境界のマナ
飛行機の故障で代替機材に乗り換えた為、予定より数時間遅れの夜半に首都ンダラの国際空港に到着した。その為、市内へのバスは既に運行を終了していた。
出発前に量子端末(Ubiquitous One:UO)でバスも予約しておいたのだが想定外が起こることはよくある。荷物をターンテーブルからピックした後、少しくたびれた感じの空港ビルを出る。途端、夜の冷気と亜熱帯の熱気が混じりあった湿度の高いむっとした空気に包まれる。
客待ちをしているタクシーに量子端末(UO)で行先情報を送るとすぐ複数のタクシーから金額情報等が返ってきた。量子端末(UO)は本人の周りの量子上に存在している個人用携帯端末(PDA)であり、富士山頂に出来る傘雲の様に物質的に固定されず、量子上で情報を受け渡しながら維持されている。ハードウェアなしに個人の傍らに常に在る為、過去の個人用携帯端末(PDA)のように忘れたり、壊れたり、盗まれたりしない道具として今では広く利用されている。
離れた場所から白タクらしい男が最低料金を提示してくるがクラウド上の信用情報DBに照会した量子端末(UO)より警告が出る。オーラのように僕を包んでいる量子端末(UO)が僕の視野内に空中ディスプレイを形成し、入手情報と僕の過去のタクシー利用履歴や僕の好みを元に量子端末(UO)が総合的に判定した推奨順位と市内までの料金をポンポンポーンという軽快な効果音と共にそれぞれのタクシーの上にアラビア数字で表示したので、僕はそれを元に乗るタクシーを選ぶ。量子端末(UO)のお陰で一物一価は崩壊し、何でもかんでも変動価格になってしまった。
僕は国際連合教育科学文化機関(UNESCO)の事業、世界記憶遺産(Heritage of the World: HoW)の調査員として働いている。HoWは人類共通の遺産として残すべき価値があるが、知られず埋もれたままになっている文物を発掘、保存、共有化することを目的としている。あらゆる情報がネットワーク上にある今の社会において知識や情報は個人が占有するのではなく共有するものとなっている。今回の仕事は某国、某先住民族の聖地に関する情報を確認、精査することだ。
ホテルの車寄せにタクシーを乗り付け降車。量子端末(UO)が自動で代金精算を行う為、小銭を払うのに手間取ることもない。強化ガラスで出来た二重のエントランスドアの1つ目を通過するとホテルのフロントを通らず自動チェックイン-予約情報との整合性確認、クレジットカードのデポジット決済やセキュリティチェック等が行われる。
認証が正常に完了したことを示す電子音と共に待たされることなく2つ目のガラスドアが自動で両サイドに開く。ロビーに足を踏み入れると簡単なホテル案内と共に部屋番号と道案内の矢印が視界の中に邪魔にならない程度にさりげなく表示される。持ってきたスーツケースは2つ目のドアを出たときにベル・ロボ(Bell Robot)に引き取られていった。ベル・ロボは先に行ってしまったが部屋までの道を間違えるとマリオカートで逆走した時のような表示が現れる為、迷うことはない。
部屋の入口のドアノブに手を掛けると自動認証で鍵が開き中に入る。昔、同僚の女の子が出張先のホテルで、部屋の鍵を忘れて廊下に出て素っ裸で閉め出された話(バスルームのドアと部屋のドアを間違えたと言っていた)を聞いたことがあるが、今なら素っ裸で廊下に閉め出されるという目には会わないだろう。
ホテル案内にはまだレストランが開いているとあったが、狭い飛行機内にブロイラーのように押し込められて不味い食事を食べたせいか食欲もない。疲れた上に時差もあるので、後は明日に備えて寝るだけ。シャワーは明日の朝でいいや。
ベッドに寝転がって寝入る前に、いつものアーカイブを開く。
