化かし087 釣糸
さて、こちらの都合とあちらの都合のすり合わせが行われたのち、妥当な対案も打ち出されなかったため、シマハハの神化計画が始まった。
必要なのは島内の清め。物質的な清めは識神たちと地獄の鬼が、霊的な清めは巫女と尼が担当する。
凶悪な罪人が居る以上、完全な陽に転じるのは難しいが、地獄の責め苦を休止すれば、反動で安心を生み一時的に邪気も治まると期待される。
続いて、島を覆う結界の解析と解除。神化するにおいて儀式による高天國との交信は不可欠である。
それを阻害する結界は取り除かねばならない。
こちらは結界を扱う陰陽道に通ずるミヨシと仙術を識るカムヅミマルが担当。
「そして、あたしは……っと」
ミズメは岩礁に腰掛け、“どこからともなく”取り出した釣り竿を振った。
砕け波。溟海は荒れ模様であったが、岩の隙間には穴子や虎魚の姿があった。
貝類も多く見られたが、ミズメは貝毒には明るくなく、貝類は魚類よりも穢れを溜め込みやすいために避けておいた。
島内は広くないとはいえ、仕事は一日二日で片付くものではなく、まとまった食材の用意が必要。
しかし、島内の動植物は未来の島民の貴重な食い扶持である。
シマハハが作り置いた保存食のたぐいは自分たちには苦過ぎる。というわけでの食料調達だ。
余ったぶんは囚人に食わせてやっても良いかもしれない。霊的な清めとお人好しの言葉よりも、美味い飯のほうが効くこともあるだろう。
「……もういっぱいになっちゃったぞ」
このあたりは漁場となりづらいためか、魚は油断の様相である。水面に釣り人の影が映ろうとも悠々と泳いでいる。
「餌すら使ってないんだけど」
適当な得物で突けばすぐに終わってしまいそうであったゆえ、ミズメは愉しみを兼ねて釣り糸垂らしをしていたのだが、どうもこちらでも勝負にならないらしい。
邪気が多い地だと魚の気性も荒くなり、欲に塗れてしまうようだ。
骨の釣り針ひとつで生け捕り用の出口のない浅瀬が埋まってしまった。
「ま、そういうこともあるかね」
釣りの容易さもまた、予兆のひとつに思えた。こちらの企みに乗って、邪仙は姿を現すだろう。
ここのところ、ミズメのいう“お約束”はよく当たっている。
この“お約束”とやらは長年生きた経験則からくるものが大抵であったが、中にはただの勘というか、寄る辺ないものも含まれていた。
欠伸をひとつ。
――また、夢を見てみるかね。
夢。ミズメはときおり、夢に映し出されたものを現実にも見ることがあった。
長命の上に昼寝好きであるため、これまで夢見は星の数ほど繰り返している。それの一つや二つが事実と重なってもなんの不思議もない。
夢は体験や思考が絡まるものであるため、“お約束”を夢と重ね合わせているだけやもしれない。
どうもここ最近は、その回数が増えている気がしていた。まるで夢自体が何かを告げているのではないかと疑えたのである。
だが、信心深くない自分に仏や神が夢中で呼び掛けるなど考えられなかったし、先の見えぬほうが面白いという信条上、意図的に卜占に頼ることもない。
そもそものところ、当たる内容も大それたできごとに限らず、釣れる魚の種類だとか、旅人の口から聞こえてくる噂の内容だとか、相方が遭遇して驚く蟲の種類だとか、そういった些細なものが大半であった。
脈略のない夢物語はあくまで退屈しのぎの愉しみのひとつで、それが偶然で重なると博奕の勝ちのような快感を感じるというだけのこと。
しかし彼女は、今度ばかりは予知夢めいたものに確かな期待をよせていた。
昨晩に見た夢。神化の儀式ののちに邪仙とヒサギが乱入し、神化したシマハハの力を偸もうとするのだ。
浄化されたはずの島に邪気が再び満ちて、悪鬼悪霊の跳梁跋扈する地獄と化す。
ミズメは特訓の成果を活かして乱入者たちを撃退して、オトリ以下仲間たちを男らしく防衛し切って見せる……などという非常に都合の良いものである。
やや不吉な相も見えたが、魘夢も目覚めがくれば興のひとつといえよう。
