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化かし072 転倒


 ……。


「そうなんですよ。このひと、何かにつけてお酒を飲みたがるんです。好きなことをやめろとは言いませんけど、お世話をする私の身にもなって欲しいなって」

「それは薬か?」

「はい、酔い醒ましです。でも、酔いにいちばん効くのはたっぷりのお水ですね」

「わしらは酒に強いだけじゃなく、鬼の頑丈さもあるからのう」

「他にも包みがあるが、全部薬か?」

「これは傷薬、こっちは虫下し、これはお薬じゃなくって、料理の味付け用です」

「全部自分で煎じとるんか? 豪いもんじゃのう」


 会話が聞こえる。頭がずきずきと痛む。どうやら痛飲のすえに倒れたらしい。

 ミズメはちらと片目を開けるが、岩の天井と切れ目から覗く青空しか見えない。


――いやはや、格好つけようとして滑っちゃったよ。恥ずかしいったらないね。

 二、三歩歩いて忘れたいところであるが、周りが忘れてくれぬだろう。


「おっ、起きたぞ」

 こっそり様子を窺ったつもりが、鬼に看破されてしまった。


「……」

 が、寝たふりを決め込むミズメ。宿酔(フツカヨイ)はつらいのだ。


「お身体のほうは大丈夫ですか?」

 ミズメは抱き起され、頭が柔らかなものに乗せられた。膝枕であろう。


「いやあ、負けちまったねえ」

 呟くミズメ。

「飲み比べはのう。わしは大したもんだと思うがね。おまさん、その娘っ子に良いところ見せようとして無理をしたろう? “意地”のほうでは、わしの負けじゃったよ」

 橸熊(タルクマ)が冷やかすように言った。

「胃の腑が気持ち悪いよ」

 聞こえぬ振りをして膝に顔を埋める。巫女と鬼たちの笑いが聞こえた。いやはや、調子に乗るものではない。


「タルクマさんが吐かせてくれていましたが、また吐いておきますか? 水術で胃の中のお浄めもできますよ」

「わしも水術のたしなみがあるが、そんなこともできるんじゃなあ」

「荒療治ですけどね。里の子供が毒の実を口にした時とかにやっていました。ミズメさんにはいつもお薬とお水で済ませているんですけど、今日はいつもよりも酷いみたいで」

「甲斐甲斐しいのう。わしもこういう嫁さんが欲しいのう」

「だったら攫って来たらどうじゃ?」

 拉致を勧めるのは鬼の首領酒呑(シュテン)

