化かし005 正体
翌朝、ミズメは目を醒ますと健康体操を行い、赤ん坊に食事を与え、昨晩の談笑を思い出しながら羽根をいっぱいに伸ばして朝日を受けた。
一方でオトリは、陽が顔を出し切って随分と経っても寝息を立て続けていた。
きっと疲れが溜まっているのであろう。口の端から涎なんか垂らしてすっかり油断顔である。
その様相に満足したミズメは、巫女の娘を起こさないようにそっと庵から飛び立った。
ひと山越え、くだんの受領の管理する荘園を見下ろす。秋の刈り入れはすっかり完了しており、早起きの子供たちが籠を背負って駆けているのが見えた。
村に降り立って幾つかの家を訪ねると、二日前の晩に「野盗に赤ん坊を殺された」と同情を得て回っている女が居たことが判明した。
それから藁打ちをしている男のそばで殺賊との邂逅を語る女を見つけだし、連れて来た赤ん坊を突きつけた。
赤ん坊は愉しげに笑い、その女に向かって手を伸ばした。
だが、女は「知らない赤子だ。おらの子は殺されんだべ」と冷たく言い放った。
しばらくのあいだ、押し問答を繰り返したミズメと女であったが、それを煩がった藁打ちの男が立ち去ると、女のほうが声を荒げて「余計なことをするな。厄介なのが居なくなってようやく身軽になったのに」と怒鳴った。
ミズメははらわたが煮えくり返る思いであったが、女には愛を注げぬ子を育てるほどに暮らしに余裕がないことは百も承知であった。
正しき庇護を受けれた子供でさえ、事故や病気で亡くなることが珍しくないのだ。
特に、この地では受領が余計な胤を撒いて回っているせいで、闇に堕ちた赤子の御魂を何度も見ていた。
出産ですら命懸けなのだ。再出発の機会を得た元母親をこれ以上非難する気は起きなかった。
子は、七つまでは神のうち。
――もっとも、それは疫病神だったり、人間じゃないって意味だったりするけどね。
立ち去った母親を恋しがる赤子を抱きかかえながら、ひとつだけぽっかりと浮かんだ雲を見上げる。
さて、言いわけはなんとしようか。赤子の処遇自体については、始めから“別の当て”もあった。
問題は、オトリに向かって胸を叩いて「任せろ」と言ったのにしくじったことだ。せっかく得た信用が崩れてしまうかもしれない。
「ま、いいや。正直に話せば平気だろ」
ミズメは二、三歩行くとけろりと表情を変え、鳶色の翼を広げ、赤ん坊に何ごとか話し掛けながら空へと舞いあがった。
湿っぽいのは好みではない。行き当たりばったり。人生はそのほうが面白い。長生きには、こつがある。
人生、苦しいことや哀しいことはいくらでもあるもんだ。それをいちいち拾い集めていたら、いつか本当の魔物や鬼に成ってしまうでしょう。
共に酒を酌み交わしながら話した、物ノ怪の子弟の座右の銘のようなものだ。
隠れ家に戻った頃には、すでに太陽は天を叩いていた。
ところが、オトリはまだ横になったままだった。
腹を空かすだろうとこしらえてやった麦の握り飯も置きっぱなし。
体調不良かと心配して覗き込むも間抜けな寝顔。
涎の染みも水溜まりから池へと発展していた。なるほどこれも水分の御業か。
「おい、オトリ。いつまで寝てるんだ?」
足先でオトリの肩をつつくミズメ。
「うーん……伯母さん、あとちょっとだけ……」
巫女の娘は背中を丸めて起床を拒否した。
「誰がおばさんだ。話したいことがあるんだけど」
赤ん坊を娘の頭の上に乗っけてみるも無反応。
「起きろっ!」
袴に覆われた尻を平手で勢いよく叩いてみる……が艶っぽい声が上がったくらいで、起きる気配はない。
「なんて寝穢い奴なんだ!」
ミズメはがっくりと肩を落とした。
これでよく長旅なんてできたものだ。若い娘が屋根を借りたり野宿をすれば、危険な事態の一度や二度はあっただろうに。
「陽が沈むまでに赤ん坊を別のところに連れていきたいんだよ。さっき飛んでたら、向こうの空に黒雲が見えたんだ。季節と風の流れ的に少し荒れるかもしれない。そうなったら、この屋根に穴の開いた曲げ庵じゃ困るんだよ」
事情を語る。しかし、オトリは未だにむにゃむにゃとやっている。
面白い奴を通り越して、ミズメは少し腹立たしい気分になってきた。
「いい加減にしろよまったく。こいつ、雷が落ちても起きないんじゃないか?」
「か、雷!? 勘弁しておくんない!!」
オトリは悲鳴をあげて飛び上がった。
「おはよう。あんた、雷が苦手なの?」
「お、おはようございます……」
きょとんとした顔で首を傾げる巫女の娘。
ミズメは寝穢い娘をやっとのことで起こし、急いで身だしなみを整えさせ、赤ん坊と麦飯を押し付けた。
秋の天気は変わりやすい。小屋の隙間から漂ってくる風の湿り気から嵐の気配を感じた。
