化かし082 彁島
オトリが海域の女神の恩寵を得てからは、海は凪へと変じた。
加えて水術に依る船の滑走術が披露され、船団は星の消えぬうちに小豆島へと到着した。
そこで荷下ろしを手伝いながら噂話を集めると、海難の話に混ざって神童の噂も手に入った。
「島で見かけん童じゃったから、どうして来たんじゃって訊いたら、海を歩いて来たなんてゆーて言よーたし、ちばけとるんかと思ったら、鬼退治に来たなんてゆーて、ありがたい仏さんの使いかと思ったけー島の場所を教えたら、そのまま海の上を走って行ったんじゃ」
実演も伴ったらしく、島の住民は興奮気味に話した。
なるほど各地でこのように術を晒していれば神童とも噂されるわけである。
神実丸が島を訪れたのはニ、三日前。既に彁島へ渡ってしまっているであろう。
一行は一晩掛けて疲労を癒すと、すぐに彁島へと出立した。
「情けな過ぎる」
ぼやくのは三善文行である。彼は海の上を走る巫女の背に負われていた。
「島まではあまり遠くありませんから、辛抱なさってください」
「御主人様、お年寄りみたいですねえ」
オトリの頭で簪に化けたヤソロウが笑う。
「方角は合ってるのかい?」
「うむ、羅経板の針はしっかりと凶相の根を指しておる。そろそろ見えてもいいはずだが……」
ミヨシに言われ、高度を上げて遠方を眺めるミズメ。
しかし、それらしい島は見当たらず、伊予之二名島の端がお目見えしてしまっていた。
「ねえ、ミヨシのおっさん。島なんてないよ。あっちはもう讃岐だ」
「む、そんなはずはないのだが……」
羅経板と睨めっこをする陰陽師。
「……いやな気配がしてきました!」
オトリが足を止めた。
唐突も唐突、遠方の海上に赤黒い靄がうっすらと浮き上がり、島の影のようなものが現れた。
「あれが例の彁島だね。まるで幽霊みたいに現れたね」
「結界で隠されていたというわけか」
「霊というより、鬼ですよ。あの島そのものが鬼のような……」
「島が丸ごと牢獄なのだ。確かに結界は張られていたと聞いておるが、今の感触は俺たち陰陽師の領分とは違う妖しいものだった」
「これは、既に乗っ取られてるとみて間違いないね」
「おっかないなあ……」
「カムヅミマルさんは大丈夫かしら……」
異様の鬼ヶ島へと各々の感想を述べる。
島へと近付くにつれ、邪気はより濃厚となる。
「……この気配。似ていると思いませんか?」
固い声で問う相方。
「“におい”がしてこないのは不幸中のさいわいってやつだね」
思い浮かぶは夜黒の穴。黄泉國へと通じる道、黄泉路。
「黄泉路が開いて醜女に支配されてしまった……とかでしょうか?」
「どうかね。なんにせよ、入ってみなきゃ分からないよ」
おぼろげな島影が鮮明になる。
暮らすには窮屈そうな規模で、島内には石の柱が並び立って壁となっており、中の様子は窺いしれない。
島の中心には巨大な岩山が聳え立っており、その洞を利用した設備もあるように見える。
まるで、島それ自体がひとつの大きな石の城のようであった。
「壁を越えることもできるけど、ちょいと危険だね」
「罪人が送られてくるのだ。入り口がどこかにあるはずだ」
島を囲うのは砂浜ではなく、来るものを拒むような岩礁。
加えて、妖しげな気配も蠢いている。
「……」
オトリの顔を見れば、何やら汗をかいている。
「大丈夫? 疲れた?」
「はい、少し。ここの海域に入ってから、海神様の加護が切れました。それに、ただでさえ重い海水が邪気のせいで余計に……」
「済まぬ。苦労を掛けるな」
