化かし070 手繋
ミズメとオトリは“播磨の屋根”にて、技術の鍛錬や研究に打ち込んだ。
ギンレイはいくつかの知恵と指南を与え、二日も経たぬうちに白翼を広げて闇夜に乗じて出羽国へと帰ってしまった。
師の残した「共同生活を行え」という課題の核心はついぞ語られず、ふたりは首を傾げながらも山を下りた。
「これからどうしましょうか。ヒサギさんたちをすぐには追わないにしても、足取りは調べておくべきかと思いますけど」
「お師匠様はふたりでやれって言ってたけど、味方は多いほうが良いし、当てにできそうな人たちにはじじいとツクヨミの話を報せておきたいな」
ふたりは進路を東へと取る。
今一度、山城国へ向かい、都の陰陽師である三善文行と、神童神実丸の扶養者の真言坊主、妙桃寺の桃念に会いに行こうという話になった。
彼らにも暮らしがあるゆえに、追跡の旅への直接の助力を求めるのは難しいであろうが、日ノ本に陰を落とす難事を伝達するには都合の良い相手である。
都では噂も集まる。墓荒らしや神殺しに関する話が聞ければ、邪仙の足取りを知る助けにもなるであろう。
さて、ふたりきりの旅に戻ったミズメとオトリであるが……。
「おい、起きなよ。寝起きも合わせようって話だったでしょ。同じ時間に寝てどうしてこうなるのさ?」
声を掛けども寝穢い娘はやはり目覚めず。
頬をつついても、拍子を取って尻を叩いても駄目。
ミズメはそれならばと記憶を辿り、喉に霊気を込めた。
「雷を落としますよ!」
ミナカミの声真似である。
「赦しておくんない!」
飛び起きるオトリ。
「ははは。やっと起きたね」
「うう……毎朝こうなっちゃう」
寝惚けまなこを擦る娘。
「あたしは面白いからいいけど。起きられないもんかね? 昨日も随分と張り切ってたじゃんか」
オトリは銀嶺聖母が月山へ帰ってから、水を得た魚のようになっていた。
師匠の代わりにとミズメにあれやこれやと世話焼いたりを、与えられた課題を彼女なりに解釈して「手を繋いで歩きましょう。絶対そのほうが良いですよ!」などと宣っていた。
無論、空回りな相方にミズメは終始苦笑いである。
「ミズメさん、今日も頑張りましょうね!」
“はりきりオトリ”は自身の両の頬をぴしゃりと叩いた。
ふたりは、水術師の鍛錬のひとつである水垢離も共に行うようにすることにした。
「衣を着たまま水に入るのは好かないなあ」
夜明けを迎えたばかりの冷えた清流からあがり、身震いひとつ。
重くなった衣が体温を奪い続ける。
「本来なら、全て脱いで水との一体化を目指したほうが良いんですけど、ミズメさんの身体のこともありますし、なにより私の服の乾燥術を真似るのも良い鍛錬だと思いますから」
オトリはそう言うと霊気を醸しだした。水を吸って重く垂れていた大袖が軽やかに揺れ始める。
「まさか自分の隠し玉を衣の乾燥に使うことになるとはね……」
天狗の秘法山彦ノ術を用いて、相方の術を真似てみる。
しかし、袖は乾いたものの、革の引敷は未だ雫を滴らせ、結袈裟に結わえられた師の羽毛でできた菊綴は濡れて貼りついてしまったままである。
「失敗しちゃいました?」
「気の動きをなぞるだけだから、上手くいかないのかも。衣の形だって全然違うし」
「衣だからかもしれませんね。肉体の強化や早駆けは真似ができるようになったでしょう?」
オトリの指摘。
ミズメは高原での鍛錬にて、オトリの水術の一部を反復することに成功していた。
始めこそは全身の筋肉が傷んだものの、一度手を繋ぎ合わせてオトリの気を受け入れて術を験してからは、すんなりと真似られるようになっていた。
「あれはちょっと、恥ずかしいんだよなあ」
「ギンレイ様も笑ってましたね」
