化かし007 月山
――やっぱり、お師匠様は凄いや。
ミズメは師と巫女を見比べてにんまりした。
あれだけ頑なでだんまりを決め込んでいたオトリは、銀嶺聖母が理解を示してやると、自ら発言するようになり、表情も少し柔らかくなっていた。
――いや、オトリが単純なだけかな?
月山には稀に人間が入り込むことがあった。大抵は仏法僧か山の霊力を自身にも授かろうとする修行者である。
仏法僧は霊場に寺を構えたがり、師が山神の代理として拒否の意を伝えたものの強行して住み着いてしまっていたし、修行者も「山に伏して自然界に従うから」と御託を並べて登頂を諦めなかった。
連中は今のところ自然の鎖を断ち切るような狼藉は働いていないものの、その存在自体が山に暮らす生物の神経を逆撫で続けている。
これも共存共栄の道の難しさかと師弟は諦観していた。
いっぽう、オトリはその心を氷解させたのち、茂みから顔を出した大柄な古狼に一礼をした。
それから先も尋常の獣よりも多くの霊気を持つ生物を見つけては同じように礼を尽くしてみせていた。
「ここがあたしたちの里だよ!」
ミズメは両腕を広げて言った。
広く続く緑の高原。背の低い植物が毛皮のように山肌に生えそろっており、所々に何軒かの木造の建物が見える。
その背後にはそびえたつ月山の山頂があり、その頭頂には白髪が見て取れる。
遠くには秋化粧の山々が霞掛かって連なり、空は吸い込まれそうな晴れを彼方まで広げ、東方からは宵闇が顔を覗かせ始めていた。
「綺麗なところ……」
オトリは溜め息をついた。
「もう少し早い時期に来たら、花も結構咲いてたんだけど」
「あの、あれは何ですか? 鹿? 羚羊?」
オトリが指をさす。その先には白い毛皮を身に纏い、角の生えた獣の群れが居た。
「あれは山羊さ。お師匠様が日ノ本の外から連れて来てここで育ててるんだ」
「わざわざ遠くからですか? どうしてそんなことを?」
「乳をよく出す獣なんだ。火で清めれば人の赤ん坊にも飲ませられる。毛皮のある動物だし、肉も食べられる。角も頑丈だから加工して使えて便利だ」
「便利だなんて。命を品物扱いするのは感心しません」
「お互いに得をするんだよ。あいつらは草ばっかり齧るから、ここではいつも腹いっぱいだし、狼は天敵だけど、さっきのぬしが居るからお師匠様の物とされてる山羊には手出しをしないしね。山羊にとっては食っちゃ寝の極楽ってもんさ」
山羊たちは各々勝手に草を食んだり、膝を折って昼寝をしたりしている。
草の合間からは跳ねまわる仔山羊たちが見え、中には大人の山羊の背に乗っかる腕白者もあった。
「共存共栄……」
オトリが呟く。
「そーいうこと! その辺に建ってる小屋や屋敷も、お師匠様が自分で鋸を引いたんだよ!」
屋敷を指差すミズメ。家々は丸太作りで、屋根には板材が用いられ、天辺を尖らせて急角度になっている。
「すごい。その辺りの里の小屋より立派です。おひとりで作られたんですか?」
「私は暇だから。術も無しに作るのは骨が折れたわ。何軒かは皆に手伝って貰ったのよ」
「あたしも手伝ったんだよ。どう? 物ノ怪が獣を育てて家を建てるなんて、聞いたことないでしょ?」
「そうですね……」
「お師匠様は凄いんだ!」
ミズメは自慢げに言った。
「自慢はいいから、そろそろ屋敷に入りましょう。赤ん坊には外は酷だわ」
師が促す。
「大変! 赤ちゃん、静かだと思ったら苦しそうだわ」
オトリが声を上げた。
「高所の空気は慣れるまでは毒なのよ。屋敷には結界を張ってるから多少は楽になるはずよ」
「結界……」
オトリは足を止めた。
「ほら、オトリちゃん。陽が沈めば一気に冷え込むよ。中が気に入らなかったら屋敷ごと壊してくれても構わないから、急いだ急いだ!」
ギンレイは草原に降り立つとオトリの背中をぐいぐいと押した。
「そ、そんな。私、そんなことしません!」
さて、屋敷の引き戸を開けて中へと踏み込むと、牧歌的な風景や神聖な空気とは打って変わった光景が現れた。
「こらテンマル! 今日はあなたが炊事の係ですよ! ギンレイ様がお出かけになってるからって、怠けようったってそうはいきませんからね!」
奥から女性の怒鳴り声が聞こえる。
「やーだよ! 鳥女がやればいーじゃん!」