背中の陰陽師が申し訳なさそうに言う。
「だんないですよ。島へ着いたらすぐに復活しますから!」
オトリは元気よく言った。
「ミズメさん。あとで飴玉を一粒、出してくださいね」
「はいはい」
ミズメはオトリに買い与えてやった飴玉を、“どこへともなく”しまうように頼まれていた。
戦闘や難所の踏破で動き回って無くしたり、子供などに嗅ぎつけられないようにするためである。
さて、上陸すると一向は早々に物ノ怪たちの歓迎を受けた。
鬼ではなかったものの、邪気に中てられた食いでのありそうな化け蟹や、犬ほどの化け船虫がゆく手を阻んだ。
その数は那由多か阿僧祇か。
きりがない上に雑魚であるため、放置して侵入口を探すべきであったが、ここで勿怪な事件が起きてしまった。
「あばばば! きっしょ!」
と、お邦言葉を発した巫女が原因である。彼女は大の蟲嫌いであった。
無数の蟲の存在に気付いて驚き、折角の飴玉を飲み込んでしまい、敵に足元から袴の中へ這い寄られて気絶。
水を礫なり矢なりにすれば、彼女ひとりで一掃できたはずであったのが、敵中で昏倒し一番の足手まといとなった。
彼女を防衛しながら迫り来る海の蟲どもを駆逐し切ったころには、残された二人と一匹は肩で息をしなくてはならなかった。
「やっと片付いた。ヤソロウ、銅鑼に化けろ!」
「ど、銅鑼ですか!?」
小振りな銅鑼に化けた豆狸を巫女の耳元へ持って行き、撥も無しに拳骨で景気よく打ち鳴らした。
「きゃあ、雷っ!?」
巫女が飛び起きる。
「やっと起きたか! 蟲は全部片付いたよ。オトリのせいでとんだ無駄足を踏まさせられちゃったよ!」
相方へ苦情を述べる。ミヨシも「まったくだ」と同意した。
「だってえ、蟲は苦手なんだもん……」
人差し指同士を突き合わせていじけるオトリ。
「あ、あのミズメ様……落雷の音なら狸の音術で真似できるので、わざわざ銅鑼になって叩かなくってもよかったのでは?」
憐れ、楽器としてぶん殴られたヤソロウが入れ替わりに気を失った。
一向は気を取り直し、島を囲む岩礁をぐるりと歩き、門らしきものを探した。
しかし、続くのは石の柱で作られた壁ばかりで門へ続く入り口が見当たらず、途方に暮れてしまった。
「どうしたものか。壁を乗り越えれば入れるが、どういった場所へ出るかもわからぬし、先程の戦いの騒ぎを聞きつけられ警戒が始まっていてもおかしくもないぞ」
「柱にも結界が厳重にしてあって、向こうの音や気配が読めないや」
「ぼくが鳥に化けて中を覗いて来ましょうか?」
「ヤソロウはよしたほうがいい。ここはあたしが……」
やむなし、迎撃を受けても対応しやすいのは自分である。
「あの……この下の窪みってなんでしょうか? 奥へ続いているような」
オトリが声を上げた。彼女は何やら岸壁から下を覗き込んでいる。
「ありゃ、これは水路だ。足元に入り口があったなんて、燈台下暗しもいいところだよ」
岩礁の下には小舟が楽に通れるほどの大きな洞穴が続いていた。
どうやら島の関係者たちはこの水路を使って内外を行き来していたらしい。
一行はオトリの祓え玉を灯りに、水路を通り抜けた。
ところが……。
「あれれ、また行き止まりですよ」
オトリが首を傾げる。水路の先には桟橋があったものの、その先は途切れてしまって堀となっている。
掘の先には岩壁に囲まれた木板の壁。
「あれが門だろうが……寺や都で見かけるようなものとは仕組みが違うようだな」
ミヨシが大きな木の壁を見上げる。
