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化かし083 地獄

「残念! (ワラワ)はミクマリの巫女ではない!」

 目を見開いたまま言うシマハハ。

水分(ミクマリ)の任を持った社の巫女ではあったが、術の才を買われて都へ出たのじゃよ。そして、厩戸皇子(ウマヤドノミコ)と共に釈迦(シャカ)の教えを学んで尼となった。学ぶ教えは変わったが、スメラギが国津神(クニツカミ)を統括しておるのじゃから、彼の配下であればちいさな問題じゃ。おぬしと妾も仕える先は違うが、水を護るという点では同じじゃ。仲良くしようぞ」

 シマハハは何やら早口気味で語った。

「分社ならやっぱり遠い親戚なんじゃない?」

 ミズメはオトリに訊ねる。

「どうでしょうか。水分のお役目は私の里ができる以前からありましたし」

「どうでもよかろう。ところで、ミクマリ神はまだ達者なのか?」

「ミクマリ? ミナカミ様のことですか? 里の神様はどちらもずっとご健在ですけれど」

「そうかそうか。あやつらの子飼いだと色々苦労をするじゃろうな。妾はよその水術使いで良かったとつくづく思う。とはいえ、スメラギの配下であっても苦労続きであったが。ほほほ、朝廷の連中は家族兄弟間ですぐに殺し合いだ」

 シマハハは愉しげに話し続ける。


「苦労することもありますけど、うちの里はずっと平和ですよ。勝手様はともかく、ミナカミ様はお優しいかたですし」

 オトリの声が少し高くなる。


「どこか話が噛み合ってないような……」

 ミズメは首を傾げる。


「最近の太陽の巫女の流派は太陽神を封じられて、随分と衰えてしまったと聞く。仏門の教えも二転三転しておるようじゃし。少し前までは女では阿羅漢(アラカン)に至れないようなことを問いとったようじゃしの」

「シマハハさんが言ってるのは小乗(ショウジョウ)仏教の話だね。最近の仏門は真言、それに地獄とか極楽浄土が流行りだよ」

「シマハハ“さん”ではない。シマハハ“様”じゃ。それに釈迦の教えを小乗などと呼ぶな無礼者め!」

 ずいと顔を近付けられるミズメ。

「こりゃ失礼、シマハハ様……」

 訂正するとシマハハは笑顔になり、引っ込んだ。


「さて、挨拶はこれくらいにして……。そなたらは何をしに来たんじゃったか?」

「この彁島(・シマ)が鬼ヶ島であるという噂が朝廷に聞こえ、様子を見に行くように命じられたのだ。近寄ってみれば、この地は悪鬼のごとき気配をまとってしまっておる。島で何か重大な異変が起きてはおらぬか?」

 ミヨシが問う。

「ほう、外にまで知れるほどに夜黒ノ気(ヤグロノケ)が溢れたか。ここのところ、どこからともなく鬼を名乗る者が現れるのじゃ。どこかに黄泉路が開いておるのかも知れぬの」

 首を傾げるシマハハ。

「そんなひとごとみたいに。黄泉路が開いたら大変なことになりますよ。邪気に中てられて住人が鬼に成ってしまいます」

 オトリが口を尖らせる。

「妾は穢神ノ忌人(サグメノイワイビト)ではなく島母じゃ。現れるのは雑魚ばかりじゃし、我が子にならぬのなら滅するのみぞ。そもそも、子ら同士で食い合って鬼化することもあるし、島外から持ち込んだ怨みが抱え切れなくなって自ずと鬼に成るものも多い。問題は鬼かどうかではなく、妾に従うかどうかじゃ」


――子供、ねえ……。ひと癖あるけど、鬼とも共存の意思があるのかね?


