化かし044 帰郷
「物ノ怪嫌いとは聞いてたけど、いきなりかよっ!」
ミズメは霊感を研ぎ澄ませる。今のは落雷だ。発動してからではまず避けられない。神気の集まる地点を警戒せよ。
「あーっ。ミナカミ様、赦しておくんない!」
オトリはしゃがんで頭を抱え込んでいる。
足元に神聖な気配。
「また来たっ!」
跳躍、霹靂、恐怖。落下地点に居らずとも通電はありうる。
「オトリ、結界を張ってくれよ! 言いわけもできやしない!」
また落雷。しかし今度は少し離れた地点。
焦げた地面が何やら文字を浮かび上がらせた。
「……い、ね?」
はて、稲がどうしたというのか。さては、いつかの偽山伏よろしく、通行料の請求か?
再三落雷。今度は「でていけ」の文字。
「ああ、そっちの“去ね”かい。あたしは確かに部外者で物ノ怪だけど、悪党じゃないよ! オトリにだって誘われてるんだ!」
拒絶の光。
次々と地面に浮かび上がる焦げた文字たち。
「ば、か」「あ、ほ」「ま、ぬ、け」「き、ら、い」
「平仮名ばっかりだな。幼稚なことしてさ!」
『……警告はしました。次はありません』
若い女性の声が響く。
「だから、オトリにも招かれたって。あたしは、迷子だった彼女を送って出羽国から来たんだよ! それと、日ノ本に厄介ごとを呼ぶこの石を……」
勾玉を見せようと懐に手を入れる。
集まる神気。
足元に? 前方に?
――違う、あたしの身体にだ!
次の瞬間、視覚と聴覚の全てを消し飛ばされる。残るは全身を焼く激痛のみ。
「ミナカミ様! おやめください! この人の言ってることは本当です! 命の恩人なんです!」
友人が覆い被さってくる。すぐに霊気が流れ込み肉体の治癒が始まるが、言葉を発する余裕すらない。
『水分の旅の期限は一年だったはずです。あなたは何をしていたんですか?』
ミナカミが問う。
「迷子になってました!」
『胸を張って言わないの! どれだけ心配したと思ってるんですか。ようやく戻って来たと思ったら……物ノ怪なんて連れて来て!』
「このかたは、水目桜月鳥。ミズメさんは元人間で、不幸な目に逢って死にかけたところを善良な仙人に施術されて鳥の物ノ怪になったんです! 物ノ怪でも心の根の良いかたで、北の地まで迷い込んだ私をここまで送り届けてくれたんです。ここへ来るまでにも共に善行を行って、多くの人々や水源を助ける手伝いをしてくれました!」
ミズメが顔を上げると、両手を広げて立ちはだかる紅白巫女の背中があった。
『……なんにせよ、部外者です。里に招き入れることは禁じます。例外は認めません』
「このかたは、他にも日ノ本に関わる使命を帯びています」
オトリがミズメの懐に手を差し入れる。
「この勾玉を視てください。彼女の師匠はこれを破壊することを推奨しました。稲荷山のお使いの筆頭のかたもです」
掲げられる月の勾玉。
次の瞬間、落雷がオトリを撃った。
「オトリ!」
思わず立ち上がるミズメ。
「……ミズメさん、頭を上げちゃ駄目」
膝を突いた娘の首筋に赤い枝模様が浮かぶ。人の肉の焼ける嫌なにおい。
『それを持ち込むことは固く禁じます。その物ノ怪に返して、大きな社か都に押し付けて来るように言いなさい』
「い、嫌です。ミナカミ様が拒むということは、やっぱり大変な品なんですね。皆が不幸になるのなら、絶対に破壊しないと」
『あなたは旅で何を学んできたのですか? 早く傷を癒しなさい。痕が残りますよ』
「それどころか、死んじゃうかもしれませんね。やっぱりミナカミ様のいかづちは恐ろしいです。私は、この旅で共存共栄を学びました。人も、獣も、物ノ怪も。それから鬼だって。全員が分かり合うのは難しいけれど、時には助け合えたり、友達になれるかただって居るって、知りました」
