化かし074 立場
「安倍晴明だって!?」
闖入者の名に声を上ずらせるミズメ。
「なんでそんな大物がここへ来るんじゃ?」
鬼の首領が首を傾げる。
「ここへ十遍も挑みに来た武士がいたでしょ? そいつの雇い主が都に直訴したって話があった」
しかし、それほどの大人物が派遣されるとは予想もしていなかった。
「ああ、あの武士。そんな奴もおったのう。なーんじゃい! 折角、日ノ本一の術師とやれる機会なのに、俺は力を使い果たしちまってるぞ!」
シュテンは地団太を踏む。
「そんなこと言ってる場合じゃないよ。相手はあんたらを退治しに来るんだ」
「ミズメさん、鬼退治はすでに済んでいます。なんとか事情を説明してお帰り頂いて下さい!」
頼むオトリはカネクマの治療に専念している。
「あたしかよ! あたしもくたびれてるし、そもそも物ノ怪なんだけど……」
とはいえ、四の五の言っている場合ではないだろう。
カネクマの傷を見れば播磨晴明が話し合いを用いなかったのは明らかである。
それも一撃必殺を狙わず、ホシクマに棲みかを案内させるためにあえて逃がしたのであろう。
ミズメは小太刀を拾い鞘に納めると洞穴の入口へと駆けた。
逆光の中、ふたりぶんの狩衣と烏帽子が見えた。片方は背に弓を負っている。
鮮明に分かる殺意の霊気。洞穴内を丸ごと祓い滅する気か。
「ちょっと待った待った! 鬼退治の必要はもうないよ! あたしたちが退治したんだって!」
今のミズメに対抗手段はなし。ただ叫ぶだけである。
しかし、そのたったひとつの手が功を奏した。
「ハリマ殿、しばし待っていただけぬか?」
弓を負ったほうの人影が、もう片方の男を手で制した。
「その声は、ミズメ殿か?」
目が慣れれば浅緑色の衣装。そして見覚えのある髭面。
「ミヨシのおっさん!?」
陰陽師の片割れは、都でミズメたちの後見人を務めた三善文行であった。
「知り合いか?」
短く訊ねる声。こちらは純白の衣を身にまとった男。顔立ちこそは整っているが無表情で、どうも年齢も読み切れぬ。
「あんたがハリマ殿かい? あたしも陰陽寮から許可証を発行して貰った術師なんだ。同じく許可証持ちの相方とここへ鬼退治にやって来て、ついさっき勝ちを収めたところだよ」
「まだ気配がある」
ハリマノカミはミズメの横をすり抜け洞穴へと入る。
「お願いだから殺さないでよ。もう悪さはしないって約束したんだ」
袖を掴むミズメ。
「大江山の件はスメラギ様のお耳にも入っておる。直々に退治せよと仰せつかった」
振り払われる。
「だから退治は済んでるんだって。おっさん、同僚なんだから止めてよ」
「いや、俺にも立場というものがな……」
ミヨシに頼むも困り眉で返される。
「なんだよ役に立たないな!」
ミズメは仕方なしにハリマノカミの腕を掴んで力づくで止めに掛かる。
「……地相博士殿よ。識神でもないのに物ノ怪の娘を知り合いに持つとは、どういった了見か」
正体を見破られた。背中が冷える。
「こやつ……水目桜月鳥は善良な物ノ怪でして。識神ではありませぬが、都に滞在していた時に、私の弟子として扱っておりました。恐らく、奥には古流派の巫女の乙鳥なる娘が居るはずです。それもまた正義の徒で恩人でもあります。更に、ふたりは都の近隣でも僧侶に化けた餓鬼の退治や稲荷山の社への協力をしております」
ミヨシが解説する。
「……稲荷山」
ハリマノカミが足を止めた。
「鬼や物ノ怪の調伏をしながら善行の旅をしてるんだ。だけど、単に退治をしているんじゃなくって共存共栄を目指して、なるべく殺さずに済ませる方法を模索してる。あたしたちは山伏と巫女だけど、流派や教えの違う術師ともなるべく諍いを起こさないようにしてる。きっと、ここの鬼たちも改心して上手くやっていけると思うからさ」
理由や目的を並べて懇願するミズメ。
最強の陰陽師は、しばし足を止めて沈黙していたが「退治を命じられている」と言い放つと奥へと進み始めた。
とうとう鬼の住まいである岩の広場への侵入を許してしまった。
