11:安心
「はー、さっぱりした」
「お湯入れなくて良かったんですか?」
「ジューブン。なんか悪いな、急に押しかけた感じになって」
「気にしないでください、提案したのは僕なんで」
寝具のついでに部屋着などもまとめて來の部屋へやってきた慧斗は、シャワーを借りて一日の疲れを洗い流してきた。
本来であればゆっくりと湯舟に浸かりたいほどには、大変なことだらけの厄日だった。頭の中だってまだまだ整理しきれていない。
それでも、知り合ったばかりの他人の部屋でそこまで図々しくなれるほど、慧斗の神経は図太く作られていなかった。
家主が先にシャワーを浴び終えるのを待ってから、自身も浴室へと向かって今に至る。普段は布団を敷いて寝ているようだが、今日は慧斗もいるのでスペースを空けるために、テーブルが足元の壁際に立て掛けられている。
慧斗は持ち込んで折り畳んだままだったマットレスを広げると、布団の隣に並べてからその上に腰を落ち着けた。
頬の傷は派手に出血したものの幸いにも深いものではなく、絆創膏が少し目立つ程度で落ち着いている。
「……來はさ、なんでこんなに良くしてくれんの?」
「なんで、と言われても」
先に布団の上で寝そべりながらスマホを眺めていた來は、目線はそのままに問い掛けの答えとなる理由を探しているらしい。
「だって、俺ら知り合ったばっかじゃん。一緒にヤバイもん見たってのはあるけど、家に泊まらせるほどの仲じゃないだろ?」
助かったけど、と付け足して慧斗もごろんと横になる。目線が同じになった來の横顔を見て、影が落ちるほど長い睫毛をしているのだと気がついた。
「困ってる人は助けるでしょ」
「そうかもしんないけど。俺が危ない人間だったり、マジで殺人犯だったりするかもしんねーじゃん」
もしも來が女性であったとするならば、知り合ったばかりの異性を家に上げるのはあまりに無防備すぎるといえるだろう。
けれど、同性同士であったとしても見知らぬ他人を自身のテリトリーに招き入れるのは、少なからず危険が伴う。そうしたリスクを冒してまで來が慧斗を助ける必要はないし、眠れる部屋があるのだから、黙って自宅に帰させたって誰も彼を非情な人間だとは思わないだろう。
「慧斗さんは危ない人間なんですか?」
「いや、善良な一般市民だけど」
だというのに、來はさも不思議な質問をする男だと言いたげに慧斗の方を見る。
慧斗も悪意は持っていないし、何か悪さをするつもりもないので、あっさりと問い掛けを否定した。
「……あんまり、怯えすぎるのも良くないんですよ」
「え、霊的な話?」
「はい。肉体的に弱っている時はもちろん、恐怖に心が支配されている時も、ああいうものには付け入られやすいんです」
「へえ、そうなんだな」
恐怖心からありもしない幻覚を見た、などという話を耳にしたことはある。そうした状態も実は、霊的なものに隙を与えてしまっているのかもしれない。
不安定な状況というのは、意図せずとも悪いものを引き寄せてしまう原因になり得るのだ。
「今は特に、慧斗さんは呪いをかけられてるような状況ですし。少しでも安心できる状態を作れるなら、その方がいいと思ったので」
「……優しいんだな、來」
「や……優しい、とかではないです」
素直にそう思ったから口に出したというのに、來はなぜだかそっぽを向いてしまう。
「それに、慧斗さんは一応、命の恩人でもあるので」
「命の……? あ、もしかして昨日の夜の話か?」
落ちてきた來を受け止めたのは、確かに命を救ったともいえる。彼はその恩返しとして、慧斗を助けてくれているらしい。
加苅に話を通してくれただけでも十分すぎると慧斗は思うのだが、律儀な男なのだろう。
「あと、下の住人に死なれたりしても寝覚めが悪いので」
「はは、じゃあ遠慮なく助けてもらうか」
どことなく突き放したような言葉は、もしかすると來の照れ隠しなのかもしれない。ちらりとこちらを振り向いた赤い瞳が、「寝ますよ」と一言だけを投げて強制的に消灯する。
一人ではきっと眠ることができなかっただろうが、真っ暗になった室内でも恐怖を感じることはなく、慧斗は自然と瞼を閉じることができた。
「おやすみ」
「……おやすみなさい」
