化かし088 絡付
シマハハの神化の儀式の準備は時間こそ掛かったものの、順調に進んだ。
島内の清掃が済み、罪人たちも不必要な罰から遠ざけられ安心の気配を見せ始めた。
旧式の結界は陰陽師と神童の手により解除され、彁島は幽やかから、確けき存在へと移り変わった。
同時に、島を抱く海域も凪を迎え、空は晴れを披露した。
「この島の名前ってさ“彁島”って書物に書いてあったんだけど、この字はなんて読むの?」
ミズメはふと思い出し、土に記して訊ねた。
「“彁”? 見覚えがない文字だな。妾も朝廷が定めた島の呼び名は覚えておらぬ。“彊”や“謌”との取り違えにも思えるがの」
シマハハが別の難解な文字を記す。
「それはどういう意味の字なんですか?」
ひらがな娘が訊ねる。
「“彊”は強い弓を指す語だ。転じて強いることや努力することを意味する。“謌”は歌の意だ。特に、音色に合わせて声を発することを指す」
「あたしはこっちが好きかな。努力はしないけど」
ミズメは“彊”の字を指す。
「私はこっちかなあ。でも、どっちもミズメさんっぽいですよね」
オトリは“謌”を指した。
「妾はなんでもよいがな。どうせ妾が神となれば神の意志により名付け直されるのだ。神に至ってからの妾の名も考えておる。等活黒縄衆合叫喚大叫喚、焦熱大焦熱の無間地獄……あぶだにらぶだあたたのかばば、こばばのうらばのはどまの摩訶鉢特摩地獄大母神だ。どうだ、格好良かろう?」
いつぞや仏門の鬼から聞いた地獄の寄せ集めが反復される。
「本当にそれでいくの? 長くない?」
長さ以外にも色々と突っ込みどころはあったが、実際にその名がシマハハの口から出たことに驚く。
剽軽な性分の二鬼の考えた冗談だと思っていたのだ。
さて、与太話と共に島の生活の数日が流れ、皐月が満月の夜。
翼の物ノ怪が岩礁に立つ。
ミズメは穏やかな南風と潮泡の音色に耳を傾けながら、世に禍を撒かんとする宿敵を見上げた。
「なんなら、今来てくれてもいいんだけどね」
見事な初夏の星空と、そこに君臨する望月を一笑に付す。
独りきりでの修練。
詠歌に相応しい情景であったが、今の彼女が編みあげるのは言葉ではなく、陰陽両の気であった。
満月の魔力が己の物ノ怪の性分に呼び掛け、本来ならば陰に大きく傾く時期。
それでも天狗たる娘の発する二色の気は均衡を崩さない。
「まるで巫女と鬼が戦ってるみたいな気ですね」
声に振り向けば相方が立っていた。
「休まなくても平気ですか? シマハハ様の神化の儀式は明日の朝ですよ」
「オトリこそ、早く寝ないと明日起きられないよ」
「ミズメさんが起こしてくれるので平気です。なので、早く寝てくださいよ」
「当てにしてたのかい」
寝穢い相方に苦笑するミズメ。
「あたしはもう少し調子を整えてるよ」
視線を海の闇へと戻した。
しかし、背後の気配がは消えない。
「ちゃんと朝は起こしてあげるからさ」
「そうでなくって。……ひとつだけ質問いいですか?」
「いいよ」
「ミズメさんは勘と経験……“お約束”だって言いますけど、本当に帶走老仙は現れるのでしょうか?」
もっともな疑問である。
「んー、根拠は他にもあるんだけど、笑わないで聞いてくれる? それと、怒らないで」
「笑わないし、怒りませんよ」
「夢を見たんだよ。連中がここへ来て、あたしに返り討ちにされる夢をね」
不確定に加えるにはあえかなる材料。だが、夢を反芻し続けたミズメには、もはや確信以外の何物でもなかった。
「夢……」
――ま、納得しないか。
前夜になり、計画の根拠が夢だと聞けば、誰しもが怒るだろう。