カネクマ少年を治療する巫女と、それを心配そうに覗き込むシュテンとホシクマの姿があった。
「ミヨシ様!」
治療を続けるオトリは笑顔を向けた。
「あの巫女、鬼を癒しているようだが」
ハリマノカミは冷たく言った。
「オ、オトリか、久しいな。なにゆえ鬼を治療しておるのだ? その鬼はハリマ殿が叩いた鬼ではないか」
「この子は悪い子じゃありません。好きで鬼に成ったんじゃないんです。弟さんを護るために鬼に成ったんです」
「し、しかし酒呑童子の一派は近隣住民に対して度重なる傷害や強奪行為を行っておると報告があってだな」
ミヨシはしどろもどろである。ちらちらと上司の顔を窺っている。ハリマノカミは無表情だ。
「罪は償わせますから。このかたたちは確かに鬼ですが、首領のシュテン様は無用な殺生を禁じています」
「罪と罰は律令が決める。鬼は法を護らず、法は鬼を護らぬ。何よりその小鬼とそちらの鬼には殺意があった」
ハリマノカミの指摘。部下ではないと言い張るカネクマと、都の陰陽師への怨みで鬼となったホシクマ。
「わ、わしは確かにおぬしらを殺す気でおった。それがわしの鬼の意義であるゆえ……」
ホシクマは震えながら立ち上がった。それから気も練らず、構えもせずにこちらへと歩き始めた。
一方で、ハリマノカミからは静かでありながら背筋の凍るような気配が醸され始めた。
「しゃあねえなあ」
声を上げたのは鬼の首領シュテン。牛歩のホシクマを追い抜き、ハリマノカミの前へと立つ。
「勝負じゃ、セイメイさんよ。わしが勝ったらおめえは帰る。おめえが勝ったら好きにするがええ」
放り投げたままの太刀も拾わず構える鬼。気を練っているようだが、見掛け倒しもいいところである。
「あんたはあたしとやって力を失ってるだろ。ハリマノカミさんよ、言っただろ? あたしが退治したって。あたしは酒呑ノ鬼に勝ったんだよ」
「わしは見とらんかったが、どうやらそうらしい。首領が負けたんなら洞穴に居る連中は皆、負けじゃろう。カネクマはああなったし……咎はわしだけが受けりゃいいじゃろう?」
長い髭のホシクマが首領の前へ出る。
「そなたが先に退治されると申すか」
「先に、ではない。わしが退治されて、それでしまいにしてくれんか。首領たちには拾われた恩義があるんじゃ」
「なんじゃい。やるなら勝つ気でやれよ。おめえの嫌いな都の陰陽師だろうが」
シュテンがホシクマの背中を叩く。
「首領よ、世話になったのう」
力無い返事。
「ならぬ。鬼は全て退治せよと命じられている」
「糞っ。これだから都の陰陽師は……!」
ホシクマは震えながら陰ノ気を醸し始めた。
「ホシクマさん! あなたでは絶対に勝てません!」
「無礼な巫女の小娘め。……じゃが、わしは鬼じゃ!」
ホシクマは太刀に手を掛けた。
「ハリマ殿、ここはひとつ私に任せて頂けないか」
ミヨシが声を上げた。
「地相博士が退治すると言うのか」
「ええ。折角のハリマ殿と御一緒できた機会です。私の力も見て頂きたく存じます。不足があればご指摘いただけるとありがたいかと」
「ミヨシ様! もう決着はついてるって言ったでしょう?」
オトリが叫ぶ。
「オトリ!」
声を掛け首を振るミズメ。
恐らく、上司と知人のあいだに立たされたミヨシの打ち出した妥協の策であろう。
ミヨシは返事も待たずに前へと進み出て、ホシクマと向かい合った。
「セイメイではなく、貴様がやるというのか」
「そうだ。俺の諱は三善文行。陰陽寮所属の陰陽師だ。自分で言うのもなんだが、腕は確かだぞ。不足はあるまい?」
「陰陽寮。都の陰陽師。だが、セイメイに比べては大したことのない気配じゃな」
鬼のホシクマが笑った。震えも消えている。
「貴様を斃したら、セイメイにはお帰り願おうか」
「鬼は全て退治せよと言われ……」
「良かろう。俺に勝てればの話だがな。見たところ、首領は手疵を負った雑魚に成り下がっておる。残りの者も同様に力を失えば、もはや鬼の盗賊団は瓦解したも同然。二度と悪さをできんだろう」
上司の言葉に被せるように言うミヨシ。
「死ぬがよい! 都の陰陽師ッ!」