「島内のことは管理できているつもりのようだが、島の放つ邪気が付近の海域に凶事を招いておるのだ。この島の存在そのものが風水に悪影響を及ぼしている。実際、俺たちもここへ来るまでに邪気に中てられた海神(ワダツミ)荒魂(アラミタマ)に攻撃された」

 ミヨシが言った。


「陰陽師は風水読みができるのか。襲われたのは瀬戸内の海神が不甲斐ないせいじゃないのかえ? 神とは佑わう地、そのものである。そもそも山河の配置など気にせんでもいいようにしてやるべき存在じゃろうに。この海域は、いにしえのこととはいえ日ノ本原始の海だと云われておるじゃろう。歴史ある海の神としての自覚が足りん」

「今は日ノ本に暮らす人の、信仰の心そのものが弱まってるんだよ。だから神様が力不足なんだ」

「そうなのかえ? ま、妾には関係の無い話じゃがな。自分の子は自分で護る。それが筋というものじゃ」

「獄長よ。この島がよくとも、周りはそうはいかん。朝廷も困る。邪気発生の原因を調査し、取り除こうではないか。獄長のいう子供らにとってもそのほうが良いだろう」

「シマハハ様と呼べと言ったじゃろうに!」

 シマハハがミヨシの眉間を指差す。

「夜黒ノ気が発生する原因は調べずとも分かっておる。それが外に漏れておるのは意外じゃったがの」

「シ、シマハハ様。分かっておるのなら、早く取り除いて貰えんか? 力に余るというのなら、俺たちが協力する」


「ほほほ、島の外まで聞こえるほどになったのなら、妾の仕事も地獄と呼ぶに値するかの?」

 何やらシマハハは愉しげに言った。


「もしかして、あんたが島をこんな風にしたのかい?」

 ミズメが問う。矢張り、お約束。こういう人物が元凶なのだ。

 貴人のあいだでも、これと似たような気性の女が実権を握ろうとして呪いを飛ばし合う話が珍しくない。


「もしかしてもなにもあるか。妾はこの島を地獄に変えた。なぜ漏れたかは分からぬが、夜黒は地獄の責め苦より生まれたものじゃろう」

 不敵な笑み。


 玉響(タマユラ)、風が吹いた。提げ髪揺らして巫女が尼へと掌底打ちを放つ。

 しかし、疾風の一撃は手のひらで容易く受け止められてしまった。


「シマハハ様。あなた、伊邪那美様の声をお受けになられましたね?」

「元気が良いのう。残念、それもはずれじゃよ。妾はあの女が大嫌いじゃ。日ノ本の人の全ての民を己の子だと宣うような奴はな!」

 手のひらを合わせ、腕を圧し合う水術師たち。

「あなたも同じでしょうに」

 ふたりの足元で橋が軋む。

「ミクマリの子飼いが偉そうに。そなたの神もあの女と同じじゃろう?」

 シマハハの顔が歪んだ。

「ミナカミ様がイザナミと同じですって!?」

 堀や水路の海水が烈しく光り輝き、無数の水球を浮かび上がらせた。

 水球は何度も歪んだり、球に戻ったりを忙しく繰り返す。


「妾と水の取り合いをするか。やるではないかミクマリの巫女よ!」

「私、まだ十六ですよ。年寄りの癖に小娘と互角ですか?」

 ふたりは互いに両手を握り合わせ睨み合った。橋が軋み、水が弾けてしぶきに当たった岩が削れる。


「ふたりとも、ちょいと待ちなって! 話がいまいち噛み合ってないよ。シマハハ様が“地獄”って言ってるのが引っ掛かる。オトリに思ってる地獄とは違うものなんじゃないの?」

 ミズメが制止すると、ふたりは霊気を収めた。浮き上がった水球が乱暴に海へ還される。


「ほう! 物ノ怪の娘は聡明じゃな。この島獄は“地獄”であって、伊邪那美の領土ではない」

「地獄も悪い世界でしょうに。意図的にこの島を地獄に変えたのでしょう? やっていることは醜女たちと同じです」

「最近の巫覡は学がないのかえ? 地獄と黄泉の違いも知らぬのか」

 溜め息をつくシマハハ。


「あのね、オトリ。地獄と黄泉國は確かに悪い魂を持った存在を受け入れるって点では同じだ。だけど、地獄は罪人を罰するためにある世界なんだよ」

「黄泉國は覡國(カンナグニ)で生まれた穢れを受け止める國。肉も魂も伊邪那美の所有物に還る世界で穢れそのもの……。地獄の行いはそうではなく、正義ということですか?」

