化かし071 得意
湯でのひと騒ぎはおいて、落ち延びた武士により大江山の鬼たちについての詳細が語られた。
「かしらの名前は酒呑ノ鬼」
丹後半島、大江山が中腹の大洞窟に棲む鬼の軍勢の大将である。
剛力無双の醜い鬼で数々の鬼を従え、大江山を拠点に各地で盗賊行為を重ねていた。
被害に遭った地から徐々に噂は伝播し、都にも聞こえているはずだというが、これまで調伏が達せられていない。
無論、鬼どもは他者を倒すことに関して確かな力量を持っている。
鬼の大力や武芸だけでなく、術式にも通じている者もおり、並大抵の兵を派遣しても敗走の結末を繰り返すばかりであった。
在野の陰陽師や山伏などが挑むこともあるが、これらもことごとく退けられている。
「陰陽寮からは人が派遣されないのかしら?」
正義の巫女が不満げに言う。
「都はあまり問題視していないようだ。恐らく、後回しの理由は奴らのやり口だろう」
襲われた者、挑んで破れた者は口をそろえてこう言う。「命は見逃して貰えた」と。
かしらのシュテンが、殺人を目的とした殺人を禁じており、一団は盗賊や無法を生業として生きる鬼でありながらも、殺賊や人喰い餓鬼に至っていないのだという。
「根は良い奴ってことかい?」
ミズメは訊ねた。
「……相手は鬼だ。窃盗や強奪を行う対象が死んでしまえば、二度と同じ人間から奪うことができなくなる。大方のところ、それが理由であろう。人を人として見ておらぬのだ。樹木から実をもいだり、山で鳥獣を狩るように、とり過ぎないようにしているというわけだ」
満身創痍の武者が言う。
鬼たちはただ奪うだけではない。それにはいつも条件が足される。
性分か、はたまた鬼の執着か、連中は挙って“勝負好き”なのだという。
腕力術力武芸の他にも得手があり、それを題目に勝負を挑まれることもしばしば。
当然、盗賊相手の敗北は私財の没収を伴うが、勝てば大人しく引き下がるどころか、何か施しをされることもあるという。
「それで十遍負けても死なずに済んでるわけかい」
「武芸者として依頼を受けて挑戦するも敗北、何度も挑み直してその度に見逃されたが……もうこれでしまいだな」
湯で顔を拭う武芸者。
「しまい? 諦めるのかい?」
「腕を磨いてまた挑みたいところであるが、痺れを切らした依頼主が都の陰陽寮に直訴するらしくてな。依頼主は名のある者であるし、金も相当な額を積んだらしい。少々の話のでっち上げもすると言っていた。陰陽寮より本式の調伏師が派遣されれば、いかに大江山の鬼どもといえど、もう会うことはないであろうな」
敗者が満月を見上げる。恥を晒したまま終わるのを苦としてか、その貌は浮かない。
「来るでしょうか、陰陽寮のかたは」
「さあね」
――勝負好きの鬼。それに、“酒呑”って名前が気になるね。
翌日、ミズメとオトリは進路を大江山へと変更した。
春の大江山。
黄の金縷梅、白き田虫葉などが咲き、緑の椈群と入り混じって、秋山とは違った極彩色を見せている。
木陰や窪地には残雪が幽かに残り、梢には鷦鷯や小雀がさえずり、蝶もまた見目麗しく花から花へと旅をする。
「控えめながら、綺麗なところですね。大地の精霊も元気ですし、特に邪気も感じませんよ」
「殺しはしないって言ってたしね、鬼はそもそも気を隠すものだし」
「わっ、毒蛇!」
オトリが飛び退いた。一匹の蝮が茂みから茂みへと移動した。
「鬼を相手にしようってのに、蛇や虫で驚いてちゃ駄目じゃんか」
ミズメは苦笑する。
「えへへ、苦手なものは苦手なんです」
頭を掻いてはにかむオトリ。
ふたりは気楽に山道をゆく。
鬼の調伏を兼ねて、修行の成果を験してやろうという魂胆であった。
加えて、鬼の罪状からしてそれほど凶悪には思えないため、滅するよりも改心や自粛の要請を験せるやも知れぬなどと話し合っていた。
「誰か居ます」
相方が声を潜めて指をさした。
その先には背の高い異形の男の姿があった。