柔らかな光の中、幼い娘が駆け寄ってくる。ぎゅっと抱きしめる。娘のぬくもりが伝わってくる。
-いつも同じ映像。7年位前の映像だが映像内では1mmも成長していない。5年前娘を不慮の事故で亡くしたが、いつまでも娘にこだわる僕に失望した妻は2年前に僕の許から去って行った。
翌朝、ホテルで軽めの朝食を済ませた後、先住民族に引き合わせてくれる仲介者と落ち合う為、ロビーに向かう。
さして広くもない薄暗いロビーを見渡すとがっしりとした体格で赤銅色に日焼けし、上着は首都ンダラを本拠地とするラグビーチームの半袖ラガーシャツ、右ひざに穴の開いたGパンおまけにサンダル履きの体毛の濃い男の頭上にネオンサインのようにオレンジ色のびっくりマークがフラグとして表示されている。量子端末(UO)があると(例え相手がどんな身なりでも)初対面でも会うべき人を迷うことはない。びっくりマークが子供の頃読んだ漫画の登場人物の後頭部に立っている火の付いた蝋燭みたいに見える。蝋燭が短くなっていると死期が近いんだったかなと全く関係ないことを考えながら仲介者に近づく。
仲介者は数世代前のウェアラブル端末を左腕に嵌めており、僕は彼と量子端末(UO)を介してコミュニケーションを取れるか少し不安になる。都市部から周辺部に行くに従って科学技術の世代が下がっていくのはよくある話だが、今回はかなり下がっている。それでもホテル入口のセキュリティーを通過して来たはずだからと思い直す。
量子端末(UO)同士であれば声を発すれば相手に届くまでに相手の言語に自動翻訳される。そのため今では外国語を学習する必要はなくなっているが、今回は仲介者の使っている自動翻訳がウェアラブル端末上で動く年代物の為か中々話が伝わらず要領を得ない。この調子では当事者である先住民族は何のデバイスも持っていない事態も考えられる。
その場合、ぞっとするが量子端末(UO)無しの「生」のコミュニケーションが必要となる。実は僕が今の職を得ているのも数ヶ国語を操れるため緊急時に代替的に「生」のコミュニケーションが可能なことが理由の一つだ。
量子端末(UO)により人々は自分の周りに外から身を守る膜を張ることができるようになった。特に容姿を光学的に修正する(デコる)アプリは政治家や芸能人、果てはホスト/ホステスに愛用されており、プリクラのように髪の毛を増やしたり、目を大きく、まつげを長くして眼力を上げたりすること等に使われている。但し、全身を修正する(デコる)のは生体電流を電源としている量子端末(UO)の容量の制約により、まだ実現していない。逆に「生」でのコミュニケーションは修正する(デコる)のが一般化している為、裸で出歩いているみたいだと嫌悪されている。
結局、お互いの端末を通しての会話はピーピーガーガーと雑音も多かった為、「生」の英語のやり取りになってしまった。久しぶりの英会話は適切な単語や気の利いた言い回し(フレーズ)が出て来ず、もどかしい。それでも何とか意味は通じたらしい。約束通り先住民族と落ち合う場所まで案内してくれることになった。
仲介者の運転で鋼鉄の馬(IRON HORSE)、赤い土埃にまみれたオフホワイトのランドクルーザー76 4ドア/セミロングで数百km走る。ルーフキャリア、渡河用のシュノーケルに背面ダブルタイヤ、燃料タンクも大容量なものに換装されている。聖地の入口で先住民族の案内人と落ち合うことになっている。事前リサーチでは入口から目的地の聖地までは徒歩半日の道のりとのこと。
ランクル内で僕はほっとする。すべてがネットワークで繋がっているこの社会で、自動運転ではなく人の手で辺境をひた走るこの古めかしい車の中はどこにも繫がっていない。