「うむ。妾はこの目でそれを見て来たが、じつに素晴らしい世界じゃった。地獄の地を踏み感銘を受け、同じく罪人に罰を与えるこの島獄にも取り入れようと思ったのじゃ」


「ん、地獄を見たって言った?」

「行って帰って来たぞよ」

 さらりととんでもないことを口にするシマハハ。


「なん十年か前じゃったか。たましいの逞しい悪人がここへ送られてきての。そやつとの悶着で妾も疲弊してしまい、寝床で気を失わねばならなくなったことがあった。すると、地獄の閻魔(エンマ)の使いが現れて、なぜか妾を地獄に連れて行ったのじゃ。始めは夢かと思うたが、自由に動けるし、感触なども地上と同じじゃ。これはもしや本物の地獄かと問えば、獄卒どもはそうだと言う。いや、矢張り夢じゃろうと地獄の鬼や罪人どもを験しにぶん殴ってみたら、やはり生々しい感触がした」


「殴ったんかい」

 ミズメは突っ込んだ。


「暴れておったら、何やら黄色い衣を着た偉そうな髭面が現れて、閻魔(エンマ)だと名乗りおった。そやつには全く歯が立たんかった。妾の夢であれば妾が負けるはずはあるまい? それならばと大人しく従うと、鬼どもに連れられ一通りの地獄を見学させられたのじゃ。閻魔はおまえもこうなりたくなければ徳を積めなどと言って、妾を寝床へと戻した……というわけじゃ。地獄では一夜では語り切れぬほどの無数の責め苦が悪人どもを苛んでおった。妾は大興奮じゃ。この島に集められておる者は死しても世に害をなすとされている曲者(クセモノ)揃い。一応は仕事だと思って生かしておいてやり、事故や寿命で死んだのちに祓い滅しておったが、稀に寝ているあいだにくたばって悪霊と化して、中には抜けだす奴もおった」

「そりゃ大変だ」

「そこで妾は思い付いた。肉のあるうちに責めて魂を削り取ってやれば、それも起こらぬとな」


「囚人を虐めてるってこと?」

「まあ、そうじゃな。魂を削るのが目的じゃから、生かさず殺さず。流刑であり、死刑になってはいかんので治療もしてやっておる」

 シマハハは目を細める。


――……。


「罪人だからって無為に苦しませるなんておかしいです」

 オトリが声を上げた。

「悪霊となって他者に害を成してもか? 魂をも残さねば、悪霊にもならぬし、黄泉に引かれてあの女の肥しになることもない」


――やりかたは好かないけど、一理あるかね。

 声には出さぬが、同意するミズメ。あと腐れのない手ではある。巫覡も陰陽師の祓えも邪悪な霊魂を消滅させて無に帰す点は同じだ。


「だが、それは邪気を呼ぶ行為であるし、この島の地獄とやらが島外に禍を撒いている事実も変わらんぞ。やめるべきではないのか?」

 ミヨシも苦言を呈する。

「ふむ……。そこが分からぬのじゃがな。妾は清く霊気(タマケ)がもじゃもじゃな存在じゃから、悪霊は触れるだけで滅せる。ここへ流されるような悪人であれば近寄るのも遠慮するほどじゃ。島内の清めも行っておるし、島外へ夜黒ノ気が漏れていたのは意外じゃった。それに、朝廷の耳に入ったのは良いが、地獄でなく鬼ヶ島などという呼び名ではつまらぬのう」

「つまらぬだなんて。遊びでやってるのですか?」

「遊びといえば遊びかも知れんのう。日々の戦いと水術の才のせいで、否応にも長い生を得ることになったし退屈じゃ。妾はこの島では神と同等。神とて、己の行いを“神遊び”といわれることもあるしな」