上半身は裸体、伏竹弓と笈を背負い、がっしりとした腕は死んだ兎の耳を掴んでいる。
何よりも、その肌のいやに白いことと、明るい栗色の巻き毛が目立っており、顔もまた彫りが深く、瞳は澄んだ海のような青である。
それから彼は下半身に虎の腰巻を身につけていた。
向こうもすでにこちらに気付いているらしく、特に身構えることなく視線を送ってきている。
「なんだか、鬼っぽいですね」
巫女が適当に決めつける。
「鬼かどうかはともかく、異つ国……北方の人間じゃないかな。蝦夷の地や、それよりももっと北には、ああいう容姿の人も暮らしているんだよ」
「ふうん……」
疑り深げな視線。大衆と異なる者が爪弾きになり、そこから鬼化するのはもはやお約束である。
「狩人さんよ。このあたりには鬼が出るって話なんだけどさ」
ミズメも遠慮なく訊ねた。
「おう、今まさに出ているぞ。山伏と巫女は俺たちを退治しに来たのか?」
……当の鬼はあっさりと認め、欠伸をしながら答えた。
「そんなところ。いや、腕試しみたいなもんかな。鬼は軍団だって聞いてたけど、あんたひとりかい?」
立ち止まらず互いに歩み寄る。
「俺の名は鬼の虎熊。かしらや他の鬼に会いたければ、ここよりももっと東の老ノ坂峠に寄った中腹へ行けばいいだろう。俺は食料の調達の続きをしたい。大食いが多くて兎一匹では話にならんのだ。一応は鬼だが、鳥と獣以外に鏃を向けたことはない。それでも退治していくというのなら、試してみても構わんが」
親指を立てて背の弓を指すトラクマ。
「いや、とりあえずかしらに会ってくるよ。ありがとう」
ミズメは礼を言って鬼とすれ違う。オトリも黙って追従する。
「ちょっと待て」
呼び止める鬼。オトリの霊気が少しだけ揺れた。
「吊り橋は渡らず、沢に下りて迂回しろよ。冬場に沢を避けるために掛けられた吊り橋だが、春になってから検めが済んでない。板や縄が腐ってて踏み抜いてしまうかも知れん」
鬼からの忠告。
ミズメは再び礼を言い、オトリは会釈で済ます。
「今のって、鬼……ですよね? ただの狩人よりも親切だったんですけど」
首を捻る巫女。
「本人がそうだって言ってたし、そうなんじゃない?」
「ですよね……。あのかた、上手に気配を隠せてなかったし……」
どうやらオトリは単なる失礼で鬼と決めつけたわけではなかったらしい。
「術もあまり得手には思えません。霊気は陰ノ気が普通の人よりは多かったですけど、小さいものでしたし」
「でも、雑魚ってわけでもなさそうだよ。肉の付きかたで分かる。弓も見たけど、化け猪の時に退治した阿奈美須より腕前が良いかもしれない」
「あの腰に巻いていた毛皮って、なんの獣のものなんでしょうか? 見たことない模様でした」
「あれは虎だね。大陸に棲む、黄色と黒の縞模様をした猫みたいな動物だ」
「ふうん」
「猫といっても、あの男よりも大きいよ。それに獰猛だ。自分で獲ったものだとしたら、相当な手練れだよ」
「おっきい猫ちゃん……」
呆けた顔をする相方。恐らく彼女の脳内では間違った想像がなされているのであろう。
鬼の案内に従って、酒呑ノ鬼たちのねぐらを探すミズメたち。
沢を越えると巫女が警戒の声を上げ、いくつもの気配が探知された。
ねぐらのそばで油断しているのか、あるいは初めから隠す気がないのか、ミズメにも鬼と分かる気配である。
それを辿って歩けば、ほどなくして出迎えがあった。
「わしの名前は星熊だ。霊気を感じたので術比べを挑もうと思ったが、どうやら陰陽師ではないようだな。かしらに会いたいというのなら案内してやろう」
長い顎髭と直垂と烏帽子姿の鬼。腰にはしっかりと太刀を佩いている。
「陰陽師だったら挑んだのかい?」
「そうだ。鬼に成る以前から怨みがあってな。だが、都の陰陽師以外が相手ならば、殺生は控えておる。群れていればいつか退治に現れるかと思ってここの世話になっておるが、未だに叶っておらぬ。かしらに逢いたければついてこい」