「最後に笑えるなら、そーいうのもありさ」
余裕の天狗は未知の不幸を嘲笑う。
……唐突に、爆発音と震動が起こった。
島の巨大な岩山を刳り貫かれて作られた監獄塔。
その頂上付近の穴からは陽ノ気が輝き溢れていた。はりきりオトリと地獄のシマハハの仕業だろう。
ここは島の端であるが、結界の層を突き抜けてまでふたりの祓えの気魄が届いている。
釣りは早々に終わり暇ができそうだが、自分が行っても出る幕はないであろう。
ここは矢張り、退屈しのぎに夢の糸でも手繰るとするか。
験しに固い岩礁を枕に空を仰ぐ。
……また震動。喧しい。加えて島そのものに頭をぶん殴られたような衝撃。
「いてて……昼寝は無理だね」
ミズメは再寝の企みを断念して、活けておいた魚を持ち帰る仕事へと戻った。
魚の運搬中も、祓えの発起と地震は繰り返された。
「外周の結界に穴が開いておった。悪霊や邪気はそこから漏れていたやも知れぬ」
島の周辺を検分していたミヨシが戻って来た。
「ところで、中では何が起こっておるのだ?」
「喧嘩でもしてるんじゃないでしょうか?」
カムヅミマルも一緒だ。
「巫女と尼でお祓いの気をぶつけ合っても決着はつかないと思うけど」
祓え玉は当たると衝撃はあるが、物理的に人体を攻撃するには不向きである。
水術師同士なら多分、殴り合いで喧嘩をするはずだ。
「あのおふたりでも祓いきれない鬼や悪霊が居るということでしょうか?」
「かもね。気になるなら見てきたら? あたしは一応は物ノ怪だし、あんまりああいう場には行きたくない。魚も運ばなきゃならないしね」
手にしているのは小さな木桶だが、水と魚で充分に重たい。昼寝で怠けていたら泣きをみていたであろう。
「わざわざ桶を使って往復しておるのか。ミズメにはあの不可思議な荷物の出し入れがあるではないか?」
ミヨシが首を傾げた。
「えっ、魚を……? やだよ気持ち悪い! あたしの“これ”はなまもの厳禁なんだよ!」
彼女の“どこからともなく”の出し入れには肉的な感触がある。
干し肉や水筒くらいならともかく、ぬめった穴子や毒棘のある虎魚を挿れるなどもってのほかであった。
「怒られても俺には分からんのだが……」
ミヨシはしょげた顔をすると岩窟のほうへと足を向けた。
「カムヅミマルよ、おぬしはこんのか?」
ミヨシが振り返る。
「僕は識たちが牛頭さん馬頭さんに迷惑を掛けずにちゃんとお掃除をしているか見てきます」
神童もあまり塔内のことは心配していないようだ。
「そうか……」
ミヨシは身震いひとつすると地獄のある岩窟へと歩いて行った。
……。
清掃と慰め程度の修復がされた屋敷。
座敷中に潮の香りと火の香ばしさの雑駁した空気がいっぱいに広がっている。
一同は労働の疲労を味付けに、ミズメが釣りあげてオトリとシマハハが調理をした魚料理に舌鼓を打った。
「うむ、美味いな。久しぶりに人らしい食事をした気がする」
シマハハは笑顔である。
「シマハハ様も、お料理が下手というわけじゃなかったですね。火加減や捌きかたもすぐに覚えましたし」
「覚えたというよりは思い出したという感じだ。元々はしっかりと料理をしておったからな。焼きが過ぎるようになってから、骨や皮を切り離す意味を見失っていただけじゃ」
夕餉は刺身に焼き魚。吸い物や煮つけ。
穀物こそは無かったが、ミズメ秘蔵の醤油や味噌、酒、それに塩漬けの野菜が活用され、それなりに豊かな膳であった。
「ところで、昼間はやけにうるさかったけど、なにを相手にしてたの? 醜女?」
「醜女たちは私がさっさと退治しました。尼でなく、巫女が相手ならばとあちらも納得の上の退治ですよ」
「悪鬼に了解を取る必要など無いと思うのじゃが」
シマハハが苦笑する。
「じゃあ、何をあんなに暴れてたの?」
「悪霊ですよ。ただの赤黒い霊魂なんです。びっくりしましたよ。私のお祓いを何発当てても祓えないんです。もしも外だったら、取り逃してました」
