化かし050 龍脈
「鬼が出るか、蛇が出るか。お姉さん頑張っちゃうぞ~」
腰に手を当て黄泉路を見下ろすギンレイ。
くさき狂い風が巻き起こり、赤黒き靄があたりに吹きこぼれる。
悪しき雲を掻き分けて現れたのは、八尋の長き胴に八尺の二本の髭、剣のごとく鋭き爪の手足を持ち、鎧の如き鱗肌をまとい、翼も無く空を駆ける不思議の生物。
すなわち、龍である。
赤黒き龍は天へと立ち昇ると、不気味な咆哮を轟かせた。
「どうして龍が黄泉國から? 水を祀る尊い神様のはずなのに!」
天を仰ぐ水分の巫女。
『吾が名は闇御津羽。黄泉の女を弑いし炎の息子の血より生まれし者なり』
邪気を炎のごとく纏う龍が名乗る。
「既視感を感じるね。神様の名前を騙ってる偽者じゃないの?」
ミズメはいつぞやの蜈蚣どもを思い出す。
「ち、ちちち違いますよ! 確かに邪気を纏っていらっしゃいますが、あれはどう見ても龍神様です。龍神様は水を祀る神様なので、私は手出しができません!」
なんと珍しくオトリが魔物相手に腰を抜かしている。
「龍って震旦じゃ珍しくないのよね。蜈蚣みたいに縦に割いてあげるわ」
『神に挑むか。小さき物ノ怪よ。吾の火之夜藝焔を受けるがよい』
龍が巨大な顎を開く。
人間を容易く一飲みにできそうなほどの口腔から燃え盛る火炎が噴出し、瞬く間に翼の女を包み込んでしまった。
「ギンレイ様が!」
声を上げるオトリ。
「あのくらいなら平気でしょ」
龍は初見であるし、化け物染みた術師である相方が腰を抜かす相手ではあるが、師への信頼は揺らがない。
焔の巻き起こす熱い風がぴたりと止んだ。
劫火の中から女が涼しい顔をして現れる。かざした手のひらが炎を吸い寄せて消し去った。
「あなたが居たせいで鉱脈が上手く探れなかったのね。でも、龍にしては、やけにしょぼい炎ね。もう少し汗が掻けると健康的なんだけど」
龍を煽るギンレイ。
『侮るなよ』
睨み龍。またも大口が開かれるが、今度は炎を吐かずにそのまま飛び掛かった。
しかし女は白翼ひと扇ぎでひらりとかわす。
龍はしつこく追いかけ丸呑みを狙い続ける。時折、火炎放射を交えての烈火の攻勢であるが、翼の女はそのたびに炎を腕に搦めとって掻き消してしまう。
「水の神様なのに火ばっかり噴いてるね?」
「見た目が龍なだけで、水の神様じゃないのかな……? ギンレイ様も反撃なさらないようですし、私も手伝ったほうがいいのかな?」
「まあ、見てなって」
ミズメが見るに師に焦りはない。
燃える龍がギンレイの頭上を取り、太陽と重なった。真夏のような熱気。
「火を剋するは水」
道士が呟くと、霞がかった地表から龍へ向かって谷中の空気が流れ始める。
巻き上げられた水気が無数の氷の礫へと変じ、さかしまの雹の嵐が龍の身体を烈しく叩いた。
「すごい! たった少しの気だけで風と水を操った!」
「風水術は自然の理と地中の気の流れを最大限に活用するんだよ」
と、師が言っていた。ミズメは理屈ばった術の使いかたはあまり得意ではない。
『効かぬわ!』
龍の目が妖しく光り輝き、八尋の胴体で陰ノ気が蠢く。
龍の練気に応えたか、黄泉路から零れていた赤黒い靄が空へと巻き上がり、不気味な色の雲を創り出した。
「雨でも降らす気? 私、雪のほうが好きなのよね」
道士は手のひらを天にかざした。
「あら? 雨じゃないわね」
雲が生んだのは龍神の祈雨に非ず。潤う水とは真逆の渇きの焔。
「やっぱり邪神だわ! 冬の山で火の雨を降らすなんて!」
オトリは霊気を練り始めた。地上に居る者の頭上で光が点滅し始める。
