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超常からの帰還

卓也が目を閉じた瞬間、頭の中で響いていた声の群れが、まるで一斉に息を止めたように静かになった。

代わりに、耳の奥で別の音が鳴り始めた。

低い、電子的なビープ音。

まるで、古いラジオが周波数を合わせ直すような。「……待てよ」

彼は目を開け、UVライトを握りしめたまま、洞窟の壁を見直した。

紫色の光の下で、壁画の渦巻きが初めて「色」を変えていた。

普段は黒っぽい線が、淡い青緑色に蛍光を発している。

魚や鳥の模様はまだ動いているが、影の部分――特に三人の顔が混ざった歪んだシルエット――が、まるで痛みに耐えるように縮こまっている。

「碧、これ……この蛍光、さっきまでの壁画の反応じゃないよな?」碧は震える手で自分のライトを向け直し、目を細めた。

「違う……これは、塗料じゃなくて……有機物。もしかして、生物由来の何か。菌類とか、藻類とか……でもこんなに反応が早いなんて……」

「とにかく、光を当て続けて! 入り口まで下がるんだ!」悠斗が慌てて言った。

三人は互いの背中を預けるようにして、ゆっくり後退を始めた。

UVライトを三方向から壁画に浴びせかけながら。

光が当たるたび、壁画の動きが鈍くなり、水たまりの泡立ちが弱まる。

地面に散らばっていた髪の毛のようなものは、紫光に触れると灰色に変色し、ぱりぱりと音を立てて砕け始めた。だが、洞窟の奥から、まだ何かが見えていた。

影の群れが、壁画の外側にまで広がり始めている。

最初は薄い霧のように、岩肌を這う黒い筋だった。

それが、次第に人の形を成し始め、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。碧が声を上げた。

「待って……あれ、増えてる。さっきよりずっと多い……」卓也は気づいた。

壁画の最下部に刻まれた「ミタカッタ」という文字が、今度は光に反応して、ゆっくりと形を変え始めている。

禍々しいその5文字が、まるで生き物のように伸び縮みし、やがて別の言葉になった。

「マッテタ」

「待ってた……?」声が、再び頭の中に響いた。

今度は、さっきの幼い女の子の声ではなく、もっと低い、複数の声が重なったもの。

『マッテタ。ズット、マッテタ。キミタチガ、キタカラ……』

「ふざけんな! 俺たちはお前を待ってねぇよ!」悠斗が叫んだ。

その瞬間、卓也の視界の端で、何かが動いた。

洞窟の入り口近くの岩陰に、置かれていた碧のバックパック。

その中から、教授が貸してくれたもう一つの機材――小型のポータブル超音波装置――が転がり出ていた。

壁画の調査で、岩の内部構造を調べるためのものだ。「これ……!」

卓也は咄嗟に装置を拾い上げ、スイッチを入れた。低周波の振動音が洞窟に響き渡る。

超音波は、通常の音波とは違い、物質を直接揺さぶる。壁画の表面が、びりびりと震え始めた。

影の群れが、初めて明確に「怯えた」ように後退した。

碧が叫んだ。

「超音波が効いてる! 波長が、ここの『何か』を乱してるんだ!」三人は超音波装置を前に突き出しながら、UVライトを併用して入り口へ急いだ。

影は追ってくるが、超音波の振動に阻まれるように、形を崩しては再構成を繰り返す。

地面の水が沸騰するように泡立ち、髪の毛の残骸が風に舞うように消えていく。やっと入り江の陽光の下に出た瞬間、洞窟全体が低く唸るような音を立てた。

まるで、巨大な生き物が喉の奥でうめくような。

だが、追ってくる影は、もう入り口の境界を超えられなかった。

陽光と超音波とUVの三重の障壁に、黒い霧のようなものが押し戻され、ゆっくりと溶けるように薄れていく。最後に、頭の中に残ったのは、かすかな囁きだけだった。

『……マタ、キテネ』三人は小舟に飛び乗り、必死に櫂を漕いだ。

漁船に戻ると、船長の老人はただ黙ってエンジンをかけた。

何も聞かず、何も言わず。ただ、島を背に全速力で離れていく。甲板に座り込んだ碧は、震える声で言った。

「私……あそこに、一回行ってるはずなのに……こんなことなかった。あの壁画、昨日まで普通だったのに……」

「俺たちの『到着』が、何かを起こしたのかもな……」悠斗が青ざめた顔で呟いた。

卓也は、遠ざかる崖を見つめながら、ゆっくりと言った。

「あの島は、誰かを待ってたんだ。ずっと。縄文の頃から……いや、もっと前から。俺たちが来たことで、『目覚めた』のかもしれない。でも、同時に……俺たちが見つけてしまったことで、封じられたのかもしれない」碧が小さく頷いた。

「教授には……『壁画は崩落の危険があったので、調査中断』って報告する。もう誰も、あそこに行かせない方がいい」船が奄美の港に着く頃には、夕陽が水平線に沈みかけていた。

三人は互いに言葉を交わさず、ただ黙って陸に上がった。

だが、卓也のポケットの中で、UVライトが微かに震えていた。

紫色の光が、一瞬だけ、点滅した。

誰も気づかなかった。波の音が、遠くで、まだ、誰かの名前を呼んでいるように聞こえた。





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