容易く拠点へと招かれる。
「気を引き締めなくっちゃ」
オトリは帯を締め直した。
彼女はトラクマと別れたのちには「爪弾きになって鬼の扱いを受けたかたがたの集団でしょうか」と口にしていた。
しかし、このホシクマなる鬼からはあからさまな邪気が感ぜられた。加えてその霊気の量も多く、陰陽師との確執を見て取れる発言もあった。
そしてなによりも、彼の額には隠さぬ鬼のしるしが伸びていたのである。
大江山の中腹に大口を開けた大空洞があった。
多くの松明が爛々と輝き、洞穴を抜ける風がそれをひっきりなしに揺らし、菜種の香りを運んでいる。
――やっぱり、酒のにおいも混じってるね。
ミズメは鼻を鳴らしてほくそ笑んだ。
彼女は、鬼の首領の名に興味を持っていた。
酒呑ノ鬼と名乗るのならば、きっと絶世の酒好きに違いない。
退治して銘酒を分捕ることや、分かり合えるならば座敷を共にし盃を回し合うことを企んでいた。
「よく来たのう、若き挑戦者たちよ」
岩の洞穴内。
広い空間に抜けた天井から差し込む光の中、鬼の首領が胡坐で迎えた。
彼は侵入者を前にしながらも、なみなみと酒の注がれた大きな盃を傾けている。
首領らしき鬼は異様なほどの巨体で筋肉質。
胡坐を掻く足のそばでは貴人らしき女が侍らせられている。
女はうら若く、白粉に眉墨を引き、洞窟の岩の床に不釣り合いな十二単を身に纏い、オトリに負けず劣らずの長く艶やかな黒髪を持つ美女であった。
首領の隣には、腹の出たこれまた巨体の鬼が酒樽を背に酒を飲んでおり、赤ら顔でこちらではなく熱心に盃の中を見つめている。
他にも一鬼、こちらは細身の男で白い長髪と確かな霊気を湛えていたが、小さな盃を片手に静かに座していた。
「あたしは水目桜月鳥だ。ここへ来た理由は言わなくても分かるね?」
「肝の据わった小僧じゃ」
鬼は盃を一息にからにして立ち上がった。
身の丈が八尺はあろうかという長身であった。
「俺の名はシュテン。酒呑童子などと呼ばれておる」
ミズメを見下ろす不敵で不気味な笑み。
腰には瓢箪、背面には一文字に太刀が提げられており、直垂ははだけて逞しいうなじと男の胸を見せつけている。
肌は浅赤く、筋骨確かで浮かぶ血管も太く、口からは乱杭のごとき牙が覗き、瞳は露骨に金の猫目。
烏帽子は頂かず、髪は冬の低木のように硬質に見え、後ろでひとまとめに括られている。
そして額からは見事な二本がそびえ立っており、これまでに出逢ったどの鬼よりも鬼々しい鬼であった。
「早速やるか?」
鬼の不敵な笑い。隣の巫女が気配をひりつかせる。
……しかし、シュテンなる鬼は刀を取らず、盃を差し出した。
「良いね、じゃあ勝負の前に一献」
ミズメが手を伸ばす……も、大袖の腕に叩かれてしまう。
「退治しに来たのに駄目ですよ。毒でも入っていたらどうするんですか!」
「いいじゃんかちょっとくらい……」
懇願の瞳を向けるも、つんと流されてしまう。
「騙し討ちなどせんせん! 鬼道に横道はなしよ!」
シュテンはやや呂律の回らない舌で言った。
「お若い娘さんよ、何も戦いは腕っぷしだけに限った話じゃねえよ。互いの得意とするものであれば、なんでも勝負にできるぞ」
横の腹の出た鬼が言った。
「なんでも? 命の取り合いでなくてもですか?」
惨敗武者の話を信じていなかったのか、オトリは怪訝そうに訊ねた。
「そうじゃ。歌詠みや博奕でもいいぞ。腕前を比べられるものならなんでもいい。わしらは腕比べが三度の飯よりも大好きなんじゃ。別に命は取りはせん。死んでもうたら、もう挑まれんくなるからのう」
太った鬼はそう言って樽から酒を酌み足した。
「もっともこいつは、勝負よりも飯や酒を喰らうほうが好きだろうが!」
シュテンは腹の出た鬼の背をばちんと叩いて高笑いをした。
「いてて……わしの名前は橸熊。剛力と胃袋が自慢じゃ。力比べや術力比べも得意じゃが、大食いや飲み比べも得意じゃ。麓に下りて酒で勝負を挑んでは勝ち、飯や酒をせしめておる」