「とにかく、衣は上手く乾かせられそうもないよ」
「じゃあ、私がやってあげますね」
言うなり彼女は正面から抱擁を仕掛けてきた。
胸が合わさり、衣が早々に乾いていくのを感じる。
「なんでわざわざ抱き着くのさ?」
「このほうが早いので!」
「大体、風に当ててりゃ乾くじゃんか。急ぎなら術で吹かせられるし……」
ミズメは頬を掻いた。
続いて食事。これもまた、食べかたや速度、好みなどに差がでるものである。
ふたりは静かな森の中で足を止めた。
「あの、本当にこれを食べなきゃいけませんか?」
蒸しあがった芋虫を前に涙目の娘。
「オトリも鳥なんだろ?」
「雀は穀物を食べますよ」
「“乙鳥”は燕のことじゃんか。これまではなんとか食えてたけど、これからもそうとは限らないぜ。ほれ、あーん」
ミズメは芋虫を摘まんで、相方のくちびるへ寄せる。
「む、無理」
目をぎゅっと瞑り、顔を背けるオトリ。
「日照りや水害、稲霊の弱化や病の流行。受領の無理な取り立て。飢えの種なんていくらでもあるんだよ。飢饉で苦しんでる人の前でもお米が食べたいなんて言うのかよ?」
相手が見てないのを良いことに、半笑いで説教を垂れる。
「う……」
薄桃色のくちびるが開き、小さな芋虫が挿入されてゆく。それでも、拒むように歯が捕まえて、そのまま硬直してしまった。
「ちゃんと噛んでね。あたしだって、仕方なく食べなきゃいけなくなって虫の味を覚えたんだ。オトリにも知って欲しいな……」
哀しげに言うミズメ。
嘘である。借寿ノ術で鳥の魂を得てから、無性に食べたくなって味を覚えた。
例えばこの芋虫などは都や馬鹿受領の屋敷からかっぱらって来た塩、砂糖、醤油、あるいは味噌で甘辛く煮ると、酒のつまみとして最高だとミズメは思っている。
「うう……」
涙を零し、芋虫を咀嚼し始めるオトリ。
顎が何度か上下するものの停止。
「うえ……」
口が開き、舌の上に乗せられた唾液と白い芋虫の混合体を見せ付けられる。
「汚いな。ちゃんと飲み込みなよ」
「の、飲めまひぇん。代わりに飲んれくらはい……」
「鳩じゃないんだからさ。味は悪くないと思うんだけどなあ」
ミズメも一匹摘まむ。丹後で手に入れた塩を振っておいたが、まずまずの評価。
「……」
巫女は静止したままである。
「吐き出しちゃいなよ。無理して食べなくていいよ。無理だって分かっただけで良しとしようよ」
ミズメは流石に罪悪感を覚えた。
好みの理解と称して酒も勧めてみようかと考えていたが、予定から取り除くこととする。
「れも、この虫も、わらしに食べられるらめに死んじゃった。まら子供らったのに……」
残骸を舌に乗せたまま話すオトリ。
「大丈夫だよ。吐いても他の生き物や土の精霊が片付けてくれるから」
「れも、わらしのために……」
頑なである。
「ほら、無理に食べさせてごめんな。今度、都に行ったに飴玉を買ってあげるからさ」
ミズメは蟲嫌いの娘のいじらしい譲歩に心がくすぐられた。
「ぺっ!」
即刻吐き出される虫。
「……飴玉、絶対、絶対に約束ですからね!」
睨む娘。
「う、うん」
「やったあ!」
顔を溶けた飴玉のように変じさせるオトリ。
「はっ、まずかった。蟲なんて気持ち悪くて食べられませんよ」
自身の吐いた残骸を見る目は、侮蔑の一色である。
お互いの得手を真似るということで、ミズメはオトリの巫行を履修することとなった。
巫女に求められるのはお祓い、祈祷、卜占、調薬。悪霊退治や神にまつわる種々のこと。
水分の巫女であれば水源の世話が含まれ、暮らしのための流浪の巫女崩れであれば、男どもから身体上の要求を受けることもある。
都や大きな町では下人のやりがちな粘度や皮を弄る仕事をする巫覡も多い。