「ふうん……」
なにやら笑い含みの「ふうん」である。
「分かりました。では、先に戻っていますね」
オトリは納得するとさっさと引き返して行った。
文句のひとつも出なかったが、よくよく考えてみれば相手は巫女だ。
卜占や予知のたぐいを根拠にしても問題はないのであろう。
再び練気の行に戻る。そのまま朝まで続ける気である。
恐らく相方は寝床でちょっとした語らいの夜伽を期待しているのであろうが、これがお互いにとって一番良いのだ。
男根を持った物ノ怪の娘は、満月の夜は不用意に相方のそばで眠るのを避けたく思う。
ミズメは“どこからともなく”弓を取り出し、天の的に向かって弦を引いた。
精神を統一し、己の中に巣食う魔性と、性なる煩悩を霊気に挿げ替え、寝床で伏して待つ娘を想い消す。
無間の時の中、全ての邪なるものを支配し滅し、その支配すら滅し、やがて支配者たる我をも滅する。
矢がひとりでに指から離れた時、月はもう彼方であった。
その刹那に、相方が独り寂しく夢に落ちたことを悟った。
ミズメは行を中断し、シマハハの館へと戻った。
緊張と満月の昂ぶりで眠れずにいた豆狸と挨拶をかわし、座敷で寝息を立てる巫女の横へとぴたりとくっつき座る。
星降りの小太刀を抱え、天狗は眠りに就いた。
翌朝。ミズメは眠ったことを少しばかり後悔した。
また夢を見た。計画の根拠である夢の続き。
島に再び邪気が溢れ、妖しげな手が巫女たちの足首を掴む夢。
そして黒髪は溶けるように地に沈んでゆき、ミズメは伸ばされた手を目掛けて急降下を仕掛ける。
届くか届かないかというところでの目覚めであった。
絡みつくような不快な汗。
寝穢い娘は悪寝相も発揮したか、こちらの葉佩に顔を突っ込んでいる。
「起きろい!」
挨拶代わりに頭を引っぱたく。次は落雷の真似事をお見舞いしてやろう。
ところが、予期せぬできごとが起こった。オトリが素直に顔を持ち上げたのだ。
ただし、彼女の口の端から葉佩へ糸が引いている。絡みつく涎である……。
「ばっちいな!」
もう一度引っぱたく。「痛い!」との苦情。
「ほれ、約束通り起こしたよ。顔を洗って健康体操でもして、しゃきっとしな」
巫女を立たせて朝の日課。いよいよ儀式が始まる。
“神化の儀式”とは銘打ってはいるが、従来そのような神事はない。ゆえに決まった型を持たない。
儀式で島自体を神殿や祠に見立て、大漁の成果を御供えにした。一応、ミズメの隠し持っていた酒も神酒として捧げられた。
あとは、高天國の都合の良い時間……つまりは午前中に、天から見ても目立つように清く発気し呼び掛け、寿ぎのように道が通じたのを確認したのちに、神への仲間入りの許しを乞う。
ただそれだけ。形式も無く、験しの前例もない。
夢を根拠にするのも不安定なものであるが、そもそもの発案者の巫女も、それを承諾した元巫女も案外に適当に考えていたのであった。
しかし、優秀な二巫の発気は早々に高天の神々の目に留まり、神もまた人手不足を嘆いていたらしく、天からシマハハへと莫大な神気が注がれた。
少々安売りではないかとその場にいた誰しもが突っ込んだが、ことは上手く運んでいる。
すなわち、今後の予定も狂いなく行われるということの証明でもある。
「神に至ったといっても肉があるゆえか、いまいち実感がないのう?」
気配だけ神へと変じたシマハハは己の身体を検めながら首を傾げた。
「目に見えるほうが護りやすくて助かります」
オトリがそう言うと、ミズメは翼震わせすぐさま飛翔した。神童と陰陽師も散る。
血脈の結界が展開され、巫女と新たな神を包んだ。
