化かし006 氷解
「お師匠様!!」
ミズメは嬉々として声を上げた。
「翼の物ノ怪! あれが親玉ね!」
オトリは空に向かって腕をかざした。手のひらに付随する水の弾丸が蜂の唸りのような音とともに消失した。
矢のごときの射撃。しかし、水の弾丸は白い翼の女に届く前に勢いを失い凍結し、ひと握りの雹となって地面に砕けた。
「氷術! さては黄泉國の使いですね!」
空気が更に水気を失い、周囲の木々が苦し気に乾いた音を立てる。
「乱暴な水術は禁止よ」
銀嶺聖母が豊かな白髪をかき上げると、天空が一瞬にして黒雲に包まれた。
回雪巻き起こり、吹き下ろしの風が白き花びらたちを巫女に向かって叩きつける。
「しまった! 水気が凍って……!」
暴風雪に耐えかねて大袖で顔を守るオトリ。もう片方の腕は赤子を抱いたままである。
「私のミズメに手出しをした罰よ。氷像にして雪隠に飾ってあげるわ」
更に強くなる吹雪の術。
「お師匠様! 待って待って! オトリを殺さないで! あいつ、赤ん坊を抱いてるんだ!」
ミズメはなんとか立ち上がり、空に向かって声を張り上げた。
嵐で遮られぬようにと、声に霊気を込めて叫んだつもりだったが、師は返事をしない。
――声が届いていないというか。あれは頭に血が昇って聞いてないね。
「水が駄目なら!」
オトリはしゃがみ込み、地面に手を当てた。
巫女から地中へ霊気が流れる。なんらかの術で対抗しようとしたようだったが、大地は何も返事を返さなかった。
「土術? 無駄ね、龍脈は私が使用中よ」
大地より霊気の胎動。地面から無数の氷の針山が生える。その様相、八寒地獄か衆合地獄か。
巫女はいち早く察知したか、飛翔してそれを回避した。着地するたびに大地より氷花が咲きいずり、草木を薙ぎ倒す。
瞬く間に巫女は木の幹へ背を着けることとなった。
「止めよ。串刺しになりなさい」
銀嶺聖母が腕を掲げた。無よりいずるは巨大な立氷。それは氷の鉾へと変じ、女の手中に納まった。
振りかぶられる一撃。
――オトリが殺されちゃう!
刹那。ミズメは矢を番えていた。無意識の中、“どこからともなく”取り出された真巻弓。
激しき冷気と霊気の繁吹く世界。狙うは宙を駆ける氷の鉾。狙うのではない。風に心を中よ。
鏃に霊気を宿した三立羽の矢。その羽根は濡れ羽色。
滑るように指より離れる矢。
氷鉾砕くは無心の一射。
黒羽麗しきミズメの矢は巫女の心の臓を目掛けて飛ぶ鉾を射貫き、粉砕した。
「あら? 今の矢って。……ちょっとー! どうして邪魔するのー? 私、今、超格好良かったのにさー!?」
上空に居るミズメの師は両手を振り回しながら文句を垂れた。
「赤ん坊が居るんだよ!」
ミズメは両手に口を添えて言った。
「え? よく聞こえない! 赤ん坊を作りたいって?」
師は耳に手を当て首を傾げる。
「違う! オトリが人間の子供を抱いてるの!」
巫女のほうへ指を指し指し怒鳴るミズメ。自身の声の振動が激しく肋骨を苛んだ。
師はもう一度首を傾げると巫女のほうを一瞥し、妖しげな術で起こした吹雪を治めて、ゆっくりと地面へと降り立った。
それから彼女が指を鳴らすと、あたりに積もり始めていた雪は一瞬にして霧散した。
「もう、どうして邪魔をしたの?」
銀嶺聖母が訊ねる。
「あいつ、赤ん坊を抱いてるんだ。親に棄てられた子だよ」
オトリのほうを見ると、彼女は自身の身体を使って赤ん坊を覆い隠していた。
「そうなの? 危ないところだった。巫女のほうは殺しても平気?」
女の手に生える氷の刃。
「駄目駄目!」