「……」

 オトリが沈黙し、ちらとこちらを見た。

 ミズメは苦笑いを返す。自分もひとのことを言えた立場ではない。


「繰り返しになるが、現に凶事が引き起こされているのが問題視されておるのだ。シマハハ……様も朝廷の命に従いこの島での任を果たしているのであろう? この島の目的は死後も日ノ本に害を撒く悪人を封じ込めておくことにあるのだ。悪人を上手く処罰できたとしても、本末転倒ではないか」

「うむ、陰陽師の言う通りじゃな。今さら朝廷はどうでもよいが、島外へ迷惑を掛けるのは妾も好かん。じゃが先程も言ったが、ここでの行いで生まれた夜黒ノ気は全て祓っておるはずなのじゃ。地獄のせいで島が夜黒をまとって広範囲に禍事(マガゴト)を招いておるというのは少々納得がいかん。ともかく、妾の仕事を見て行ってはくれぬか?」


 そう言ってシマハハは人懐っこい笑みを浮かべたのであった。



 さて、一行はシマハハに導かれて島獄の中の見学を始めた。

「あれ、意外と普通だね?」

 門をくぐれば、土草の土地が現れた。そこには畑があり、高床の倉があり、野良仕事をしている男の姿があった。

 あまり広くはなさそうだが、木の生い茂る森もある。

 石の柱の壁が遠景を塗りつぶしていることを除けば、よくある風景といえよう。

「あの鍬を振るっておる子は罪人じゃ。あっちで芋を掘っておる子もな」

 “子”と呼ばれるが、成長しきった男たちである。彼らは髭も髪も伸びっ放しで、擦り切れた服を着ていた。

 特に邪気を発している様子もなければ、こちらを気にすることもない。

 労働には精を出しているようであったが、その表情は真逆で、全く精気が感じられない。


「……身体は健康なのに、魂が擦り減ってる。長くは生きられないわ」

 巫女が呟く。


「そうだ。すっかり忘れてたけど、あたしにはもう一つ用事があるんだった。シマハハ様、この島にカムヅミマルっていう童子は来なかったかい?」

「おお、あの坊やを探しておったのか。鬼退治に来たと申すから、そなたらと同じようにこの地獄の存在理由を聞かせて、見学させてやったぞえ」

「今はどうしてるの?」

「寝込んでおる。子供には少々刺激が強過ぎたようじゃな。安心せい、手下に護衛はさせておる」

「そうかい。ここの件が片付いたら連れて帰るよ」

「あやつも稀代の使い手の気配がしておった。妾と同じで神や仙人の領域に足を踏み入れておる。最近は珍客が多くて愉しい」


 一行は中央に聳え立つ岩山を目指して歩く。田畑だけでなく獣の飼育も行われているようだ。

 食い尽くしてしまわないのが不思議であるが、森のほうでは兎や鳥の気配も感ぜられた。


「ここまでは島に暮らす者たちの食を支えるための領域じゃ。そして、ここから先が妾の地獄……」


 聳え立つ岩窟に設置された門の前に立つ。

 厳めしい音と共に扉が開かれれば、鼻の曲がる悪臭と一緒に赤黒い靄が噴出した。

 尼が全身を薄く発光させて踏み出せば、その靄は彼女に触れるたびに掻き消える。


「黄泉路のそばにそっくり……」

 オトリは鼻を袖で覆い隠し言った。

「気絶しちゃいそうですよう」

 ミヨシの肩で豆狸が嘆く。

「よし、俺の衣の中へ入れ」

「助かります御主人様……って、ここもくっさ!」

 ヤソロウは悲鳴を上げた。

「ミヨシのおっさんは汗くさそうだからね。あたしのほうへ来なよ。風術でにおいを散らしてるからましだと思うよ」

