化かし057 記憶
神童神実丸は借寿ノ術を用いて藤原唯直から魂を引き出し、大蛇辛巳の口の中へと移し替えた。
すると、大蛇は見る見るうちに女の姿へと変じ、夫婦は抱き合い泣いて喜んだ。
抱擁を見て何か思うところがあったのか、童子は施術を終えるとミズメの勧めに素直に従い、残りの鬼退治も任せて山城国へと駆けて行った。
「はあ、素敵……」
ミズメの背後から溜め息が聞こえる。
月の未だ出ぬ闇夜。山伏と巫女はタダナオの屋敷の縁側に座していた。
「集中しろよ。隠垉は他の連中とはわけが違うぞ」
「平気ですよ。あの程度の鬼でしたら、私の気を直接注げばすぐに片が付きますって。それにしても、想い合うふたりって素敵ですよねえ」
オトリは施術が済んでからずっとこの調子である。
「百篇は聞いたよ」
「八万篇思い起こしても素敵ですよ」
「鬼のような執着だね」
「ところで、鬼の話を他の僧侶さんたちに伝えなくても良かったのでしょうか?」
タダナオは他の東大寺派の僧たちに、鬼が化けて紛れていた事実を伝えようとしていた。
しかし、ミズメはそれを制止したのである。
「黄泉の鬼はしつこいだろ? 正体を知ってるのはあたしたちだけだ。とすれば、あたしらを消してまた元の仕事に戻ろうとするはずだ。ここで待つのが一番だよ」
「タダナオさん、鬼が退治されたら屋敷を出るっておっしゃってましたね」
「そーだね。遁世する気満々だ」
ミズメは溜め息をつく。
ようやく太刀を抜いたタダナオであったが、その性根が変わったわけではなかった。
彼はオンホウが誅された暁には、この地の全てを僧侶たちに任せ、自身はカノトミを連れて放浪の旅に出ると言った。
これは彼なりの血の呪縛の断つ手であったが、ミズメは少々歯痒く思っていた。
「良いじゃないですか。夫婦仲良く旅行なんて憧れます」
「旅だって楽じゃないし、危険なのは知ってるだろ」
「その時はきっと、タダナオさんがなんとかしますよ。降りかかる苦難。それを斬り払うは愛の一太刀!」
オトリは楽しげに宙を斬った。
「あーあ、私も“いいひと”と旅がしたいなあ。でも、色々なお役目があるし……。誰か攫ってくれないかしら?」
「オトリは攫うほうだったじゃん。怪力の水術師を攫うなんて、鬼や物ノ怪も真っ青な化け物しかいないよ」
「それでもいいかな。私のことを本当に大切にしてくれたら……」
またも溜め息。
――やっぱり面白い奴。若い娘ってのは、どうしてこう色恋に弱いかね。
ミズメは呆ける娘を見て笑う。
とんだ寄り道となったが、偽の聖者を暴き、真の聖者の願いも果たせたのだ。
退屈しのぎ狙いで相方の好きにさせただけにしては、益は十二分にあったであろう。
「ねえねえ、ミズメさん。勾玉の件が終わったら、すぐには里に戻らないでもう少し旅を続けませんか? また月山の子供たちに会いたいです」
オトリがすり寄ってくる。
「構わないよ。お師匠様も歓迎すると思う」
あたしは夫じゃないけどと苦笑い。
「でも、ふたりだけで楽しい善行の旅をするのも捨てがたいなあ」
腕を組んで唸る相方。
「独りの旅では散々酷い目に遭ってたくせによく言うよ」
「えーっ!? つらい旅を退屈しのぎとか言っちゃうミズメさんに言われたくないです!」
ミズメは文句と共に揺さぶられる。
……はたと揺さぶる腕が止まった。
お互いに目配せ。
続いて、庭を照らしていた灯篭の火が消えた。
「おいでなすったね」
ミズメは立ち上がり、庭へと進み出た。
闇の中から鋭い気配。
刀を抜き、夜と一体化した影の一撃を弾く。
「達人ってのはね、目で視なくても気配で分かるものさ」
空には雲原。あたりは黒一色。闇夜よりも深き箇所を睨むミズメ。
「えいっ!」
背後で掛け声。宙に浮かぶは巫女の祓え玉。
陽の球体が庭を照らし、茂みや灯篭が影を伸ばす。
「見えなくても勝てるのに」
「油断したら駄目ですよ。今度はとり逃がしませんからね」
オトリが気を練り始めると、彼女自身も光源となり、幾つかの影を掻き消した。