赤ん坊の母親が引き取りを拒否したことを伝えると、オトリは憤慨し、見放された赤子のために涙を見せた。
ミズメは“代わりの当て”のところへ行くからと、雨ざらしにするには惜しい品をいくつか手に取り、“どこへともなく”仕舞い込んだ。
ふたりが向かう先は、天狗たる娘の師匠の住まう山。“月山”である。
この地からも遠方に拝むことのできる、なだらかながらも高く聳える深緑の山脈。月齢がもう一巡もすれば、頂きは真っ白に着飾ることだろう。
その山の中腹に位置する高原に、師匠とミズメの弟弟子や子分の暮らす地はあった。
「ミズメさんのお師匠様が赤ん坊の面倒を見てくれるんですか?」
道を行きながらオトリが首を傾げる。
「正確には、お師匠様は後見人かな。養育自体は得意な奴が居るからそいつに任せるよ」
「ふうん。子育ての得意なかたもやっぱり物ノ怪ですか?」
少し棘のある物言い。
「そうだよ。本当は子供以外の人間を山に連れ込んじゃ駄目なんだけど、オトリならお師匠様も許してくれると思う。それに、国を少しのあいだ離れることも報告したいしね」
――そうだ、それからお土産があるんだった。
ミズメは袈裟のあいだに手を入れて、“成果物”に触れてみる。某所で拾って来た“珍しいお宝”。師に贈れば、きっと喜んでくれることだろう。
「赤ちゃんを預けたら、私が帰るのを手伝ってくれるんですか?」
「うん。暇だからね」
「暇だからって。帰るのに何ヶ月も掛かってしまいますよ?」
訊ねるオトリは少し楽しげに見える。
「あたしは平気さ」
むしろそのほうが都合が良いくらいだ。
「あ、分かった! 私を抱えて空をぴゅーんって行ってくれるんですね!?」
オトリは興奮気味に言った。
「勘弁してよ。オトリみたいに重たいものを抱えて、国や山脈を越えられるわけがないじゃん。倒れてた場所からあの隠れ家まで運ぶのだって苦労したんだぞ」
「えー。私、軽いと思うんですけど。きっと銅銭で二、三枚分くらいですよ」
「阿呆か。この銭束ですらあんたより軽いわ」
ミズメは満月の晩にかっぱらった銅銭を引っ張り出す。
「それ! 人から偸んだ物ですよね?」
オトリは眉をひそめて言った。
「そうだよ。“あのおっさん”からね。返さないと駄目だと思う?」
にやりと笑って訊ねるミズメ。
お人好しの巫女は僅かに逡巡を見せたものの、「善行に使うなら結構です」と言った。
「仮にミズメさんやお師匠様が良いかただとして、どうして私にこんなに親切にしてくれるんですか? 人間にだって、ここまで親切にされたことはないのですが」
「親切と言えば親切だけど、一番は利害の一致だよ。さっきも言ったけど、暇潰しさ。物ノ怪ってのは霊気が潰えなきゃ長く生き続けられるからね。首をはねられたら死ぬっちゃ死ぬけど、魂になっても好き勝手する奴もいるし。魂が擦り切れるまではずっと死なないのさ。それに、“可哀想な子供”は放っておけないしね」
ミズメは赤子ではなくオトリを見て言ってやった。
「寿命のことはいいとして、私ってそんなに子供ですか? 旅に出たときは十四で、里ではもう大人扱いでしたし、今は十六ですよ? 里の外でだって、嫁いでてもおかしくない年頃でしょう? ミズメさんだって、私と変わらないくらいの年頃に見えますけど」
オトリは不満そうに言った。
「そりゃ、見た目だけの話さ。あたしは……えーっと。長生きだからね」
「長生きって、何歳くらいですか?」
「数えてない。お師匠様に拾われた年に確か、富士山が噴火したんだったっけな?」
ミズメは首を捻る。
「富士山の噴火!? それって、百年前ですよ! あの時はうちの神様たちも、里から何人もの巫覡をお手伝いに行かせたんです。私のひいお婆ちゃんも活躍したって聞いています!」
「あ、いや。もっともっと前だよ。この前の噴火はあたしも空から見てたし。富士山はこの二百年くらいで何度か大噴火をしてるから……たしか、お師匠様が言うには都がまだ飛鳥にあった頃だったから……二つ前の都の生まれだよ、いや、長岡の遷都もあったな。三つ前の都かな?」
「へええ……。そんなにお年寄りなんですか?」
「年寄り扱いは勘弁してよ。ま、こう見えてオトリの十倍以上は生きてるし、歴史やものごとにも詳しいよ。きっと、オトリが里に帰る手伝いもできると思う」
「そっか、そうなんだ……」
オトリは何故か残念そうに言った。
「ついて来られるの、嫌だった? 迷惑なら他の暇潰しを探すけど……」
ミズメは少し胸がちくりと痛んだ。
「そうでなくって、同じ年頃のお友……知り合いができたと思ったので、ちょっとがっかりしただけです」
沈んだ表情を打ち消すオトリ。