突如、合図も無しに振るわれるホシクマの太刀。
「不殺ではなかったのか」
ミヨシは懐から一枚の紙切れを取り出すと、なんとそれで太刀を弾いた。それから彼も太刀を抜き構える。
「鬼の性分が疼いてのう、都の陰陽師!」
洞穴内に鳴り響く剣戟の音。
ミズメは戦うふたりを尻目にハリマノカミを見た。
――困ったね。ミヨシのおっさんが誤魔化そうとしてくれてるけど、多分こいつは止まらない。下手を打つとあたしたちまで退治されちゃうよ。
オトリのほうを見れば、彼女は戦いを見守りながらも治療の手を止めていない。
瀕死であったカネクマ少年であったが、幾分か落ち着いてきているように見える。
先程までここに居たはずのタルクマ、ユキクマ、イチジョウの姿はミズメがハリマノカミと共にここへ戻ってからは姿が見えない。
首領が逃がしたか。トラクマも同様か、狩りに出ているのであろう。
「おぬし、さては元陰陽師だな」
ミヨシは自身に向かって飛び掛かる大きな紙人形を斬り捨てた。
「左様。人の身であったころ、仕事の遅い都の連中の代わりに民を護り続けていたのじゃ。だのに貴様ら都の陰陽師どもは、立場だ許可証だと並べ立て、わしらを排除しようとしたであろう! そのせいで幾人が不幸になったか! 正義でなく命令で動くスメラギの犬どもめが!」
ホシクマが懐から紙人形の束を取り出して広げる。
紙は光りの鳥の群れに変じてミヨシに飛び掛かった。
「はっ!」
ミヨシが左手の二指を立て発気する。すると、紙人形たちはひらひらと地面へと落ちた。
「修行が足りん!」
紙を一枚投げ返す。それはたった一羽の小鳥に変じてホシクマの肩へ当たり爆ぜた。
肩から煙を上げて唸る鬼。
「気で護ったか。鬼だけあって頑丈なようだが、これならどうかな?」
太刀に気を通したか、ミヨシの構えるやいばが光り輝く。
煌めき一閃。ミヨシの斬撃を受けたホシクマの太刀はまっぷたつにへし折れた。
「まだやるか?」
「愚問! 奥の手を使わせてもらうぞ! 人間の陰陽師!」
ホシクマはそう言うと、両手を地に着け背中を膨れ上がらせた。
顎髭豊かな鬼面が歪んだかと思えば、見る見るうちに獣の顔へと変じた。
全身の肉付きも逞しく変容し、その姿はまるで獅子。
そして、発する気配は反転し、明らかな陽……いや“聖”である。
「|鬼人一体獣頭牌変化ノ法!!」
聖獣のごとき鬼が四肢を蹴り、岩窟内を駆け始めた。
「むっ、速い!」
すれ違いざま、獣の爪がミヨシを傷付ける。
縦横無尽に駆け巡るホシクマ。
「これでは狙いも定まらんし、加減もできぬではないか!」
ミヨシは眉間に皺をよせ唸る。しかし、二撃目は見切ったか、太刀で爪を弾き返した。
鬼は諦めず、再び駆けて攻撃を仕掛けた。
しかしその度に太刀でいなされ、何やらミヨシに札を投げ付けられ、それが四肢を埋めていく。
「爆ぜさせる気か」
ハリマノカミは呟くと数歩下がった。
――おっさん、なるべくなら殺さない方向で頼むよ。
祈るミズメ。
「はっ!」
ミヨシが再び発気。
すると、札が光り……素早い聖獣の動きが鈍重に転じた。
「諦めぬ!」
発光、咆哮、跳躍。しかしホシクマの攻撃は回避され、彼の背中から腹へと光刃が貫いた。
「鬼のくせに陽ノ気をまといおって!」
串刺しの鬼の前で両袖を合わせるミヨシ。袖の中では印が結ばれているのであろう。
「陰を転じて陽と成すが陰陽道の真髄ならば、その逆もまた然り!」
陰陽師が叫べば、獣のまとう白光が見る見るうちに赤夜へと転じていく。
「渾身の鳴弦ノ術を受けよ!」
ミヨシは背負っていた牡丹の蒔絵の描かれた見事な弓を手に取り、矢も番えずに引いた。
祓えの気を孕んだ弦の音があたりに響き渡り、それを間近で受けた獣の赤黒い光が消滅してゆく。
獣は元の鬼の姿へと戻り、それから角が短くなり見えなくなった。
「ぐ、無念……」
息も絶え絶えのホシクマ。それでも自身を貫くやいばを握る。
「まだ抜かぬほうが良いぞ。あとでオトリに治療して貰え」
「うるさい!」
ホシクマは手のひらから血を流しながら腹の太刀を抜いた。