「本来なら、公式の訪問であるゆえ、声を上げて入れて貰っても構わぬはずだが……」
島を取り巻くこの邪悪な気配。中はすでに悪鬼悪霊の桃源郷と化しているやも知れぬ。
「難しい仕組みなんですか? 蹴飛ばして壊したら怒られちゃうかなあ」
巫女が何か言った。
「この門……というか、橋はお師匠様から聞いたことがあるよ。“跳ね橋”ってやつだよ。向こう側から縄を使った仕掛けで木の壁を吊ってあるんだ。あの壁がこちら側に倒れてきて、壁が橋になって渡れるようになるんだ」
ミズメは師から得た知識を引っ張り出す。
「じゃあ、ぼくが向こう側へ行って開けますか? 力のいる仕事だったら上手くゆかないかもしれませんが、隙間はあるので紙にでも鳥にでも化けて入り込めますよ」
豆狸は巫女の頭から降りると、いざ宙がえりと二本足で立った。
すると、門のほうが独りでに居り始めた。
一行は慌てて身を隠そうとしたが、隠れられる場所もなく、水路も直線である。
「最近は客人が多いのう」
女の声。
下りた橋の向こうに立つのは一人の尼僧であった。
切りそろえた黒髪に、切れ長の目。
無化粧のようで、肌の張りや口元からして、まだ女ざかりの年頃に思える。
「尼さんか。もしかして、ここの管理者の一人かい?」
ミズメは恐る恐る訊ねた。
「鬼が化けてるのかもしれませんよ」
オトリが耳打ちをする。
「俺は帝の命により陰陽寮より派遣された陰陽師、地相博士の文行だ」
ミヨシが前へ出る。
「尼殿はひょっとして、この島獄の獄長の……」
ミヨシが質問をしようとすると、尼は袖から木の葉を取り出し、それを投げて彼の口を塞いでしまった。
「妾を古い呼び名で呼ぶのはよしておくれ」
女は首を振る。
「ふが……何をする! 獄長の部下かと訊ねようとしただけだ。現在務めているであろう獄吏たちの名は聞いてはおるが、顔と名前までは一致せん。当代の獄長は、順当にいけば年老いた男が就いているはずだとも聞いておる」
ミヨシが葉っぱを剥がして言った。
「その男は死んだ。術の腕前はそこそこじゃったが、この地獄の瘴気に耐えられなんだ。あとから送られて来た者は、どいつもこいつも一年も持たぬ。ここでは、この島獄ができてからずっと妾が“島母”を務めておる」
そう言うと尼は人懐こい笑みを浮かべた。
「ずっと? この島は日ノ本が統一されたころに利用され始めたと聞いているが」
「そうじゃ。もう何百年も前じゃな」
「人の身ではないのか?」
ミヨシは太刀に手を掛けた。
「妾は人の身じゃ。このような僻地でずっと暮らしてきたゆえ、仙人に近くなってるやも知れぬが」
尼は袖で口元を隠し、細い目を一層細くした。切り揃えた黒髪が静かに揺れ始める。
「これは……確かに神気です」
巫女が言う。
――確かに気配は徳のある聖か仙人だね。
だが、ミズメは首を傾げていた。
気配は陽でも、どうも妖しげな女だ。
恐らくこの女が今回の島の異変の柱に違いない。それはもはや“お約束”なのだ。……などと勝手に決めつけていた。
「陰陽師とやらに巫女に……物ノ怪くさい小娘だな」
尼が睨んだ。
「正解。あたしは物ノ怪。といっても山伏で、悪事は働かないよ。善行専門だ」
「ほえ? 外の世では物ノ怪も善行をする時代になったのか。ま、山伏なら我が子たちから聞いたことがあるぞ。役小角とかいう術師の一派じゃろう?」
「オヅヌさんはずっと昔に亡くなったけどね。どうも話が釣り合わないな」
「言ったであろう、妾は長年ここで暮らしておると。妾は厩戸皇子に命じられてここへ来たのだ」
