忘れないで
「シンタロウっ! 起きなさいっっ!!! 」
「んー…もう少し寝かせてよ、“母ちゃん”」
「っ……」
「………あ……ゴメン…ヒナ」
「…サッサと起きて。会社、遅刻するわよ? 」
数年前、謎のウイルスが猛威を振るい、世界は恐怖でパニックに陥った。
感染ルートは不明。ウイルスに感染すると、子供は死に至る確率が非常に高い為、学校は何処も閉鎖状態。通信スクールが、主流になりつつある。そして、大人がーー
「ヒナ、準備出来た」
声がした方へ振り返ると、スーツを引き摺りながら、此方へと歩み寄る旦那の姿が、視界に映り込む。
「……じゃあ、行こっか」
「…そろそろ、俺一人でーー」
「駄目っ! 誘拐されたら如何するのよ!? 」
「……誘拐されそうな場所に、なるべく一人にならない様にすればイイんだろ? 俺がわざわざ危ない目に遭う様な事、すると思うか? 」
本人はカッコイイつもりなのだろうが、可愛い顔でそう尋ねられても、不安しかない。数年前の謎のウイルスにより、一気に減少した子供は希少価値があると判断されたのか、幼子の誘拐件数が、近年増加の一途を辿る。
「でも、それで君が感染したらーー」
「私は大丈夫だから、サッサと行くわよ」
「っ……」
私の旦那・シンタロウは、謎のウイルスが流行り出した頃に感染し、発症してからは、薬などで症状を抑えようとしたが…。現在、外見は勿論だが、ここ最近だと記憶まで五歳児ぐらいになってきていた。
子供が感染すると、後退の症状が凄まじく、最近報道された酷い遺体の発表によると、ネズミの赤ん坊ぐらいのサイズだったとの事だ。
そんな恐ろしい症状から、ついた病名は、【後退病】。
「ねえ、シンタロウ」
「なに? かあ…ヒナ」
「……」
“私”の存在を忘れられる事は辛い。でも、シンタロウ本人はもっと辛いのだろう…。私の事を、「母ちゃん」って口にする度に、今にも泣き出しそうに顔を歪める姿を、何度も目にしてきたから。
「今日、なにが食べたい? 」
「! えっ…えーっと……野菜が入ってない料理なら…」
「子供みたいな事、言うのは駄目っ! 」
「現在は子供だもん」
「都合のイイ時だけ、子供ぶるなっ! 」
ねえ、シンタロウ。段々と幼児化はするだろうけど、私との思い出を忘れないで!! …と、願ってしまうのは、我儘なお願いなのかな?
「ヒナ」
唐突に、真剣な声で私を呼ぶシンタロウに、思わず心臓が跳ねた。
見た目は子供。最近だと思考回路も子供な彼に、「男」という部分を忘れる事が多かったから…。
「なっ…なによ? いっ…言っとくケド、野菜料理は栄養バランス的にーー」
「子供に戻って判ったケド、大人よりも味覚が敏感なのか、野菜がめちゃくちゃ苦く感じるんだ」
「………は…? 」
「だから、野菜はあんまり食べたくな」
「会社に着いたから、サッサと降りて」
車から降りた私は後部座席の方へ移動すると、ドアを開けて、チャイルドシートに座るシンタロウへ、下車する様に促す。それにシンタロウは、「まだヒナと一緒に居たいッ!! 」と嬉しい事は言ってくれたが、聞こえないフリをして、遅刻するからサッサと降りなさいっ! と言い続ける。
彼は暫く駄々を捏ねていたが、漸く観念したのか、車から降りた。
後部座席のドアを閉めると、私は運転席の方へと戻り、再び乗車する。
「じゃあ、今夜の晩御飯に期待しててね?美味しい“野菜料理”を、愛情込めて作って、待っているから♡」
「……鬼嫁…」
ボソッと、悪口が聞こえた気がしたが、悔しいかな…。悪い意味の言葉だとしてと、毎朝、起こす度に「母ちゃん」と間違えられる日々だったから、彼の口から、自分との関係性を明確化された“嫁”という単語が聞けたのが、少し…かなり嬉しい!!
「“鬼嫁”で結構デス!今晩、楽しみにしててくださいネ」
言って、私は車を発進させた。後方で、シンタロウが何か言ってるみたいだが、運転に集中していないと事故る為、彼が家に帰ってから、なんって言ってたのかを問い詰めようと思った。
「……。」
会社が目の前という処で、シンタロウが私に真剣な様子で話し掛けた時。“旦那”としての台詞が聞けるかもと期待したが、的外れで…。それによる不満とかで、彼の言葉を遮ったり等の、ほんのちょっとだけ冷たく当たってしまった。
“まだヒナと一緒に居たい!! ”
駄々を捏ねたシンタロウの姿を思い出し、少し意地悪をした事を後悔…。
「…仕方ない。シンタロウの大好きな、エビフライでも作りますかねぇ」
見た目だけじゃなく、記憶までもが幼くなっていく彼。
段々と、私を忘れていく彼。
それでも……私の事を“妻”だと、覚えていてくれてる彼。
「シンタロウ…」
私との思い出を、忘れないで!!!
*
「忘れねえよ」
流行病のせいで、少年の風貌へと後退した男は、ボソリと呟いた。先程、彼を会社まで送り届けた妻に対しての台詞だ。
会社が目の前という処で、シンタロウは運転中のヒナへ、此処最近の朝方でのやり取りへの詫びと、自分の事を忘れていく不安を覚えている彼女に、愛の言葉の一つでも囁こうと、呼び掛けた。…が、自分の真剣な呼び掛けに対しての、晩御飯の話を呑気に話し出す妻。ーーと、途端に照れ臭くなって、ついその話題にノってしまった自分。
「忘れたく、ねぇよ…っ」
外見だけではなく、記憶までもが後退していく、完治させる方法が未だに見つからない、流行病。症状が少しずつ進行していき、ヒナの事を忘れていく自分。
男は、周りに自分以外、誰も居ない事を確認すると、声を上げずに泣いた。
そして、心の中で願った。
いつか、元の姿に戻る…事は出来なくとも、記憶だけは取り戻して、この病で悲しませたヒナへの詫びと時間の埋め合わせで、彼女を大事に出来る日が訪れる事を。