鬼の姿は未だに見えぬが、残った影から無数の棘が巫女へと伸びる。
しかし、そのすべては彼女の身体には届かず光に溶けて消えた。
「夜なら影が沢山あって好き放題できるって魂胆でしょうけど、私はミズメさんのように相手の領域で戦うことはしませんよ」
巫女の周囲に浮かび上がる無数の光の玉。
「ちぇっ、もうちょっとこの剣を験したかったんだけどな」
天より落ちてきた雷斧を溶かして作った刀も、巫女の広げる星図の前には形無しである。
「もう勝ったつもりか。矢張り、青いのう」
影鬼隠垉の声。
巫女の前方の空間に、闇よりも濃き黒色をした人型が現れる。
「漂泊の巫女よ。薄き心の膜に覆われた記憶を晒すがよい」
オトリへと漆黒の腕が向けられた。手のひらには、漢字でも梵字でもない奇妙な赤い印が妖しく輝いている。
「あれは神代文字?」
巫女はそう呟くと、急に祓えの星空を消してしまった。
「オトリ?」
「あ、あかんわ」
オトリは膝を折り頭を抱えた。
「伯母やんの言ったとおりやった……寝る前にお水なんて飲むんやなかったわー……」
なにやらわけの分からぬことを口走り始めた。
「母より賜りし夜増ス影の味はどうじゃ?」
鬼の声が楽しげに響く。
「幻術かい? オトリを化かすなんて、なかなかやるじゃん」
「月讀ム心などではない。あれは、ありもしない幻を見せる術。わしの術は、おまえたちの持つ闇の記憶を呼び起こすものじゃ。そして、こころより醸される夜黒ノ気を吸い、我が糧とするじゃ」
「親切にしようとしただけなのに……」
巫女はうずくまった。
「心弱き処女には酷なものだったようじゃのう」
「駄目……。また救えなかった」
悔恨に咽ぶ声。オトリはどうやら旅の記憶を反芻しているらしい。
「ああ~、良い囀りじゃ。もっと素敵な歌を聞かせておくれ」
鬼の手のひらがまたも赤く輝く。
――あの腕が厄介だね。とっとと斬り落とすか。
ミズメは手早く気を練り、自身の動作から生じる音の位置を狂わせた。
「斬らせてもらうよ!」
敢えての宣言をし、鬼へと駆ける。
「おまえも詠うがよい!」
影鬼はあらぬほうへと手を向けた。
「ちょろいね!」
小太刀を振り上げるミズメ。
『ミズメさんは女子じゃないですよ。両方なんです。上も下もでっかいのがついてるんですよ!』
――は?
術中の巫女がつまらぬことを思い出したか。ミズメは足を止めて振り返る。
『ミズメさんもその……御両親が居なかったんだし、気持ちが分かるでしょ?』
オトリ自身からは啜り泣きが聞こえる。ならば声はどこから聞こえるのか。
「おまえもすでにわしの術中じゃ。ほうれ、巫女より吸った陰ノ気で、わしのもでっかくなったぞ」
いずこからともなく黒く巨大な腕が現れ、ミズメを鷲づかみにした。
「さあ、おまえも詠うがよい」
改めてこちらへ向けられる手のひら。赤い文字が烈しく輝く。
「生憎、あたしは嫌なことはすぐに忘れる性分でね」
嘯くミズメ。締め付ける指の力が全身を軋ませる。
『わしの言った通りの客じゃったろう。坊主なんぞ、清いのは表向きだけじゃ。摩羅が付いていれば女犯ではないなどと抜かすのだからな』
頭の中で声が響く。遥か昔に、どこかで聞いた言葉。
「記憶は容易く消えぬものよ。折り重なって隠れるだけじゃ。わしを嘲笑った長命の物ノ怪よ。自身の重ねた長き歴史に呑み込まれるがよい」
鬼の顔が闇より浮かび上がる。
ただの卑俗な破戒僧の笑顔が、醜き翁の顔と重なり始めた。
『おまえはその股座のせいで棄てられたのだ。愚かなことよ。陰陽両の性は瑕疵や呪いなどではなく、真人の証だというのに』
蘇る扶養と虐待の記憶。
邪仙の術の験しにされ、市井のもの好きたちに合わせ男役と女役を入れ代わり立ち代わりに熟す日々。
「じじいはお師匠様が縦に裂いて殺したんだよ。記憶に残ってても、もうあたしには手出しはできない」
歯ぎしり。影鬼の笑い声が遠くなり始める。
『おまえを抱いた者たちは全部殺しておいたよ。真人の精は不老長寿の薬となるからのう』
