第20節 日常
——コツ、コツ、コツ
学園の地下、恐らく立ち入ることができるのは俺と生徒会長だけであろう学園長室に俺は向かっている。
無駄に長く、無駄に大きい廊下を通り、俺は"図書館"の扉を開けた。
木で作られている床、天井。光源は見当たらないのになぜか明るい。そこには無数の本棚が地上に広がり、宙に浮かんでいる。紫幻素で空間を歪めてあるのだろうか、その本棚の列は地平線の先にまで続いている。
「あれ、アゼンくん、久しぶりだね」
俺が入ると同時に、その人は突然姿を現した。
「……お久しぶりです。マリーさん」
彼女はマリー。
この図書館の唯一の司書だ。俺よりも歳上で、眼鏡をかけた紫髪の女性である。父が学園長をやるようになる前からの付き人で、俺も小さい頃から面識がある。
「どうしたの突然。ここ数年は顔も見せなかったじゃない」
「父さんに報告したいことがあるんです」
「……分かった。じゃあ"繋げるね"」
そう言うと、俺の目の前に突然扉が現れた。
彼女もいつのまにか消えている。
俺はその扉をゆっくりと開いた。
「失礼します」
中は昔とあまり変わらず、真っ白な部屋に椅子が2つだけ置かれていた。俺はその片方に腰をかける。するともう片方の椅子に父は現れた。
「……なんの用だ」
前回あった時よりも少し老けてはいるが、それでも白銀の髪や威厳ある顔立ちは健在であった。
「父さん。今日アトムスに会ったよ。それも過激派の、主要メンバーの可能性があるやつに」
「この街にか?」
「うん」
「……分かった。そのことに関しては誰にも口外するなよ」
「わかってる」
「……そういえば、最近模擬戦闘訓練に参加するようになったそうだな。それも仲間と一緒に」
「……うん」
「……なんのつもりだ」
「父さんももう気付いてるよね。この世界が破綻しつつあることに。もう、時間がないんだ」
「……俺との"約束"だけは、絶対に守れよ」
「……わかってる」
俺がそう言うと、父は椅子から姿を消した。
幻界領域が各地で現れてからもう8年経過している。その間で幻界領域はその濃度と範囲を向上させてきた。このままではいずれ、幻界領域の濃度とこの世界の濃度が同値になってしまう。そうなれば、
"俺たちの現実は、幻想に塗り替えられるだろう"
俺は学園長室の扉を開ける。
するとその先は学園の校門の前に繋がっていた。
(マリーさんが気を遣ってくれたのか)
扉を抜け後ろを振り向くと、その扉は無くなっていた。これが一体どういう原理なのか俺には解らない。マリーさんは不思議な人物だ。
空を見上げる。
そこにはなんの変化もないが、校門横に設置されてある時計は6時を指していた。
(早く帰ろう。シオンが腹を空かせて待ってる)
俺は足早に校門を出た。
帰る途中、俺はある考え事をしていた。
"過去"のことと、"これから"のことについて。
いつ話すか、どこで話すか、どのように話すか、俺は足よりもそのことに集中していた。
そのせいか、帰るのが少し遅くなってしまった。
「すまん!シオン!今帰った!すぐに夕食を——
寮に入って、急いでキッチンに向かうと、そこにはエプロン姿のシオンが包丁片手に鍋をかき回していた。
「あ……先輩、お帰りなさい……あの、これはですね……」
よくよく見てみると、まな板に置かれた野菜はズタボロで鍋からはボコボコと何かが弾け飛んでいる。
「……今回は私のせいで先輩に迷惑をかけしてしまったので、今日は私が夕食を作ろうとしたんです。だけど私料理が下手で……」
「ふ、あははは!!」
「せ、先輩!笑わないでください!」
「いやーごめんごめん!シオンにも苦手なことがあるんだと思って」
「ありますよ。ひとつぐらいは」
——俺の為に夕食を作ろうとしてくれて、ありがとな
「……?今何か言いました?」
「いや何も。……よし!じゃあ今日はお言葉に甘えてシオンに作ってもらおうかな」
「え、いいんですか?このままじゃ絶対まずくなりますよ」
「大丈夫。シオンが作ってくれるだけで俺は満足だから。だけど今使ってる食材は無駄にしないでくれよ」
「はい……それじゃあリビングで待っててください」
俺がリビングに行ってからしばらくすると、シオンがぐつぐつと煮えたぎった鍋を持ってきた。シオンはそれをテーブルの真ん中に置くと、申し訳なさそうに蓋を開けた。
その瞬間、鼻を刺すような刺激臭がリビング全体に広がった。俺は思わず鼻をつまんでしまう。
「すいません匂いがこんなで……」
「いや大丈夫だ匂いだけかもしれない」
そう言って俺は鍋の中身を小皿に取り分ける。野菜はボロボロだが形はなんとか保ってあるし、肉も生焼けにはなっていない。これなら食べられそうだ。
匂いにも少し慣れてきたところで、俺たちは互いに向かい合いながら席に座る。
「それじゃあ、いただきます」
「いただきます」
シオンと俺はまず野菜からいただくことにした。恐る恐る口に運んで食べる。味は……普通だ。むしろ美味い。出汁がよく染み込んでいる。どうして匂いだけがこんなになるのか不思議でたまらない。
「どうですか?先輩」
シオンも少し誇らしげな顔をしている。
「いや普通においしいよ。正直驚いた。なんで匂いだけこんな酷くなるんだ?」
「わかりません……。お肉を煮込み始めたときからこの匂いが出てきたんです」
「そ、そうか」
(まてよ、だとしたらまさか……)
俺は次に肉を口にする。
その瞬間、俺の視界が一瞬だけ暗くなった。
「……う、ま、まずい……別宇宙の食べ物を食ってる気分だ」
「そんなにですか?」
シオンはそう言って肉をひと齧りする。するとみるみる顔が青ざめていった。
「これは……食べ物じゃありません……」
そう言って苦々しい顔をするシオンを見て、俺は少し微笑んでしまった。
「何笑ってるんですか先輩。私これ食べ切る自信ありませんよ……」
「はは、まぁ食べられなかったら俺が食うよ」
そう言って俺は再び肉を食べる。
まずい。だけど、温かい。
俺は自分のことを話すのを、もう少しあとにしようと思う。早く喋った方がいいのはわかってる。隠し事をしながら生活するのはシオンに対して失礼だ。だけど、もし話してしまったら、もう、俺と関わってはくれないかもしれない。
俺は、この"日常"を、手放したくは無かった。