「今回はお薬のお勉強です! 村のお手伝いをする時に切らしていると困るので、予備を作っておきます」
乾燥させた粉がずらりと並べられる。
「へえ、随分と持ち歩いてるんだね」
「これでも全然足りないんです。珍しいものや季節を外したものを保管してるだけで。基本的に旅ではそのあたりに生えているものを活用しています。里の薬倉に保管してあるぶんでは軽く百種類を越えますね」
「そんなに覚えられないって。オトリの里には大同類聚方みたいな書物のはないの?」
「うちは平仮名を最近始めたくらいで、漢字は書けないので書物はちょっと……」
「田舎の隠れ里だとしょうがないのかね。あたしもなんでも読めるわけじゃないけど、漢字を教えようか?」
「面倒臭いので結構です」
胸を張って言うオトリ。
「なんで威張るんだよ」
「うちのミナカミ様の真似です。あのかたが面倒臭がってたから長らく文字が入って来なかったんですよ。私はお勉強は好きなんですけど」
「ええ……」
肩を落とすミズメ。
「里ができてからずっと同じ神様たちがいらっしゃるので、書物に記録して伝える必要性も薄いんですよね。神様たちの時代のやりかたに倣うんですよ」
「つまり、口伝えや手探りで百種類の効能や処方を覚えてるのか」
「自分の足で山を歩いて自分で採取して、煎じて舌で確かめて。毒薬なんかも一応は口にしてみます。苦手といって、毒に強くなる訓練をして蛇や蜂の駆除を得意とする職のかたもいらっしゃりますよ」
「凄いなあ。学問というよりは、一種の習慣だね。あたしの武術と同じで一朝一夕には身につかないよ。ちょっとした薬ひとつをとっても、外から見れば豪い特技だ」
ミズメは忌憚なく褒めた。
「えへへ、そうですか? じゃあ、折角なのでいくつか説明しますね」
はにかみオトリは材料の解説を始めた。
「これは銀杏の葉の粉で、お年寄りの胸の高鳴りや呆けに利くと言われています。それから夜尿症などにも効果があります。こちらは茅の種の粉末で、虫下し、便秘、夜尿症にも効果があります。それからこっちは……」
色は違うが粉は全部粉である。
ミズメは機嫌良く解説をする相方へ相槌を打ちながら、適当に聞き流した。
「これは震旦や高麗に生えているという山茱萸の実の粉末です。ギンレイ様から頂きました」
「昔、拾い食いで腹を壊した時によく薬を煎じて貰ったねえ」
今は昔の話である。今はどこに落ちていたものなら腹を壊すか、どの程度腐っているといけないかなどが勘で分かるようになっていた。
「滋養強壮、男性機能の改善、眩暈、それから夜尿症に効果があります」
「なんか、持ち歩いているのは寝小便に効くものが多いね?」
じっと相方の顔を見る。視線が逸らされた。
「たまたまですよ。それに需要がありますから。子供の夜尿症が治らなくて困ってるなんて、どこの村でも聞くお話ですよ」
「そうかい。じゃあこれから、起こす前に襦袢が濡れてないか確認してみようかな」
「や、やめてください!」
懇願する娘。
「冗談だよ。まさかと思うけど、毎朝の水垢離で衣を着たまま入るのって……」
「違いますよ!! はい、お薬講座はおしまいです!! お薬に関しては私に頼ってくださいね!!」
真っ赤な巫女が話を流す。
「じゃあ次は、あたしお得意の“化かし”を勉強してみよっか。ほれ、耳を澄ませば遠くから旅人の足音が……」
「悪事じゃないですか! 悪いところは真似しちゃ駄目なんですからね!」
更に温度を上げるお人好し。
「あっはっは!」
「笑いごとじゃありません。さあ、陽が沈むまでに人里に出ましょう」
オトリは薬の材料を片付けるとミズメの手を取り、のっしのっしと歩き始めた。
――あれ、こっちって歩いて来た方角じゃない?