苦痛や快楽の果てには決まって、関係した者の死があった。
――あたしと関わると皆、殺される。
『さようなら、物ノ怪さん。一晩だけでしたが、とても楽しかったです』
『悪人なら殺すんですか? 殺したこと、あるんですか!?』
『さよなら』
親友との諍いが反芻される。
『おまえは永遠にわしの傀儡じゃよ。わしのために生き続けるのじゃ。さあ、憐れな我が子よ、こっちへおいで』
友人と入れ替わりに翁が舞い戻る。
鼻腔が年老いた不快な臭気を思い出す。身体をまさぐり這う枯れ木のような指の感触。
くすぐりと呼吸の湿りけが腿を這いあがり、髭に塗られた髪油が実葛の粘りを跡に残す。
『さあ、精を分けてちょうだい』
――こんな言葉、知らない。あの糞爺から聞いた覚えがない。
『伽ごう、伽ごうぞ。ひとりぼっちのおまえと毎晩伽いでやる。優しいじじいじゃろう? のう、憐れな“梓丸”や』
梓丸。歌うような老翁の声が、棄てたはずの名前と共に頭蓋を反響した。
『アズサマル。アズサマル……』
音の術を繰ろうとも、耳を塞ごうとも消えぬじじいの声。
『翼が生えたわね。今日から私と同じ物ノ怪よ。だから、古い名前なんて棄てちゃいなさいな。あなたはしゃんとしてたら、美男と美女のどっちでも通るんだから。相応しい新しい名前を付けてあげるわ』
影の記憶のなか、光り輝く女の声。
『そうね……ミズメ……水目桜月鳥なんてどうかしら?』
満開の桜を背に微笑む銀嶺聖母。
あの頃の日ノ本は、大陸より伝来した梅が烏梅を求めて挙って植えられ、桜を圧していた。
同じく大陸より海を渡って現れた救い主は、日ノ本に咲く桜花を好いていた。
――お師匠様! ……男女がなんだ。あたしは物ノ怪だ!
陰陽の両方を持つというのなら、闇もまた己の領分であろう。
胎蔵されし宇宙の黒。零れ落ちる羽毛ひとつを嘲笑う。
陰の曼荼羅描けば、星降りの小太刀が応え、やいばは闇の腕を吸い込んで黒い光を放ち始めた。
「わしの術を吸い取ったじゃと!?」
「……そうだ、あたしは物ノ怪だ」
ミズメは黒光りの得物を構え、全身から陰ノ気を吐き出す。烈しき風が黒き羽をあたりに吹雪かせる。
「なんと恐ろしい奴。じゃが、それだけの夜黒ノ気は黄泉神にしか扱えん。そのまま鬼と化し、いずれは我らが母の子へと還るじゃろう」
影鬼は半歩下がるも口を歪ませた。
「あたしの親は銀嶺聖母だけだ。鬼にも成らないよ。ほど良く忘れるのが健康の秘訣だって言ってたからね」
渦巻く邪気の中で天狗たる娘は不敵に笑う。
「殺してやるよ。じじいの姿をしてたのが運のつきだ。八千に切り刻んで臓物も引きずり出して、黄泉のばばあの顔に投げ返してやる」
ミズメは怨嗟の切先を鬼へと向けた。
「なぜ正気を失わん? 記憶から希望を見出したか? それはまやかしじゃ。真実を思い出すがよい!」
額の角がより一層そそり立つ。
『……物ノ怪ってさ、月が満ちると、どうしてこう疼くのかしらね?』
師の問い掛け。
『満月の時だけでいいから、相手をしてくれない? 良いじゃない、私たちは同じ物ノ怪同士だし。長い付き合いでしょう?』
……。
『さあ、その精を分けてちょうだい』
銀嶺聖母と醜き翁の言葉が、重なった。
烈しき闇の力がたちどころに霧散する。翼は背にしまわれ、星剣は闇の輝きを失った。
「……」
ミズメはただ宙をぼんやりと眺める。
「やれやれ、肝を冷やしたのう。今の気を吸い損ねたのはちょいと惜しい気もするが、壊さねばこちらがやられてしまうところじゃった」
影鬼の声が遠く聞こえる。
「さて、あとは巫女の気を夜黒に染めて喰らい尽くしてやるかの。この巫女の気を吸えば、日ノ本どころか大陸をも我が母へ捧げられるであろう」
鬼が手を翳すと、巫女の身体より赤黒い靄が噴出し始めた。
「待たれよ」
男の声がした。
「藤原唯直と……妖しの女か。小娘どもの助太刀に来たのか?」
「我が妻が恩人を放って逃げるのを良しとしなくてな」
タダナオが言った。
