語り伽
身近な事柄から話を始めるのは、軽い準備体操のようなもの。
ここからぐっと遡って、神代の昔。この世界が生まれた時のことを語る伝説へと、展開していくのが私の手順だ。
大地が生まれ、星が生まれ。
風が唸り、雨が踊る。
人々は笑い、歌が始まる。
世界を覆い尽くすような壮大な神話から、幾世代にもわたる長大なサーガ。そして、各地に伝わる民話へと語り続けていると、目の端に灯が見えて。
物語を語り続けながらも、意識の片隅が現実へと戻ってくる。
レオンが戻ってきた。
ということは……卵に語り始めてから、ほぼ一日が経とうとしている。
チグラの出入り口から少し離れた辺りに燭台を置いて、レオンが中を覗き込んできた。
今、語っている『ハチの縄張り争い 夏の陣』は、あと少しで終わるので、キリのいいところまでレオンには待ってもらう。
仕事中はお互いに、卵が最優先だ。
『めでたし、めでたし』で昔話を切り上げると、待っていたようにチグラの出入り口から、綿紗を数枚敷き込んだ籠が差し入れられた。
抱えていた卵を静かに置いた籠をレオンに返してから、ゆっくりと体を起こす。
一日中、横たわっていた身体が少しふらつく。
寝具の上に突いた手で支えながら、ひとまず横座りの姿勢へ。
全身を巡る血がゆっくりと頭の方へと昇っていくのを確認しつつ、軽く身づくろいを整えて。
レオンが差し伸べる左手にすがるようにしてチグラから出た私は、ぐっと伸びをして身体をほぐす。その間に、レオンはさっき置いた燭台から、別の燭台へと火を移す。
出入り口を背にして、左側の壁沿い。燭台とさっきの卵を入れた籠が、膝の高さほどの台に並べてあって。そこから十歩ほど右には、私が食事をするための座卓が置いてある。
新たに火を移した方の燭台を手にしたレオンに、座卓へと誘われる。
卓上には、レオンの家から持って来られた少し大きめのミルクパンが、鍋敷きの上で私を待っていた。
鍋の蓋を開けると、スープの優しい香りが立ち上って、お腹がキュッと鳴き声を上げる。
添えられていた小さめの杓子でお椀によそう。かなり煮込まれたスープには、小さなパスタと魚のすり身、それから……これはニンジンの味かな?
ほどよく冷めたスープを、一口、また一口と匙で流し込んでいく。噛む必要もないほど柔らかい”食事”は、飲み込む傍から体に浸み込んでいく。
卵を育てる期間、私の体は、機能のすべてを”語ること”に向ける。
食事は日に一度。噛む手間のない鍋一杯のスープのみ。それで事足りるのは、元来が少食な鳥類だからかもしれない。
排泄もそれに伴って食後に一回だけになるし、睡眠は……意識の半分を眠らせて、起きている部分では見ている夢をそのまま話して聞かせるような具合だ。
こんな育て方をするから、卵が無事に孵ったあとは、一か月近くの休養を必要とする。
その代わり、他の卵屋で育つよりも短期間で育っているらしい。と聞いたのは、気象大臣の下で天文観測の仕事をしているドラゴンの息子からだったか。
養父母に育てられる間に、学問所で才能を見出され、国内で唯一の大学へと国費で進学させてもらえた息子だ。
そして、私が食事をしている間。
燭台の側では、手袋をしたレオンが卵の状態を観察している。
夜目の利く狩鳥の私と違ってレオンは、窓のないこの部屋の中では、昼間でも灯りが必要だ。
まだ一日目だから、さほど卵には変化はないのよね……と思いながら、さらにお代わりをお椀によそう。レオンと卵の様子を眺めながら、匙を口へと運ぶ。
食べ終えた匙を座卓に戻して、空になったミルクパンに蓋をする。本来、蓋のないミルクパンに合う蓋を誂えてくれたのは、レオンの幼馴染の金物屋さんだ。スープをここまで運んでくる間に零れたり、中身が冷めたりといったトラブルを相談したら作ってくれたとかで、五年ほど前には持ち手も修理してもらったと言っていたっけ。
あ、食後は、この話から始めようかしら。
食事の後は少し体力が戻っているので、お手洗いを済ませた後で入浴。
入浴時だけは、いつも鳥の姿に戻っている。隻腕の身には、水を汲んで片付けて……は大変なので、少ない水でできる。水浴びの方が好都合。
軽く毛づくろいをしてからヒト化すれば、髪もほとんど乾いているので、用意してあった服を身に着けて、汚れ物は簡単に畳んで籠に詰めておく。これは明日、レオンが町中の洗濯屋さんに出して来てくれる。
「終わった?」
小さなノックに応えると、レオンがお台所に入ってきた。水浴びならお台所で済むのも簡単でいい。この家の浴室は一昨日みたいに、子どもやレオンが泊まる時くらいしか使わない。
「卵は、異常ないみたいだね」
そう言って、脱いだ手袋をテーブルの端に置くと、水差しからカップに注いだお水を飲んでいる。
私も一杯だけ、お水を飲む。
休憩を終えてチグラへと戻った私は、寝具の隅に籠ごと置かれていた卵を掬い取って、空いた籠をレオンに返す。
そして、また卵と二人。
物語の世界へと、没入する。