「ミズメ様の懐は狭いからなあ」

「いやいや、あたしの懐は広いよ……っていうか別に、衣の中じゃなくて肩に乗ればいいでしょ」

「ヤソロウちゃんは私のところへおいで。柔らかいし、良いにおいがしますよ」

「うわあ、固い! 痛いですよう! やめてください!」


 豆狸で遊びながら洞穴を進むと、広い空間へと出た。

 じりじりと肌を焼く熱気が全身を押す。それから、耳を(ツンザ)く絶叫が聞こえ始めた。


「これは、焦熱地獄を参考に妾が作り上げた焦熱の()じゃ」

 両腕を広げ目を細める尼。


 広場には溶岩の池がいくつもあり、池に立てられた石の柱に括りつけらて藻掻いていたり、老婆に灼熱の液体を手足に掛けられて絶叫している罪人どもの姿があった。

 焼けつくような空気であったが、ミズメは何やら寒気がした。


「ひ、酷い……」

 オトリが息を呑む。

「酷いものか。地獄では溶けた鉄を飲まされたり、焼けた鉄を尻に差し込まれたりするんじゃぞ。覡國でそのようなことを行えばすぐに離魂してしまうゆえ、本家よりも大幅に手加減をしてやっておる」


 囚人が悲鳴を上げた。


「このさえずりこそが、悪なる魂が削り取られていく音色なのじゃなあ」

 シマハハは胸に手を当て、切なげに息を吐いた。


「ねえ、あの婆さんって何者だい?」

 罪人たちを苛む仕事に就いている老婆を指差す。意地悪そうな表情。汚い衣にざんばら髪。どこか見覚えのあるような風体である……。


「あれは黄泉の醜女どもじゃ」

 さらりと答えるシマハハ。


「「醜女!?」」

 ミズメとオトリは声を上げる。


「なんか現れおったから、捕まえて使っておる。祓い滅してもよいのじゃが、術師として便利じゃからな。地獄を作るのに活用させてもらった。連中は夜黒ノ気が無ければ存在できぬ。妾の聖なる力で押さえ付けてやり、消えたくなければ罪人が生む夜黒でも食って生きろと言えばこのとおりじゃ」

 自慢げに語る獄長。


「もう嫌じゃあ。わしは伊邪那美様の命を受け、黄泉の焔で地上の幸を殄滅(テンメツ)しに来たというのに、なにゆえ晴れの女なんぞにこき使われねばならんのじゃ」

「わしじゃって、覡國(カンナグニ)の全土を荒漠とした死の大地へ変ずる任があるというのに、なにゆえこのような狭い島に閉じ込められねばならんのじゃ」

 醜女たちは嘆きながらも罪人を責め続けている。


「もう嫌じゃ。責めるのは愉しいが、いい加減飽きたぞえ! いっそ自害してしまいたい!」

「間抜けめ。黄泉の尖兵が自害などできるか。機をうかがうのじゃ。いつしか我らが母がお助けに来るはず……じゃ」

 醜女たちは血の涙を流している。


「ありゃまあ……」

 ミズメは醜女が意思を持って口を利く存在であっても、斃すことに罪悪感を感じた経験はなかった。

 目的や存在理由がはっきりしているゆえ、鬼化した人のように事情を探ろうとも思わなかったが、これは少々憐れに思える。


「む、む……かわい、そう?」

 醜女の宿敵である巫女も混乱しているようだ。


「部屋は他にもあるぞ。黄泉の鬼だけでなく、罪人から変じた鬼も御せるようであれば獄卒として使ってやっておる。これはの、便利だからという理由だけではないのじゃよ。“鬼”という点に価値がある。なんせ、本物の地獄でも仏門の鬼たちが獄吏獄卒を務めておるからの。それの模倣ということじゃ。さあ、次の部屋へ行こうぞ」

