化かし045 水神
オトリは巫女頭の鸛鶴に水分る旅の話をした。
内容はミズメが聞かされたものと相違ないもので、紀伊国を離れてからの、拒絶や悪意に晒されて失望したつらい旅物語であった。
コウヅルは質問をせず、ただ静かに相槌を打ち続けた。ミズメもまた、何も口を挟まずにただ坐した。
南西、薩摩国にて旅を打ちきりにしたのち、何故か日ノ本の北端である出羽国まで行ったという場面ではコウヅルも首を捻った。
ミズメも矢張り、そこまで道を間違えたというのは納得がいっていない。どんな方向音痴だ。
それからミズメとの出会いが語られ、彼女の許可のもとに月山や銀嶺聖母、共存共栄の方針やミズメの過去が語られることとなった。
出羽を折り返し南下。帰郷の旅へ。ここでも、各国の現状や、出会った鬼や物ノ怪の挿話が語られる。
オトリはごく自然に都の話もしたが、「都に近付くのは禁じていたはずでしょう」と溜め息をつかれて首を縮めた。
稲荷山とそこで知った神々や宮中の噂。そして、ミズメの拾ってきた勾玉への嫌疑。
唯一、東大寺に忍び込んで柱に挟まった件だけが伏せられ、残りの里へ至る旅が語られた。
「私が旅に出た時も、あなたと似たつらい体験をし、期限の一年を待たずに引き返すことばかり考えていました。私は迷うことなく里へ戻りましたが、あなたは迷い苦しんだ代わりに、不思議な導き手を見つけたようですね」
「ミズメさんは親友です。お互いに導き合う仲なんです」
胸を張るオトリ。コウヅルが微笑みと共にこちらを向いたが、ミズメは小恥ずかしくてくちびるを口の中へと隠した。
「ミナカミ様。お聞きになったの通りのようです。オトリの言霊には乱れも嘘も見当たりません」
コウヅルは天井を見上げて言った。
「伯母様は音術で嘘の見抜きができるの」
「へえ……」
――とんでもない奴だな。あたしは苦手だね。
何も言わずに良かったと息をつくミズメ。相手の顔色が悪くなった場合は、口を挟んで話を盛るのを密かに検討していた。
「どうなさいますか? 私としては、オトリの帰還のお祝いと、恩人に歓迎の宴が必要だと思いますが」
巫女頭は神へ訊ねるだけ訊ねると、返事も待たずに「面白いことになった」などと呟いて勝手に退場していった。
『えーっと……。私は物ノ怪が嫌いです。里に入れるのも反対。もう入っちゃってますけど』
「まだそんなこと言ってら」
『でも、叱られてしまったので、今回だけは特別に許可します』
「やったあ!」
オトリが手を合わせる。
「叱られた?」
ミズメは首を傾げた。
「里の神様は一柱ではないんです。ミナカミ様は水源と里を隠す霧を司る神様で、もう一柱、本来の流派の神様である“勝手様”がいらっしゃいます」
「勝手様?」
「里の守護神様で、じつはミナカミ様よりも偉いんですよ。私が持つ結界術は彼の加護によるものです。勝手様というのは、里の守護神なのにいつもふわふわとあっちこっちをうろついたり遊び回っているのでそう呼ばれています」
「なんじゃそりゃ」
『……あの人のことはいいから。ミズメさん、問題の勾玉を見せてください』
ミナカミに促され、乳白色の勾玉を懐から取り出す。
『天津神の気配。それも古ノ大御神の。もう! 過去最悪だわ!』
天井から姿なき愚痴。それから大きなため息。
『オトリ、身体を貸しなさい。あなたの鍛錬の成果を見るついでに、勾玉の破壊を試みます。ミズメさんはオトリに勾玉を渡してください』
ミズメは勾玉を渡し、オトリは柱の前へと移動すると座り直した。
『面倒臭いので、降臨の儀式や祝詞は省略します』
ミナカミがそう言うと、オトリが急に倒れた。手から零れた勾玉が床に転がる。
ふと、巫女の気配が変わった。
里の前で落雷を受けた時に感じたのと同様の濃い神の気を感じる。