「力比べでなくっても、人から物を奪うのは良くないことです」
「奪うばかりじゃねえ。負けた時は、わしが差し出しとる。わしも自分の酒蔵を持っとってのう。自作の酒の味には自信がある」
そう言うとタルクマはげっぷをした。オトリは袖で仰いで臭気を散らす。
「いいねいいね、酒の飲み比べなんてのも面白そうだねえ。シュテンさんよ、あたしもちょいと酒には自信があるんだ」
ミズメは嬉々として鬼の首領を見た。
「……けど、あんたはちょいと飲み過ぎてるね。将を落とせば勝ちに手っ取り早いかと思ったけど、これじゃ騙し討ちよりたちが悪いか」
軽口ではなく、心底落胆する。
「別に俺はまだまだ飲めるし、小僧っ子に負ける気もせんがなあ」
「言うね。じゃあ、飲み比べといくかい?」
「自信がないわけじゃないがー……将を落とすというのなら、酒では俺よりもタルクマのほうが上じゃ。もともと俺は日ノ本で一番の酒好きの自信があってシュテンを名乗っておったが、じつはこいつには歯が立たなんだ。俺よりも酒に強い上に、聞けば好きが高じて自分で酒を醸すなんて言いよる。自分で作る奴に飲むだけの奴が敵う道理がねえ」
シュテンはからからと笑った。
「そういうわけで、飲み比べで戦うのなら、わしが相手。わしが負ければシュテンも負けじゃ。どうだ、やるか? 肴は切らしておるから、飲むばかりになるがな」
「いいね。じゃあ、それで勝負といこう。そっちが負けたら悪事を控える、あたしが負けたらどうしたらいい?」
「うーん。わしゃ別に何も求めんが。その次はつまみをたんと持ってまた挑んで来い」
「ほうじゃのう」
鬼たちは随分と忽せな態度である。
「おふたりとも、いつもそれなんですから」
シュテンのそばに座る女が笑う。
「力づくのほうが良い気がしますけど」
オトリは不満げである。
「いいじゃんか、血が流れないほうがさ」
「それはそうですけど……。信用できませんよ」
と、言いつつもあとに「特訓の成果を験したかったのに」と付け足した。
オトリはここへ来る途中に何度も「ミズメさんと新技をするのが楽しみ」などと口にしていたのであった。
「女が男同士の勝負に口を挟むものではありませんわ」
貴人らしき女が言った。
「あたしだって女だ。ま、別に男だ女だなんて気にすることじゃないさ。強いか弱いか。どっちが勝つか。それだけじゃん?」
「ほう、気に入ったぞ。水目桜月鳥とやら。タルクマの次は俺とやろう」
シュテンが愉快そうに笑う。
「あたしがタルクマに負けたらね」
「ミズメさんが負けたら、私がシュテンさんと術比べで決着を着けます」
「小娘もなかなかやるようじゃな。気配で分かる。若い本物の巫覡とやりあうのは初めてじゃ」
「小娘ではありません。乙鳥です。乙女の乙に飛ぶ鳥の鳥。これまで、数えきれないほどの物ノ怪や悪霊、鬼を退治してきています」
オトリが名乗ると、女が鼻で笑った。
「シュテン様が出るまでもありませんわ。小娘とは妾がやります。この小娘は気に入りません。女のくせして鬼退治だなんて」
「イチジョウよ。そう言うな」
首領が女を宥めた。
「この一条石竹。女らしくない女は認めぬのが信条にございます」
貴女は巫女を鼻で嗤った。
「むっ、聞き捨てならない! 私は里では水分小町なんて呼ばれてるのに」
巫女が頬を膨らませる。
「化粧っけも鉄漿も無しに何が小町ですか。この田舎娘め!」
妖しげな嘲りと共に発せられる邪気。ほんの須臾の間、目が鬼の黄昏へと変じた。
「攫われた人と思いましたが、やっぱりあなたも鬼ですか。首領ともども、覚悟なさっておいてくださいね。酌量の余地があれば、魂までは取ってしまいませんから、今のうちに言い訳を考えておくとよいでしょう」
オトリは得意げに霊気を練り上げた。洞穴を霊風が駆け抜けると、イチジョウなる鬼女は唸った。
「霊力に自信がないのなら、お料理やお裁縫での勝負でも構いませんよ。舞いだってできますし」