「なあ、オトリに合わせて歩いてたから深く考えてなかったんだけどさ。道をちゃんと分かって歩いてる?」
「えっ? 私はミズメさんに合わせて歩いてたので、てっきりミズメさんが道案内をしているものかと……」
首を傾げる相方。
「引っ張られてたのはこっちじゃんか。オトリのほうが足腰は強いだろ?」
「確かに私が手を引いてますね……。私、地理には詳しくありませんし、迷子になった前科があるので、頼られても困りますよ!」
「えっ、じゃあ迷子かよ! どーすんだ!」
頭を抱えるミズメ。
「いやいや……空から見てくださいよ。翼があるじゃないですか。だからミズメさんが把握してくれているのかと思ってたのに」
「そうだった!」
「自分の体のことを忘れないでくださいよ!」
「あたしは忘れっぽいんだよ!」
慌てて空へ飛翔すれば、先日まで特訓に使っていた高原をいだく山々が見当違いの方角に現れた。
南東に進路を取って山陽道から都へ行くはずが、丹後のほうへと逆戻りをしている。
「ここまで来たら別の道に出て歩いたほうが早そうだった。向こうに駅路と人里があったよ。迂闊だったよ、オトリは方向音痴だったのに……」
「いいじゃないですか。旅は旅で楽しみましょう。明日には明日の風が吹きますよ」
けらけらと笑う娘。
「そりゃ、あたしの流儀だっての」
……とまあ、お互いの得手不得手、特技や欠点などを学び合った。
予定を変更し、瀬戸内を拝む山陽道から、北海から山の合間を抜けて山城国へと続く山陰道の本路へ。
陽のあるうちに人里へ出れぬこともなかったが、ふたりはあえて山間部で野宿をすることとした。
怪我の功名か、道の確認のさいに、鳥の目と風の便りで秘湯を発見していたのである。
ささやかな桃源郷。命の泉は大小の岩に覆い隠され、暖かな湯気を漂わす湯を滾滾と生み続けている。
「人の手が入ってない秘湯ですよ!」
オトリはあたりのひと気の確認だけすると、さっと髪をほどき、衣を畳んで湯に浸かった。
「はしゃぎ過ぎ。ちょうど良い温度だ。冬場だったら入れなかったかもしれないね」
ミズメは衣装を畳み、小太刀を頭に結わえつけてから湯に入った。
「あれ? どうして刀を?」
「何かに襲われた時のためだよ」
勾玉を奪われて以降、ミズメは用心深くなっていた。
山道を歩くさいは耳を尖らせ、眠りは浅く、深夜には月明かりに何度も相方の寝顔を眺めており、手を繋がれるままにしていたのもそのほうが安心できたからであった。
ああいった真剣な場だったとはいえ、ヒサギ少年に出し抜かれたことを悔しく思っていたのだ。
「湯に浸かる時はあまり警戒をしませんね。肌を見られなければそれでいいです。それも術で湯気を濃くできるので平気です」
「オトリは水の中じゃかえって強いくらいだからね。あたしは得物持ちだからね。武士が追跡してる敵を討ち取るときも、湯浴みの最中を狙うことが多いんだよ」
「ふうん。でも、水術も水が濁ってると重たくなるので、清流でなければそこまで有利でもないですね。神様のいらっしゃるお湯だと扱えませんし」
「じゃあ、警戒するに越したことはないよ。じじいは気配を隠せるし、普段のヒサギは霊気も感じない一般人だ」
「そう言われると心配になってきました。温泉くらいのんびり入りたいなあ」
そばへやってくるオトリ。
「ミズメさんの隣のほうが安心ですね」
「あたしは“太刀を持ってる”けどね」
相方から背を向ける。
「平気ですって。一緒にお月さんを眺めましょうよ」
回り込まれ、ぴたりと肩をくっつけられてしまう。
よりによっての満月。
雲は月を隠さなかったが、湯の濁りはミズメの物ノ怪を隠してくれている。
かつて、眺めて楽しむものであった月景色も、今では釈然としない気持ちを誘うものになっていた。
月の干渉による物ノ怪の気性の誘発への配慮。その月を祀る神との確執。
月の満ち欠けは永遠に繰り返されるが、そのたびに最愛なる師の死期が近付くことへの実感も沸く。
――望月だってのに、頭がごちゃごちゃして歌もひねれないね。
湯気に混じって溜め息を深く押し流す。
「大丈夫。だんないですよ」
相方の呟き。
「だと良いけどね」
不安を誤魔化さず口にし直す。
「絶対に大丈夫ですから。なんとかしましょう」
湯の中で手が握られる。
「そうだね。あたしたちならなんとかなるさ」