“巫女”はすぐに起き上がると立ち上がり、袖を振ってみたり、緋袴を引っ張って広げてみたり、自身の長い黒髪を撫でた。
「ふふん」
何やら分からぬが得意げな様子。それから、衣の袂を引っ張ると中を覗き「やっぱり変わらないかあ……」と溜め息をついた。
「何やってるんだ?」
思わず口に出してしまうミズメ。
“巫女”はミズメの存在を忘れていたようで、頬を染めると慌てて正座に戻り、勾玉を拾い上げて咳ばらいをひとつした。
「オトリの身体を神代に憑依しました。魂や血の繋がりの濃い者の身体を借りる祖霊の神和の技です」
オトリの声は僅かに大人びて聞こえる。いや、別人の声であろうか。
「じゃあ今、その身体にはミナカミ様が入っているんだね。死霊の口寄せは見たことがあったけど、神降ろしは初めて見たな」
「私は今こそ姿を持たない神ですが、元は人間でした。だから、肉体があるほうが気や術の操作なども上手くやれるんです。今から、この勾玉に全力で霊気と神気の負荷を掛けます。全力といっても、この子の身体が耐えられるぎりぎりのところで止めますが。周囲にもかなりの気の圧が掛かると思うので、神殿から出ることをお勧めします」
要は、銀嶺聖母と同じ手法で勾玉の破壊を試みるということだ。
床に押し付けられることになるであろうが、ミズメはその力が自身の師を上回るものかどうかが気になった。
「いや、あたしはここで勾玉の破壊を見届けるよ」
オトリがあれだけ恐れる神と、自身が慕う師。己の身体をもって力比べといこうじゃないか。
「本当に大丈夫ですか? 夜黒ノ気は薄いようですけど、物ノ怪ですと魂が削れてしまうかもしれませんよ。床ごと抜けて土に埋まったり、骨が折れたりもするかも」
「そんなに?」
「この子の適正次第ですね。練習で試しに何回か降りただけですし、旅でどのくらい変わったかも分からないので、なんとも言えませんが」
「へえ。いっちょ試してみてよ!」
あれだけ落雷に打たれたことも忘れ去り、ミズメは警告に従わず、神の気配に負けぬようにと胎に霊気を練り始めた。
「どうなっても知りませんからね」
オトリの身体は澄まし顔でそういうと、勾玉を握りしめた。
神殿がみしりと音を立てる。オトリの身体から烈風。篝火は揺らぎ、背後の巨大な柱も激しく揺れる。
彼女の座った位置から床がひびを広げ初め、ミズメの尻の下を抜けて部屋の隅までも到達する。
「……あれ? なんともないぞ?」
首を傾げるミズメ。
「えいっ!」
オトリの髪をまとめていた絵元が弾け飛び、豊かな黒髪がさかしまに跳ねる滝のごとく宙へ踊る。
巫女の背後の柱に大きな亀裂が入った。
ぴたりと収まる怪異。
「……いまいち。もう百倍は伸びるかと思ったんだけどなあ」
何やら首を傾げる巫女。
「終わったのかい?」
「さっぱり駄目でした。この子、修行を怠ったんじゃないのかしら……」
図星である。
「勾玉は?」
巫女が手を広げると、石は健在。
「力任せじゃなくって、ちゃんと神器を砕くための神術を使ったんだけどな……。多分これを壊すのは、今のあのかたでも無理じゃないかしら?」
「あのかたって、天照大神?」
「はい。あなたも知っている通り、今は都に封じられています。幾重もの結界の力によって神威が制限されてしまっているので、お力をかなり落とされていらっしゃるのです」
「じゃあ、どうやってこれを壊したらいいんだろう?」
「うーん……」
巫女は腕を組んでうんうんと唸り続ける。
「分かりません! 一応、守護神のほうにも聞いてみます。それから、あと数日で天照様もここをお訪ねになられるはずなので、彼女にも当たってみましょう」
「ありがとうございます」
ミズメは頭を下げる。
「ところで、ミズメさんは平気でしたか? 物ノ怪の部分が祓われたりとかしていませんか?」
「なんともなかったけど……」
背から翼を生やしてみせる。