「あれは妾が地獄へ呼ばれるきっかけになった悪霊じゃな。あれは、妾の所業とは関係なく、己の怨みと霊力のみで力を得た存在だ。このような強い怨霊が生じることもあるゆえに、この島が存在するのだ。普段は虐めるに済ませていたが、いざ滅してみようとすれば、なかなかに手強かったぞえ」
満足げに目を細めるシマハハ。
「へえ、ふたり揃って苦戦するなんて、なんて名前の霊なんだい?」
訊ねながら皿に目移りをさせる。次は煮穴子を標的にするか。
箸を刺せば白い肉がほろりと崩れ、蛋白と脂の混じった湯気が鼻に届いた。
「えっと……」
オトリは口ごもった。
「どうしたの? あ、これ美味いね」
肉厚の大物であったゆえ、奥まで味付けが染み渡っていない。しかし、それがかえって素材の旨味を活かしており絶妙であった。
「藤原純友さんです」
「藤原純友……」
はて、どこかで最近訊いた名だ。それにしても食事が美味い。
ミズメは咎められるのを覚悟で“どこからともなく”酒瓶を取り出した。
「敵襲があるのではないか?」
指摘をしたのは巫女ではなく尼であった。
「いいんですよ。来るとしてもまだ先でしょうし、飲ませてあげてください。ミズメさんは先日に、純友の落とし胤のかたを斬ったんです。鬼に成ったので人殺しではありませんが」
向けられるのは心配顔。
――あ、そっか。そういうていだったね。
確かに、僅か前まで人間だった鬼を滅したし、その鬼化の原因を作ったのは自身である。
多少の落ち度を感じたが、実際にはカイオウマルなる海賊は大悪党らしかったし、退治は正しい。
あれは逮捕されればどの道処刑。人の域からも離れており師や相方のいう殺生の禁にも触れない。
アナミスへの虐待に同情もしたが、実際にああいう手合いがくたばっても自業自得とやらにしか思えない。
シマハハの所業も、見せられれば胸糞が悪いが、目を離し二、三歩歩けばどうでもよくなっていた。
どちらかと言うと、あの男どもが己を女とし、馬鹿にしたことのほうが陰ノ気の糧となる。
まあ、優しき巫女の前で口に出すわけにもいかぬし、矢張り、じじいに憂さ晴らしの相手になって貰うことにしよう。
「悪人を死なせたり鬼に追い込んだことで気が咎めるのか? 妾には想像もつかん話だな」
加虐の獄長が合点のいかぬという貌をする。
「それも性癖でしょうか?」
童子が何か言った。
「人助けして興奮するたちならありそうなものだがな」
ミヨシのおっさんも何か言った。
――人助けで興奮ねえ。
ミズメは相方の顔色を窺う。真顔で箸を止めている。ここで頬のひとつでも染めていたら面白かったが。
「わいらの教えでも殺生は厳禁やけど、慈悲の心や善行があったら、閻魔様の帳簿に書かれるし多少の酌量はされるで」
「ま、飯のためでも業が増えるから、どんな理由があっても殺生したら地獄に近付くんやけどな」
地獄の鬼たちが言う。彼らも美味そうに魚料理を貪っている。四つ足でもないし、地獄の外なら閻魔様の目も届かないので破戒には数えないなど宣っていた。
「私たちのやろうとしてる共存共栄は、仏様の道に近いのでしょうか」
オトリが問う。
「せやな。オトリはんは古流派の巫女やさかい、何したって地獄にも浄土にも縁はあらへんけどな」
「まあ、この世にいるうちは、徳があれば教えや流派を問わず仏はんが手を貸して下さることもあるし、善行して損はないと思うで」
地獄の鬼たちが答える。
「妾もそのご相伴に与るわけであるしの。ま、そちたちの信条などどうでもよいか」
シマハハは焦げが足りなかったか、焼き魚に何かの炭を振り掛けている。
「しかし因果なものじゃな。様々な教えの者が集い、震旦の邪仙と、三貴神である月讀命と、黄泉の母である伊邪那美を相手どることになるとは。しかも、その神々と流派を同じくする巫女や元巫女がおるのじゃからな」
「わいらは見てるだけでお願いするで。よその神さんでも邪仙でも、意図的に害意は向けられへんし」
「仏門の領分の罪人しか叩かれへんからな。それも地獄内限定やねん」
「鬼さんもだけど、シマハハ様やオトリに戦いの出番は回ってこないよ」