こっちは童男の声。
「ウブメさんに押し付けちゃ駄目だよ。ちゃんとやらないとー」
童女の声。
幼い声は木床を軽快に叩く音と共にこちらのほうへと近付いて来る。
「あっ! ギンレイ様だ! ミズメも居る!」
現れた童男がこちらを指差す。
「ギンレイ様、ミズメ様、おかえりなさい」
童女が会釈をする。それから子供たちはすぐに視線を“客人”へと向けた。
「ただいま、テンカ。今日はミズメのお友達を連れて来たわ」
「ふーん。あれって、巫女?」
テンマルなる童男がオトリを指差した。
「こら、指をさすと失礼よ。こんばんは、巫女様」
再び頭を下げるテンカなる童女。
「こ、こんばんは……」
挨拶を返すオトリの口元は引き攣っている。
「あ、あの。この子たちって……」
「あたしらが世話をしてる子供たちだよ」
「そうでなくって……耳と尻尾が……」
オトリは子供たちを指差した。
「あっ、巫女さんも指さしてら!」
「また指差して!」
耳と尻尾。
童男と童女の頭の上には亜麻色の毛に覆われた丸っこい耳。
そして、腰のあたりからは同色の柔らかな獣の尻尾が生えていた。
「な、なんて可愛い……」
オトリが唸った。
どうやら心の琴線に触れるものがあったようだ。ミズメはそんな彼女を見てほくそ笑んだ。
「こいつらは化け貂の“寿命”が入ってるからね」
「化け貂って、物ノ怪の?」
「そうよ。そのあたりのことはあとで説明してあげるから、とりあえず私の部屋へ。あなたたち、姑獲鳥を呼んで来て頂戴」
ギンレイが子供たちへ言った。子供たちは元気良く返事をすると、屋敷の奥へと駆けていった。
ギンレイに連れられ、彼女の部屋へと通される。
板張りの簡素な造りに、都で流行りの畳が数枚敷かれている。ミズメとギンレイは畳の上に座り、オトリにも座るように促した。
囲炉裏には埋火が燻ぶっており、あるじが指差せばそれは瞬く間に暖かく大きな火へと変じた。
「火術も使えるんですか?」
オトリが訊ねる。
「いいえ。氷術は自前だけど、今のやさっきの大吹雪は“風水術”の助けを借りたものよ。あなたたちみたいに自然物そのものに霊気を通して操るんじゃなくって、天地の気の流れを借りて間接的に影響を及ぼすものよ。大地の“龍脈”を使うから燃費も良いし、自分の霊気も上乗せできるから便利だけど、立地や方角によって気の性格が違うから、どこでもなんでもとはいかないわ」
「うちの流派の土術も似た感じです。陰陽師たちも似た術を使うと聞きます」
「大地の精霊に呼び掛ける、だっけ? 陰陽道は風水と古流派と仙術、それと真言の良い所取りね。さて、赤ん坊を預からして貰っていいかしら? 魂魄と体調を見てあげないと」
ギンレイがそう言うと、オトリは素直に赤子を手放した。
「……やっぱりね。身体は少し弱ってるだけだけど、この子は死ぬ運命にあるわ」
赤子を抱くギンレイが言う。
「私にはね、“魂の寿命”が視えるの。たとえ身体が元気で見た目が逞しくても、関係無い。原因は病だったり、事故だったり、誰かに殺されたりね」
「未来が視えるってことですか?」
「ちょっと違うかな。未来を視る卜占は、大事は変えられなくても小事は簡単に歪められるから。とにかく、この子は放っておこうが世話をしようが、長くは生きられない。多分、誰とも魂の繋がりを持ててないんだわ」
ギンレイは寂し気に言った。
「だったらやっぱり、私が最期まで面倒を看ます」
オトリは膝の上でこぶしを握った。
「早まらないの。ね、オトリちゃん。この子に生きて欲しい?」
「当たり前です! 死なないで済むなら、そのほうが良いに決まってます!」
「そのほうが良いに決まってるなら、物ノ怪になってでも生きたほうが良いよね?」
「……」
オトリは黙りこくった。
「多分、悪さをするようにはならないと思うわ。意志を持った生き物である限り、断言はできないけど……」
「大丈夫! あたしみたいに良い奴になるって!」
ミズメは胸を叩いて言った。
……が、肋骨に激痛が走って悲鳴を上げる羽目となった。
「怪我をしてるの?」
ギンレイが訊ねる。
「うん、ちょっと」
ちょっとどころではなかった。恐らく、あばらの二本に罅が入っている。
翼頼りで移動すると胸が引っ張られる。そのたびに患部が熱を持ち、いつの間にか麻痺をして忘れていただけであった。