コロンブスが何年にアメリカ大陸を発見したといった単なる知識は今ではネットワークでいつでも検索できる価値のないものとなってしまった。重要なのは頭の中にどんな知識を蓄えているかではなく、知識や情報をどう組み合わせ、新しいものを生み出し続けるかに変わってきている。
その化身である量子端末(UO)は今もその機能を拡張し続けており、最近話題のアプリは不意の事故の衝撃を吸収するエアバッグ・アプリ。但し、消費電力が大きいという問題があり実用化に時間が掛かる見込と聞いている。
途中数度コンビニ併設のガソリンスタンドで休憩を挟む。辺りの樹木が少なくなり、赤茶けた地肌が見えることが多くなってきた。外気も大分、暑く乾燥してきたようだ。
仲介者は、言葉はあまり通じないがコンビニでペットボトルの水を買って来てくれたりと気の良い奴で心が和む。
指定の場所の手前でランクルを降り徒歩で指定の場所に向かう。
引き締まった細身の体躯に浅黒い肌をした先住民族の案内人は腰簔に腰の後ろに鉈を差した格好で木陰に立っていた。やれやれ。僕の予感は最悪な形で当たりそうだ。仲介者は僕の先に立って歩き、案内人と一言二言話すと僕の方に戻ってきた。すれ違い際、がっしりとした毛むくじゃらの右手でポンと僕の右肩を叩くと、右手の親指を上げてランクルの方へ去って行った。
案内人に視線を戻す。不意に彼が右手を空に掲げ、中空に現在地が青丸の輝点で示された周辺の3D地図が浮かんだ。と思う間に輝点が青の太線の軌跡を残しながら上下に躍動し目的地に到達した後、2度大きく瞬き動きを止めた。次に彼が右手を僕に向かって下げると地図が実物の大きさまで拡大しながら僕の上まで降りてきた。足元には青の輝く線が浮かび進むべき方向を示す青い矢印がその脇に明滅している。
-32Kか64Kの解像度だ。
僕が使っている量子端末(UO)より明らかに高性能であることに驚く僕に案内人はンダナだと名乗り握手を求めてきた。
「驚いたようだな。」
彼は都市部が最先端の科学技術を使っているという考えは幻想だと笑った。
道案内の青線に沿って、ブッシュを時折、刃渡り20cm位の堅木で出来ている鉈で切り払いながらンダナは先を進む。道(と言ってよければだが)の脇の、とある木に注意喚起が表示されている。僕が興味を示すと木の右斜め下の中空に新たに画面が浮かび、僕が読む速度でスクロールしながら詳細情報が表示される。どうやら鎮痛効果がある薬木のようだ。興味を惹かれ、しげしげと眺めているとンダナが少し先から戻ってきた。
「レモンマートルだ。詳しく知りたいのか?」
僕は首を横に振る。この量子端末(UO)の洗練度に驚いていると言うと、ンダナは量子端末(UO)は我々にとって真の意味で初めて役に立つ文明機器だと語った。
-我々にとって知識とはどこに薬木や狩場、水場があるか、その薬木は何の役に立つかというように皆で共有するものだが、量子端末(UO)を使えば今まで口伝えであった情報を詳しく共有できる。
ンダナは先に立って歩きながら辺りを案内してくれる。どうやら右手の赤茶けた砂漠を数キロ超えた先には乾季にも枯れない水場があるらしい。仲介者との会話で苦労したのと大違いだ。ンダナとの会話は量子端末(UO)を介しているがタイムラグを全く感じない上に彼の口の動きまで僕の母語に合わせて修正される為、違和感がない。
途中休憩を挟みながら数時間歩いた後、聖地に辿り着いた。
案内された聖地-ンダは、数百年前に岩にペイントされたものに拡張現実(AR)が重ねられていた。岩にペイントされた単純な模様や記号が変化、躍動し、ンダラ族の栄光と苦難に満ちた歴史を画像と音声で雄弁に語る。見入るとにわかに辺りが暗くなり、思わず空を見上げると昼のはずが夜空に星が煌めく。星座の形が浮かぶ。ンダラ族の星座は星々の繋がりではなく暗闇部分の形で示される。すなわち星は輪郭を表している。