「む、なぜじゃ? 久々に本気で術を向けられるのかと期待しておったのじゃが」
「相手は神になったあんたを狙ってくるんだよ。仙術には妖しい搦め手が多いし、強い弱い関係無しに護られる側だよ。連中の接近を防ごうと思ったら、オトリの結界ほど便利なものもないし、オトリには護りに回って貰わないと。あたしがじじいを叩く。じじいを斃すなり……また逃げられるなりすれば、ヒサギも独りじゃ無茶はできない。あたしがじじいをどうにかするまで、カムヅミマルにはヒサギを押さえて欲しい」
「斬ってしまっては駄目なんですよね?」
「できれば傷付けずにやってよ。多分、ただの人間だしね。ヒサギを敵として斬って良しとしちゃうなら、オトリが共存共栄に則ってシマハハ様を神にする計画を出したのも嘘になっちゃうからね」
「確かに。みなさんが笑うための道というものは、面倒な遠回りの繰り返しなのですね」
童子は分別くさく頷く。
「ミズメさん、無理をなさらないでくださいね」
相方はいつもの心配顔だ。
「任しときなよ。あたしがしっかり護ってやるからさ」
まだ一杯目だが酒が回ったか、ミズメは少々色気を出して言ってみたりした。
「えっと、お願いしますね。護るのは私がシマハハ様を、ですけど」
飲まずして頬染めるオトリ。
「……ミズメよ。俺とヤソロウはどうしたらよいのだ?」
ミヨシが訊ねる。
「出番はなさそうですねえ」
ヤソロウは安心交じりである。
「出番の心配をしておるわけではない。聞けば邪仙らはおぬしらに師を加えた状態でも勝ちを収めており、カムヅミマルもおまえたちに負けぬ腕前の持ち主らしいではないか。だが俺は……はっきり言って遅れを感じておる」
中年の陰陽師の心配は足手纏いにあるようであった。
「ミヨシのおっさんは、あたしたちの“奥の手”だ」
ミズメは恥じ入る陰陽師に酒を一献勧める。
「奥の手? どういうことだ?」
盃を受け取り首を傾げるミヨシ。
「一番厄介なのが出て来た時のためのね」
「そっか、ツクヨミ様!」
オトリが声を上げる。
「ツクヨミの荒魂が出てきたとき、退治するにはあたしに憑依させて神気を陰ノ気に塗り替えて祓い落さなきゃならない。一度はそれで祓ってる。あたしらの目的の本命はそれだ」
「理屈としては可能だ。以前、鬼の星熊にやったのと同じ技を使えばよい。しかし、俺ごときが大神を魔に転じる切ることができるだろうか。カムヅミマルよ、おぬしは様々な流派の術に通じておるが、陰陽の転換は行えぬのか?」
「僕はできても陰から陽への一方通行です。仙術や神術は多少嗜んでいますが、僕には邪気を扱う才はないようで、陰陽の術も陰ノ気を扱わない範囲でしか使えません」
神童が頭を下げる。
「ツクヨミも以前ほどの力はないはずだから、ミヨシのおっさんでも不可能じゃないと思う。おっさんの腕前はあたしも信頼してるよ。まあ……さすがに、鬼の星熊とはくらべものにはならない相手だとは思うけど」
「腹を括るしかないか」
ミヨシは眉寄せ唸る。
「ぼくも、ミヨシ様の識神としてお手伝いで陰陽の技を身につけております。微力ですが、お手伝いしますよ」
豆狸のヤソロウが声を上げる。
「ヤソロウちゃん、陰陽師の技が使えるの? すごいなあ」
オトリが狸を捕まえ抱き上げた。すると彼女は、大きな“くさめ”をした。
「あわわ、ごめんなさい。今日は箒や“はたき”に化けてお掃除をしていたので、埃っぽいんですよ」
謝り逃げる狸。
「ところで……見てるだけのわいらが言うのもなんやねんけど……」
ゴズキが口を挟む。
「自分ら、邪仙が来る前提で話しとるけど、こんかったらどうするんや? 待つにしてもいつ来るんか分からへんやろ? それまでずっと見張っとるんか?」
メズキが首を傾げる。
「ん……。来るよ、絶対にね。それが“お約束”って奴だから」
――そして連中は、あたしにぎったぎたのぼっこぼこにされるわけよ。
ミズメは上機嫌に盃を呷り、空手で釣り竿を振る仕草をした。
*****
魘夢……悪夢、不吉な夢。




