2)事件
ぜひ、聖女様の再来であろうローズ様に、是非ともいらしていただきたいという聖アリア教会大司祭の強い要望も強い後押しとなった。
ローズを慰問に向かわせるにあたり、問題はいくつかあった。その一つ、ローズの警護はレオンが保証してくれた。アレキサンダーとロバートが次に心配したのは、ローズが何か仕出かさないかということだった。
大司祭の提案もあり、まずは育ったグレース孤児院の慰問から始めることになった。聖アリア大聖堂では、必ず大司祭が出迎えてくれた。慣れたころから、王都にある救護院、孤児院、病院、教会、貧民街と訪問する場所を広げていった。どこにいっても、人込みに埋もれてしまう小さなローズは人気者だった。
子供たちに語り掛け、病者をいたわり、老人に優しい言葉をかける。それらの人々を世話する施設のものたちへの感謝も忘れない。子供だからと気を許した相手から、苦労していることを上手に聞き出し、改善へとつなげることもできた。
必ずその際に、王太子妃グレースの名前を出し、人々のライティーザ王家への感謝を誘うことも忘れない。周囲の心配をよそに、ローズは代理としての務めを十分に果たしていった。
「優秀な王太子妃代理だ」
アレキサンダーは、上機嫌だった。王太子宮へも、王太子妃グレースやライティーザ王家への感謝を口にする人々の様子が報告された。
「あなたは、持ち運びが簡単だということを忘れないでください。何かあってからでは遅いのです」
ロバートはローズに言い聞かせていた。随分な言い方だが、ローズはときどきロバートに持ち運ばれているため、素直に返事をした。
アレキサンダーは、ローズの慰問に、常に近習の一人を同行させた。付き添いの近習に手を引かれて歩くローズの姿は、可愛らしいと大人気だった。誘拐を防ぐため、顔を知られないようにローズは常に目元をベールで隠していた。ベールで目元を隠しほほ笑む少女の絵姿が出回ってしまった。絵姿を禁止する案もあったが、下手に禁止して、素顔の絵姿を手に入れようというものが現れては問題だ。仕方なく許可された目元をベールで隠したローズの肖像画は、王太子妃の肖像画に続く人気となった。
その日も、ローズは、慰問用の覆いのない馬車に乗り、歓声をあげる人々に向かって、教えられた通りに手を振り、笑顔をむけていた。そのとき、ローズは同行していたエドガーにいきなり抱き寄せられ、外套でかばわれた。その外套に何か、軽いものがぶつかった。
「捕らえろ!」
近衛兵の鋭い声が飛んだ。騒ぎが収まったころ、ローズはようやく外套から出してもらえた。
「逃がしたか」
「この人込みでは」
近衛兵たちの短い報告のやり取りが聞こえた。近衛兵たちが、抜刀したため、人だかりは遠巻きになり、静まり返っていた。
「ご無事でいらっしゃいますか」
エドガーのよそ行き用の言葉遣いに、ローズの緊張がほぐれた。
「私は大丈夫です。あなたは」
「外套にあたっただけです。誰かが卵を投げつけてきたのです。ローズ様の御身に何事もなく、幸いでした」
別人のような話し方のエドガーが、ローズに見せた外套には、確かに卵の殻と割れた身がついていた。
「卵を投げつけるなんて」
孤児院にいたころ、卵は貴重な食べ物だった。めったに食べられなかった。孤児院への寄付金の横領が発見されるまで、食事は本当に満足に与えられず、ずっと飢えていた。栄養なんてなかった。ちゃんと栄養があるものを食べられたら、病気になる子も少なかったはずだ。病気になっても死なずに済んだ子もいたはずだ。
王太子宮でも、卵をぶつけられたことがあった。丁度、ロバートがアレキサンダーの視察に付き従い王太子宮にいない頃で、心細くなり、泣いてしまった。
ローズの目から思わず涙がこぼれた。
「ローズ様、大丈夫ですか。そんなに怖かったのですか。だったら、予定を変更して帰りましょう」
心配した司祭がいった。
「違います。大丈夫です。怖かったのではなくて、卵を無駄にしてしまう人がいると思うと悲しくて。他の悲しいことも思い出してしまって」
一緒に遊んだ子供たち。食べ物では喧嘩もした。分け合ったこともある。でも、沢山死んでしまった。
「孤児院にいたころ、卵は貴重だったのです。横領が是正されるまでは特に、食べるものもあまりなくて。だから、卵を無駄にする人がいるなんて、悲しくて、すみません。動揺してしまいました」
ローズはハンカチで涙を拭いた。
「この卵は、本来、誰かの口に入って、その人の血となり肉となるもののはずでした。飢えた人の口に入ればどれほどの助けになったか。それがこんなことに、食べ物を無駄にする人がいるなんて、それが悲しいのです」
静まり返った場にローズの声が響いた。
小柄なローズは幼く見える。卵をぶつけられそうになった幼い少女が、飢えた人のために涙を流す様は、見物人たちの心に響いた。
ローズは大きく息をして、涙をこらえた。悲しんでも卵は元に戻らない。何も改善しないのだ。泣いている場合ではない。今日は慈善訪問で、王太子妃様の代行として、援助のための食料を、病院に届けるのだ。自らにそう言い聞かせ、一度目を閉じたローズがゆっくりと目を開けた。
「大丈夫です」
慰問の日の今日は、グレースの選んでくれたドレスで、彼女が編んでくれた髪だ。グレースは、娘が生まれた場合の練習だといって、サラに教えてもらいながら、ローズの髪をきれいに結ってくださる。アレキサンダーとの成婚からずっと、グレースは、慈善活動に熱心に取り組んでおられたと、サラは教えてくれた。実際、ローズがいたグレース孤児院にも来てくださった。横領も解決してくださった。
その代行を任されているのだから、ちゃんとしないといけない。泣いてはいけない。こぼれようとする涙を、ハンカチに吸わせ、ローズは深呼吸した。
「大丈夫です。行きましょう。私はちゃんと、王太子妃様からお預かりした物を、病院に届けるお役目があります。王太子妃様は、慰問をとても大切にしておられます。大切なお仕事を私に任せてくださいました。飢えた人を救うことのできなかった卵のことを嘆いて、この物資を届けないというのは、いけないことです。私に任せてくださった王太子妃様のご期待に背くことになります。私は先ほどの、卵を無駄にした人たちと同じになってしまいます。出発しましょう。もう、大丈夫です」
小さなローズが飢えた人のために涙を流し、病人のために物資を届けようとする健気な様に、見守る人々は心を打たれた。
役目を果たすのに必死のローズはそんなことには気づかない。グレースに教えられたことを、ローズは心の中で繰り返した。背筋を伸ばし、笑顔をうかべ、道行く人に手を振る。ローズは、自分に言い聞かせてから前を見た。心配してくれている顔がいくつもこちらを見ていた。ようやく微笑んだローズに、周囲の人たちはまた歓声を上げた。
「わかりました。ローズ様」
司祭はそういうと、出発を合図した。