「わっ、真っ白で綺麗な翼……。いいなあ……」
ミナカミが声を上げた。
「えっ、白い? あたしの翼は鳶か黒のはずなんだけど……」
首を捻って背を見れば、確かに翼が白い。
以前オトリが白くなった現場を見たと言っていたが、本当だったらしい。
「私の気の影響かもしれませんね。でも、どうして身体や魂が平気だったのかしら?」
ミナカミが首を傾げる。
「さあ? それより、その石について何か情報はない?」
「そうですね……。稲荷のお使い様のおっしゃる通り、この石は月讀命の神器に間違いありません」
「危険な物なの?」
「勿論です。彼は多分、この地を常夜に変えてしまうつもりです」
「なんでそんなことを」
「姉である日神の天照様と仲が悪いからです。それに、彼は“お母様派”なので」
「お母様派?」
「はい、私たちの属する神々の多くは、父神であらせられる“伊邪那岐命”や、母神であらせられる“伊邪那美命”から生まれた御子なんですが、おふたりの夫婦仲はとても冷え込んでいらっしゃります。それで、どちらに味方をするかで天津の神々のあいだで派閥が分かれているんです」
「面倒臭そうな話だね」
「とっても面倒です。イザナギ様側は高天國のあるじである天照様を中心とした派閥で、イザナミ様は黄泉國と呼ばれる地下深くの死者と醜女の世界を中心とした派閥です。勿論、天津神の多くにも母派はいます」
「おっかない話になってきたぞ。イザナミは悪い奴なのかい?」
「うーん。悪い……生者にとって“都合が悪い”といえばそうです。黄泉國のあるじで、邪気を増やし魂や肉体を黄泉へ引き込むのがお仕事ですから。ただ、あちらの世界はこの覡國の穢れを受け止めるために存在するので、やっつけてしまうわけにもいかないのです。まあ、最近は仏様の流派の“地獄”なるものが近しい役割を果たしていらっしゃるので、そうとも言えなくなってきたのですけど」
「それで、ツクヨミはこの地を夜にしてどうしようってんだい?」
「常夜になれば、イザナミ様が黄泉より出て来れるようになります。あんなくさい所に押し込められているので、出たがる気持ちも分かるんですけど」
巫女は鼻をつまんで言った。
「イザナミが出てくるとどうなるの?」
「旦那さんのイザナギ様を呼びつけるために、暴れるんじゃないかしら。日ノ本どころか、この“星”……海の向こうの全ての国が魔都の何十倍も酷いことになってしまいますね。そうなれば、よその教えの悪しき者も混乱に乗じるでしょう。地上より黄泉や地獄のほうがましかもしれません」
「あっはっは!」
規模の違い過ぎる話に笑うしかない。
「わっはっは」
巫女も追従した。
「笑いごとじゃないね。とんでもないものを拾っちゃったよ」
「北の地で拾ったと聞きましたが、そこはちょっと妙なんですよね。本当はこれは、“八尺瓊勾玉”といって、三種の神器のひとつで、スメラギさんのところで管理されているはずの品なんです」
「なんでそんなものが秋田城にあったんだろう? 三種の神器って剣と玉と鏡ってやつだよね?」
「はい。この玉に加えて、“天叢雲剣”と“八咫鏡”がありました」
「ありました?」
「鏡は大王の時代に熊野の奥地で割れてしまいましたから」
「割れたの? 鏡はどこかで祀ってるような話を聞いたことがあるけど」
「それは天照様が用意した代用品ですね。弘法大師さんに声を掛けて祀らせてあります」
「空海が。教え違いじゃないのかい?」
「天照様は仏様の教えを割と気に入っていらっしゃるので。自己中心なかたなので、他流派の聖様どころか、気に入れば悪人にだって肩入れなさるんですよ。日ノ本ができたばかりの時もそれで揉めに揉めて。あの時の名残りで今も宮中では女性たちがしのぎを削ってるという話です」
「元気な神様だなあ……」