「見てたんだから。あの小娘、あなたのことを殺そうとしてたでしょう?」
「そうだけど、誤解なんだ」
「ふーん? ま、あなたがそう言うならやめとくけど」
氷の刃は砕け、輝く塵となった。
「おい、オトリ。大丈夫か? 赤ん坊は?」
ミズメはうずくまったままの巫女へ駆け寄り、その背を揺らした。すっかり冷えてしまっている。
オトリは返事をしなかったが、触れた背から心臓の早鐘が伝わってきた。
巫女装束の中からも、くぐもった赤ん坊の泣き声が聞こえる。
「……良かった。聞いて、誤解なんだよ。あたしたちは、オトリが思ってるような物ノ怪とは、多分ちょっと違う。確かにあたしはお師匠様に人間から物ノ怪に変えて貰ったし、子供を攫って同じことをしてる。だけどそれは仕方のないことなんだ。良いこととか悪いことというよりは、やらないよりはましってことなんだよ」
早口に伝えるミズメ。オトリは微動だにしないが、霊気だけは酷く乱れ続けている。
「その子、よその国から来た巫女? 私たちのやってることを勘違いして怒ったのね。なら、良い子じゃないの。まあまあ強そうだし、新しい退屈しのぎ?」
師が歩み寄る。
「それもあるけど、友達だよ。紀伊国から来て、迷子になって帰れなくなってるんだ。それで、送り届けてやろうかと思って。だから、見逃してあげて!」
ミズメは師に頭を下げた。
「頭を下げるのはこっちのほうよ。あなたの友人を殺したりなんかしたら私、余生を壺の中で送ったっていいわ。……と言っても、その子は納得してないように見えるけど」
師の言う通り、未だにオトリは赤子を庇った姿勢のままである。まるで巌のようだ。
手のひらに伝わる鼓動と気の乱れは幾分か落ち着いてきてはいたが。
「あたしたちの山を見て貰えば早いんじゃないかな」
「じゃあ、なんとかしてこの団子虫を山まで運ばなくっちゃね。オトリちゃん、そのままだと赤ん坊が窒息しちゃうわよー」
ギンレイは長い爪の先でオトリの背中をつついた。
「……」
「頑なねえ。この経穴を突かれても平気かしら」
そう言うとギンレイはオトリの脇腹をつついたり撫ぜたりし始めた。艶っぽい悲鳴を上げる娘。
「それ、経穴でも何でもないじゃん」
ミズメは苦笑いをする。
「……赤ちゃんを物ノ怪なんかにしないで下さい」
ようやくオトリが口を開いた。
「意地っ張りだなあ。だけどさ、その子は母親に見放されたんだぞ。オトリじゃ育てられないし、乳も貰えない奴にゃ里親を見つけるのもまず無理だ。放っておけば鳥や獣にやられるし、苦しんで死んでしまえば赤ん坊でも魂魄が悪霊になっちゃうかもしれないんだぞ。あたしみたいになるか、悪霊になるかだったら、どっちがましだよ?」
「……物ノ怪は駄目。私が最期まで面倒を看る」
オトリは少し身体を解くと、腕の中の赤ん坊を見たようだった。
「最期までって、それは無理でしょ」
口を挟んだのはギンレイだ。
「オトリちゃんの水術、“憑ルベノ水”でしょ? 霊性の操作を主体とした古流派の。古流派では死者の魂魄に祝詞を上げて、あなたたちの神様の下へ導く“寿ぎ”が有名だけど、あなたじゃその子のこと、導いてあげられないでしょう?」
師の声は諭すように柔らかだった。
「お師匠様、どういうこと?」
「“寿ぎ”は肉体を失った魂に、清らかな霊力をもって天へ還る導を与える術法なんだけど、人の言葉や意思を解さない者には通用しないの。つまり、野良の下等な獣の魂や、言語の違う人間、言葉を覚える前に亡くなった子供には上手くいかないことが多いわけ。大したことがない魂だと、天の国のほうが道を開くのを拒否することもあるわ。七つくらいまでの子供の魂は、出産を経験した魂を持つ者なら導いてあげられるけど、この子からは処女の匂いがするし」