 大手を振って歩きだすシマハハ。


 次の部屋では、金物で作られた針が無数に設置してあった。

 囚人の身体を針で突いたり、目を開かせ、刺さるか刺さらないかのところに針の先端を突き付けたり、爪のあいだに針を差し込んだりなどの恐怖と苦痛の所業が行われていた。


「なんじゃ。またしくじったのか」

 シマハハが声を上げた。

 鬼の男の前に縛り付けられている囚人は、両目から血を流していた。彼は別の鬼に羽交い絞めにされている。


 シマハハは囚人へと近付き、その目を撫でて傷を癒した。責め役の鬼は母を恐れてか、両手両足をきっちり揃えて直立し、震えている。


「今の術!」

 オトリが声を上げた。


「……さすがミクマリの巫女。水術との違いを見抜いたか。左様じゃ、これは血肉を操る“与母ス血液(ヨモツイノチ)”の術じゃ」

 シマハハは振り返り、目を細めた。

「陰ノ気を扱うなんて……」

「使ったのはこの空間に漂う夜黒ノ気じゃ。自前の気ではない。見よ、妾は清いじゃろう?」

 疑うべくもなく、尼は清き気配を発している。


――こんなに薄ら寒い神気は初めて見たよ。


 ミズメはこの地に足を踏み入れてから震えが止まらなくなっていた。ここは邪気が濃過ぎる。

 祓えの気を練る方法を身につけていなければ、瞬く間に物ノ怪の性分に支配されていたであろう。

 横にいるミヨシもかなり苦しそうだ。ヤソロウは巫女の衣の中に落ち着いて正解であったろう。

 巫女に護られたい気もしてきたが、なんとなく意地を張りたく思った。


「今一度、瞳を責めよ」

 鬼は命じられると震える指で針を突き出した。囚人が悲鳴を上げる。


「……人間の所業じゃないわ」

「妾は人じゃ。仮に人でないとしても母神。つまりは地獄の獄卒を束ねる閻魔じゃ。妾はこの地獄をより完全なものとし、その名を日ノ本中へ知らしめたく思っておる。地獄は存在を知られてこそ、その真価を発揮するのじゃ。ここへ来たくなければ正しくあるしかない。責め苦を受けるのはごく限られた巨悪のみ。この島の存在そのものが日ノ本の清めとなる。夜黒も外へ漏れておらぬはずだ。常人であれば震えが止まらぬほどの夜黒ノ気に浸っておっても、罪人たちは容易く鬼化することはない。妾がほどよく清めておるからの」


――いや、やっぱり気に入らないね。


 霊感があれば、シマハハが聖者であるのは否応にも分かる。だが、そのやり口は己を飼育していた邪仙と同じであった。


 虫に喰われた実を潰して肥しにするがごとく。必要悪や、いかんともしがたい悪の使い道を説くのであれば、それもひとつの解であろうが……。

 ミズメは頭脳では理解していたが、こころが酷く拒絶した。

 可能であればさっさとカムヅミマルを連れて逃げ帰ってしまいたいところであった。


「次の部屋へ案内しよう」


 三つ目の地獄は酷く冷えていた。

 足を踏み入れれば、洞穴内だというのに吹雪が巻き起こり始めた。それも、白色ではなく、黄泉の赤い雪であった。


「手を抜いておったな?」

 赤い吹雪の中、邪気の濃いほうを睨むシマハハ。老婆の短い悲鳴が聞こえた。

「ざ、罪人の一人がくたばったんじゃ。他の者の命も案ぜられたゆえに吹雪を止めておった。言っておくが、わしが間違って殺したわけじゃない! 魂が削れて命が尽きただけじゃ!」

「本当か? まあよい。加減は大切じゃからな。ここは八熱地獄(ハチネツジゴク)に隣接する八寒地獄(ハチカンジゴク)を参考にした()じゃ。その名の通り、寒い。妾は寒いのは苦手じゃ。汗を掻くのは嫌いではないのじゃがな。この狭い島では運動もしづらいゆえに、汗を掻きたくなったら焦熱地獄へ足を運ぶのがお勧めぞよ」