「本来の鏡の力は黄泉や高天を覗けるものだったのですが、今はただの天照様のお力の媒介くらいにしかなりません。あのかたは退屈だからってなんでも作っちゃうんですよね。最近は手が沢山生えた仏像を彫って遊んでるとか言ってましたね」
「へえ……」
天照の想像図が揺らぐ。一体どんなもの好きな神なのであろうか。
「つるぎのほうは、この覡國に落ちた時点ですでに錆びてなまくらだったので、たいした力はありません。草刈りに使えて、神器としても雷雨が起こる程度ですね。玉のほうはつるぎと一緒に保管されてたはずなんですけど……困りましたね」
偸まれたか、なんらかの理由で持ち出されたか。なんにせよ、ここにあるのだから仕方がない。
「要するに、これが一番厄介な神器で、同格の道具も使えないってこと?」
「察しが良いですねー。正解っ!」
巫女が拍手する。
「正解っじゃないよ。まずいことになってるじゃんか」
がっくりと肩を落とすミズメ。
「まあ、三種の神器といっても、公式に挙げられているだけのことで、実際にはそれらを上回る品が隠れている可能性はあります。そういった品が神威を発揮して恩恵を与えたり、それを巡って戦争が起こることも珍しくありませんから」
「諦めるのはまだ早いってことか」
「私が里を閉鎖してしまった直接の理由は日ノ本を取り合った戦争ですが、その大きな合戦の要所要所で多くの物ノ怪や神器、そして天津の神々の影がありました」
「神様も? 迷惑な話だね」
「はい、迷惑です。だから、ミズメさんにはこの石を持ってさっさと出て行ってもらいたいというのが本音です」
再三の拒絶。
「追い出したところで解決できなきゃ、この里だって無事じゃ済まないと思うけど」
「直接のお手伝いはお断りします。ですが、オトリの言う通り、この里には天照様がお立ち寄りになられますので、それまではここに居て貰っても結構です。それで解決しなければ、この問題は外のかたがたでなんとかしてください。私たちは共存共栄の輪に入れて貰わなくとも結構ですので」
「薄情だな。本当にオトリの里の神様かよ。あいつなら、絶対になんとかしたがると思うよ」
怖じずミナカミを睨む。
「でしょうね。……あの子を見ていると遥か昔を思い出します。でも、これだけは言っておきます。あの子はこのミクマリの里の里長の巫女頭になる者です。人の持つ役目には領分と順序があります。奔放に暮らしてきたあなたには分からないかも知れませんが」
――領分と順序か。
分からないはずはない。ミズメもまた、分からず屋の相方のために似たことを何度か説いている。
「ま、ここを出るまではゆっくりさせてもらうよ。あたしはオトリの親友で、その次期里長に招かれたんだからね」
「どうぞ。ただし、問題を起こしたら容赦なく討ちますから。あなたの魂であれば高天國に上れるかもしれませんね」
「はっはっは。桃源郷から高天へか。聞くところによると美女や美味しいお酒もあるんだとか。贅沢な話だね」
笑い飛ばす天狗たる娘。
「天津の神様がいっぱいいらっしゃりますけどね」
「やっぱり遠慮していい? 面倒臭そうだ」
「でしょう?」
してやったり顔の巫女。
「さて、お話はこれくらいにして身体をこの子に返します。何度か慣らしているのでこの程度で寝込むことはないとないと思いますが、目覚めなければ起こしてあげてくださいね」
ミナカミはそう言うと巫女の身体から気配を散らして去って行った。
オトリが床に倒れ伏す。
「まったく、厄介な話だよ。お日様の女神さんがなんとかしてくれればいいけど……」
ミズメは溜め息をひとつつくと、気を失った相方を揺り動かした。
*****
神代……神を降臨させるための代理の身体や品。
神和……神を降ろすこと。
口寄せ……神霊を身体に降ろしたり、言葉を代弁する技。今回の場合は神は含まない。
絵元……巫女の提げ髪をまとめる紙や布でできた装身具。