気を張っていたこともあって、想像以上に身体は疲労していたらしい。睡魔が迎えにやってくるのに、そう時間はかからずに意識が遠のいていく。
ふと、腕の中で安心したように表情を緩めていた來の顔が思い浮かぶ。
慧斗が安心できる空間を彼が作ってくれているように、來にとっても自分は安心できる存在となれるのだろうか。
頭の片隅でそんなことを考えながら、気づけば慧斗は深い眠りに落ちていった。
* * *
「慧斗、その顔どーしたの!?」
翌日。突然の着信音で目を覚ました慧斗と來は、セラの呼び出しで近所の公園まで足を運んでいた。
正確には、寝起きの悪い來がなかなか布団の中から出てこなかったので、慧斗は一人で出掛けるつもりだったのだが。
『ぼくも……いきます……』
そうして寝言とも取れる言葉を口の中でもごもごと繰り返す來をどうにか起こして、外に出たのが昼よりも少し前のことだった。
昨晩セラと別れてから起こった出来事を掻い摘んで説明すると、青ざめた彼女は腰を下ろした遊具の上で身震いする。
土台がバネのようになった、前後に揺らして遊ぶための名も知らぬアヒルの遊具だ。身体の震えではなくそちらの揺れだったのかもしれないが。
「昨日のサンドイッチの件で確信はしたけど、慧斗ホントに呪われてたんだ……?」
「だからそう言ってただろ」
慧斗自身も半信半疑なところが無かったといえば嘘になるが、あれだけの体験をすれば疑う理由もなくなるというものだ。
休日ということもあって、大学に行く必要がないのも幸いだった。今の慧斗に勉強に集中するだけの余力はない。
「やっぱり、あの女の子が慧斗を呪ってるってことなのかな?」
「おそらくそうだと思います」
「俺、女の人に呪われるようなことしてないんだけどなあ」
「慧斗モテないもんね」
「うっせー!!」
ファミレスで目にした長い黒髪の女の姿が、瞼の裏側に今でも焼き付いている。アパートの玄関で目にしたあの黒髪も、おそらくは女の霊のものなのだろう。
彼女が慧斗のもとへ死を運んでくるのだとすれば、その正体を突き止めることが解決への近道なのではないだろうかと、慧斗は考える。
「きっかけがあるとすれば、慧斗さんが食べたっていう誤配のハンバーガーですね」
「うえ、やっぱアレ?」
「黄泉つ竈食、って知ってますか?」
「モツ……?」
耳馴染みのない言葉を復唱することができずに、慧斗は目をパチパチとさせながら首を傾げる。
「黄泉つ竈食です。要は、あの世の食べ物を口にした人間は、生者の世界には戻れなくなるって話があるんですよ」
「へえ、知らなかった」
「これは仮定の話ですけど、慧斗さんを死者の世界に引きずり込むために、あの世の食べ物を配達してきた。それをまんまと慧斗さんが食べたので、ロックオンされた……と」
その話を聞いていた慧斗は、あの晩に食べたハンバーガーは確かに不思議な味がしたことを思い出す。
聞けば聞くほどに、あれがきっかけだったとしか考えられない。その直後に不可解な出来事が立て続けに起こっているのだから、來の予想は当たっているのだろう。
「もちろん、最初から慧斗さんがターゲットだったわけじゃなくて、無差別に送り付けていた可能性もありますけど」
「なんで食っちまったんだ……俺……!」
「だから拾い食いはあれほどやめなって言ったのに」
「拾い食いは一度もしたことねーわ!」
憐れむようなセラの物言いにすかさず突っ込みを返しつつ、慧斗は己の浅はかな行動に頭を抱える。
「とりあえず、呪いをかけてる相手を見つけ出すのが先決です」
「それもそうだな……」
「僕、ちょっと加苅さんに連絡を入れるので。それから次の行動を考えましょう」
そう言って通話のために來は一度その場を離れていく。彼がそばにいないだけで、慧斗は妙に不安を感じてしまうようになった。
けれど、弱気になっていてはダメなのだと昨晩の來の言葉を思い出して、気を強く持ち直す。
「……ねえ、慧斗」
「ん?」
気がつけば遊具から降りていたセラが、なにやら小声で近づいてくるので慧斗は顔を上げる。
來が向かった方角を警戒するみたいに一瞥してから、彼女は慧斗のすぐそばまで歩み寄ってきた。
「あのさ、こんなこと言うのもアレなんだけど」
「なんだよ?」
「……來くんには、ちょっと気をつけた方がいいと思うんだ」