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未知たちとの邂逅

数日後。奄美の小さな港から出航した古い漁船は、波に揺られながら南西へ進んでいた。甲板に立つ三人は、それぞれの思いを抱えながら海を見つめている。宮城碧は双眼鏡を手に、水平線の先を食い入るように見つめていた。彼女の髪は潮風に乱れ、頰には興奮の赤みが差している。

「もうすぐよ。あの崖のシルエットが見えてきた……!」

悠斗は船酔い気味に顔を青くしながらも、スマホで壁画の写真を何度も確認していた。

「マジで……こんな場所に本当に壁画があるのかよ。碧ちゃん、ほんとに放射性炭素年代測定したんだよね? 紀元前5000年って……縄文前期って、土器もまだ素朴な頃じゃん? こんな複雑な図柄、普通ありえなくね?」碧は振り返り、目を細めて笑った。

「それがね、ありえないのよ。だからこそ価値があるの。保存状態が異常なくらい良いのも、崖の窪みがちょうど海風を遮って、湿度も安定してるからかもしれない。でも……一番おかしいのは、描き方なの」「描き方?」

「うん。渦巻きや魚、鳥のモチーフは縄文土器にも見られるけど、あの『ヒトが崩れていくような影』……あれは、後から重ねて描かれた痕跡があるの。最初はただの抽象模様だったものが、何百年か経って、誰かが上から人間の形を書き足したみたいに。まるで……後世の誰かが、元の絵に意味を付け加えようとしたみたいに」卓也は船の柵を握りしめたまま、黙って聞いていた。波の音が、耳の奥で響き続ける。まるで心臓の鼓動と同期するように、強くなったり弱くなったりしている。

「……それ、AIが掘り出したって話、本当なの?」碧は少し照れくさそうに頷いた。

「うん。教授の研究室で、衛星画像と深海ソナー、それにAIの地形解析を使って無人島の微細な影を拾い上げたの。人間の目じゃ絶対見逃すレベルの、岩のひび割れみたいな部分に、人工的なパターンがあるって指摘してくれた。で、私が現地確認に行ったら……本当にあった」

悠斗が身を乗り出した。

「じゃあさ、誰が描いたんだよ? 縄文人がボートでこんな遠くまで来て、しかもこんな精密に?」

「わからない。でも……もしこれが本物なら、縄文時代にすでに『海を越える文化』があったってことになる。もしかしたら、もっと古い、何か別の……」碧の言葉が途切れた瞬間、船が大きく揺れた。

「うわっ!」船長の老人が操舵室から叫ぶ。

「着いたぞ! ここから小舟に乗り換えだ! 崖の下に小さな入り江がある。気を付けろよ、岩が鋭いからな!」三人は小さなゴムボートに移り、櫂を漕いで入り江へ向かった。崖は予想以上に高く、黒ずんだ岩肌が空を切り裂くようにそそり立っている。陽光が当たる部分だけ、奇妙な光沢を帯びて見えた。上陸すると、湿った岩の匂いと、海藻の磯臭さが鼻をついた。碧が先頭に立ち、狭い岩の裂け目を登っていく。足場は悪く、卓也は悠斗の手を何度も引き上げた。やがて、視界が開けた。そこは、巨大な洞窟の入り口だった。奥行きは20メートル以上あり、天井から滴る水が、地面に小さな水たまりを作っている。そして――壁一面に、壁画。ざらついた岩肌に、無数の線が刻まれている。渦巻き。魚。鳥。そして、人とも獣ともつかぬ、途中で形が溶けるような影。

碧が息を飲んだ。

「ここ……前より、はっきり見える……」

悠斗が震える声で言った。

「マジかよ……これ、写真よりずっと……気持ち悪い」卓也は一歩近づいた。その瞬間、波の音が――頭の中で、言葉になった。『……カエレ……』卓也は耳を押さえた。

「卓也? 大丈夫か?」悠斗が心配そうに肩を叩くが、卓也の視界は揺れていた。壁画の渦巻きが、ゆっくりと回転しているように見える。いや、回転している。いや――呼吸している。碧が興奮して声を上げた。

「見て! この部分! 前はなかった線が……!」彼女が指差した先には、新しく刻まれたように見える、細い線。それは、まるで現代の人間のシルエットに似ていた。三人が同時に息を止めた。壁画の最下部、地面に近いところに――誰かが、最近、ナイフか何かで刻んだような文字。


「ミタカッタ」


ひらがなで、幼い字で。碧の顔から血の気が引いた。

「こんな……こんなの、なかった……私が来たときは……」悠斗が後ずさりした。

「誰かが……俺たちより先にここに来てたってこと? でもこの島、地図にも載ってないし、教授以外誰も知らないはずじゃ……」卓也は、ゆっくりと壁に手を伸ばした。指先が、渦巻きに触れた瞬間――頭の中に、はっきりとした声が響いた。『アリガトウ。ヤッテキテクレテ。』声は、碧のものとも、悠斗のものとも違う。もっと古い、もっと深い、まるで海そのものの声だった。卓也は手を離し、よろめいた。「……これ、俺たちを呼んでたんじゃないか」碧と悠斗が同時に彼を見た。