「ごめんなさい。ミズメさん、それは私が攻撃した時に……」
オトリはうつむいた。
「いいよいいよ。その場の勢いってもんだよ。あたしも前にオトリのこと伸しちゃったし、一勝一敗」
笑って見せるが、むせかえる。座って落ち着き、一旦思い出してしまえば強烈な痛みから呼吸を取り返すことは不可能であった。
「オトリちゃん、憑ルベノ水の治療術でミズメを治してやれない?」
「できると思います。……でも、水術の治療は私の霊気を相手の身体に通し、被術者の身体を活性化させて自然治癒を早回しにするものなので、霊気が抵抗すると酷く痛むんです。これだけ痛がっているところに拒絶が重なると、激痛で心臓が止まってしまうかもしれません」
「あー、この子なら多分平気。ちゃっちゃとやってあげて。愛しいミズメちゃんが痛がってるのは見ていられないの」
強引に促す師。ミズメは突っ込みのひとつも入れたかったが、それすらもままならない。
オトリの手が恐る恐るながら胸へ伸ばされる。
「心を落ち着けて、私に気を許してください。」
巫女が触れると手のひらから暖かな気が流れ込んできて、胸の痛みが霧散した。
「あ、治ったわ。ありがとう!」
ミズメはけろりとして言った。
「う、嘘……」
疑いの声を上げたのは施術をした張本人である。
「自分で治してどうして驚くのさ?」
「確かに折れてた……自分の傷ならともかく、他者の折れた骨を治すにはもう少し時間が掛かります。それに、私はあなたを殺そうとしたのに!」
水術師は酷く困惑しているようであった。その貌には恐怖すら浮かんでいる。
「こいつ、お馬鹿だから本当にひとかけらも霊気を抵抗させなかったのよ。別に物ノ怪だからって、治りが良いとか痛みを感じないってこともないと思うわよ」
「信じられません。今まで、怪我人を治してあげても、痛がられたり暴れられたりしたのに。私はさっき退治しようとしたんですよ!?」
「二、三歩歩けば嫌なことは忘れる!」
それがミズメの頭脳の仕組みである。鳥人間は治ったばかりの胸を張って、誇らしげにした。
「オトリちゃんも、自分で施術したんだから感じてるでしょう? そういうわけだから、この子に攻撃したことも気に病まなくていいわ」
「はい……。ごめんなさい、ミズメさん」
「そんなに謝らなくっていいって! ほら、笑って笑って!」
ところが、ミズメの身体を急な不調が襲った。胃の腑が急に弱った犬のような声を上げたのである。
「な、なんだかお腹が空いた……」
顎を床に着けへたり込むミズメ。
「オトリちゃんの話を聞いてなかったの? 身体の力を使って治療してるんだから、腹も空くに決まってるわよ。下手したら痩せるんじゃない? あ! だったら太り過ぎを治すのには丁度良いかもしれないわね。骨折水術健康法!」
師は愉しげに言った。
「またでたよ、お師匠様の健康法好き」
ミズメがぼやく。
「健康法?」
「そう! 長く生きるなら、魂だけじゃなくって身体も大切にしないとね。私も水術を始めてみようかしら? 肋骨一日一本、三日で三本! それならいくら食べて昼寝をしても体形が維持できそうね!」
胸を張るギンレイ。徒衣の袷が中の巨大な物体によって押し広げられた。
「わざわざ折らなくてもいいでしょ」
ミズメが突っ込んだ。
「良薬、口に苦しっていうじゃない?」
「あ、あの。私たちの術は生まれながらにしての魂と物質との相性があって、誰でも使えるというわけじゃ……」
オトリが口を挟む。
「真に受けなくていいよ。この人、いつも変な健康法を考え付いては試したり、あたしたちにやらせてるんだから」
「いいじゃないのー。皆でやろうよ。健康体操だって温泉だって、皆も結構気に入ってるじゃないのー」
白い髪の女は口を尖らせた。
「まったく、お師匠様は……」
溜め息ひとつ。これは安堵の溜め息でもあった。
ミズメの師、銀嶺聖母は大抵の母親が子を愛する以上にミズメを溺愛していた。
自身の領域に寺を構えた坊主を見逃す懐を持ちながらも、ミズメを襲ったオトリへ容赦無い攻撃を加え、あまつさえミズメに止められてその矛を容易く収めたのが示している。
ミズメ自身がオトリの誤解に対して怨みを残していないのは自分で分かるが、他者である師もそうであるとは限らない。