ギンレイは巫女の提げ髪へ顔を近付けると鼻を鳴らした。
「それでも……」
オトリは呻くように言った。
「それでもって、つまりは本当の最期は他の巫覡に押し付けるか、悪霊になってから“滅して始末する”ってことでしょ? それはそれで酷いことだわ。そんな結末が待ってるくらいなら、物ノ怪になってでも生き伸びたほうがましよ」
「物ノ怪になっても悪霊と同じで、他人に迷惑を掛けるかもしれません。物ノ怪は人よりも陰ノ気に左右され易い存在です。始めのうちは正気でいられても、いつかは害をなす魔物や鬼と変じてしまう」
「だから、お師匠様はなるべく“善いこと”と“楽しいこと”をするようにって教えてるんだよ」
「ものごとを良くしようという気持ちほど強い陽ノ気なんて、そうそうないからね。……何より長生きしてると、退屈が一番の敵になっちゃうし」
ギンレイは欠伸をしながら言った。
「ね、お師匠様は悪い人じゃないでしょ? オトリ、うちの里を見ていきなよ。そしたらきっと、オトリの考えも変わると思うからさ!」
ミズメは強引にオトリを引いて起こすと、赤子を抱いたままの肘に手を添えた。
巫女はしばらく思案していたが、短く溜め息をつくと「分かりました。行って、見てから決めます」と言った。
さて、ひと悶着があったものの、一行は銀嶺聖母の支配下である月山へと辿り着いた。
「山はやっぱり空から見るより、地面に足をつけて仰がなくっちゃね」
月山は遠目にはなだらかなで優し気な山ではあるが、麓で見上げれば高い標高と広い裾野が六感全てを圧倒する。
道こそは切り拓かれているが、所々に足元をすくう崖や体温を奪う沢があり、高所はすでに霜降る髪と化し、窪地には万年雪が堆積している。
「オトリちゃん、ついて来られる?」
ギンレイが訊ねた。
「平気です。水術では肉体の操作ができますから」
そう言うとオトリは見上げるほどの岩場へとひと跳びで登った。
「なるほど。それがあったからひとり旅ができたんだね」
ミズメは感心して言ったが、オトリは返事をしなかった。
天狗の娘とその師は翼を使い難所を無視し、赤子を離さぬ娘は水術の力を用いて常人離れした體捌きを披露し登山を続けた。
山は険しいだけでなく、椈や水楢、椛の木が彩とりどりの十二単を創り出し、地に落ちた木の実を当てにした栗鼠やそれを狙う狐、争いを避けて枝の上で食事を摂る鶲や河原鶸がおり、空では渡りの時期の押している差羽が旋回している。
ミズメは鳥獣のたぐいを見かけるたびに挨拶をした。
普段から空を共有する鳥とは簡単な言葉を交わすことにしていたが、オトリに自分と師の掲げる“共存共栄”を少しでも示したいと思ってのことだった。
鳥のほうから寄って来て返事をした時に、オトリは興味深そうにこちらを見つめたが、特に何も訊ねてはこなかった。
あまつさえ、目を合わせると、ぷいとそっぽを向いてしまうのだった。
――ま、良いさ。ああいう手合いを振り向かせるのもまた面白そうだし。
せんに命を取られかけたというのに、ミズメはすでにオトリとの破滅的な関係をまったく楽観的に考えていた。
虚勢やから元気ではない。確かに誤解や生死の問題でいっときは慌てはしたものの、彼女にとっては二、三歩歩けば過去のことである。
登山は進み、次第に空気が変じてくる。大地そのものの発する気配が神聖な神気を帯び始め、見えざる存在を知らせる。