ミズメが視線を上げれば、岩石の塔の半ばにふたつの人影が立っていた。
「待ってたよ。おふたりさん」
一方は怪力少年楸。彼はもの言いたげな瞳でこちらを見ている。
もう一方は見慣れない顔をした老爺であった。恐らく先の戦いで肉体を失い、別の肉体を己のものとしたのであろう。
老爺は顔こそは違えど、いつぞやの芸の披露で見せた黒子の衣装に身を包んでいた。
「驚かされてしまったのう。まさか、おぬしらがこの島に訪れておるとは思わなんだ」
帶走老仙は驚嘆を表明しつつも薄笑いを浮かべた。
「あんたはあたしに嵌められたのさ。シマハハを神にしてその力を奪う気だったんだろう? 残念だったね」
「残念はおぬしの頭じゃ。ヒサギ! 結界を抜けてあの巫女を斃せ!」
老仙の命を受けた少年が塔より飛び降り、大振りのこぶしをオトリ目掛けて叩き込んだ。
しかし、それは光の天蓋に遮られてしまう。
音こそは派手であるが、結界は揺らがず涼し気だ。中にいる巫女や神尼も慌てている様子はない。
むしろ、相方はこちらへといつもの心配顔を向けている。
ミズメは笑顔で手を振ってやった。苦笑と共に振り返される。
「感無しの肉を防ぐか! 面白い結界術じゃ。あとで解析して、わしの術のひとつに加えてやろう」
邪仙は興奮気味に言った。
「無理無理。あたしは今からオトリにかっこいいところを見せる予定だからね!」
ミズメは星降りの太刀を抜き、切先を向ける。
「若輩者特有の愚かな自信よの。先はわしも少々戯れが過ぎておった。わしはまだ何百もの仙術を隠し持っておるぞ。おぬしには何がある? 巫女と神は結界の中。あの鴻鵠の女の姿も見えぬ。そして……ヒサギ!」
老仙は顔を歪めて笑い、少年を呼び戻そうとした。
しかし、下方ではすでにヒサギとカムヅミマルの戦いが始まっていた。
「安心しなよじいさん。あんたの大事な子供……いや、孫? どっちでもいいや。ヒサギには怪我させたりしないからさ。だから勾玉を返しな」
手を差し出すミズメ。
余裕の裏で気配を探る。今は日中だが、満月の期間であれば石は気配を発するはずだ。どうやら石はここにないか、ヒサギ少年が持っているらしい。
もっとも、石の所在に関わらず、邪仙はまず半殺し。次にヒサギを説得する手順は変わらない。
「甘く見おって!」
黒き老爺は岩石の塔から跳んだ。落下かと思われたが、宙に小さな雲のようなものが現れ、彼はそれに着地した。
「その翼では追い付けまい! 真似ようにもこの術は複雑怪奇。仙道の大秘技のひとつじゃ!」
雲が邪仙を乗せて宙を駆ける。その速さは猪が大地を駆けるがごとし。更に、素早き方向転換や蝶が不規則に舞うような動きさえも見せた。
「面白そうじゃん!」
秘技、山彦ノ術。
ミズメは宙に雲を出現させるとそれに飛び乗り、翼をしまって雲に命じて空を駆け始めた。
「馬鹿な!?」
本場生まれの大邪仙が間抜けづらを披露する。
「なあ、あんた。改心して友達にならない? もっと面白い術教えてよ」
ミズメは邪仙の背後から呼び掛けた。やいばを年寄りの喉元へと回し、冗談ぽっく振ってみせる。
逃げたか。邪仙が雲と共に消える。天狗娘もそれを追うように消える。
空の彼方に邪仙が現れる。天狗娘もそれに続いて背後に現れる。
攪乱狙いか、繰り返しの出現と消滅。
「アズサマルめ! 腕を上げたな! このわしについてくるか!?」
「いやあ、流石に“やった”ことのある相手なだけあるよ。処女の相手よりは楽ちんだね」
邪仙が口から火炎を噴いた。熱で雲を散らす気だとすぐ読めた。
秘技、水鏡写シノ術!