「呼んでた……?」

「ああ。俺たちを、ここに連れてくるために」洞窟の奥から、微かな風が吹いてきた。その風は、波の音を運んでくるようだった。そして、壁画の影の一つが――ほんの一瞬――微笑んだように見えた。誰も、動けなかった。


洞窟の奥から吹いてきた風は、最初はただの潮の匂いを含んだものだった。

だが、次の瞬間――それは変わった。

甘く、腐ったような、どこか懐かしい匂い。まるで、ずっと昔に食べたはずの果実が、誰かの口の中で腐って、息を吐いたような匂い。

卓也は鼻を覆った。「この匂い……なんだ?」

碧が首を振る。

「わからない……私が前に来たときは、こんな匂いじゃなかった。海の匂いと、岩の湿気だけだったのに……」

悠斗が震える声で呟いた。

「なんか……おばあちゃんの家みたいな匂いするんだけど……いや、違う。もっと……古い。死んだ人の部屋みたいな……」三人は互いに顔を見合わせた。

誰もが、同じことを思っていた。この匂いは、ここにいる誰かのものだ。壁画の渦巻きが、再びうねった。今度は、視覚的な錯覚ではない。本当に、岩の表面が波打っているように動いている。ゆっくり。

ゆっくりと。

まるで、巨大な生き物が、皮膚の下で息をしているように。碧が後ずさりしながら、声を絞り出した。

「これ……生きてる?」

「生きてるわけないだろ……」悠斗が否定するが、声は上擦っている。

「でも……見てみろよ。あの影の部分……さっきより、増えてる」確かに。

壁画の最下部、地面に近いところ。

さっきは三つだった「人間らしいシルエット」が、今は五つに増えていた。

しかも、そのうちの一つは――

明らかに、悠斗の後ろ姿に似ている。

肩のライン、髪の長さ、首の傾き方まで。悠斗が自分の背中を振り返った。

「な……何これ……俺?」碧がスマホのライトを壁に当てた。

光が当たった瞬間、シルエットが一瞬だけ、首を傾げたように見えた。

まるで、光に気づいて、こちらを見返したように。

「消すんだ!」悠斗が叫んだ。

碧が慌ててライトを落とす。

暗闇の中で、壁画だけが、ぼんやりと白く浮かび上がっている。

いや――浮かび上がっているのではない。発光している。卓也はもう一度、渦巻きに触れた。

今度は、指先が熱い。まるで、生き物の体温のように。

『……アリガトウ。ミンナ、キタネ。マッテタンダヨ。』声が、三人の頭の中に同時に響いた。

今度は、はっきりとした、幼い女の子の声。でも、その声の奥に――何重にも重なった、別の声が混じっている。男の声。老人の声。泣いている声。笑っている声。そして、何千年も前に死んだはずの、たくさんの声。

碧が膝をついた。「やめて……やめて……こんなの……ありえない……」

悠斗が壁から離れようとして、足を滑らせた。

転んだ拍子に、手のひらが地面に着く。

その瞬間、彼の指先が、何かに触れた。

柔らかい。

温かい。

――髪の毛。「うわあああっ!!」悠斗が跳ね上がった。

地面に、長い黒髪が一本、落ちていた。

いや、一本ではない。

何十本も、何百本も。

洞窟の床に、まるで誰かがここで髪を梳いていたかのように、散らばっている。碧が震える手で、その髪を拾い上げた。

「これ……私の髪と同じ……長さも、質感も……」

卓也はゆっくりと振り返った。

洞窟の入り口の方を見た。そこに、立っている影があった。最初は、ただの岩の影だと思った。

だが、影は動いた。ゆっくりと、こちらに向かって歩いてくる。足音はない。

ただ、波の音が、足音の代わりに響いている。影は、三人の前に立った。顔は見えない。

ただ、輪郭だけが、ぼんやりと浮かんでいる。そして、その輪郭は――三人が同時に息を飲んだ。碧の顔。悠斗の顔。卓也の顔。三つが、ぐちゃぐちゃに混ざり合ったような、歪んだ顔。影が、口を開いた。

いや、口が開いたように見えただけだ。実際には、声が直接、頭の中に流れてきた。

『……ミタカッタ。アンタタチ、ミタカッタ。ココニ、キテクレテ、アリガトウ。イマカラ、ズット、イッショダヨ。』洞窟の奥から、さらなる風が吹き出した。

今度は、冷たい。そして、湿っている。まるで、海水が、洞窟の奥から溢れ出してくるように。卓也は気づいた。地面の水たまりが、増えている。いや、水たまりではない。水が、這い上がってきている。壁画の渦巻きが、激しく回転し始めた。魚が泳ぎ出し、鳥が羽ばたき、影が――歩き出した。三人は、動けなかった。ただ、壁画から溢れ出す「何か」が、ゆっくりと、自分たちに向かって伸びてくるのを、

見ているしかなかった。遠くで、船のエンジン音が聞こえなくなった。

波の音だけが、大きくなっていく。そして、その波の音の中に――無数の声が、笑いながら、泣きながら、囁き始めた。

『イッショニ、アソボウヨ』

『マダ、ダレモ、カエレナイヨ』

『ココハ、ボクタチノ、ウミダカラ』

卓也は、ゆっくりと目を閉じた。

もう、逃げられないことを、わかっていた。洞窟の入り口から、陽光が差し込んでいたはずの場所が――

いつの間にか、真っ暗になっていた。





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