化かし053 物怪
一行は黄泉路の再封印を終えて、ようやく紀伊山地を出た。
一旦北東へと足を向け、辿り着いたは伊賀国が伊賀郡。
この地は都や旧都に程近く、加えて東海道の駅路の最西端を頂く重要な地である。
しかし、古来は大王時代の国造の一族により治められており、今となっては寺の坊主たちが荘園の版図を書き換え合う地であり、貴族の力の及びづらい歴史の長い地となっていた。
「このまま北に抜けられればと思ったけど、北のほうにも結界の気配を感じるわね」
山頂より北方を睨む銀嶺聖母。
「また結界かあ。結界の外のほうが身体が軽くて良いんですけど」
オトリが溜め息をつく。
「畿内や紀伊は、陰陽師や山伏が勝手に結界を張って回ってるからね。伊賀の大半は大和の寺の派閥が掌握してるはずだから、結界もなさそうなんだけど」
ミズメも指で丸を作り北を睨む。
「旧都上がりの寺坊主だからって書物や権力に呆けてるとも限らないけどね。翼がしまえなくなった私としては、結界の強そうな阿拝郡に入る前に東から迂回したいんだけど」
「丹後国から遠ざかっちゃうよ。それに山ももうひとつ余分に超えなきゃいけないじゃん。そこまで遠回りするなら、最初から海まで抜けて海産物で一杯やってれば良かったね」
「私はどっちでも構いませんが、ずっと人里から離れてたので、そろそろ屋根の下で眠りたいかなあと」
意見が割れる旅人たち。
「じゃあ、ここで一旦、二手に別れましょうか。私は翼で空を行って鳰の湖を東側から迂回して天橋立へ向かうから、あなたたちはこのまま北へ突っ切りなさいな」
銀嶺聖母が提案する。彼女は相変わらずその背に負った白翼を隠せないでいた。
紀伊山地にて人に見咎められたさいには、天女を名乗る策を何度か試みていたが、功を奏したのは五分以下であった。
「山姥扱いされるのも飽きたのよね。空をそのまま行くと私が早く着いちゃうから、面白い神器とかが隠されてないか気配を探りながら行くわね。あなたたちは人の噂を当たって頂戴。急いでどうにかなるものでもないし、この前の幽霊話みたいに何が結びつくか分からないから、いつも通り善行や寄り道をしてってくれても構わないわ」
「なんだか心細いです」
オトリが言った。
「紀伊まではふたりで旅してたじゃない。……といっても私も心配だから、これを渡しておくわ」
ギンレイは白い紙を懐から取り出した。
兎の形をしたものと、蛙の形をしたものがそれぞれ二枚。
「神気を感じます。もしかして識神ですか?」
「これは“剪紙成兵術”と呼ばれる仙術の一種よ。陰陽師の紙を使った識神の原型となった術ね。識神のようにも扱えるけど、少し仕掛けがしてあって、仙気を込めた者が遠ざかると神に込められた気配が弱くなるようになってるの。千里眼もある程度近付かなきゃ見えないし、合流するさいにはこれがお互いの距離の指標になるはずよ」
ギンレイが兎と蛙の片割れを手渡す。
「オトリちゃんはうさちゃん。ミズメは蛙ちゃんを持っててね。ちょっとやそっとのことで燃えたり、濡れて駄目になったりはしないけど、もしその紙兵に何かあったら、こっちの紙も朽ちるから、その時は人目もはばからず飛んで駆け付けるわね」
「そちらの紙が朽ちたときは?」
オトリが訊ねる。
「その時はあなたたちの持ってる紙が朽ちるわ。ま、私に万が一のことでもなければ平気よ」
「そうですか。大切にしますね」
オトリは紙切れを帯のあいだに仕舞い込んだ。
「お師匠様は殺しても死なないような人だから平気だよ」
ミズメは笑って適当に懐に突っ込んだ。
「そういうことを言うとかえって縁起が悪いですよ」
巫女が咎める。
「じゃ、また後日会いましょう」
銀嶺聖母は白い翼を広げて飛び去って行った。