「無理矢理だなんて駄目ですよ」

 窘めるは巫女。

「俺たちは鬼じゃい。そっちは負けたんじゃろが」

「そうでなくって、無理矢理連れてこられたかたが、まごころを込めたお世話なんてしてくれないというお話ですよ」

「言う通りじゃな。わしも盗賊なんぞやめて、酒蔵一本でやってみるかのう。そうしたら、良いお嫁さんが来てくれたり、せんかのう?」

「酒好きの女なら俺も歓迎だ」

「あら、シュテン様。(ワラワ)もいける口ですわよ」


 オトリと鬼たちは長閑(ノドカ)も長閑の様相であった。


「勝負はどうしたんだい?」

「えーっと、じつはですねえ……私も戦ったんですけど、負けちゃいました」

 頬を掻くオトリ。


「負けた? オトリが?」

 思わず身を起こすミズメ。姿勢を変えると胃がうねった。


「不覚を取ってしまって……」

 顔はしょぼくれてはいるが怪我や霊気の弱りは感じない。

「ふふ、勝たせて頂きましたよ。術力そのものでは、全く歯が立ちませんでしたけどね」

 霊験あらたかな水術師を打ち破ったと誇るのは、銀の長髪を持つ細身の鬼“膤熊(ユキクマ)”である。


「首領とやるんじゃなかったの?」

「ユキクマさんが驚かすからいけないんですよ」

 オトリは溜め息をついた。


 彼女はミズメが倒れたあと、鬼の中に取り残されて少々混乱をきたしていたという。

 呑み比べ相手のタルクマにミズメへの介抱を許し感謝をしつつも、首領や他の鬼へは警戒心は抑えられなかったそうだ。


 そこへ突然、黄泉の気配を持つユキクマが、陰ノ気を発しつつ彼女の背後に無言で立ったのである。


「不意打ちってことかい?」

 横道無しは首領だけか。睨むというほどではないが、ちらとユキクマの顔を見た。彼は涼しい顔をしている。


「えっと、そうなんですけど、そうじゃないんです。とりあえず、お話しますね」



 ……。



 オトリは元より黄泉の尖兵らしきユキクマを警戒していた。

 速攻で霊気を練り上げるも、酔い潰れたミズメがタルクマの腕の中にいることも考慮して一旦は平静を取り戻し、背後に立った鬼から距離をとる。

 背後は取られたが攻撃は無し。涼やかに笑うのみである。


 オトリは首を傾げながらも、ユキクマへと公式の勝負を挑んだ。


「よろしい。共に舞いましょう」

 受けるユキクマ。額の鬼の一本角が伸びて反る。

 角はその精鍛な顔付きに妙に似合いであり、一種の魅力のようなものを作り出していた。


「私は黄泉(ヨモツ)の母、伊邪那美(イザナミ)に命じられ、生きとし生けるものの肝を凍らせる約束をしています。母の加護であるこの黄泉の氷術“静止スヨモツユキ”をもって、あなたを凍えさせて御覧に入れましょう」


 鬼の指が赤い氷をまとい、鋭き爪を作り出した。

 洞穴を抜ける風に赤い雪が混じり始め、場に陰ノ気が充満し始める。


――どうしよう。黄泉の尖兵なら、滅してしまわないといけないのかしら。でも、そんなことをすれば……。


 オトリは戦いを見物する鬼の首領をちらと見やる。彼は不殺を謳っている。そのそばでは腹の出た鬼に看病される相方の姿。


「よそ見をしている場合ではありませんよ」

 鬼の氷爪(ヒョウソウ)が襲い来る。

 オトリは水術で自身の肉の水気に命じ、鬼の胆力を越える大力を生み出して投げ飛ばした。


――全力ではやれない。


 着地し振り返る鬼を睨みつつも、懐から竹の水筒を取り出し、中から水を引きずり出していくつかの水弾を生成する。


「ふふふ、水術師ですか。運が悪かったですね。私の術で舞わせて差し上げます」

 鬼が手を翳す。


 凍結を狙ったか。しかし、光り輝く水の玉たちは宙をふわふわと漂うばかり。


「私の陽ノ気をたっぷりと込めてありますから、あなた程度の陰ノ気では凍らせられませんよ」

 オトリは玉のひとつに指先で触れ、更に霊気を送り込んだ。


 玉響(タマユラ)、小さな水弾が燕のひと啼きの音と共に消えた。


「なんという術!」

 ユキクマの足元、頑強なはずの岩の床に指先ほどの穴ができた。

「舞うのはあなたのほうですよ」

 オトリはいくつかの弾丸を鬼の足元へと打ち込み、彼を右往左往させた。


「私の肝を冷やすとはなかなかやりますね!」

 鬼はもう一度オトリに向かって腕をかざした。今度は“何かを掴むような仕草”も付随する。

 相当量の陰ノ気を込めたらしく、全身から赤黒い霧を噴出した。


「心臓を狙いましたか? 感じませんでしたけど……私を凍らせるのも不可能ですよ。今の水の粒のひとつひとつで、額や心臓を狙うこともできました。私は水術師ですが、巫女でもあります。お祓いであなたの心身魂(シンシンタマ)を形作る陰ノ気を全て祓い滅することだって可能なんですよ」

 巫女は静かに言う。

「シュテン様。あなたの部下と私の力量差はこの通りです。勝負は決しています。祓い落して力を奪うことも可能ですが、邪気の多い彼の魂には強い負担が掛かってしまいます。できれば、そのようなことをせずに決着としたいのですが」