ふふん! とオトリが嗤い返せばイチジョウの醸す陰ノ気が大きくなった。
「あんまり調子に乗るなよ。ああいう貴人は歌が得意な奴が多いんだぞ」
ミズメは相方を引っ張り耳打ちをする。
「う、それはいけない……。とにかく、勝ちを収めなくっちゃ。ミズメさん、頑張ってくださいね!」
くるり、手のひらが返される。
「盛り上がってるところ悪いが、シュテンを斃すのは俺だよ」
若く甲高い声が響いた。さては別の挑戦者か。
しかし、声のほうを見れば、明らかに鬼の角と瞳を有した少年が仁王立ちをしていた。
彼の横には背丈と同じほどの巨大な金棒が地に突き立てられている。
「なんだこいつ?」
「そやつは金熊童子だ。首領に勝負を挑んで負けて以来、ここでわしらと一緒に暮らしとるよ」
タルクマが奥からふたつの酒樽を両肩に抱えて現れた。彼は軽々と樽を降ろす。
「ああそう。じゃあ早いとこ始めようかね」
文無し。気配も見掛けも鬼にしては貧弱。取るに足らない相手だろう。
「山伏、あとで俺とも勝負しろ! 俺がシュテンの首を獲るための練習台になれ!」
喧々と吠えるカネクマ少年。
「首を取ったら死んじゃうでしょ。あんたの首領は不殺を謳ってるでしょうに」
欠伸をするミズメ。
「俺はあいつの子分なんかじゃねえ! いつかシュテンを斃して最強の鬼になってやる!」
「最強は結構だけど、あんたちょいと痩せ過ぎじゃないか? そのなりだと、今日会った鬼の中で一番弱そうだよ」
ミズメは思わず失笑した。
「う、うるせえ!」
小鬼が飛び掛かって来た。
痩せた童子の体躯でありながら、巨大で棘の付いた金棒は軽々と振るわれた。
――霊気が籠ってる。石術のたぐいだね。
ミズメは金棒を回避すると、それに触れて自身の霊気を押し込み、鬼の気を追い出した。
術による制御を奪われたからか、カネクマ少年は金棒を取り落とし、己の得物と地面のあいだに足を挟んで悲鳴を上げた。
「甘い、甘い。ひよっこだね。はい、負けー」
ミズメは腰から小太刀を抜くと彼の首に当てた。
「まだ負けてねえ!」
小鬼は必死になって金棒をどけると今度は素手で殴り掛かってきた。
ミズメは太刀を下げ、そのまま特に術もなにも用いず、軽く投げ飛ばしてやった。
「あーあ。まーた負けおった。おまさんの言う通り、カネクマは新入りで、まだまだ鬼としちゃひよっこだ。カネクマよ、飯を食わんからそうなるんだぞ」
タルクマが溜め息をついた。
「ご飯を食べないんですか? 育ち盛りに見えるのに」
オトリが首を傾げる。
「トラクマの獲ってきたもんも食わんし、里へ出て賊業をするにも、よくしくじりおるからなあ。それに、こいつには弟がおっての。今も奥でなんぞわしたちの暮らしの手伝いをしてくれとるんだが、ただでさえ飯の用意が少ないのに弟にくれてやるもんだから、このなりっちゅうわけじゃ」
「敵の施しは受けねえ!」
カネクマ少年は仰向けに倒れたまま声を上げた。
「ふふ、良い子じゃないの。鬼なんてやめちゃえば良いのに」
オトリは目を細めて袖で口を覆った。すると、「強い鬼じゃねえと守れねえんだ」と呟きが聞こえてきた。
「……ミズメさん、飲み比べには是非とも勝ってくださいね。勝ったら、皆さんとお話をしてみたいと思います」
優しい眼差し。鬼を前にして初めて見せる表情。
「う、うん」
ミズメはまだ始めていないというのに、酒気に当てられたかのごとくふら付いた。
さて、大酒飲み対決が始まった。なんのことはない、それぞれ限界まで酒を飲んで、樽の中身を多く減らせたほうが勝利という単純なものだ。
時間無制限、互いに互いの顔を見ながらの戦い。
こちらが調子を落とせば負けを認めたことになり、あちらが調子を上げればそれに従う。それが飲み比べの法である。
「これは醴酒かい? 甘めだけどまだ若いね。でも、しっかり醸せば宮中でも通用する銘酒の気配があるね」
一口呷って感想を述べる。