「……さて、お師匠様も居なくなったことだし、今日はどこかの村に屋根を借りようか」
「そうですね。この先にはお坊さんが多いんでしたっけ? ミヨシ様から貰った許可証があっても、お仕事自体がなさそうですね」
「本物の聖は土地争いなんてしないから、仕事がないとは限らないけど……。活動するにしても、南都派の領地じゃ都の許可証は弱いよ。なんとも痒いところだね。南都だけにね」
「痒いといえば、その……少しお時間を頂けませんか? 近くに良い感じの滝の気配があるんですよ」
「滝? いいよ、水垢離かい?」
「はい。ギンレイ様って水浴びをしてると覗かれるので、身体の手入れもできてなくて、なんだか最近痒くなってしまって」
首の後ろに手をやるオトリ。
「そうだね。あたしは釣りでもして暇潰ししてるから、ゆっくり浴びてくるといいよ」
ミズメは独り沢に立ち、清流に釣り竿を垂れ始めた。
たまには独りで山河を相手に呆けるのも悪くない。
……などと思っていたら、すぐに相方が戻ってきた。
「水浴びはもうおしまい? 遠慮しないでのんびりしてきなよ」
「そうじゃないんです。滝になにか、物ノ怪らしきものが居て」
「追っ払えば?」
「なんだか様子が変なんです。邪気も薄いですし、一緒に様子を見てくれませんか?」
さてはて、なんであろうか。オトリに連れられ滝へと向かい、茂みより様子を窺い見る。
轟音と共に流れ落ちる清水。滝の作る霧は遠くからでも胸が空くような水の香りを漂わせている。
そして、滝壺には榛色の蛇の姿があった。
武士の腕ほどもある大物で、半身を水上に出して鎌首を垂れたまま、池をぐるぐると旋回している。
「綺麗で立派だね。滑の仲間で無毒だよ」
「蛇は蟲の仲間なので苦手です。半々で水場の神様か性悪な物ノ怪ですし、下手に手出しもできなければ、放っておくこともできないので面倒です」
ミズメは気配を霊視するが、神気もなければ邪気も大して感じない。素の霊気だけは大蛇らしく尋常の域を越えてはいたが、術を覚えた狐狸のほうがましな程度である。
「無害そうだし、放っておいたら? 霊気からしても物ノ怪未満だし、滝壺の主かなんかじゃない?」
「空気に神聖な気配はするので、滝の神様自体は別に存在していらっしゃると思うんですけど……。もしも、あの蛇が水場に何かするつもりなら問題です」
蛇はずっとぐるぐると回り続けている。
「まあね。物ノ怪ってのは力をつけた途端に煩悩に負けるものだから。手ごわい相手でもないし、とりあえず近付いてみなよ。滝や蛇の精霊は水分の巫女の領分でしょ?」
「うう。そうなんですけど、やっぱり苦手だなあ……」
中腰になるも茂みから出ないオトリ。
「ありゃ、様子が変だぞ」
泳いでいた蛇が空に向かって大口を開けて、全身を震わせ始めた。
すわ呪術かとふたりは身構えるが、邪気は醸さず、どうも蛇は苦しんでいるように見える。
水がふいに泡立ちはじめ、清浄な気色を持った白霧へと変じ、蛇の姿を覆い隠していく。
そして、霧の中からひとりの美しい女性が現れた。
一糸纏わぬ裸体。女は恥じる様子もなく自身の身体のあちこちを覗き込むと、艶やかに口を歪ませた。
「気配が少し妖しくなった。たった今、物ノ怪に成ったんだ」
ミズメは声を上げる。本人も物ノ怪であり、数多の物ノ怪と関わりを持ってきたが、月山の住人以外で実際に物ノ怪に変じる瞬間を見たのは初めてであった。
「どうして人間の、それもあんな若くて綺麗な女性に? ひょっとして、男のかたを狙う気じゃ」
オトリは頬を染めて、視線を女へ釘付けにしている。
「蛇なら十中八九そうだろうね」
女は滝壺を身をくねらせて泳ぎ、岸へ上がると滝のほうへ向き直り、一礼をした。