「結界を張ります。皆さん、大丈夫ですか?」
血筋の結界が谷を包んだ。内側に入り込んだ火の粉までは防ぎきれず、ナムチの人々に襲い掛かった。
「あちっ。……まあ、鍛冶場の火の粉みたいなもんじゃ」
「大したことねえな」
彼らは単眼こそは閉じて護っているが、特に逃げるそぶりは見せない。
「あの龍。馬鹿みたいな邪気の量と見掛けの割に、火勢は微妙だね。山伏や真言坊主のほうが強い火を扱うよ」
「なんだか、私でも斃せそうな気がしてきました。でも、この状態で水気を借りると火事になっちゃうかな……」
「まあまあ、見とこうよ。お師匠様はなんか手加減してるみたいだし」
龍は相変わらず、がむしゃらな突撃と火炎放射を繰り返している。
ギンレイは何度か回避すると、何か思いついたのか、こちらに向かって手を振った。
「オトリ、この結界のせいで音が聞こえない。お師匠様が何か言ってるんだ」
ミズメが促すと結界が解かれる。
「ちょっと、封印の土を借りるねーっ!」
ギンレイがそう叫び、穴へと手を翳した。
穴の周囲に漂っていた赤黒い靄が盛り土の中に吸い込まれて行った。
「黄泉の邪気を操った!?」
オトリが声を上げる。
邪気を吸った土は意思を持ったように盛り上がり、龍のごとくに連なって天へと昇り始めた。
『……』
火龍の前に現れる土の龍。……とはいえ、ただの土塊であり、その体躯も比べるまでもなく貧弱である。
「お行きなさい」
道士が命ずると土の小龍が飛び掛かった。
黄泉の邪龍は大きな身をよじってそれをかわす。
「大して気も込めてない雑魚なんだけど、どうして避けるのかしらね~?」
仕返しとばかりに、土塊に突撃を繰り返させるギンレイ。
龍はそれに触れるのが嫌なのか、八尋の巨体を忙しなくひねって回避をし、首を苦しげに曲げて火を噴きかけている。
「土が剋するのは水。クラミツハさん。あなた、本来は水の相の持ち主でしょう?」
道士が問い掛ける。
『……吾は黄泉の女を弑いし炎の息子の血より生まれし者なり。吾はあの女の眷属だ』
名乗りを繰り返す龍。
「矜持の高い龍にしては頑張った回答ね。ごめんね……一旦死んでちょうだいな、水神様!」
刹那、世界が静止する。龍が動きを止め、火の雨がやみ、土塊が地に落ちた。
谷に積んでいた雪が浮き上がり、細氷となり礫の嵐を巻き起こす。
霧氷は女の頭上に集まり、透き通った“巨大な何か”を形成してゆく。
生まれいずるは氷晶の柳葉刀。
「羞花閉月、沈魚落雁、美しき銀嶺の技の前に散りなさい」
懐から取り出される扇子。
『氷など溶かしてくれるわ』
龍は直ちに全身に赤黒い炎を燃え上がらせる。
ギンレイが扇子が開くのと同時に、巨大の氷刃が独りでに龍の頭へと振り下ろされた。
黄泉の炎と仙気を孕んだ氷がぶつかり合う。
『炎は氷を溶かす。溶ければ水。水は吾が領分なり!』
咆哮をあげる龍。炎は一層猛り狂う。
しかし、氷のやいばは無慈悲に龍の頭をかち割り、その胴体の中ほどまでを二つに割いてしまった。
「柳と龍を引っ掛けてみました……なんてね。龍の開きって、おいしいのかしら?」
道士の女はにこりと笑って扇子を仰ぐ。
邪龍は悲鳴すらも上げずに鎮火し、氷のやいばを身体に引っ掛けたまま地面へと落下した。
「さすがお師匠様。一撃だったね」
気分良く師を見上げるミズメ。
「何かを調べながら戦っていらしたようですけど、本当はあの邪龍、龍神様だったんじゃ……?」
オトリは死んでしまった龍の亡骸を見上げる。
「水分の巫女ちゃん、正解。このクラミツハは水を司る龍神様よ」