ンダナが補足する。かつてンダラ族は起きている時間の90%以上を狩猟に費やしていた。芸術に掛けられる時間は限られており聖地にある模様や記号も単純なものにならざるを得なかった。だが、量子端末(UO)のおかげで祖先が模様に込めた思いや意味を精緻に再現出来る。
僕は骨董品の価値は物としては3割で残りは蘊蓄だという話をぼんやりと思い出す。
ンダナが続ける。かつて文明がもたらした車やら教育やら酒はわれらを堕落させるだけのシロモノだった-。
ンダナの話に首肯しながら僕は彼の隙を伺っていた。立入禁止を示す表示の先の岩に座布団のような形をした、僕の本当の目的である神聖な瞑想の座がある。僕は自分の演説に夢中になっているンダナが僕から目を離した隙を突いて瞑想の座への侵入を図る。しかし、寸でのところで気が付いたンダナの右掌から出た電撃を浴びることになった。スタンガンを上回る電撃に僕は気を失った。
焚火にくべられた小枝がぱちぱちとはぜる音で目を覚ました。
ンダナは手荒なことをしたことを詫び、ンダラ族伝統の苦い熱いお茶が入ったマグカップを僕に手渡しながら電撃の影響は治癒済と語る。我々の聖地ンダを守るため量子端末(UO)-正確には量子端末(UO)より大規模な量子システム-には保安装置も組み込んである。
大規模で高度なシステムを構築していることに驚く僕にンダナは、文明人は我々ンダラ族に対し先入観がありすぎると笑った後、すぐ本題に入った。
さて今回の君の行動だが、聖地ンダの不可侵地域に侵入した罪は重い。ンダラ族の長老に報告すると共に、HoW にもクレームを入れる必要がある。
そもそも、君が来る前にHoWの人間が聖地ンダに調査に来ている。HoWは重複調査をしないはずだし、調査は不正や事故等を考えると複数で行うのが基本。単独行で重複調査。始めはHoWの名を騙る詐欺や聖遺物を狙った泥棒かと思ったが背景調査の結果、君はHoWの正式な一員であり、正式な調査であることも分かった。そこで違和感が残るものの受け入れることにしたのだと続ける。
だが、どうやら君には別の目的があるようだとギラリと双眸を光らせ、君の本当の目的は何だと尋ねる。
-真実を話すしかない。自分の秘密や悩みを話して良い相手は2種類。ごく親しい相手か今後二度と会うことはない相手かだ。もちろん目の前の相手は後者だろう。
僕は5年前に事故で亡くした娘のマナにもう一度会いたい、と話し始めた。恐山のイタコを始め、世界の、死者に会えるという場所を探し、訪れたが会えなかった。ンダラ族の聖地では亡くなった人に会うことができると聞いたと語った。
しばしの沈黙。ンダナは無表情に僕を見詰めたまま。
沈黙に耐えかねて僕はンダナに、それにしてもすごい量子システムだなと間を繋いだ。
「ドリーミング・ワン(Dreaming One)という。」
ンダナが話し始めた。
我らンダラ族は本来の場所を追われ誇りや伝統を失い続けて来た。
-知っている。
僕は思った。1492年コロンブスによるアメリカ大陸発見に代表される大航海時代以降、文明社会の荒波を受け先住民族は多くのものを失ってきた。そして、それは現在も続いている。だからこそHoWはそれらを保存することに力を入れている。
特に失われた世代と言われている、同化政策により親元から引き離され開拓者の学校教育を受けた世代以降、伝統の継承が十分には為されず、劣化が進んでしまった。もちろん、踊りや唄、儀式、文様等、代々受け継がれてきたものは残ってはいるが、その意味は十分に伝わっているとは言い難い。