 またも無邪気な笑顔を浮かべる女。


 心身共に凍る世界。

 ミズメは過去の汚辱の記憶よりも、今の肉的な痛みと寒さのほうが問題であると確信し、少々安心した。

 相方もまた震えていたが、その瞳には不服の焔が燈っているのが見て取れる。


「畜生! 指の感覚がねえぞ!」

 男の濁声(ダミゴエ)が聞こえてきた。


「ほう、まだ喋る元気があるか。あの子は骨があるのう!」

 小走りに駆けてゆくシマハハ。


 彼女について行くと、赤い氷の柱へ大の字に固定された男が居た。逞しい体格と伸びすぎた髪や髭に赤い雪化粧である。


「畜生、畜生。指の感覚がねえ。腐って落ちちまったら、弓が二度と引けんくなる! 誰かぁ、誰か助けてくれえぇ!」

「い、生きのよい囚人だな」

 呟くミヨシの声は震えている。


「ああ……悔しいのう。日ノ本一の狩人になるはずじゃったのに。獣に負けて殺されるなら納得もいくが、まさかスメラギの子分に飼われる羽目になるとはのう。土蜘蛛(ツチグモ)の御先祖もあの世で泣いてるじゃろうなあ」

 男は悔しそうに語る。


「ミ、ミミミミズメさん。どこかで聞いた話だと思いませんか?」

「だ、だだだ誰だったかな。あたし、どうでもいい奴のことは二、三歩歩くと忘れちゃうんだよ」

 歯を鳴らし震えながら誰何(スイカ)をする。


「それもこれもあの小娘のせいじゃ。女の癖に弓を握りやがって! 忌々しい山伏の女! あの胸無し巫女にも腹が立ってしようがないわ!」

 瘴気と凍気の中、はっきりとした声と陰ノ気が届く。


「お、おおおお思い出したぞ、化け(シシ)山鯨(ヤマクジラ)の時の狩人、阿奈美須(アナミス)だ!」

「ああ、あの乱暴者の。でもあの人、ここへ連れてこられるほどの悪人でしたっけ?」

 オトリは首を傾げる。あまりに寒いためか、ちょこちょことこちらへと歩み寄って来た。


「なんだあ? とうとう幻聴まで聞こえてきやがった! 小娘めぇええっ! 女の癖に! 女の癖にぃ!!」

 高まる陰ノ気。彼の腕の肉が不自然に盛り上がり、凍結の拘束が砕け、氷の柱も音を立てた。


「この男はありがちな蟲の男じゃ。スメラギに祀ろわぬ者として名を馳せたゆえに、ここへ流されたのじゃ。そちたちの知り合いか?」

「知り合いといえば知り合いだけど。懲らしめて縄で縛って突き出してやったんだよ」


「逮捕したのはそちたちか。じゃったら、落ち度じゃな。こやつ、役人どもを……」


 咄嗟であった。ミズメは霊気を練り、相方の耳の周囲から音を奪った。

 それから誤魔化すように、震える身体をそっと引き寄せた。


射殺(イコロ)して逃げたのだそうだ。スメラギの犬を五人射殺して、それを目撃した女子供も狩ってやったと自慢しておった」

「……そうかい。詰めが甘かったね」

 くちびるを噛む。


「今、聞こえなかった。なんておしゃってたんですか?」

「アナミスが暴れたんだってさ。刑部省(ギョウブショウ)の人も手に負えなかったんだろうね」

「そうですか……」


「畜生。やっぱりあの小娘どもの声がしやがる……。ここは地獄じゃあ!! 俺をここから出せぇ!! 出せぇ!!」

「生きがよいのはともかく、少々喧しいのう。これ、我が子よ。大人しくせねばまた、ぽきりといくぞえ?」

 シマハハはアナミスの前へと立ち、その手をだらりと垂れた彼の腕へと伸ばした。


「シマハハか! 畜生、糞女め! 貴様は鬼じゃ!」

 暴れるアナミス。その瞳は人の目ではなく、鋭き瞳孔の黄昏色であった。

「シマハハ様と呼べと言ったであろう?」

「殺してやる!!」


 アナミスの腕がさらに膨れ上がり、四指より長い爪が伸びる。

 しかし、その鬼の爪撃は空を切った。


「残念。残りの指も没収じゃな」

 シマハハの手のひらの上には鬼の指が四本。持ち主へ見せびらかして笑う。