「聖徳太子さんの部下かい! じゃあ、あんたは三百歳を軽く超えてるってわけだ。あたしも物ノ怪だから長命だけど、自分よりも年寄りの人間には初めて会ったよ」
「ほほほ、ゆえに世俗の事情には詳しくない。外から訪れる我が子たちから断片的に聞こえてくる話だけじゃからの。外からの客は本当に嬉しい。そちたちは見学かえ? それとも、新たな部下かえ? 妾のことは“島母様”と呼ぶがよいぞえ」
尼はまたも人懐こく笑う。態度でも友好を示したようで、ミズメは尼に手を取られた。
触れ合っても物ノ怪や鬼のような陰ノ気は感じない。
「あの、こんな島に子供がくるんですか? それとも、あなたのお子様?」
オトリが首を傾げた。
「ふふふ、妾は処女じゃよ。“我が子”とは、本土より送られてくる囚人のことじゃ。言ったであろう? “島母”じゃと」
笑みに幽かに混じる妖しい気配。だが、それも聖にしては邪、程度のものである。
「御主人様、このかた妖しいですよ。葉っぱも投げてましたし。仙狐か何かじゃないでしょうか?」
ミヨシの肩でヤソロウが鼻を鳴らす。
「なんじゃ、この狸は?」
問うシマハハ。
……彼女は“いつの間にか”ヤソロウの首根っこを捕まえて、顔の前へ持ち上げて観察していた。
「む、見えなかった!?」
ミヨシが唸る。ミズメの目にも留まらなかった。
「なんじゃ、ちいさい“玉”じゃのう。これは弾き甲斐はなさそうじゃな」
ヤソロウの宝玉へ向けられる指。狸は前足で顔を隠して哀れっぽく鳴いた。
「ヤソロウちゃんに意地悪をしないでください」
今度はオトリの手の中に狸が移動した。こちらも目にも止まらぬ早業である。
「た、助かった……でも、オトリ様もぼくのを揉みますよね……」
狸がぼやく。
「今ので、シマハハ様の正体が分かりました。確かに人間の女性のかたです」
鬼や物ノ怪への不信がひと一倍強い巫女が言う。その表情には警戒は見えない。
「シマハハ様は水術師でしょう? 葉っぱの水気に霊気を込めて操ってミヨシ様の口に貼ってましたし、今の身のこなしも水術の肉体操作です。それに……その長命やお若いお姿も、水術に依るものですね?」
問う水術師。シマハハはまたも笑顔を満開にさせ、目が細まり過ぎて一本の線となった。
「御名答! 妾の得手は憑ルベノ水じゃ。さてはそちも水術使いじゃな?」
オトリはシマハハの問い掛けに堀の水を繰って答えた。浮き上がる水球。
「ほう……海水を。それもこの海神から見放された海域の水を持ち上げるか。そちほどの水術使いは罪人の中には一人もおらんかった。同胞にもな」
何かを験すように霊気を練り上げる尼。
「同胞……」
呼応してオトリも気を高め始める。
「見事な霊気じゃな。そちは、外ではさぞ高名な水術使いなのじゃろうな?」
「乙鳥と言います。字は乙女の乙に飛ぶ鳥の鳥と書きます。産まれは霧の隠れ里……」
オトリは決まりの自己紹介をすると、一拍置いて深呼吸をした。
「質問があります」
「なんじゃ? 申すがよい」
尼が小首を傾げる。
「もしかして、シマハハ様も水分の巫女ですか?」
オトリが問う。彼女には術や身分から己の遠い親戚かどうか探る癖があった。
「みくまり……ほう」
尼の細められていた目がはっきりと見開かれた。
*****
ちばけとる……ふざけてる。
伊予之二名島……四国の古称。“四国”の名称は戦国時代から見られたが、由来となった四つの律令国が成立したのはもっと古く、古代から四国の呼称があった可能性は残る。
厩戸皇子……聖徳太子。