「やっぱり、物ノ怪だ」
オトリの声が固くなった。
「悪者とは限らないよ」
「神聖な気配は滝から動いてない。あの蛇は、神様でもお使い様でもありません!」
巫女は飛び出した。
「ちょっと待ちなって」
ミズメはすかさず巫女の袴の帯を引っ掴んだ。
帯がほどけて袴がずれ、オトリは顔面から地面へと突っ込んだ。
「ぎゃふん!」
愉快な悲鳴が上がる。
すると蛇女がこちらに気付き、彼女もまた逃げようとしたが転倒してしまった。
裸体を土の上でくねらせ、這って逃げようとしている。
「何するんですか!」
「あの蛇、物ノ怪に成ったばかりで人の身体の動きに慣れてないよ。今なら童でも退治できる相手だ。それより、礼をしてた相手は水の神様なんじゃないの?」
早とちりは相方の悪い癖である。
オトリは反論せずに立ち上がると自身の袴を直した。
「とりあえず、話を聞いてみましょう」
裸の女に近付くと、彼女は蛇らしい警戒音を喉から鳴らした。
ミズメが人語が分かるかと訊ねると頷き、オトリは水へ手を入れて穢れてないことを確認した。
すると、どこからともなく霊声が響いてきた。声の主は勿論、滝の神である。
滝神曰く、この蛇はこの滝の周辺で生活をしていたなんの変哲もない大蛇であったという。
雌の大蛇……“辛巳”はこの滝がお気に入りで、悪事も働かないために滝神とも折り合いよく暮らしていた。
しかしある時、この場所を気に入った別の存在が現れた。
人間の男である。
狩衣に烏帽子。腰には太刀。身分のある男であろう。彼は夜な夜な滝へと現れて、大和歌を詠んだり、笛を吹き鳴らしたりした。
滝神も彼を拒まず、カノトミもまた男の雅やかなる所作を陰からこっそりと眺めていた。
毎夜毎晩、誰へともなく披露される静かな宴。
「私は次第に彼に憧れるようになりました」
蛇女が言う。
その想いは彼女を突き動かし、人里まで出向ませ、男の姿を探させたり、人々の言葉を学ばせたりした。
決して村の奥までは踏み入らなかった。だが、村の付近を通る者の中には男の姿は見つけられなかった。
男の帰りを追うにしても、深夜の山道を大蛇の自分がつけ狙うように続くのは気が引ける。
仮に追ったとして、そのあとどうしようか。姿を現せられるはずなどない。
蛇は胸を患った。
想いは募り、とうとう男を一目見たさに、昼間の人里へと侵入してしまった。
大蛇が人里に現れたとなれば混乱を呼ぶ。カノトミは村民から鍬の一撃をお見舞いされ、命からがら滝まで逃げ帰った。
ところが、まだ陽が沈まぬ時分だというのにくだんの男が居た。
運が悪いことに、大怪我に気取られていた彼女は彼の前に姿を曝してしまった。
男は驚き、太刀へ手を掛けた。
「傷は深く、苦しみ誰かを恨んで死ぬくらいなら、いっそあのかたに斬られて果てたほうが幸せだと思いました」
しかしそこはみやびやかなる男である。彼は太刀から手を離すと、滝の水を借りて彼女の傷を洗い清めた。
『われはそんな男の慈悲に心を打たれ、カノトミを癒してやった。本来なら、人里に近付く禁を冒して叩き殺されても、それは自然の理であったのだが』
「わたくしはあのかたにお礼を申し上げたく、滝神様にお願い申し上げて人の姿にして貰う約束までしていただいたんです」
『この近隣の僧や住民どもは土地争いに夢中で信心が足らぬ。ゆえに、われの力も微々たるものである。こやつの力になってやりたくとも、独力では不足。ならば本人の霊力を高めるべきと考え、この滝壺で行をさせておったのだ』
「そして念願かなって、とうとう人の姿に成れました。これでようやくお礼が言えます」
蛇女が微笑む。
『お礼などと白々しい。おまえはあやつと結ばれたいんじゃろうが』