「おおおお、俺の指がぁ! 指がなくなったら、弓が引けんようになるじゃろがああ!!」 

 鬼の慟哭。

 続いてシマハハの右手が淡く光り輝く。

「鬼の部分を祓ってくれよう」

 とん、と軽く突けばアナミスの身体は見る見るうちに人並みに縮み、膝を突き、指を失った腕を握って苦しみ始めた。


「痛みでまた鬼化されても面倒じゃからな。どうじゃ? 指を繋げて欲しいか?」

 指を乗せた手のひらを差し出すシマハハ。


「俺の指ぃ! 繋げてくれるんか!?」

「そうじゃ。だから泣くんじゃない。可哀想な坊やよ……」

 シマハハは指を摘まみ上げ、一本一本丁寧に繋ぎ合わせていく。

 その貌は聖母に非ず。まるで恋乙女なり。


 玉響(タマユラ)、シマハハを強烈な陰ノ気……が覆ったように思えたが、治まった。気のせいであろうか。

「今……」

 隣の相方も呟く。


「指が。俺の指が繋がったぞ!」

 アナミスの顔が見る見るうちに晴れ渡ってゆく。

「身体の血も温めてやったゆえに、よく動くようになったじゃろう?」

「凄え! 前よりも力が強くなった気がするぞ。今なら一人で()だって引けそうじゃ!」

「どうじゃ? これがシマハハの愛じゃ。妾に仕えぬか? 殺さぬ程度に罪人を射る仕事をくれてやってもよいぞえ?」

 シマハハは喜ぶ狩人の頭を撫でる。


 だが、その手は振り払われた。


「だーれが女なんぞに従うか。従うくらいなら、死んだほうがましじゃ!! さあ、殺せ!! 死んで悪霊になって貴様を祟り殺してやらあ!!」

 紅の吹雪の中、濁声が響き渡る。


「そうか。残念じゃ」

 シマハハは何かを放り投げた。太い腕。


「貴様あ!!」

 再び鬼と化すアナミス。

 しかし、瞬く間に指の全てを奪われ、邪気を払われ人の身へと戻る。


「腕と指、繋げて欲しいかえ?」

 人懐こい笑顔。


「お、お願いします……シマハハ様。俺は、弓が引きたいんじゃ……」

 萎えてゆくアナミスの陰ノ気。


「うむ、魂から服従しおったか。良い子じゃのう。おまえは本当に良い子じゃ……」

 その表情、恍惚。いと(ヨコシマ)なり。しかし、彼女の発する気は神聖であり続けた。


「シマハハ様。こんなのおかしいです! あなたは愉しんでいます! こんな地獄は終わりにすべきです!!」

 ミズメの腕の中で相方がいきり立つ。


「否定はせぬ。正しいことと愉しいことが一致してるだけのことじゃ。それのどこが悪い? そもそも、本土の連中が悪霊や悪人を取り逃すゆえにこの地が必要とされるのだろうに」

「他の方法だってあるはずです」

「あるというのなら言うてみい。本土でこれをやれば禍を引き寄せるが、ここは海の孤島。結界もあるゆえに“穴”に気付かん限り逃げる手はない。ただここへ閉じ込めるだけでは(アガナ)いにもならぬ。妾は日ノ本の平和を裏より支えておるのに、ここで何百年も退屈に苦しんでおる。妾の心が腐れば誰がここの面倒を見る?」

「それは……」

「ま、そちは当てにならんじゃろうな。女子供を死なせておいて。これはそちの尻拭いでもあるんじゃぞ?」


――しまった。


「え、死なせた? 誰が?」

「聞いておらんかったのか? こやつは脱走を図り、そのさいに多くの罪なきの人を殺したのだ。何やら、縄は緩かったが、捕まったふりをしておいたんだとか宣っておったの」

 シマハハはアナミスの腕を繋いでやりながら言う。


「それでも妾が間違ってるというか? 言わぬよな? ま、詰めが甘いところも、ミクマリの巫女らしくて可愛いがのう」


 ミズメは腕の中の娘から力が抜けていくのを感じた。


*****

阿羅漢(アラカン)……原始仏教において、悟りの境地に至り、迷いの輪廻より脱して涅槃へ行けるとされる聖者の段階。

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