「おまさん、見る目があるのう! わしが作った酒じゃ。おっしゃる通り、夏用に仕込む醴酒の験しの一献だ。夏になったら樽を担いで駅路近くの里の酒刀禰連中と味で勝負するつもりだ!」
タルクマも一口。上機嫌な鬼の笑顔である。
「氷が欲しくなるね。夏にやったら最高だろうねえ。酢絞めの魚や漬物なんかもあれば言うことなしだ」
「生憎、つまみはここにはないんだよなあ。氷だったら、あいつが用意できるんじゃがな」
タルクマの指し示す先には細身と銀の長髪の鬼が座っている。
「陰ノ気まみれで宜しければ」
初めて口を開いた鬼。なかなかの美声である。彼は手の中で氷塊を弄んでいる。
「膤熊は俺の次に霊力の強い男じゃ。怒らせたら心臓を凍らせられるぞ」
首領が紹介する。
「むむ、氷術使い……」
オトリが唸る。
「ユキクマさんよ、ちょっと頼めるかい?」
「だったらわしも頼もうかのう。これは冷えたほうが絶対に旨いに決まっとる」
「いっそ、勝負なんてうっちゃらかして、あんたの酒蔵の見学がしたいよ」
「そうするかのう? なあ、シュテン、ええか?」
酒飲みどもは唇を舐め舐め言った。
「駄目です。おふたりとも勝負をしてるのでしょうに!」
笑顔で返事をしようとした首領の代わりに叱る巫女。ミズメは慌てて盃を傾けた。それに応じてタルクマもぐいとやる。
さて、酒機嫌のまま、各地の銘酒や肴の談義を交えつつも戦いは続いた。
ミズメは次第に腹が膨れ、思いのほか強い酒気にも中てられ始めてきた。
一方でタルクマはどこ吹く風。彼のほうからは特に調子を上げはせず、まるで弱い飲み仲間を気遣うかのようにミズメに合わせて酒を酌んでいる。
こちらの顔色を窺っていた相方は懐の薬を検め始め、それでも応援を続けた。
――楽しいのも結構だけど、ちゃんと良いところ見せないとね。
ミズメは更に酒を流し込み続ける。
先程の慈愛の微笑みに応えたい気持ちもあるが、今は一転して心配顔であるのが拍車を掛けた。
鬼たちの鬼に成りける挿話を引き出すには、やはり勝利が欲しいところである。
加えて、氷を勧めた鬼が居たが、彼は露骨な黄泉の気配と氷術を持っている様子。
霊力や武力は分からぬが、相性としてはオトリの天敵に位置している。
命を取らぬ方針というが、ここで負けを喫してこれ以上に相方の気苦労を煽るのは却下である。
「大丈夫ですか? ミズメさん」
「平気だよ」
ぐいと飲み干す。鬼もまた飲んだ。
得手不得手。ミズメは酒を己の得意としている。
わざわざ自分からこれを勝負の項目に選んだ以上、引くわけにはいかない。
同じ得意なら、そばの心配顔は看病、介抱、薬の煎じも得手ときている。
あとのことは考えるな。今はただ勝負に集中すべし。
タルクマもまたミズメの顔色を窺っていたが、「よし」と呟くと調子を上げ始めた。
彼もようやく酒が回ってきたか、挙動が緩慢になっているように思える。
顔もなんとなく、赤くなってきた気が……する。
いや、勝負前からやっていたのだ、まだ差があると見てよい。もっと飲んで負かさねば、真の勝利とはいえぬだろう。
「うっ」
嗚咽。
「おまさん、無理しとらんか? 酒飲みなら自分で自分の身体ことは……」
鬼にまで心配される始末。
「平気らって」
ミズメは立ち上がり、樽から酒を酌もうとする。
ふらりふらり。視界が揺れる。
「ミズメさん! ……!」
巫女が何か言った。
「無理は……じゃねえぞ」
シュテンも何か言った。
「うん、頑張るから」
適当に返事をする。良いところを見せたいのだ。
相方だけでなく、鬼に対しても、見栄を張った自分に対しても。
――あれ、いや、そんな話だっけ? ここには何しに来たんだっけな?
「違います! もう……」
「らいじょうぶらって……」
ぐるり、ミズメの世界が回った。
*****
異つ国……日本の外の国。
忽せ……テキトー、いい加減。
文無し……つまらない、理屈に合わない、取るに足らない。




