響受けた亜人がゾンビを殺す。いや、壊す。
「もう少し休ませろよ……」
仁は缶コーヒーを床に置く。それから面倒くさそうに床に落ちていた鉄パイプを軽く握る。指先は金属の冷たさを感じない。体温を感じなくなってどれくらい経ったのだろう。
ゾンビたちは灰色の霧の中からゆらゆらと現れる。朽ちたコンクリートの裂け目を踏みしめ、湿った足音を残して。
仁は軽く溜息をついてから、無理に明るく呼びかける。
「はーい! お客さん一人一撃限りだよ。順番は守ってね」
鉄パイプが風を裂く。鈍い衝撃音とともに、骨が砕ける乾いた響きが辺りにこだまする。
黒い霧が散り空気と一緒にゾンビも弾ける。暴風のように薙ぎ払う。それでも仁の顔は退屈そうだった。
ゾンビは腐らない。皮膚はひび割れ、血は乾く、だが腐臭はない。
その無機質さは亜人に近い。そのせいか仁は時々自分がどちら側なのか分からなくなる。
「仁、10時方向。敵影多数だ」
冷静な声が飛ぶ。ラグナだ。風に乗って銃声が響く。非合法工作員とは思えない地味な背広姿で拳銃を構える。
弾丸が正確にゾンビの頭蓋を撃ち抜き黒い靄を散らす。だがゾンビは止まらない。
ゾンビは絶望の理によって現実から遮られている。頭が無くなっても動き続ける。
それでもラグナは、無駄のない動きで撃ち続ける。淡々と。まるで機械のように。ただゾンビの動きを抑えるために。
「おっさん、こっちに任せな。ゴミ処理は得意なんだよ」
大勢のゾンビの前でも軽い仁の声。
「……私はまだ三十代後半です」
「おっさんだよ」
「……心は少年です」
「恥ずかしくないのか?」
「……」
短いやり取りのあと、仁はゾンビの群れに突っ込んだ。
「そこ! 列を崩さない。今日は出血大サービス。数量限定なしだよ。安心して死んでくれ」
退屈そうに笑いながら鉄パイプを振るう。風を叩き。空気が唸る。湿った肉が潰れる音が重なる。
黒い霧が舞い上がり、灰と混じって空へ昇っていく。風がその霧を吹き飛ばし、視界の外へ運んでいった。空はより一層、暗く重く沈む。
やがて最後の一体を叩き潰すと仁は息を吐いた。
「数は多いが退屈な奴ばかり……本当に雑魚だな」
彼の足元には砕けたアスファルト、割れたガラス、そして風に溶けていく黒い残滓。
「雑魚ばかりだと……逆に疲れるような気がするな」
深呼吸して息を整える。亜人は息をする必要がない。けれど、習慣のように胸が上下する。生から離れても、身体はまだ昔の癖を覚えている。
ラグナが歩み寄ってきた。靴底が瓦礫を踏む音が、やけに澄んで響いた。
「……いつ見ても、君の再生力は異常ですね」
仁は穴の空いた服を見て、肩をすくめた。
「体は直っても服は直らないんだよなぁ。光さんみたいに直せたら楽なんだけど」
ラグナは淡々と応じる。
「あなたの再生力を超える者は、そう多くはありません。彼女の力は……再生ではなく再構成です。他者にも与えられる時点で全くの別物ですよ」
「俺はただ死んでも死なないだけだな」
仁は苦笑しながら、灰色の空を見上げた。空は遠く、風は冷たく、雲は太陽を隠している。音のない世界で、風だけが生きていた。
「あなたは人間ですよ。ゾンビならもっと勤勉です」
ラグナの言葉に、仁は一瞬黙り、ケラケラと笑った。
「それ、フォローになってないよ。おっさん」
「そうですか? ……でも彼らは裏切らないですよ。人間より誠実です」
風がまた吹いた。ゾンビの死骸は霧となって溶け、ひび割れた大地の隙間へと吸い込まれていく。奈落の匂いだけが鼻の奥に残った。
街の向こうからは、遠くかすかな風鳴りが響いてくる。まるで、誰かの呼吸のように。
仁は奇跡のように無事だった缶コーヒーを拾い上げる。もう一度コーヒーを啜った。すっかり冷えた甘さが、無機質な空気に溶ける。
「うん、美味い。たぶんね?」




