水晶
競作企画『異風祝』参加作品です
「ヘンリエッタ、新しい仕事だよ」
レオンがそう言ったのは、次の旅へと出かけていく息子を見送った後の玄関先でだった。
レオンは今朝からどこにも出かけていない。つまり、依頼を受けてから、少なくとも丸一日が経っている。
これはたぶん。一年ぶりに帰ってきた息子がいる間は、仕事の話をしなかったのだろう。
食卓に戻って腰を下ろした私の前に、レオンは上着の内ポケットから取り出した小箱を置いた。
レオンの指三本分サイズの真四角な箱の天面に型押しされた紋章は……
「自然保護大臣のアシュノーム様ね?」
彼にとって上司とも言える方からの依頼である事を示す小箱の、青いビロードの手触りに軽い緊張を覚えつつ、彼の手を借りてそっと箱を開く。
中には、レオンの親指の爪ほどの水晶が一つ。絹の台に埋もれるように座っていた。
私の隣に座り直したレオンが、
「アシュノーム様のお嬢様って、ヘンリエッタは覚えている?」
こちらを覗き込むように、訊ねてくる。
「ええ。覚えているわ。お生まれになられた時に、お祝いの依頼を受けたわね?」
「そう。そのお嬢様のお輿入れが決まったようだよ」
あら、ステキ。今度も、おめでたいお話に関係するお仕事なのかしら。
左の手で、緩く胸元に流れる髪を梳きながら考える。
お嬢様がお生まれになられて、はや十二年。十五歳の成人の儀を控えてのご婚約は、さほど珍しい話ではないけれど。
「どちらへ嫁がれるの?」
好奇心が詳しい話を、レオンにせがむ。
御身分から考えると……副宰相様の御子息かしら?
「東の大国へ行かれると、お聞きしたよ」
潜めたようなレオンの声に、知らずと背中が強張る。右の肩が痛む。
「ヘンリエッタも知っているように、かの国は気候も風土も大きく違う」
彼の言葉に頷いた私は、右肩をぎゅっと掴んだ。
若い頃、旅芸人の一座で吟遊詩人をしていた私は、東の大国で大嵐に遭遇した。
住居である馬車ごと吹き飛ばされた私は、右の肩から肘に大きな怪我を負った。
辛うじて一命は取り留めたものの、狩鳥の獣人としてのアイデンティティである翼の片方を失なった。
片翼の鳥として生きるよりは、隻腕の人で生きた方が生きやすいと考えて。
現在では、胸から腹にかけての茶色の和毛にのみ狩鳥としての名残を残した人の形で、ほぼ毎日を過ごしている。
肩で深く息をついて、古傷の痛みを意識から追い出す。私が落ち着くのを待つように、しばらく無言で水晶を眺めたあと、レオンは再び口を開いた。
「アシュノーム様は、お嬢様のお供に……と、仕事の依頼をしてこられたのだけど。この仕事、受ける?」
遠い異国の地へと嫁ぐ娘の、心の安寧を祈って……という依頼だろう。
「分かったわ。受けます」
私の返事を受けて、レオンが仕事の準備を始める。仕事部屋を整えてもらう間に、私は緩いワンピースの仕事着に着替えて。
寝室から戻ると、食卓の上には白磁の水差しと二つの盃が用意されていた。
水差しから盃にお水を注いで、片方を私の足元の床に座っているレオンに渡す。
互いの目を見ながら口をつけた盃を、一息にあおる。
これは私たちの、仕事を始める前の禊だ。
レオンが慎重に水晶を取り出す。受け取った箱を食卓にそっと置く。
音は極力、立てない。この後の仕上がりに影響してしまうから。
そして、私の息が水晶に掛かってもいけないので、口元に当てたハンカチ越しに息を吐く。
文字通り息を殺した私の前で、レオンの大きな両手が優しく水晶を挟む。
呼吸、二つ分。レオンが瞑目して。
ハシバミ色のその目がゆっくりと開かれると、彼の両手も動き始めた。
最初は立てた手の中で、水晶を転がすように上下に擦り合わせる。
二十往復ほどしたところで両手が横に寝て、団子でも丸めるような動きに変わる。
レオンの話では、ここからが難しいポイントらしい。
少しずつ、少しずつ。掌をくぼませるように空間が作られる。
空間を広げるスピードが早すぎても、遅すぎてもダメだと聞く。水晶と呼吸を合わせるようにして、手から放たれる魔力を伝えるための、適切な空間を生み出すのがコツだとか。
これは魔力を持つヒトにしかできないことで、獣人の私には本当にわからない世界なのだけど。いつも、見ているだけでも肩に余計な力が入ってしまって、こちらまで非常に疲れる。
レオンの手が止まったのを見て、肩の力を抜く。一つの山場を越えたようだ。
ゆっくり十を数えるくらいの間、深い呼吸を繰り返したレオン。
あとは仕上げの一息。
水を掬うような形に開いた両手のなかへ、そっと息を吹きかける。湿度とスピードを完璧にコントロールすることで、受けた依頼に指定されている重要な要件に応える。
ここが彼にとって、腕の見せ所
周囲の空気を揺らさないよう、私は息を止めて見守る。
出来上がった。
無言で差し出された彼の手の中には、リンゴほどの大きさの白い卵があった。