オトリは霊気を練る様子がない。
『寝惚けたことを言うんじゃありません。早く傷を癒しなさい。次は死にますよ。まだ霊気を残しているのはお見通しなんですから』
ミナカミの警告。
「オトリ、あたし帰るよ! このままじゃ殺されちゃうって!」
『あなたは旅先の多くにおいて人々に拒絶されて来たはずです。あるいは、憑ルベノ水を悪用しようとする輩にたかられたでしょう? あるいは、その女の身体を目当てにした者は居ませんでしたか? 水分の旅は里を守護するために必要不可欠な“外界への拒絶を識る旅”。長きに渡る安寧を破り、里に泯滅の道を歩ませようというのなら、たとえ血族であっても容赦はしません!』
「……いやだ。ミナカミ様は間違ってる。ほかの国が大変なことになったら、この里だっていつかは同じ目に遭います。それに、いつか富士山が噴火した時には、この里からも巫覡を派遣したって、お婆ちゃんから聞いたことがあります」
オトリは立ち上がった。怪我も癒さずに。
『……』
神は沈黙した。
「本当に、もういいから。あたしのせいでオトリが死んだり、里から追い出されたりしたらいやだよ」
ミズメは強く懇願していた。
「私は折れる気はありません。ミズメさんを連れて絶対に里に帰りますし、勾玉も絶対に壊します。自分のところだけさえ良ければそれで良いなんて、勝手過ぎます。水や大地は私たちだけのものじゃないって、教えてくれたのはミナカミ様でしょうに! 水や大地が穢れれば皆が困ります。困ってる人を放っておけば、悪人になるかも知れません。酷いと鬼になって、更に多くの人を巻き込みます」
『それでも、領分というものがあります。全てを救うなんてこと、できはしないんです。私にだって、この里を護るのが精一杯なのに……』
「できるできないじゃない! 私はしたいの! 鬼にだって信念はあるんです。国津の神様は皆苦労してる。もっと尊いはずの天津の神様はちっとも助けてくれない。陰陽師はお仕事ばかりで余計な結界を張るし、日ノ本を統べるスメラギ様は何をしてるのかさっぱり!」
オトリは声を張り上げ言った。
「……それにもきっと、理由があるんです。でも、できないっていうのなら、私が、私たちがします!」
「オトリ……」
『意地っ張りな子ね。誰に似たのかしら……』
溜め息混じりの霊声。しかし、ミズメは自身の身体に寒気のするような神気が集まるのを感じた。
「させない!」
再び覆い被さるオトリ。
……落雷は無し。
「ミズメさん、私を背負って走って! あのひとは私を殺せない!」
「オトリを盾にしろってことかよ!? それこそできるわけないだろ!」
「いいえ、できます! ……してくれなきゃ、このままここで死んでやるんだから!」
無茶苦茶な要求。オトリは返事も待たずに自ら背中に乗ってきた。
――このままじゃ、本当に死ぬ。
落雷を受けた相方の身体の熱い感触、異常な早鐘を打つ心臓。だが彼女は、霧を突破するまでは治療すらも拒むであろう。
「……分かったよ! 行きつく先が地獄でも怨むんじゃないよ!」
ミズメは相方を背負い、神の霧の中を走り始めた。
『あっ、こら!』
霧の中を走れば神の気配が追従する。
「ミナカミ様。里の全部を変えろなんて言いません。だけど、できる範囲で助け合って譲り合うべきです。それを拒むのなら、いつかこの大地からも嫌われてしまうんですからね! この……あんごさく!」
『この子はもう! ふたりとも丸焦げにしますよ!』