際限なく人の欲望を刺激、吸収して成長し続ける近代物質文明社会と対峙する劣化した伝統社会。特に刺激や変化を求める若者達は伝統社会より文明社会にどうしても惹かれていってしまう。そして、その結果起こる伝統の更なる劣化という悪循環。
その上、彼ら先住民族は、先祖伝来の土地を失った代わりに政府から補償を受け取ってきた。しかし金銭を受け取ることで一体何を得ることが出来るのだろうか。バラ色とは言えない暮らしの中、身の丈を超える金銭に負け、アルコール依存や薬物中毒になる例も多くあると聞いている。
ンダナが話し続けている。
我らの伝統と誇りを取り戻す為にこのシステムを開発した。今に残る写真や絵、記録や儀式、唄、口伝等、あらゆる情報を蒐集、解析、関連性を推察し失われた環(Missing Link)を繋ぎ合わせ、失われたものを復元しようとしている。
さて、君の先ほどの話に戻ると聖地ンダ(ここ)は観光客向けの為、死者に会うことは出来ない。だが、聖都ンダラの聖地では親しい者が真に望めば死者に会うことが出来たと聞いている。
ンダナの言葉に僕はがっかりする。
聖都ンダラは今のンダラにかつてあった都市だ。既に失われている。
僕に構わず、ンダナは続ける。
今のンダラは聖都ンダラの上に開拓者が建設したものだ。開拓者には聖都ンダラを返還するよう求めているが果たせていない。残された土地は僻地のみ。宝玉を失った王冠のようなものだ。ンダラ族の真の価値、輝きは遥か昔に失われてしまっているのだ。
-人間にとって有益な場所は限られている上に、その場所はどんな民族でも変わらない。過ごしやすい気候。平坦で水があり、周囲への交通の便も良い。そんな宝石は返すことが出来ない為、金銭で代替することになる。
そこで、我らは聖都ンダラを量子上にデジタルツインとして再構築(Reconstruction)することにした。
トオル。改まってンダナが言った。
さてここからが相談だが、量子上の聖都ンダラに行ってくれないか?
何故なら旧ソ連が崩壊し情報公開された後、西側諸国が自らの諜報活動を検証した結果、多くの誤りがあったと判ったように、再構築(Reconstruction)した聖都ンダラは望んだものとは違う恐れがある。
-イザナギが黄泉の国で会ったイザナミのように。
僕は思った。
君が聖都ンダラを訪れ、聖地で亡き娘に会い、現実世界に戻ってくれば、再構築(Reconstruction)した世界が本物だと判る。聖地を汚した罪も不問にし、HoWへの報告もしないことにしよう。
相談と言いながら、ほとんど脅迫だ。おまけに量子化と復元は物や動物では成功しているが、今まで被検者がいなかった為、人間では実験すらしてないそうだ。が、実験が成功してようが失敗してようが僕には選択の余地はなさそうだった。
翌日、ホテルまでンダナに車で送ってもらう。やっぱりオフホワイトのランクル76。赤い土埃にまみれている。ナダラ族も運転できるのだなと不謹慎な考えが頭にもたげるが急いで打ち消す。
脅迫めいた相談を受けた後の帰路は往路と違って、気分の良いものではなかった。動物実験は成功しているとはいえ量子化された後、元に戻れる保証はない。蠅と合体してしまうことだってあり得る。
それでも首都ンダラのビル群が見えてくる頃には気持ちの整理がついてきた。僕を待っている誰かがいる訳でもない。僕は娘に会えるのであれば、それで良かった。
ホテルに戻った後、僕はホテルの予約を延長する。幸い、部屋を移らずに済むそうだ。上司には出張期間の延長を申請した。あれこれ理由を聞かれると面倒だと思っていたが、追加調査に同意する旨のンダナからの補足資料が効果を発揮し、ルーチンの事務処理の中に紛れ無事、上司の決済も下りたようだ。
-娘。もうすぐ会えるよ。僕は思い、いつもより少しだけ深い眠りにつく。
数日後、朔の夜にホテルのロビーでンダナと落ち合う。