だが、これだけいつもの調子で接しているところを見ると、師は完全にオトリを赦しているように思えた。
「御呼びですか、ギンレイ様」
衝立の向こうから女の声。
「入って来て。ミズメが新しい赤ん坊を攫って来たの」
ギンレイが招くと、ひとりの女が現れた。見掛け三十過ぎの平凡な女であるが、袖口や胸元から覗くのは肌ではなく、鳥の羽毛のようなものであった。
「物ノ怪! ……違う、この気配は黄泉……“鬼”だわ!!」
オトリは立ち上がり、大袖と提げ髪を揺らして霊力を高め始めた。
「ちょっとちょっと! またやる気? ウブメは戦わないから手出ししないであげて。オトリちゃんの言う通り、彼女は鬼よ。だけど、今はほとんど邪気は抱えてないはずよ! ちゃんと霊気を探って!」
ギンレイが取り成すと、オトリは赤面して正座に戻った。ウブメが胸を撫で下ろす。
「あの……このかたもギンレイ様のお子さんなんですか?」
「ウブメはここの女房だよ。陸奥国と蝦夷の兵乱が激しかった時期に、あたしが見つけたんだ」
ミズメが言った。
「戦争で村から焼け出されてしまいましてね。その頃は身重で、お腹の子だけは護ろうとなんとか土を齧っていたのですが、武士がやって来て、私のお腹を捌いて中の子を奪って行ってしまったのです」
ウブメは鼻を啜った。
「どっちが鬼よ! 人の所業じゃない。そんなの、怨みで鬼になっても当たり前だわ!」
態度一変、巫女は激怒している。
「おおかた、赤子の生き胆が病に良いとか、そんな迷信で持ってったんだろうけどね。都じゃ、子供を薬にする呪術が闇で流行ってるくらいだし。それで、鬼になったところを見つけたあたしがやっつけてね」
「散々でした。怨みも晴らせず消えるのかと。ですが、ミズメ様は私にとどめを刺さず、ギンレイ様のところへお連れになったのです」
「どうしてそんなことを?」
オトリが訊ねる。
「殺生は好きじゃないって言ったでしょ? 子供を返せって言ってたから、なんで鬼に成ったかは想像がついたし。うちには拾った子供が居たから、じゃあこれ育てて我慢してよって」
「そんな無茶苦茶な」
「私も始めは我慢なりませんでしたとも。ですが、鬼に成った理由が理由ですし、子供がいるところで暴れるわけにもいきません。そもそもミズメ様にもギンレイ様にも全く敵いませんでしたし、仕方なしに世話をしているうちに、怨みも薄れていきまして、ここの世話係に落ち着いたのです」
羽毛の鬼女はにこりと笑った。
「でも、魂魄が擦り減ってたからね。せっかく良い世話役が手に入ったのにみすみす死なせるのも勿体ないし、不敏でしょう? だから、私が“借寿ノ術”で人里に迷惑をかけてた化け鳥から寿命を奪ってウブメに与えてやったのよ。ウブメ、今回も頼むよ。この子の人としての寿命はあと十日足らずだから、近いうちに良いのを考えてあげる。見つからなかったら私の寿命で対応するわ」
そう言ってギンレイは赤子を鬼女へと手渡した。
ウブメは優しげな微笑みを浮かべると、赤子をゆっくりと揺すりながら退室して行った。
「あ、赤ちゃん……」
オトリはまたも不安気に立ち上がった。
「大丈夫だよ。ウブメは赤子に執着する鬼だから、むしろ自分が死んででもあの子を生かそうとするよ。オトリがお師匠様の術から庇ったようにね」
ミズメが説得すると、オトリは座り直し、何度か「だんない、だんない」と呟いた。
「借寿ノ術っておっしゃってましたが、どういう術なんですか?」
「仙人の秘技、仙術のひとつよ。それについては、この子の生い立ちと併せて説明しましょうか」
ギンレイはそう言うと、ミズメを抱き寄せて横に侍らせ、背後から“琵琶”を取り出した。
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卜占……占い。
女房……嫁や妻ではなく、身分のある者に付く世話役。特に宮中に仕えた女官を指した。
龍脈……地面の下にあるエネルギーの流れのようなもの。山脈や断層を指すこともある。
陸奥国……現在の福島県以北、青森県以南を指す。時代によって領土が大きく違い、この頃は岩手県辺りまでが領土だった。
仙術……仙人の使う術。
だんない……大丈夫、平気。