「殺せ、殺せよ都の陰陽師! なぜ祓い殺さんかった!?」
腹と口から血を吐き鬼が問う。
「おぬしの獣のごとくの素早さに気が急いておってな。陰陽を転じ切る前に祓ってしまった」
とぼけた髭面である。
「あの札を爆ぜさせることもできたろうに!」
「陰陽師は祓うだけではない。鬼や物ノ怪を識神として従える技も持つのは知っておろう」
「わしに貴様の軍門へ下れというのか!?」
「いやならいいが。俺は異端扱いでな。掟や命に背いて己の正義を通すこともしばしばであるゆえ、部下になれば苦労をするだろうしな」
やんわりとした勧誘。
「そうだよ。ミヨシのおっさんはあんたの憎んでる都の陰陽師とは違うよ」
ミズメも説得を行ったが、ホシクマは抜き取った太刀の切先を自身の喉元に向けた。
「おい、よさんか!」
シュテンが声を上げる。
「今度は止めんぞ。友人への義理は果たした」
ミヨシは腕を組んで口をへの字に結んだ。
「……気付いておった。貴様がわしに情けを掛けていたことを。他の都の連中とは少し違うのも。しかし、わしは都の陰陽師を怨みし存在! これ以上恥を重ねるわけにはいかぬ!」
血泡吹いての絶叫。
ホシクマの両腕が、ぐいと己の首のほうへと動いた。
……しかし空手。太刀が消えている。
「はい、ミヨシ様」
巫女が陰陽師へと血濡れた太刀を手渡す。ミヨシは「おう」と答えるとやいばを紙で拭い、鞘へと納めた。
「いつの間に」
「カネクマさんはなんとか持ち直しました。次はあなたの番ですよ。さあ、気を楽になさって」
オトリが微笑み掛ける。
「恥を晒して生きよというのか?」
あとずさるホシクマ。
「はい、晒して生きていきましょう。私なんて、恥ずかしい思い出や失敗なんて、両手で数えても足りないくらいありますよ」
「あたしもだね。あんた、元は野良の陰陽師だったんだろ? 改心してその力を誰かのために使いなよ」
「そのほうが絶対に良いですよ!」
「しかし、陰陽寮と在野の術師はいがみ合っておる……」
「確かに陰陽寮の奴らには融通の利かないのもいるし、名ばかりの奴だっていたけど、ミヨシのおっさんみたいなのもいるんだ。あんたらの代表の蘆屋道満だって、そこの“最強”と仲が良いって言ってたよ」
ちらとハリマノカミを見やるミズメ。
「“ドウノジ”め……」
ハリマノカミは不満げに呟いている。
「じゃが、鬼の怨みが正義に勝ることもあるやもしれぬ。わしに成せることかどうか……」
「あたしだって物ノ怪だけど、改心して……悪戯くらいしかしてないよ!」
「改心させました! たまに悪戯されていますけど!」
ふたりが胸を張る。
「そういうわけなんですよ。いけませんかね、ハリマ殿」
ミヨシは媚びへつらって上司を拝んだ。
「……力を削いだゆえ、その鬼の退治は成されたと見てよいだろう。だが、まだ力を持った気配がいくつもある。あからさまな邪気も感じる」
ハリマノカミが顔を向けた先。あの暗がりの向こうにはいくつかの分かれ道があり、鬼たちの寝床へと通じている。
「頼む、他の連中は見逃してやってくれねえか。なんなら俺の首をくれてやってもいい」
鬼の首領が言った。
「あんたはもう負けたろ」
「負けても首領じゃ。鬼の力が殺がれても、鬼の誇りは消えん。俺は“いちがいこき”にも自信があるんじゃ!」
頑としてゆずらぬ酒呑ノ鬼。
そこへ明らかな邪気がひとつ、奥からこちらへと向かって来た。
「シュテン様に恥を掻かせるなど! 憎き安倍晴明め!」
飛び出してきたのは十二単のイチジョウ。大袖から覗くは鬼の爪。
「やめろ!」
すかさずシュテンが抱き止めやめさせた。
「どこかで見た顔……」
呟くハリマノカミ。
「そうであろう。妾はかつて……」
鬼の腕が鬼女の口を塞いだ。
「思い出したぞ。そなたは東三条殿の探しておった……」
「いーや、人違いじゃ! こいつは田舎者の鬼で、都に憧れ過ぎて鬼に成ってのう! それでこんな衣なんて着とるんじゃ」
何やら事情ありの様子。
「その貴女はともかく、他の四鬼……いや、二鬼は捨て置けぬ。力のある鬼はスメラギ様に退治せよと命じられておる。邪魔立てをするというのであれば、手負いとはいえ、滅するのみである」