稜威なる山女神の領域でもありながら、そこに抱かれるのは尋常の獣たちだけではない。
「霊気が向けられた。何かが警戒してる!」
巫女は足を止めた。彼女の視線の先で茂みが揺れる。
「大丈夫よ。その気配はこの山の狼たちのぬしね。見知らぬ強い霊力の持ち主が入ってきたから様子を見に来ただけよ」
ギンレイが言った。
「とても強い霊気……人を襲ったりは?」
「しないしない。そもそも、あの子は物ノ怪じゃなくて、神格化一歩手前の尊い獣よ。この地の山神様に遠慮して獣の姿に甘んじてるだけ。あの子がこの一帯の狼たちに人里には近付くなって釘を刺してるから、里の人間が襲われることはないのよ」
「精霊か……」
オトリは胸を撫で下ろした。
「山へ踏み入ってあの子を矢で射れば、狼たちと戦争になるかもしれないけどね。だけど、それは人に対してでも同じでしょ? それどころか、人間は“危ないかもしれない”からって先に手出しをするでしょう? 獣は威嚇や警戒こそすれど、先手を打って滅ぼしに掛かったりはしないものよ」
「でも、何か哀しいことが起きてからでは、遅いです」
「そうね。あなたの言うことも正しいわ。だから、あらかじめ分かって貰いたいのよ。この山の周辺に昔から暮らす人々は、みんな知ってるわ。この山を拝んでるのよ」
「外から来た奴は別だけどね。あのおっさんとか。……オトリがさっき言ったように、言っても分からない人も居ないわけじゃないしね。そういう連中が獣を無闇に獲って、山を壊して、水を汚すんだよ」
「そんな光景は、旅のあいだに沢山見てきました。本当に、皆酷くて、がっかりしました」
オトリが寂しげに言った。
「オトリは水分の巫女で、全国の水源を見て回ってたんだって」
ミズメは師に言った。
「そっか。若いうちに今の世の中を見て回ったんじゃ、そんな風になっちゃうのも仕方がないわね」
ギンレイは溜め息をつく。
「村の人たちの水の使いかたが悪いせいで禍事が起こっていても、私の話を少しも聞いてくれないんです。村の僧侶が構わないって言ってるからって。私たちの里と血と志を分けた水分神社は各地にありますけど、そこの巫覡は特定の水源のみの管轄ですから手伝ってくれないし……。水の穢れが悪霊を呼び寄せ、弱い悪霊を食べる危険な物ノ怪を呼び寄せ、それらが人間たちにも害をなす。人が烈しい陰ノ気に晒されれば、それもまた物ノ怪や鬼に変じます。私は、そんな悪霊たちを退治して旅を続けてきました」
「立派、立派。あれだけの力があれば、沢山の不幸を救ってこれたでしょう? 悪いほうに考えるのはよしなさいな」
「でも、手遅れだったり、上手くいかなかったりしたことだって……」
オトリの瞳は水を湛えていた。
「やらないよりはまし、よ」
「本当にそうなんでしょうか? 解決できたことだって、拒否されたのを無理に押し通したり、誰も見てないうちに手早く済ませただけだから、その後にどうなったかなんて、分からない。もしかしたら、余計なことだったかもしれない……」
オトリは洟をすすった。抱かれた赤ん坊が手を伸ばし、その頬を優しく叩く。
「オトリ。お師匠様がやったことがどんな結果になってるか、見に来てよ。お師匠様が良いと思ってやったことが正しいなら、きっとオトリが頑張ったことも間違いじゃないと思うからさ」
ミズメは降り立ち、巫女の肩へと手を掛けた。
オトリは袖で目元を拭うと、小さく「うん」と頷いたのであった。
******
雪隠……便所。
三立羽の矢……三枚羽の矢。羽根が三枚だと回転効果を生み出す。
魂魄……仙道や陰陽道における霊魂の呼びかた。