ギンレイが降りてくる。
「分かってらしたんですか!? 龍神様を殺してしまっては、このあたりの水に何が起こるか分かりませんよ!」
「そんなに怒らないの。どうせ近所の龍じゃないわよ。ミナカミ様の里に近いんでしょう?」
「よその龍ならよその地の水に影響があります!」
「水の神様の特技を知らないわけないでしょう? 龍にしたって蛇にしたって、気が残ってればまた蘇るわよ」
「そ、そうでした。でも、こんな邪気まみれじゃ」
龍の死骸が泡立ちはじめ、赤黒い霧へと変じてゆく。
「肉を失った今が好機よ。オトリちゃん、ありったけのお祓いをお願い」
「そんなことをしたら完全に神様が消えてしまいます!」
「ほれほれ、放っておくと、邪気に毒されてナムチさんたちが神様から鬼になっちゃうわよ!」
煽るギンレイ。ナムチたちも火の粉の時とは態度を変え、穢き濃霧の中で頭を抱えて悲鳴を上げている。
「……どうなっても知りませんから!」
巫女は歯ぎしりと共に両袖を振り上げた。瞬く間に激しい光が周囲を白く染め上げる。
「流石ね~。身も心も健康になっちゃいそう」
光の中、神を殺した女が宣う。
浄化の光が消えると、あたりは平穏を取り戻した。
靄も晴れ、谷に残っていた雪も解け、禍々しい龍の死骸も見当たらない。
「邪龍が斃されたようじゃ」
「魂消たなあ。ご先祖様はあんなのを鬼と呼んでたのけ」
ナムチたちも無事のようだ。
「あれは本当に邪神だったのかな、ただの荒魂だったとしたら……」
巫女は陰鬱な表情で地面の窪みを見つめている。
「オトリ、あれを見てみなよ」
一方でミズメは空を見上げていた。
天は未だに平穏に戻らず。
赤黒き靄と、白く清廉な霞が渦を巻いている。
陰陽二色の気配に合わせて腕を振っているのは風水の道士、銀嶺聖母である。
「なかなか美味しそうな陰ノ気ね。巫女の気と交換しましょ!」
ギンレイはそう言うと、胸を膨らませて空気を吸う仕草をした。
天に渦巻いていた邪気がそれに寄せられ、彼女の口の中へと入り込んでいく。
「龍の開きは結構いけるわね」
袖で口を拭う物ノ怪。
「黄泉の邪気を吸った! 物ノ怪の身だからって、そんなことをしたらどうなるかわかりませんよ!」
「気にしない気にしない。それより、空を見てみなさい」
ギンレイが指差す先。取り残された白い霞が集まり、なんと小振りな龍の姿を形作った。
『滅されたかと思ったが……』
白き龍が口を開く。
「あなたが再生するときに、あの子の祓えの気と黄泉の邪気をすり替えたのよ。気分はどう?」
『良い。ようやく凶目き、汚穢き、常秋の鎖より解き放たれた。冬を越えれば再び春の嵐を呼べるだろう』
「さすがに元の大きさとはいかないけどね」
再生した龍は人の背丈ほどの体躯になってしまっている。
『また信心を集めれば身体は伸びる。邪気を操る仙女よ、礼を言おう』
「どういたしまして。ところで、どうして黄泉の穴にはまっちゃってたの? 穴があったら突っ込みたくなるくち?」
『この地は古来より金の毒気が土に多く含まれている地であった。この地の者は土を掘り過ぎる。精霊の流れが変われば、土より流れ出した毒が水を穢すのではないかと気になって調べに来たのだ。そこへ黄泉の女の手が現れ、吾を引きずり込んだのだ。以来、邪龍に身を堕とし、千年もの時を地中にて暮らしていたのだ』
「わしらが封じていたのは水神様じゃったんか」
ナムチが言った。
『吾は穴の底で眠っていただけだ。穴よりいずる鬼は生まれながらにしてあの女の眷属であり、この穴も自然の理を曲げてでも封じる必要のあるものだ。おぬしらはこれまでどおり任を果たすがよい』