ミズメも合わせて“大火炎”を吹く。ただし、彼女の起こした熱風は自身の雲を害さない。
邪仙は雲を吹き飛ばされ頭から落下する。
ミズメはその光景を視界に収めつつも、背後からの気配無き気配を感じ、振り向いた。
雲に乗った邪仙が“もうひとり”。彼の指から不思議な仙気の糸が伸びる。
ミズメは太刀を振るうも糸はすり抜け、かつ、それに全身を絡めとられてしまった。
そして、絡めた張本人もまた、背後にいた“もうひとり”の天狗娘の糸に絡めとられていた。
「わしの編み出した分身の術まで……」
苦悶の表情と共に霧散する邪仙。それを追うように天狗も姿を消す。
またも、消失と出現の鬼追いが始まる。
邪仙は隙を見て仙術で攻め立てるが、ミズメはそれをことごとく映し返し続ける。
繰り返しの攻防、均衡が崩れる。
先にミズメが空へと現れ、何も居ない虚空に向かって太刀を突き出した。
すると、彼女の手にやいばが肉を掻き分ける感触が伝わった。
一拍遅れて視認される黒づくめの姿。
「追い抜いた……じゃと?」
向かい合う老仙は口から大量の血を吐いた。
「ねえねえ。もっと新しい術を見せてよ、お爺ちゃん」
にこり、笑顔を向けてやる。
次の瞬間、老爺が大炎上した。そのまま彼の全てが炎の塊となり、五つに分裂して宙を回り始めた。
「あちちっ! 火に化けたか! でも、それは真似したくないね!」
黒子の衣の切れはしが焼け落ちるのを目で見送る。
無軌道に迫り来る五つの焔。
彼なりに欺きや牽制を込めた攻撃だったのであろう。
しかし、ミズメは熱を疎みながらも軽やかにそれをかわした。
踊る炎が一直線に並んだ刹那、星降りの小太刀が振り抜かれる。
邪気をまとった風が空気を切り裂き、散らされ掻き消える邪仙の焔。
焔が人の臓物へと変じて地に落ちてゆく。
「……げっ! 死んじゃった!?」
またもやり過ぎたか。僅かに動揺。すぐに平静。そして残身。
“いつの間にか”構えられたミズメの彊が矢を放ち、石塔の影で休む醜い猿の背に刺さった。
「なーんちゃってね。お遊びはおしまい。あたしにはシマハハみたいな趣味はないからね」
ミズメは翼をゆっくりと羽ばたかせ、震える攫猿へ近付き、刀を鞘に納める。
「あたしの勝ちだね」
哄笑。水目桜月鳥、かつての仇を超え笑ふ。
「帶走老仙さんよ取引だ。こっちの要求を飲めば殺しはしないよ。改心、ヒサギの解放、勾玉の返却。これを全部か、死ぬか選びな」
天狗とは強盗か鬼か。なんとも横暴な取引である。
「死ぬのは貴様じゃ!!」
猿の物ノ怪は顔色を“怯え”から“怒り”へと変じ、周囲に無数の気の胎動を生み出した。
……が、それらは何かの効力を発する前に消滅した。
「なんの術だろ? まあいいや」
「じゅ、術の発動を押し留めおったのか……?」
今、ミズメが行ったのは術の完全なる逆回し。
彼女は判断力や速度だけでなく、霊気の総量においても上回っていた。
邪仙が一度弱った経緯も手伝ってはいたが、これは化け物染みた霊力の巫女との特訓の成果のひとつである。
今のミズメがその気になれば、名うての術師をも幻術に嵌めることもできるやも知れぬ。
「貴様は、本当に、あのアズサマル、なの、か?」
震える邪仙。彼女にとって魔の象徴であった彼は、もはや闇でも影でもなくなっていた。
邪仙はもう一度全身で“怯え”へと還り、大声で叫んだ。
「ヒサギ!!! 玉を持って逃……」
乱切り。猿の身体が鍋の具材のように散った。
憐れ、それでも醜い頭は叫ぶ叫ぶ。
だが猿の断末魔は届かぬ。それはヒサギが神童という未知の敵に完全に制圧されているからではない。
音は天狗の支配下であるからだ。
水目桜月鳥。天狗たる娘は搦め手において無敵の域に達していた。
「かへさふて 嘗ての赤面 気無しか 打語えども 空蝉のみぞ」
やいばに謌を込めて。
華を解せぬ獣の頭は不快感か疑問か、顔を真っ赤にただただ歪んだ。
静かに白く震える刀身が猿の額に触れる。
すると、祓い滅された醜き頭から赤黒い魂魄が現れた。
「……逃がしてやるよ。あんたはそれでも死なないんだろ?」
魂魄は話を聞いてか聞かずか、一目散に空の彼方へと逃げて行った。
帶走老仙において肉の喪失は死に非ず。正直なところ、改心は期待していないが、ヒサギへの説得材料として死なずにいて貰わねば困る。
まあ、あれだけ元気に子供を見捨てて逃げられるのならば、概ねこちらの思惑通りにことは運ぶであろう。
「……」
快勝であった。ところが悪寒。今朝の絡みつくような汗が反芻された。
――なんだろね、このいやな予感は?