握り返して月を睨む。
これまでの旅の多くはふたりで協力してやってきた。
いがみ合うこともあったが、ここのところは意図して友好的な関係を築けている。
「最近は息が合ってきたと思うよ」
「前からですよ。私はミズメさんがクレハさんに勝ったころからそう思ってました」
「霊気を始めて貸してもらった時だね」
信濃国の更科呉羽。
都に恨みを持った鬼女に鬼退治を頓挫させるための戦い。
思えばあの旅では、意見の食い違いから一度、喧嘩別れをしていた。
「それにしても、まんまるなお月様。おやきみたい。あの村の人たちは元気にしてるかなあ」
口から出る言葉は間抜けであったが、月を眺める黒曜の瞳は、何かを責めているようでもあった。
あるいは無常か寂寥を宿しているのであろう。
今や、そんな相方とも裸で肩を寄せ合う仲となった。
「都で見かけた綺麗な飴玉も思い出します。美味しい木の実なんかもまんまるですよね」
「食べ物の話ばっかりだなあ。ま、あたしも月を見たら酒とつまみが欲しくなるたちだけどね」
「クレハさんは都攻めを諦めたと思いますか?」
「あれは諦めないと思うよ。鬼は執念深いものだからね」
「執念かあ。こだわるならもっと素敵なものにこだわればいいのに」
「オトリが鬼に成ったら、米倉や畑を食い荒らしそうだ」
「じゃあ、ミズメさんは酒蔵ですね!」
笑い交じりに冗談を言い合う。
「……鬼だから執念深くなるのでしょうか? 執念深いから鬼に成ってしまうのでしょうか?」
「どっちもだろうね。万が一、都を攻めても、クレハくらいじゃどうにもできないだろうけどね」
「そうですよね。陰陽師のかたも居られますし」
「そうそう、一度やっつけたあたしたちだってもうじき都入りをするしね」
欠伸をするミズメ。
湯に浸かり続けたおかげか、手を繋いだおかげか。ようやく気が緩んできた。
「鬼を退治したという話は本当か?」
背後から男の声。
ミズメは太刀の柄に手を掛けて振り返った。
湯から立ち上がろうとするも、相方が手を引っ張り思い留まった。
「驚いた。何者だい?」
温泉の淵に男が立っている。血に濡れた直垂と、ほどけた髪。腰には太刀。
背には箙。矢は體の矢を残して全てが使い尽くされているようである。
「このていでは名を名乗れぬよ。豪族のなにがし、とだけ言っておこう」
武芸者らしき男はそう言うと岩に太刀を立てかけ、無遠慮に衣を脱ぎ始めた。
「おいおい、おっさん。あたしらが入ってるんだぞ」
「湯治をしたい。血まみれで長く歩いたもので気色が悪くてかなわん。傷は一度川で洗っておるゆえ、許して欲しい」
衣を脱ぎ続ける男。彼の身体は生傷だらけであった。
「いくさかい?」
「いや、鬼と……」
「きゃーっ!!」
ミズメの耳元で大音量の悲鳴。それから抱き着かれる。
「早く斬ってください!」
「斬るって何をだよ」
「あの人の“あれ”をです!」
巫女が指差すのは武芸者の摩羅。
「生娘よ、勘弁してくれ。本当に草臥れていて、狼藉を働くだけの元気もないのだ」
「何があったんだい?」
「鬼に敗れたのだ。それも、同じ鬼を相手に今回で十遍目だ。敗北を喫したままで、大江山からここまで歩いたゆえに足も棒のようになっておる」
「十遍も? よくも生きてられたね」
何やら妙な話だ。鬼に負けて逃げ帰れたまではよしとして、それを何度も繰り返すとは。
ミズメは男の話に興味を持ったが、肌を合わせあった生娘がずっと喧しい。
「早く、追っ払ってください!」
太刀を探してかミズメの頭が叩かれる。
「落ち着けって」
「太刀をどこにやったんですか!?」
ミズメは太刀を遠ざけ、男へ手招きをした。
「聞かせてよ。大江山の鬼とやらの話をさ。あたしら術師なんだよ。善行の旅をしていて、腕にもちょいと覚えがあるんだ」
鬼退治ならば都合が良い。特訓や新技開発の成果を見せる時がきたか。
にやりと笑うミズメ。
しかし、笑みが反転した。
「あった! あれ? 抜けない!?」
ミズメの“太刀”が、むんずと掴まれたのである。
*****
大同類聚方……日本最古の医学書。各地の神社や豪族から収集された情報でできている。
望月……満月の異名のひとつ。
箙……矢を入れて背負うための道具。筒ではなく、鏃だけを覆う程度の箱に入れる。體の矢は使用するための矢ではなく、他の矢を固定するためのもの。




