プロローグ
都は鼻歌を歌いながら二人分のお弁当を作っていた。都自身は歌っていることに気付いていない。
お弁当を作るという作業は好きだった。自分の思う味を目指して、切り方や調味料を調節する工程は、大袈裟に言うと何かを突き詰めるような感覚。お弁当の隙間を詰めている間も心地よく感じていた。
「でーきたっ!」
都は並んでいるお弁当のおかずの箱二つを見て、一つ頷く。
その様子を煙草をふかしながら見ていたやすは、幸せをかみしめていた。
結婚して五年、都のお弁当を作る姿を見てきた。いつも鼻歌まじりに作る彼女のお弁当はとても美味しい。やすの好みに寄せて、ちょっと濃い目で作ってくれるのも嬉しかった。子宝にはまだ恵まれてないが、近い将来、できるだろうと勝手に思っていた。
この幸せ、ずっと続くんだろうな……。
やすは煙草の煙をくゆらせながら思っていた。
都は、ご飯を二つの入れ物に詰めると、ふう、と息をついた。そして。
「やす、話があるの」
「お? どうした、改まって?」
やすは灰皿で煙草の火を消すと、都が向かいに座るのを待っていた。
しかし、都は台所から出てこなかった。
「あのね、離婚してほしいの」
やすは時が止まったかと思った。
「……え?」
「だから、離婚して?」
都の言い方はコップ取って、とでも言っているかのような軽さだった。やすは理解できない。
「えっと、今、離婚って言った?」
「言ったねぇ」
都は自分用にコーヒーを入れながら相変わらず軽い口調で言う。
「……なんで?」
やすはこの言葉をやっと捻り出した。
「あなたねぇ、気付いてないと思うけど、私のこと下僕とでも思っているかのようよ、行動?」
やすはそんなつもりは全くなかった。確かに家事はやってもらっている。でも、それは得意な方が家事をしたらいいと思っていたからだ。稼ぎはきちんとある。マンションや車のローンも滞っていない。……何がいけなかったんだ?
やすの頭の中に離婚の文字がぐるぐる回り始めた。
俺、一人になるの? 都が居なかったら俺、どうやって生活すんの?
今から家事をしている自分がイメージできなかった。飯、どうしたらいいの? 洗濯? 掃除? 俺、家事全般できないんだけど。
「今、私のことより、自分がどうなるかしか思い浮かんでないでしょ、あなた」
都に言われたやすは図星過ぎて面食らった。
「そういうところよ。あなたは私の気持ちなんて考えてない」
「え、あ、いや、考えてる」
「じゃぁ、共働きの夫婦なのに、なんで家事を覚えようとしてこなかったの?」
都はやっと、コーヒーを持ってやすの前に座る。
「私だって仕事をしているのだから、時間の制約はあるわ。確かにお給料はあなたの方が高い。でも、賃金の高さと仕事の大変さは比例するとも限らないし、時間は賃金関係なく一緒に過ぎるの」
都には自分のことをする時間が全くなかった。仕事と家事。疲れ果てて泥のように眠る毎日。自分の価値はそれをこなすことだと思い頑張っていたが、ふと心が立ち止まった。私、何のために生きているの?
下手に完璧主義なのがダメだったかもしれない。
楽しくなかった。ぢこなすだけの毎日。今日も終わった、今日も終わった、今日も終わった……。
そして、ついでだからと、どうでもいいこともやすに言ってやろうと思った。
「あと、ね。名前が嫌なの」
「な、名前?」
「私、町田都」
「……それが?」
「みんなに茶化されるのよね。町なの、都なのって。会う人、みーんな」
「そ、それは俺にはどうしようもない。お前、旧姓に戻っても茶化されるだろ?」
都の旧姓『神』
確かに、子供の頃から(神の都)なんてスゲーな、とか、神様助けて、とか茶化されてきたが。
「生まれ持った呼び名ら諦めもつくもん。人生の六分の五はその呼び方だったし」
都が二十五歳の時に結婚。プロポーズはやすからだった。
「一緒にいると、俺が幸せだから結婚しよ」
俺が幸せ。そう、最初から都の幸せは保証してなかった。二十代の間はその言葉が嬉しかった。自分がいれば、相手は幸せなのだ。幸せにできるんだ。相手を幸せにできることが幸せだった。三十代に近づくにつれ、相手はどうなのか、と思い始める。
私は、なにかしてもらっているだろうか。
都は合わせていた。しかし、やすは? 私に気を使うことはあるのだろうか。
私だけが合わせている。それに気付き、自分が苦しいと思い始めていることに気付く。
今日を終わらせることで精一杯の日々は、息が付けていなかった。
『このままでは、私だけが壊れる……』
ソファに座っているだけのやすを見ていたら、ぼんやりと頭の中に浮かんでいた。
うん、言おう。
衝動だったのかもしれない。(衝動で行動して失敗したら何も残らない)昔、言われた気がする。
でも、衝動でしか、言えなかった。
「明日、離婚届もらってくるね」
「みやこ……俺は、別れたくない」
「家事をしない私でも、愛せる?」
やすは固まる。家事をしない都。愛せる、の前に、イメージすらできなかった。
「そんな、わからないよ、いきなり」
「将来、そうならないとは限らないのよ?」
「そんな遠い先なんて」
「遠いとも限らないのよ。私が明日、事故にでもあって半身不随になったらあなたが全部するのよ。できないでしょ」
やすは口をパクパクさせるしかなかった。
「明日、離婚届もらってくるね」
都は再び断言した。やすはもう、何も言えなかった。
これが、十七年前の出来事。