「オトリ様とミズメ様には御恩があります。たとえ命が尽きようとも、このかたの腕の中であれば本望」
寄り添うカノトミが言う。
「おまえらごときでは話にならんのう。どれ、女の前で醜態を晒すがよい、藤原千方の末裔よ!」
影鬼の背後から巨大な手のひらが生える。中央には同じく巨大な文字がひとつ。
「カノトミよ、目を瞑っておれ」
「おまえの軽侮と白眼の記憶を詠え。そして、覡國への怨みと共に黄泉路を歩むがよい!」
赤い文字が烈しく輝いた。
「む、何やら不快な記憶が蘇ってくるな……」
タダナオが唸る。
「生ける者はみな、誰しもが心に瑕を抱えるものじゃ。血の鎖に囚われたおぬしには、耐えがたき苦痛じゃろう?」
「ふむ……それほどでもないな。私はいつも不快な過去を反芻し、みずから尾ひれをつけて嘆いておったからな」
「馬鹿な! 我が母の夜増ス影が通用せんのか!?」
鬼がしゃがれた悲鳴を上げた。
「私はとことん後ろ向きであるからな。カノトミに頼まれなければ、戦いに乗じて二人を放って逃げ去る気でいた。今こうして、かつてチカタに仕えたおまえに刀を向けているのも、己の血と戦うためではない。カノトミと共に逃げるために過ぎん」
「なんという捻くれ者!」
「鬼に言われたくはないな。ところで、誰しもに瑕があると言ったな? オンホウよ、おまえにも触れられたくない過去があったな?」
「黄泉の母の子にはそのようなものはない! たといあったとしても、鬼はそれを糧に力を増すのじゃ!」
「ならば、この大和歌を聞くがよい」
草も木も わが大君の國なれば いづくか鬼の すみかなるべき。
「そ、それは憎き紀朝雄の歌。奴はチカタの仇じゃったろうが! 祖先を誅した男の歌に頼るなど、恥知らずめ!」
うわずる鬼の声。
「四鬼揃っておきながら、その歌を聞いただけで尻尾を巻いて逃げたのではなかったか? 黄泉の母もさぞがっかりするであろうな」
「人の身で我らが母の心を語るな!」
鬼の身体が無数の棘を伸ばす。
「タダナオ様、わたくしたちは死ねば黄泉送りでしょうね。執拗く蛇の化生と、陰鬱でみやびやかなる殿方。きっと招かれますわ」
「で、あろうな。伊邪那美に会ったら、オンホウの不手際を告げ口してやろう」
夫婦は愉しげに笑い合った。
ぴたりと止まる棘。
「情けない鬼め。年寄りになっても母離れができぬと見える。私のように立派に逃げてみてはどうだ?」
「不快なやつめ! その女のみ刺し殺して、母に捧げてくれる!」
「ならばすぐに自害だ。自害すれば地獄行きだったろう?」
「地獄は母の領域ではない!」
続く口撃。
「う、うーん……。また、いやな夢を見ちゃった」
――オトリ?
ミズメは忘我より戻り、はたと視線を向けた。巫女の娘が起き上がった。
「しまった、術が解けたか!」
鬼が手のひらを向ける。
「鬼と戦ってたんだった! でも、もう通用しませんよ!」
オトリは得意げに袖で顔を覆った。
「……あれ? 前が見えない!?」
「阿呆が! それではわしは斃せんぞ!」
――寝惚けてるぞ。面白い奴だなあ。
何やら、自分も悪い夢を見ていたようだ。
積まれた書物のごとく長き生。めくれば消えぬ傷痕は確かにある。
しかし、藤原唯直が過去から逃げ続けるのを信条とするなら、水目桜月鳥は現在の喜楽を享受するのが信条。
――あたしはじじいなんかじゃなくって、燕と遊ぶのに忙しいんだよ。
「いち、に、さん……」
ミズメはおもむろに数を数えながら歩いた。
頭の中に住み着いたじじいが去り、夏を告げる鳥が訪ねる。
「貴様、まだ動けたかっ!」
振り返る鬼。
すかさず星降りのやいばが斬りつける。
「ぬるいわ! 萎えた霊気でついた傷など、すぐに塞がる!」
鬼の切り傷を闇が覆い、瞬く間に復元した。
同時に鬼の黒腕が増殖し伸長して迫りくる。
ミズメは翼を広げ空へと逃げた。
「無駄じゃ!」
背後に巨大な影の手がそびえ立ち、行く手をさえぎった。
振り返り下を見れば、鬼は嗤い、赤き印の浮かぶ無数の手のひらをこちらへと向けていた。