「どうぞご自由に! ふたり揃って悪霊になって、里を襲ってやりますから! なんなら、ミズメさんのお師匠様に頼んで私も物ノ怪になってやる!」
「ははっ、そりゃいーや……」
と、言いつつも、もうどうにでもなれが本音のミズメ。容易く稲妻を操る神を前にしたせいで、闘争心はおろか生存への希望もすっかり萎えている。
『オトリ、やめて。お願いだから、それを里へ入れないで……』
抗議が弱々しくなる。
それから、神気が濃くなったり薄くなったりを繰り返したものの、結局一度も招雷を行わずに退散していった。
「ミズメさん。走って。走り続けて、決して振り返らないで。振り返れば迷い、外に戻されてしまいます」
……。
一体、いつ霧が晴れたのか。どうやってここへ来たのか。ミズメは山から緑の麓を見下ろしていた。
雲雀の声。冬の初めだというのに濃い緑を湛える木々。いや、紅葉や梅や桜までが絢爛に咲き誇り、そよ風に揺れている。
鼻に爽やかに香るのは橘の実か。
目の前を兎が横切り、斜面を下りてゆく。穏やかで曲がりくねった川。それに寄り添うように豊かな畑が続いている。
その先には田舎らしい竪穴式の住居や高床式の倉が点在。家々のあいだからは神明造の屋根が覗く。
霧を抜けたはずなのに神聖な空気は一層濃く、呼吸するだけで心身の浄化される思いがした。
「ここは極楽かい? やっぱり、あたしたちは死んだんじゃないの?」
「まだ立ち止まっては駄目。里にも雷は落ちます。子供か村人に近付いて話し掛けて」
喘ぐように言うオトリ。
「あたしがいきなり話しかけて平気なの? どういうこと?」
「ミナカミ様は落雷の巻き添えを嫌うから」
「オトリ、そんなこと言うなよ……」
「やだ」
情識な娘。強情にもほどがある。
『……負けを認めます。だから、すぐに傷を癒して。それから、その子を連れて神殿に来て』
ミナカミの声が響く。
「だそうだよ」
ミズメはしゃがんだ。背中で霊気の蠢き、それからオトリが降りる。
「大丈夫か? 怪我はちゃんと治った?」
顔色を窺う。衣の袂から覗く膚は玉肌。オトリは胸を開いて中を見せるが落雷の痕跡は見当たらない。
「ミズメさんは?」
オトリに詰め寄られ、胸を覗かれるミズメ。
検める時間が長かった気もするが、オトリは「よし」と言うと手を引いて歩き始めた。
「それにしても綺麗な所だなあ」
「無理に土地を弄らないで自然に任せているんです。土はすべての土台で精霊の棲みかです。草木を育んで水を濾過する大切な役目を持っています。それを歪めると、土地に力がなくなったり、雨風で崩れたりします」
「へえ。ここでならずっと昼寝をしてられそうだ」
「神様に例えれば、ここは自然の和魂がずっと顕れてるような地になります。植物も、花や実を付けた生命力の強い状態で止まるんです」
「仙人の住まう桃源郷みたいだね」
「暮らしているかたがたはただの人ですけどね」
畑で野良仕事に精を出す男女が居る。どこの国でも見かける平和な光景。それなのにどうしてであろうか、ミズメは酷く懐かしくなった。
「ありゃ、オトリちゃんけ?」
森から老婆が現れた。
「オトリ姉さま!」「ねーちゃん帰ってきたんけ?」
一緒に居る子供たちは背中に筐を背負っている。中には茸や木の実が詰まっている。
「お婆ちゃん、ただいま!」
ようやく笑顔を見せるオトリ。駆け寄ってきた子供の頭を撫でる。
「一年で戻らんもんだから、皆もう駄目ちゃうかと言うとったんやわ。よう戻ったなあ」
老婆は顔をしわくちゃにしている。
オトリも、寄り添う子供たちもまた瞳が輝かしくも水っぽい。
ミズメは迷子を送り届ける任務の完了に、退屈しのぎなどでは到底語り得ない充足感を覚えた。