 黄泉の鬼が地上を害するのが本能であるならば、それを滅するのは巫女の本能。

 しかし、“巫女”がそうであろうとも“オトリ”はそうしたくないと思った。親友と始めた共存共栄にはなるべく添いたい。


「巫女さんよう。油断せんほうが良いぞ。俺たちは勝負好きではあるが、己の執念や使命には逆らえんのじゃ。鬼である故に、な」

 鬼の首領は不敵な笑みを浮かべた。


 矢張り、イザナミの尖兵は地上の破滅を目論むのか。


「私に勝てるはずないのに……」

 溜め息ひとつ。


 鬼の気が霧のごとく立ち込めてきた。

 岩の床が一面の紅き氷湖へと変じてゆく。


「行きますよ!」

 氷結した地面でユキクマが滑走。血色の氷のつるぎを作り出し攻撃を仕掛けてくる。

 オトリは跳んでの回避を目論み、膝に力を入れ地面を蹴った。


 つるり。


 視界が敵から天井へと変ずる。

 すってんころりん、床から後頭部へ手痛い一撃が加えられた。


――しまった!


 自身の間抜けさに冷や汗を掻き、鬼の追撃を恐れてあたふたと立ち上がる。


「秘技……」

 ユキクマは華麗に足先を氷の床に滑らせ、身体を捩って……飛んだ!


「四回転跳躍!」

 遠心力と霊気を込めた氷の斬撃か。切り傷程度ならただちに癒せるが、万一切断されれば不治となる可能性が高い。


 巫女の娘は息を呑み、鬼胎を抱き、肝を凍らせ、鬼を死なせしめるほどの祓えの気を込めた腕を突き出し己の護りとする。


――ごめんなさい!


 霊力の圧倒的差により、触れずに鬼を殺してしまったか。こちらへの打撃も手応えも感じない。


「あれっ?」

 見れば、鬼は離れた所で着地、またも華麗に滑走を始めていた。

 ユキクマの銀の長髪がなびく。それは、邪気の霧の立ち込める中、まるで神聖なもののようにきらきらと輝いた。


――攻めて来ない?


 ユキクマは氷上を滑りながら姿勢を変えたり、跳ねてみせたり、得物をかざしたりしている。


「見事じゃのう。ユキクマの氷舞(コオリマイ)は」

 感心するは鬼の首領。


――舞! 舞ということは、呪術かなにかかしら?


 呪いが自身に通じるとは思われなかったが、念のためにと霊気を更に練り上げ呪術への守備を固める。


 攻撃の正体が分からぬ以上は無闇に動けず、仮に動こうとも転倒の危険。一撃打倒を狙って仕掛けても、回避されればあとが怖い。

 同じ狙うならば、相手の攻めへ合わせて反撃を当てるしかないだろう。


 オトリはしばしのあいだ、鬼の呪舞を観察した。

 しなやかな肉体の反り、氷上でも決して崩れない姿勢。鬼の胆力から捻りだされる竜巻のごとくの大回転。

 それから静かな着地。

 禍々しき行いとはさかしまの様相。益荒男(マスラオ)とは一味違った、男の魅力を醸す鬼。


 ところが、一向にこちらへ呪力が向けられる気配がない。


 オトリは「はっ」と気付く。


――呪いでないのなら、召喚の儀式だわ!


 黄泉神(ヨモツガミ)穢神(ケガレガミ)か。大神を呼ばれれば勝敗は見えなくなる。

 矢張り、先行をとるべきかと足場の悪さを顧みずに、鬼へと飛び掛かろうとした。


「きゃんっ!」

 またも転倒。今度は顎をぶつけた。


 鬼は構わず滑り舞い続けている。上げた片足をまっすぐに伸ばしてぐるぐると回転、静止すると共に直立。そして彼の人差し指は天を指した。


――舞の捧げが終わった! 何が来るっていうの……?