びっくりマークの下の人物はフード付きの灰色のパーカーにチノパンという普通の格好の上に肌の色が前会った時と異なる。
驚く僕にンダナは先日の格好は観光客向けのサービス品。都市部ではこちらの方が好都合だと哀しそうに微笑んだ。
ホテルを出てンダナと中央通り(St Georges Terrace)を市中心部(City Centre)に向かって並んで歩く。ンダナがポツリポツリと話し出す。ンダナは実はクオーター。文明社会とンダラ族両方に疎外感を感じやすい。そのため、自らの起源を求めドリーミング・ワン、そして聖都ンダラ復元(Dreaming Zero)に邁進している。誰よりもンダラ族の伝統と将来を深く憂いているンダナだが、皮肉なことに急進的だと伝統を重んじるンダラ族重鎮達から白眼視されている。ある意味、ンダナと僕は失くしたものを探している似た者同士だ。
ンダナが言う。量子上に復元した聖都ンダラ(Dreaming Zero)は長老には大地の理に反すると言われている。君が聖地を訪れ、亡き娘に会い、戻ってくれば、長老に再構築したもの(Dreaming Zero)が大地の理に反するまがい物ではなく本物であると説明出来る。
ンダナがンダラ族のアプリ群(Dreaming Zero+One)を僕の量子端末(UO)にインストールする。ロンリープラネット(Lonely Planet)のような聖都ンダラの案内が開かれる。内容の半分位は聖地ンダからの帰路にンダナに聞いた話だろう。
この国の首都ンダラは他国に比べコンパクトにまとまっているが、聖都ンダラはさらに数街区小さい。中央通り(St Georges Terrace)をしばらく歩いて行くと現代の都市ンダラに重なり合って聖都ンダラの街並みがぼんやりと群青色に揺らいで見えてきた。-呆れる程、壮大な量子システムだ。これなら人間も量子化出来そうだ。(こっそり動かしていた嘘発見器アプリで嘘は付いていないと判っていたものの)ンダナの話に半信半疑だった僕も信じる気になってきた。同時に量子化されることが怖くなり、逃げるなら今だ、という声が頭の中を響き渡るが、寸でのところで思い留まる。
聖都ンダラの入口でンダナは立ち止まり、僕に向かって両腕を広げて言う。
「聖都ンダラ(Dreaming Zero)にようこそ。今夜ドリーミング・ゼロは全力でトオルをサポートする。」
そして、ンダナはドリーミング・ゼロの全能力を僕のサポートに向けていることによる残容量不足に加え、不測の事態に備える管理者が必要なことから、本当は一緒に行きたいのだが一緒に行くことが出来ないととても残念そうに言った。
-量子化と復元には相当のエネルギーが必要なようだ。
自分に不利な情報もあえて開示するンダナの姿勢に接する内、彼を信じても良い気がして来ていた。
「必ず帰って来い。帰ってきたら一緒に長老に会ってもらう。私はトオルが帰って来るのを待っている。」
-待っている人がいるのは本当に久しぶりだった。
現実の歩道の感覚を確かめるように踏みしめながら、ゆっくりと市中心部(City Centre)を進んでいくと聖都ンダラの中心、聖地がぼんやりと蜃気楼のように見えてきた。聖地は本宮・参拝路・奥宮で構成されている。奥宮は丘の上の教会に重なり合っている。
-人類にとって聖なる場所は宗教や人種に関係ないらしい。
丘を登って行く長い参拝路は、削られて住居用中層マンションが立ち並んでいる。そして、本宮(と言っても掃き清められた砂地だが)は丘の麓、中央通り(St Georges Terrace)の車道を挟んだ反対側のセブン・イレブンの脇にある。