「里の皆にはあとで挨拶をしてきます。まずは、神殿に行かないと」
「御神様、なんぞ荒ぶっとったのー。ところで、その後ろの子は……」
「私の命の恩人で親友です」
オトリは素早く言った。
「姉さま、このかた妖しい気配がする」
「うーん、おれもそんな気がするわー」
子供たちが言った。
「物ノ怪だからね」
オトリが言った。
「おいオトリ!」
「いいの」
「物ノ怪!? 迷子の山伏の人やと思った!」
「すっげー。火吹いてみて、火。それか黒い靄を出して!」
目を丸くする子供たち。
「火は吹けないけど……」
ミズメは翼を生やしてみせた。
「綺麗! 良いなあ!」「すっげー! 羽飛ばしてみて!」
童たちには大好評のようだ。
「鳥の物ノ怪……。御神様とオトリが招いたんなら、わしはねっから構わんが……」
老婆が、ずいと迫ってくる。たるんだ瞼のあいだから、鋭い眼光が見える。
「頭の上に糞を落とすのだけはあかん」
「しないよっ!」
ミズメが声を上げると一同が笑った。
先程までの緊迫した雰囲気は一変。里を歩くとふたりは友好的に話し掛けられた。
オトリは何か考えがあってか、ミズメには翼を仕舞わぬように言い、「神殿に呼ばれてる」とたびたび口にしながらも、必ず人々との会話に足を止めた。
「巫女頭候補って、巫覡以外からも人気なんだね」
「うちでは里長も兼ねているので」
「へえ、凄いなあ。この様子だと、日ノ本の律令とも無縁なんでしょ? 国司よりも立派だね」
「でも、神様たちの権限が強いので、役割としては彼女たちの意志を反映するのがおもになります。だから、巫女頭と呼ばれます」
「あの神様の取り次ぎか……」
自分なら御免だと思うミズメ。
「普段は、ああじゃないんです。里に危険が迫ることがなければ、とっても穏やかなかたなんですけど……」
「あたしのせいかな」
「物ノ怪や戦争が原因で里を閉じたのは間違いありません。でも、ミズメさんはそんな人じゃない。別のかたたちです。“ひと”にだって色々います」
「そうだね、分かって貰えると良いね」
ふたりは家々のあいだを進み、神殿へと近付く。
「手水舎があるね」
「神殿に入る前に、そこで手と口を清めてください。しなかったからといって、どうなるわけでもありませんけど」
オトリが柄杓を使い水をすくう。
「こういう風習には従うもんだよ。そのほうが、それっぽいからね」
ミズメも真似をして身清めを行った。
「では、神殿に上がりましょう」
オトリと共に木造の階段を上り、両開きの扉を開き神殿内へ。
神殿の内部は白く光沢のある木板張り。篝火でほの温かく輝き、中央には妙に大きな柱が鎮座している。
そして、その前には巫女装束に翡翠の飾りをつけた簪を頭に挿した中年女性が一人、こちらを向いて正座をしていた。
オトリは入殿前に礼をひとつ。ミズメも続く。
「……あのかたは私の伯母で、当代の巫女頭の鸛鶴様です」
「よく戻りましたね、オトリ」
微笑むコウヅル。
「ただいま戻りました、コウヅル様」
「ふたりとも、お座りなさい。まずは旅の話を聞かせてちょうだい。御神様たちも聞いていらっしゃるから」
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神明造……社殿の建築様式で、高床、茅葺の三角屋根。屋根の上に鰹木という中太の柱が並べて寝かされており、屋根の両端には千木というVの字の装飾が施されている。どことなく蜈蚣チックかもしれない。
筐……目の細かい竹かご。
手水舎……神社を参拝する者が身清めをするために水の仕度された施設。