 オトリは小鹿のように膝を震わせ、股に力を入れて立ち上がる。


 ユキクマは舞で乱れた前髪を掻き分けると、微笑と共にこちらを指差した。


 一体、何が起こるのか?


「見てみなさい。あなたのお連れ様が、酔った勢いでタルクマ殿とまぐわっていますよ。好色ですねえ」

「ちょっと、ミズメさんっ!?」

 予想外の通達に驚き振り返るオトリ。滑って姿勢を崩し、膝を突き、藻掻きながらも確認をする。


 ……だが、特にいかがわしい行為は行われていなかった。ミズメは酔い潰れたままである。

 余程の眼力だったのか、一緒に睨まれたタルクマは赤ら顔から青い顔へと変じて、両手を必死に振って否定した。


「はあ……」

 何やら気が抜けた。あのひとならやりかねない。そう思ってしまった自分が恥ずかしい。


 霊気が抜けたその瞬間。背中がとん、と突かれた。


 オトリは心の臓の裏側の位置に、濃厚な陰ノ気と、刺すような痛みを伴う悪寒を感じた。


「ふふ、私の勝ちです。肝を冷やしたでしょう?」


 振り返れば、美しき氷鬼が涼しげに微笑んでいた。



 ……。



「……というような感じで負けてしまいました」

 がっくりと肩を落とすオトリ。

「なるほどね。騙しと地面の滑りで霊力の差を引っ繰り返されちゃったわけだ」

 ミズメは苦笑いをする。実直な性根の相方は心を突く搦め手には滅法弱いのだ。


「騙すとは心外な。私は、ただ相手の肝を冷やすことに注力したまでです」

 ユキクマが言う。

「オトリ様は気高き巫女です。呪術や舞の意味にもご理解があると踏み、それを逆手に取って彼女の肝を冷やし続けて差し上げたのです」


「やるねえ。でも、なんで肝を冷やすのにこだわったの?」

「私は黄泉の母より使命を受けておりますから」

「それならかえって不思議だよ。どうしてオトリを殺さなかったのさ? オトリほどの巫女を黄泉送りにできれば万々歳じゃないのかい?」

 首を傾げる。いくら鬼の大将に従っているとはいえ、黄泉の鬼の存在意義は母に従うことにあるはずだ。


「このかた、イザナミ様の命令を勘違いしているんですよ。なんだか変な理由で鬼に成ったらしくって……」

 口を挟むのは苦笑いのオトリ。


「勘違いではありません。私は母の命を正しく実行し続けていますよ」

 ユキクマは鬼化の挿話を語った。


 うつくしき氷鬼ユキクマは、かつては人間であった。

 肥後国(ヒゴノクニ)のある豪族の家で領主の息子として生を受けた。

 彼の住まう地は朝廷によく従い、領主は領民を大切にし、領民もまた統治者の手腕に満足をしていた。

 彼は霊力に長け、領主たる父の教えを正しく学び、性格も物腰柔らかく、容姿端麗で人気もあった。


 しかし、そんな彼にも欠点……ひとつの“悪癖”があった。


「私は人を驚かせるのが好きでしてね」


 他者が肝を冷やす姿を見るのが何よりの好物。

 物陰から飛び出し大声を上げたり、坊主や巫覡の背後でわざと邪気を吐いてみたり、化粧と衣で女に化けてみたりなどなど……。

 もともと人好きのする性格と容姿であったため、それはかえって彼の魅力に華を添えるものとなっていた。

 しかし、長年驚かせ続けていると、相手のほうが慣れてきてしまう。

 彼は次第にその内容を過激にしていくほかになかった。


氷室(ヒムロ)に隠れたら面白いかと思いまして」


 一番手っ取り早く驚嘆を拝めるのは、不意打ちで大声を上げることである。

 雪山のごとくに寒い氷室に隠れているなどと誰も思うはずがあるまい。