神の呆れ声。
「そ、それは禁忌でございます。蟲ごときが人の領域に踏み込んではなりません。滝神様のご加護に与りながら、そのようなよこしまなことを考えたりなどは決して……」
『そうか? それは残念じゃ。必要かと思って、わざわざ人間の美女の姿を与えてやったというのに』
「気前のいい神様だねえ」
ミズメが笑う。
『そうとも言えぬ。もしかしたら、かえって残酷なことをしたやもしれぬ』
神の声が重々しくなる。
「それはどういうことでございましょうか?」
蛇女が訊ねる。
『われの力は不完全じゃ。おまえを人の身に変えるだけでも精一杯で、衣すらも与えてやれなんだ。まして、いのちの最大の神秘である機能は、元の蛇のままじゃ』
「つまりは、人間の赤ん坊じゃなくて蛇の卵を産むってことか」
『恐らくは。思いを遂げられるかはカノトミと男次第であるが、長く共に暮らせば、いつかは正体に気づかれることとなる。そうなれば、悲惨な結末を辿ることとなるであろうな』
「ここまで御膳立てしていただいたのです。たとえ一夜限りの契りで徒臥すことになりましょうとも、わたくしはこの生と滝神様へ感謝をするでしょう」
女は表情を引き締めて言う。それから、滝へと礼を繰り返した。
「……ってことらしいよ、オトリ。ここは共存共栄ってことで、放って置いてやりなよ」
よくある蛇女房の話だ。蛇や狐は色情の強い生き物である。
ゆえに邪気により物ノ怪に変じやすく、人間と恋仲に陥る話も珍しくない。
「駄目ですよ」
オトリの顔は厳しい。
「おいおい。ふたりの仲がどうなるも、男が騙されて後悔するかどうかも、当人同士の問題だ。オトリが先走りそうになったのと一緒に水に流そうよ」
「そんなわけにはいきません! ……カノトミさん!」
オトリは女の手を取った。
「私たちが、あなたが想いを遂げられるようにお手伝いいたします!」
巫女の娘はカノトミへ齧りつくように言った。
「どういう風の吹きまわしだよ」
「だって、だって、だってだって!! 素敵じゃないですか! こんな一途に誰かのことを想うなんて! 色恋に、人も物ノ怪も関係ありません!」
『おお。霊験のありそうな巫女が手伝うというのなら、われからも頼みたいな』
滝神が言う。
「はい、滝神様。よろしくお願いします! 私は水分の巫女の乙鳥と申します。乙女の乙に、空を飛ぶ鳥の鳥と書いてオトリ。水の難事と恋の難事なら、是非とも私に任せてください!」
鼻息が荒い。
「よ、よろしくお願いします」
蛇女は恐る恐るである。
「あんたも、ちょいと面倒なことに巻き込まれたかもね。人間ってのは面倒だよ。とりわけ若い男女の仲なんてね。もしかしたら、蟲や獣で我慢しておけば良かったって思うかもしれない」
「でも、憧れて……いいえ、好きになってしまいましたから」
蛇女は苦笑する。
「そうですよミズメさん。なってしまったものはしかたありません!」
「物ノ怪嫌いの蟲嫌いがよく言うよ」
溜め息をつくミズメ。
「駄目ですか?」
相方の乞い顔。
「仕方ないから付き合ってやるよ。人間の男すら駄目な物ノ怪嫌いが、蛇の色ごとに手を出すなんてのは心配だからね」
などと言うも、内心では面白いことになったと考える。
「失礼ですね。私だって、誰かを好きになったり、鳥になりたいなって思ったりはします。“ひと”の想いというものは、簡単には止められないものですよ」
そう言って巫女の娘は笑った。
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伊賀国……現在の三重県北西部。伊賀郡はその中でも南部、阿拝郡は北部に位置する地。
徒臥す……別れてひとりぼっちで寝ること。