だがその背後には、そろりそろりと鬼へ忍び寄る巫女の姿。
「……あっはっは! あたしは天狗だよ。騙し化かしはお手の物だ。それが巫女だろうと鬼だろうと、あたし自身だろうとね!」
闇を背に哄笑ふ天狗娘。
「何を笑っておる?」
疑問を口にしながらも印を発光させる鬼。
「隙ありっ」
巫女が鬼の背を「とん」と叩いた。
鬼は振り返り切らぬうちにその身を真っ白に光り輝かせ、穢き断末魔と共に抹殺された。
「阿呆はあなたです」
腰に手を当て鼻を鳴らす巫女。
「オトリ、平気か?」
降り立ち相方の心配をする。
「ちょっと泣いちゃいました。でも、泣くとすっきりするんですよ」
照れ笑い。ミズメも微笑みを返す。
「ミズメさんは平気でしたか? その……嫌なことを思い出させられたりしませんでしたか?」
「さてね? あたしは二、三歩歩けば忘れるたちだからね」
肩をすくめてみせる。
それでも友人は心配そうな顔で見つめ続けている。
「ありがと。そんなことより、楽しい旅に戻ろう。降りかかる苦難。それを斬り払うは愛の一太刀! ……でしょ?」
「やっつけたのは私ですけどね。ミズメさんは危なかったんじゃないですか?」
溜め息をつく相方。
「そんなことないし! そもそもあんなやつ、目を瞑ってても斬り伏せれたよ。むしろ、オトリが照らさないほうが都合が良かったかもしれない」
「えーっ!? 私のせいですか?」
「そうだよ。オンホウはオトリの陰ノ気を吸って強くなってたんだぞ。最初からあたしに任せてれば良かったの!」
「でも、最初に取り逃したのはミズメさんですよ! 必殺月輪剣! ぶんっ! おや、手応えが無いぞ?」
オトリが剣を振る仕草をする。
「へっ、寝小便たれのくせに」
「あーっ!? なんでそのことを?」
「鬼の術に掛かって自分で暴露してたよ。寝る前にお水なんて飲むんやなかったわー」
げらげらと笑うミズメ。
「あの鬼め! もっと酷い目に遭わせれば良かった!」
巫女の娘は両手で顔を覆った。
「あっはっは! ……ま、振り返ればこれも面白きことかな」
不快な記憶の残滓を笑いひとつで吹き飛ばす。
……。
否、|うそぶく陰陽物ノ怪の胸には、以前よりも大きなわだかまりが残っていた。
「あの、ミズメさん。私、他に何か言ってませんでしたか?」
「ん、他に? あとは旅のことを思い出してたんじゃないかな」
「それなら良かった」
ほうっと息をつくオトリ。
「なんだ、まだ何か恥ずかしい秘密があるの?」
「い、いえ、ありません! あっても内緒です!」
そっぽを向かれる。
「良いじゃんか、教えてよ。あたしの秘密はお師匠様が全部ばらしてるんだからさーっ」
相方を捕まえ揺さぶるミズメ。
「おぬしらも中々の夫婦っぷりだな」
タダナオが笑った。カノトミも追従して声を立てた。
「そ、そんなんじゃありません!」
「そーかなあ? 今だって実質は駆け落ちみたいなもんじゃないの?」
ミズメは里に戻れなくなった巫女を抱きすくめてやった。
「きゃあ! もう、勘弁してください!」
愉しげに悲鳴を上げるオトリ。
――ま、誰しも言えないことの一つや二つはあるってことだね。
闇夜の中、歓楽の中へと不安を隠す。
ふとよぎる師の淫靡な笑いも押し退けて、ミズメは処女をくすぐる仕事へと戻ったのであった。
*****
神代文字……じんだいもじとも。漢字伝来以前に存在したと言われている、あるいはそう主張される文字の総称。定着しないレベルで文字が作られた可能性は否定しきれないが、多くは後世に偽造されたものとされる。
烏梅……梅の実を乾燥させて作ったもの。カラスのように真っ黒で、遥か昔より漢方薬として使われている。
四鬼……
中大兄皇子で知られる天智天皇の治める飛鳥時代、あるいは平安時代に伊賀国にて朝廷に抗っていたという藤原千方の操った鬼。金鬼、水鬼、風鬼、隠形鬼の四匹。
伝承によっては水隠の二匹が土鬼、火鬼になっているものもある。紀朝雄の和歌により退散した。