 屋敷の裏手の小山の氷室には酒が冷やしてある。夏場では家族や配下がそれを取りに訪れるのだ。

 青年は積まれた氷雪の横で、誰かが訪ねて来るのを冷酒を飲みながら待った。


 しかし、一向に誰も訪ねて来る様子がない。そろそろ屋敷の酒が切れるころだと踏んでいたのだが。

 酔いで身体も暖まった気もしており、退屈も相まって彼は寝てしまった。


 その時に彼が夢に見たのは“矢鱈にくさいにおいの漂う秋の山の景色”であったという。

 そこには太陽が無かったが不思議とあたりがはっきりと見えた。

 夢にしては妙に感覚がはっきりとしている。とりあえず、袖で鼻を覆いながら昏き紅葉の道を歩いた。

 すると、正面からおぞ寒い気配をまとった“赤黒い塊”が近付いてきたのだ。

 その塊は女の姿へと変じ、自らを黄泉國の統括者であると名乗った。


「私は一時的に死んでしまっていたようなのです。それでイザナミ様に、元の世に戻りたければ妾の指令を受けよと言われまして。そこは酷くくさい所で早く帰りたかった。何よりまだまだ人を脅かし足りない。私は二つ返事で彼女の要求を呑みました」


 彼に与えられたのは黄泉の加護と氷術。

 そして、「覡國(カンナグニ)に生きとし生ける者ども全ての肝を凍り付かせよ」という命令であった。


「私は地上に返されたのち、鬼と成ってしまったために国を去るしかなくなりました。そして日ノ本の方々を放浪して、母の命令通りに人々を驚かせ続けたのです」

「驚かせたの? 氷術で殺したんじゃなくって?」

「肝を冷やせと言われましたから」

「いや、そーいう意味じゃないと思うけど……」

 肩を落とすミズメ。相方を見ると「あはは」と返される。

「……まったく。鬼にも色々あるもんだねえ」

「私、気負ってしまって損しちゃいました」

 オトリが溜め息をつく。


「そうこうしているうちに、わしらに出逢ったっちゅーわけじゃが、こいつの本分は他人を驚かすことらしくてのう。勝ちの決め手となった“まぐわい”の騙しでは、わしまでが巻き込まれて肝を潰してしもうたわ。わしゃ、ちゃんとした嫁さんが欲しいのに、酔った小娘を組み伏せたなんて言われたら、鬼の恥じゃよ」

 タルクマが指先で頬を掻く。

「最初に私の背後に立ったのも、戦いで見せた技や術も全部“驚かすため”だったんですよ」

「油断すると俺も驚かされるからのう。ユキクマとおると退屈はせんぞ」

 笑うシュテン。

「でも、ユキクマさんはいけないかたなんですよ。見掛けが良いからって、里で言い寄ってきた女のかたとお付き合いをして、食べ物を貢がせるんですって!」

 オトリは口を尖らせた。


「わざとではありませんよ。向こうからやってくるのです。もっとも、長続きはしませんが」

 ユキクマは角を生やしたし隠したりしてみせた。


「私としては真面目にお付き合いをしているつもりなのですが、鬼だと教えた時の驚く顔が堪らないものでしてね。満月が来るたびに我慢をしてみるものの、結局はひと月ふた月で逃げられてしまうのですよ」

 黄昏の猫目と共に妖しげな笑みを浮かべる美鬼。


「なるほどねえ」

 これもまた鬼の執着か。母の命令への曲解は正さぬほうが良いであろう。


「でも、いつか鬼と知っても逃げないかたが現れますよ。その時はユキクマさんも年貢の納め時ですよ」

 恋好きの娘は黄泉の鬼の小悪事に対して微笑みで返した。


「そういうわけで、おめえたちは二敗じゃな。カネクマが負けたぶんで一勝としても負けが多い。別にこれでこちらからどうこうしろとは言わん。また好きに挑んでくれたらええぞ」