無表情。いよいよハリマノカミから高まる霊気を感ずる。
「片方は明らかな黄泉の気配をまとっておるな。地上に害為す存在は、滅するほかにあるまい」
「黄泉の鬼ですと!?」
ミヨシが声を上げる。
「まったく、出て行っちゃいかんというのに」
ぼやきながら当の鬼が現れた。タルクマである。肩には酒樽を担いでいる。
その横には細身で銀の長髪の鬼ユキクマ。彼は黄泉の気配を隠していない。
続いて狩人のトラクマ。彼は弓を携えていなかった。
最後に、角の生えていない髫髪放りの童子が来た。カネクマ少年が庇護する弟、石熊童子である。
「兄様!」
童子は未だ目を覚まさない小鬼へと駆け寄った。
「お兄さんはなんとか持ち直したわ。他のかたも、ハルアキ様はお見逃しになってくれるから」
オトリが言う。
「ならぬ」
短い拒否。
「お帰り頂けませんか? ハリマノカミ様とはいえ、無闇な殺生は律令に触れましょうに」
オトリも霊気を練り始めた。
「律令は鬼を護らぬと言ったはずだが」
「彼らは皆、もとは人の身でした。法や令はひとびとを律し、護るためのもの。弱者や爪弾き者を護らずして何が律令ですか」
霊圧の風が起こり、巫女の袖と提げ髪が烈しくはためいた。
「少数を護るために大勢が不便を強いられる律令など無用である」
「でしたら、税の取り立てで大勢を苦しめてる律令も不要ですね?」
巫女がやりかえす。
「古流派の巫女よ。鬼を癒すだけでなく庇い立てをし、スメラギ様の命を頂いた陰陽寮へも術を向ける気であるか」
「私には官位や立場というものがありません。巫女頭の候補でしたが、里も抜けてしまいましたし。ただ、己の信念に従って生きるだけです。たとえ鬼であろうとも、戦わないかた、戦えないかたへの手出しは許しません」
「許可証があるのならば、陰陽寮に従え。律されぬ力は正義に非ず」
「これが正義でないというのならば、悪でも構いません」
オトリに霊気を治める気配はない。
「参ったね。こうなったらあたしも付き合うしかないね」
ミズメは小太刀に手を掛ける。
一蓮托生。霊気は底をついていたが、相方と組めば分けて貰うことも可能だ。
ミヨシへの恩義もあったが、己の正義と相方の気持ちを前にすれば、天秤に掛けるまでもなかろう。
「やれやれ、ひやりとしますね」
ユキクマが言った。彼の足元には赤い冷気が漂い始めていた。
「おまさんらが争うことじゃあない。これは鬼と調伏師の問題じゃ。のう、セイメイ殿よ」
タルクマが酒樽を降ろす。彼からもまた霊気の高まり。
「わしとユキクマがおまさんの相手になる。鬼の勝負じゃ。どちらかが勝てば全員不問、負ければわしらの魂をくれてやろう」
酒樽のふたを叩き壊して鬼が笑う。
「な!? おめえらで勝てる相手じゃねえ。俺がやる!」
声を上げる首領。
「馬鹿かシュテン。今のおまさんのほうがしょぼくれた霊気をしとるじゃろが。それに、いつもの気魄と勝負師のたましいまでどこかへ忘れたと見えるのう。今、この大江山の鬼で一番の剛腕と術力を持つふたりが相手じゃ。これを調伏すれば陰陽師の面目も保てるじゃろう?」
「死ぬ気か!」
「阿呆、わしも腕前には自信があるんじゃ! それにわしだって“いちがいこき”の勝負師じゃ。わしは小娘に一杯付き合ってやっただけじゃからなあ。どいつもこいつも楽しそうに腕比べしおってからに」
タルクマは楽しげだ。
「……おっさん、無理はしないでよ。あたしは酒のみ対決の再挑戦をしたいんだからさ」
ミズメは己の顔が曇るのを感じた。
「潰れるまで飲んだ奴には言われとうないわ。おまさんの意地もなかなかじゃったが、まだ青い。わしら鬼の意地ってもんをようく見ておくんじゃな」
大きな手に肩を叩かれる。
「さて、最強の陰陽師さんをひやりとさせてあげましょうか」
涼しげなユキクマ。
二鬼はハリマノカミへ向き合い、鬼の睨視を送った。
*****
髫髪放り……肩のところで切りそろえて垂らした髪型。童女によくある髪型。