夢を頼りにするならば、こののち島は邪気に包まれるはずである。
邪仙は力を再び削がれ、遠方へと消え去った。ならば、ヒサギ少年が先の地震の神のように、何かの邪神を呑むか、ツクヨミが動くと見てよいだろう。
取り急ぎ、地上へと戻る。
神童カムヅミマルは汗ひとつもかいていなかった。避難させていたはずの犬猿雉を撫でて楽にしている。
そして彼らの正面では、金色に光る五鈷杵が檻となりヒサギ少年を閉じ込めていた。
いつぞやトウネンが用いた長ったらしい真言の封印術だ。
「不動明王様のお力を借りました。印や真言が長いのは難点ですが、肉持ちも封じれますし、悪人でなければ大きな害は及ぼしません」
「いいね」
神童を見て笑い掛ける。彼なりの善悪の判断法なのだろう。
「ミズメさん!? おじいさまはどうなったの!?」
捕獲された少年からは敵意より心配を孕んだ叫びが上がった。
「邪仙は退治できましたか?」
神童も問う。
「じいさんは力を削いだけど、逃げられちゃったよ。しばらくは悪さはできないと思う」
どちらにも聞こえるように、はっきりと告げる。少年からは安堵交じりの溜め息が聞こえた。
「ヒサギ、勾玉を返して。それからアガジイさんを追いな。じいさんに悪さをさせないように、あんたが見守ってやるんだ。あたしらが日ノ本を救うまでの、ほんのちょっとのあいだでもいいからさ」
「ぼ、僕にできるでしょうか……。それに、おじいさまはミズメさんに酷いことをしたって。僕もあなたのお師匠様を殺そうとしたし」
不安に満ちた少年の顔。
「あたしが赦す!」
ミズメは強く胸を叩いて言った。
「あんたは悪人じゃない。不動明王様もそう言ってる。悪人じゃないってことは、あの日から今日までも、ずっと悩んでたんでしょ?」
その微笑みは俳優に非ず。
「ほれ、友達だろ?」
ミズメは両手を広げてやる。
少年が大粒の涙を流した時、光の拘束は掻き消えた。
「ミズメさん!」
ヒサギは両手を伸ばし、友人を求めた。
――無粋だね。
ミズメが受けたのは無垢なる少年の抱擁でなく、もはや慣れ親しんだ神の気配。
それは彼女の全身を粘っこく舐め回した。
「おいでなすったね!」
「勾玉が光ってる!? なんだこれ!?」
光り輝く自身の懐に慌てる少年。月の光は“感無し”でも見えるか。
「あんたと遊ぶのはもうちょい後だ。引っ込んでな!」
ミズメは清めの霊気を練り上げ右翼を白に、邪気を吐き出し左翼を黒に染め上げた。
いくら月神とはいえ、今の調子の差では力づくで乗っ取ることは不可能であろう。
ミズメは霊気だけでなく、自信までも溢れさせていた。
たとえツクヨミを憑依させても自らの意思で容易く追い出せる気でいた。
水目桜月鳥。望月に欠けたるところなし。しかしそれは、向こうも同様であった。
たったひとつの誤算。
八尺瓊勾玉が光を失うと同時に、少年の両のまなこもまた新月へと変じた。
そして、再び光が満ち。
「久しいな。我が憑代のひとつ、水目桜月鳥よ」
若く端麗な感無し少年の顔が笑う。彼の右の瞳孔は、赤く妖しげに光り輝いていた。
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今日の一首【ミズメ】
「かへさふて 嘗ての赤面 気無しか 打語えども 空蝉のみぞ」
(かえさうて かつてのあかつら けもなしか うちかたらえども うつせみのみぞ)
……かへさふは反省、反問、問いただす、思い返すなどの複数の意味がある。赤面は“かたき”、気無しは面影もない、打語らうは語り合う、空蝉は虚しさを顕す。