 鬼の首領が言う。

「私としては肝を冷やして差し上げることができたものの、本気を出されていれば勝負にもならなかったと思いますから、引き分けとしてもよかったのですがね」

 涼しげな顔の氷鬼。


「しかし、オトリの術力と大力には驚いたもんじゃ。嫁に欲しいくらいじゃ」

 シュテンが笑う。彼の膝元に座しているイチジョウが邪気を醸し出した。

「わしは尻に敷かれる気しかせんよ。できれば、嫁にするならわしの鬼の力で護れるような並の娘っこが良いのう」

 タルクマが言った。

「オトリはあたしが見た中で一番の術師だよ。三百年生きてきて、これだけの霊気を練る人間は見たことがないね」

 相方を自慢するミズメ。

「聞けばミズメも物ノ怪らしいじゃないか。術だけでなく、武芸もいけるとか。オトリは自分よりも強いなんて言ってたぞ」

 鬼の首領の鋭い視線が向けられる。


「ええ、そんなわけないじゃんか」

 困惑と共に相方を見る。オトリはそっぽを向いた。


「ま、それはやってみれば分かるじゃろう。ミズメよ、俺は正式におまえに勝負を挑むぞ。術と得物での戦いじゃ。手足や首を撥ねるのは禁止。二度と戦えなくなるような攻撃は無しでの」

「やっぱりそうきたか。ま、あたしもちょっとやってみたいって思ってたところだよ。だけど……」


 まだ頭がふら付く。できれば膝枕に帰りたいところである。


「心配せんでええ。酔いが醒めてから万全でやろうや。そうでなければ面白くないからの」

「ありがたいよ。退治に来たとか言いながら、施しばかり受けちゃって、全くあべこべだ。変な気分になるね」

 しかし悪い気はしない。この連中であれば、勝てば素直に悪事の停止も受け入れてもらえそうだ。

「シュテン様たちが良いかたで良かった。悪いかたですけど」

 物ノ怪嫌いの巫女も機嫌好さげに言った。

「わしらは単に好きにやっとるだけじゃから、良いか悪いかも分からんがな。迷惑掛けとるのは事実じゃし」

 タルクマは申し訳なさそうである。

「悪事はやめましょうよ。お嫁さんが欲しいんでしょう?」

「むう、そうじゃなあ」

「手頃なおなごを紹介して進ぜようか?」

 ユキクマが言う。

「おまさんのおさがりはいやじゃのう」

 苦笑するタルクマ。


 人も鬼も物ノ怪も、その信念の根にはそれぞれの挿話がある。

 それが誰かの悪となるものであれば、ぶつかりあうことも起こるであろう。

 鬼が人に害をなし、巫女や陰陽師がそれを誅するのは、もはや自然の理と同じもの。

 だが、その理の外であれば、寄り添い歩くのも決して不可能ではなかろう。


 けだし、立場や身上を脱ぎ捨て互いに“生きあう”。これこそが真の共存共栄と呼ぶべきものか。 


 ミズメは密やかに、師の教えへ書き足しを行った。


――でも、流石にユキクマの理由は(ケチ)くさ過ぎやしないかね?

 言わぬが花。そういった配慮もまた共存共栄の一部である。


「ま、細けえことはええんじゃ! これが俺たちのやりかた。それだけじゃい! 奥でトラクマが獲物を捌いとるから、飯にしようぞ。ほれ、イチジョウ。いつまでも妬いとらんと、俺のために盃に酒を注いでくれや!」

 醜き鬼が笑顔で言った。

 首領が頼めば鬼女は陰ノ気を治めて立ち上がり、しなやかな手つきで酌を使って大きな盃へと酒を注ぐ。


「お、良いね。じゃあ、あたしも一杯。オトリ、注いでよ」

 ミズメは“どこからともなく”自前の盃を取り出した。


 それから、相方に頭をひっぱたかれた。


*****

まぐわう……男女の交わり。

肥後国(ヒゴノクニ)……現在の熊本県あたり。

氷室(ヒムロ)……外気の熱に強い立地や構造で建築し、雪や氷を大量に入れた小屋や洞穴。食品の冷凍や長期保管などに使った。

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