「じゃあ、早く塞がないと鬼が出てくるのは変わらないんだね」
ミズメが言った。
『吾は旱魃に喘ぐ地を求めて旅立たねばならぬ。ともかく、口先だけになって済まぬが繰り返し礼を言わせてくれ』
龍はもう一度礼を言うと、澄んだ気配と共に昇竜し、その姿を消した。
「ね、お師匠様は凄いでしょ?」
ミズメはオトリに笑い掛ける。
「で、でも邪気を吸ってしまわれました。あんなに濃くて酷いにおいの瘴気を。一体、何者なんですか?」
巫女の娘は震え、恐怖のまなざしを向けている。
「ああいうのは昔からやってるところ見てるけど、別になんともないみたいだよ。封印でもしてるんじゃない?」
肩をすくめるミズメ。
「私は仙人のなりそこないの鳥の物ノ怪よ。それに、邪気は封印したんじゃなくって“喰った”の。これは……えーっと、“飲精健康法”よ。良薬は口に苦し。陰陽師だって陰と陽をすり替えられるんだから、気にすることじゃないわ」
ギンレイは真顔で言う。
「そうなんですか? ……それだったら、あらかじめ説明いただければ、さっきの十倍は祓えの気を練れたのに。信じ切れなくて手加減をしてしまいました。ちゃんとすればあの龍神様ももっと立派な姿で転生できたはずなのに」
巫女の愁眉は解かれない。
「済んだことは気にしても仕方ないわよ。それに、力の弱い神のほうがありがたみが染みるものよ。信心の欠けた今の時代なら尚更ね。オトリちゃんは相変わらず頭が固いわよ」
「結果的には良い形で解決したじゃんか。お師匠様だって、最初から龍を斬ることはしなかったんだし、共存共栄を考えてのことだよ」
「そう言われればそうかもしれませんけど、私には場当たりで適当にこなしてるように見えたもので」
オトリは声の調子を落とし、しばらく黙ったあとに「ごめんなさい」と呟いた。
なんとも言えぬ沈黙が流れる。
ミズメは頬を掻き、ナムチたちも顔を見合わせた。
「ま、実際は適当だったけど。思いのほか、すぱっと斬れちゃったもんで、あっ、やっちゃったな~ってね」
物ノ怪の女が何か言った。
「ギンレイ様!」
怒鳴るオトリ。
「あはは、怒ったね。一つ忠告しておいてあげる。一所懸命にやったって、上手くいかないことだってある。その逆だってもちろんある。結果の如何に関わらずに難しく考えてしまうようだったら、魔や穢れを祓えても、あなたの心が晴れることはないわよ。これから先も巫女を続けていこうと考えてるなら、執着せずに通り過ぎることも覚えなさいな」
ギンレイはそう言うと、穴の前へと戻り、龍の現れる前と同じように胡坐の姿勢に戻った。
「……分かってますよ、そんなこと。でも、上手くできないから困ってるのに」
「元気だしなって。あたしはオトリが一所懸命なのは好きだよ」
励ますミズメ。相方の肩に手を掛ける。
……が振り払われてしまう。
「弟子が弟子なら師も師です。もっと尊敬できる人だと思ってたのに」
オトリは毒づくと、ギンレイが散らしてしまった土塊に手を当て、元の位置に戻し始めた。
――あーあ。
溜め息と共に空を見上げるミズメ。
日は天を叩き、暖かな光を注いでいる。
冬の山にかぶさっていた雪や靄はすっかりと消えていたが、彼女たちのあいだには黄泉路のごとくの穴が放置されたままであった。
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柳葉刀……湾曲した幅広の刃を持つ中国刀。ときおり青龍刀と混同されるアレ。