「そういうことか。だったら、心配無用。あたしたちはもう友達だ。それに、あたしが物ノ怪に成ったのはあんたと同じくらいの年頃だから、容姿もその時のままなんだよ。心だって若くてぴちぴちのつもりだよ。命盗人みたいになるつもりはないね!」
――てっきり、距離を置かれたのかと思ったよ。
「……」
オトリが足を止めた。
「どうしたんだ? 十倍も先輩でも、なんにも遠慮しなくて良いからね」
「ミズメさん、“物ノ怪に成った”っておっしゃいましたね?」
訊ねる声はいやに低い。
「そうだけど……」
「元は人間だったんですか? 鳥が人に化けているのではなく?」
「そうだよ?」
「陰ノ気を持つ物ノ怪とは違うっておっしゃってましたけど」
巫女の身体で気が練られ始めた。
「う、うん」
「お師匠様のことを褒めていらしたということは、あなたは生きながらにして神格化や仙化した存在でもない」
「そりゃ、ただの物ノ怪だし……でも、悪霊でもないよ。悪霊は浄化されたら消えちゃうもんだし……」
「では、どうやって物ノ怪に成ったのですか?」
「べ、別に良いじゃんか。あたしは悪党じゃなくて、あんたを手伝いたい、それだけでさ」
ミズメの声が上ずる。
「ひょっとして、あなた。お師匠様とやらに、人間から物ノ怪に変えられたんじゃありませんか?」
巫女の表情は満月の晩に対峙したときと同じものへと変じていた。
「……そうだよ」
「あなたの師匠は何者? あなたは望んで物ノ怪なんかにされたっていうの? この子をそいつの所に連れて行って、どうするつもり!?」
オトリが声を荒げる。赤ん坊が泣きだした。
「どうって! ちゃんと育てるよ。そりゃあ、人間とはちょっと違う風になっちゃうかもしれないけど……」
「私、この子のお乳を借りようとした時に、この近隣での怪異の話を聞きました。子供が行方不明になることがあるって。神隠しだって皆さんおっしゃってましたけど」
巫女の勘というものか。いやに鋭い。ミズメは唇を噛んだ。
「あなたたち、子供たちをかどわかして物ノ怪に変えているでしょう?」
巫女の周りに無数の祓えの玉が出現した。
刹那のあいだにミズメは翼を広げて空へ逃れようとした。
だが、それよりも早い六徳の瞬間に巫女の沓は地を蹴り、眼前へと迫っていた。
――こいつ……!
水分の巫女。しまった、“水術師”だったか。
思う間もなく緋色の袴が花開く。赤子を抱いたままの巫女の身体がくるりと回った。ミズメはそれとほぼ同時に、自身の胸の骨が嫌な音を立てるの聞いた。
翼で滑空するときと負けず劣らずの速度で景色が流れる。背中に衝撃、椛の悲鳴と共に肺の空気が全て外へ吐き出される。
痛みを押して顔を上げると、星空の祓えが挙って止めを刺しに向かって来ているのが見えた。
「高天國に送る前に教えて差し上げます」
流星群は目の前で静止し、巫女の冷たい声が響く。
「この覡國に生を受ける人間には、悪事を悪事と思わないかたが生まれることがあるのです。罪も罪と思わず、なぜ自分が罰せられるかも理解せず、盟神探湯や神仏を恐れぬ性根を持つ、人の皮を被った魔物です。あなたから夜黒き気配を感じない理由はそれでしょう」
強烈な霊気が練り上げられ、嵐のごとき風が巻き起こる。激しくはためく紅白の衣装と黒髪。
「ま、待って。違う……」
ミズメは言いわけをしたかったが、胸の痛みに呼吸すらままならない。
「違いません。ご安心ください。私の流派では、強き者の魂は、寿がれて高天國へ送られます。私たちの“寿ぎ”を受ければ、世に対する憎しみや哀しみを全て捨て去り、魂の浄化された状態で天へと還れるのです。たとえ、あなたの長きに渡る生が、どれほど穢れていようとも……」
周囲の空気が乾いた。巫女が片手を持ち上げ、その掌をこちらへ向けた。
掌中に、煌めく水の球体が創造されていく。
「朝日に射られるかのごとく逝けるでしょう。さようなら、物ノ怪さん。一晩だけでしたが、とても楽しかったです」
ふと、哀しい表情。小さな水の玉に莫大な霊気が込められた。
「私の弟子に乱暴しないでくれる?」
上空から聞き慣れた声が響いた。
空を見上げれば宙に人影。
簡素な乳白色の徒衣を身に纏い、波打った白銀を棚引かせ、その背には髪色と同色の白翼。
白づくめに紅き柘榴のごとき瞳。彼女こそは天狗たる娘、水目桜月鳥の名付け親にして、人の身より物ノ怪へと変じせしめた張本人。
出羽国の物ノ怪の総領こと月山のあるじ、銀嶺聖母である。
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命盗人……無駄に長生きをしている人。
六徳……刹那の更に十分の一の時間。
高天國……日本神話における神の住まう天の国。
盟神探湯……巫女の裁判。
徒衣……染めたり練ったりしていない衣。