本宮に入る前に身を清める。身を清める聖なる池は道路の真ん中だ。歩道の端で服を脱ぎ始めると向こうから歩いてきた婦人が悲鳴を上げて逃げて行った。全裸になり道路の真ん中で決められた作法に従って三度身体に水を掛け、禊をする。
朔の夜とは言え車通りはある。大きなスキール音に左を見ると乗用車が急ブレーキを掛け、迫ってくる。目と口を大きく開けている運転席の若い男と目が合う。思わず身を竦めると乗用車と僕の間にエアバッグ・アプリが作動し、目に見えない空気の壁に激突することになった乗用車が反対車線に跳ね飛ばされ引っ繰り返った。ンダナの声がする。
-今夜ドリーミング・ゼロは全力でトオルをサポートする。
量子化されるのが怖くて仕方がなかった僕の心がほんの少し軽くなる。
古より定められた儀式の進行に従って、僕の量子端末(UO)にインストールされたアプリがドリーミング・ゼロと連携し、僕の身体をコンロにかけた鍋の中身のようにコトコトと量子化し透明にしていく。身体を分解されているはずなのに不思議なことに痛みは感じない。身を守ってくれるはずの量子端末(UO)にこの身を溶かされることになるとは思わなかったな。聖都ンダラが徐々に実体化し首都ンダラが薄らいでいく。遠くから聞こえて来ていた救急車とパトカーのサイレンの音がラジオの同調がズレるように遠ざかっていく。
上り坂の参拝路を素足で、ひんやりとした土の感触を確かめるように踏みしめながら、ゆっくり登っていく。現実世界では、僕は空中を歩きマンションの壁を抜けている。壁を抜け出てきた半透明の僕を見てダブルベッドの上で睦みあっていた若い男女が抱き合って悲鳴を上げる。
キャスパーだったかな。僕は昔マナと居間で一緒に見たハリウッド映画を思い出す。最後にキャスパーは人間の子供になるんだったかな。僕はおじさんだけど。
奥宮が見えてきた。もう教会は見えない。量子化が相当進んだようだ。奥宮と言っても赤い巨石の下にくぼみがあるだけ。くぼみの中ほどに魂の座がある。
魂の座に辿り着く。静かだ。世界は深い青の静寂に包まれている。座禅を組んで瞑想に入る。身体の次は精神を解放する番だ。
何もない始まり、天地や動植物の生まれた創造、それを語り継ぐ伝承の時代。
幾多の時代の数多の人の営みが寄せては返す波のように遠くから聞こえてくる。揺りかごのようにその音に導かれながら現在へ。
自分自身がラジオの受信機になったように様々な方向からの様々な声に耳を澄ませる。か細い娘の存在をその中からゆっくり、ゆっくりと手繰ってゆく。
遠くの方からようやく探し出した。娘が駆け寄ってくる。ぎゅっと抱きしめる。娘のぬくもりが伝わってくる。そして長い間抱擁。
やがてマナが顔を上げた。少し成長した姿になっている。亡くなった時より大きい?もし今、生きていたらこの位の背格好だろうか?
マナがクリクリとした瞳で僕の眼を見つめて言う。
「パパ、会いに来てくれて本当にありがとう。途中色々大変だったでしょう。」
僕は言う。そんなことはないよ。それよりマナにずーっと伝えなきゃいけないと思っていたことがあるんだ。
-パパはずっと後悔しているんだ。あの時、きっと、もっと何かできたはずなんだ。
「そんなことはないよ。パパは精一杯やってくれたよ。」
-でも。-でも。僕は涙声になる。言葉にならない。何だか僕の方が子供みたいだ。
僕がいつもやっていたように、マナが僕の背中に両腕を回して、右手で僕の背中をポンポンと優しく叩いてくれる。
ややあって僕が落ち着いてくるとマナが言った。
「パパはまだここに来るべきじゃない。ここに長く居てはいけないよ。」
-やっぱり一人で帰らなきゃいけないのか。
本当はずっとここでマナと一緒に居たい。
僕が思っていることが伝わったのか、僕の不安を打ち消すようにマナが僕の目を見てにっこりとほほ笑んだ。
「またいつでも会えるから。」