化かし042 見参
――仕留め切れてなかったのか。いや、そんなことよりも!
向かい合う巫女と鬼。オトリの周囲には水の弾が無数に浮いている。それは放たれることもなく漂うばかり。
一方で鬼も見えない腕に“けえね”を抱えたまま、じっと動きを止めていた。
「何度でも言います。その子に齧りついた瞬間、あなたの頭は砕け散ります」
オトリは顔面蒼白。眼の下は墨を塗ったように黒く染まっている。
肩で呼吸し、明らかな疲労困憊。ハリマロから貰った新しい緋袴も衣もぼろぼろに破れてしまっている。
「おれも何度でも言う。見えぬ爪はこの使いの首に食いこんでいる」
鬼は先日と大して変わった様子はない。
――あいつら、いつからああしてたんだ?
膠着状態。無論、助太刀はするが、迂闊に飛び込めば狐娘の命が危ない。
しかし、オトリのほうも普段よりも霊力が弱まっている。宙に浮かべた水の弾のひとつが地面に落ちるのが見えた。
両方を救える機会は一度きりであろう。
――その時はその時だとか、いつもの考えは捨て去るんだ、ミズメ。
自身に言い聞かせる。相方が倒されるのも問題だが、使いの子を失えばオトリも永久に自分のもとを去ってしまう。そう思えたのである。
静かに弓を構え、鏑矢を番える。それは明後日の方向へ向けられていた。
練り上げられる霊力。音を消せ。気配を消せ。
構えたまま高度を下げる。鬼の背後。オトリの視界内へ。
「……」
オトリが瞬きをした。再び開いた眼の光強く。
無音で放たれる鏑矢。戦場より遠く離れてからけたたましい音を立てる。
「なんだ!?」
鬼が彼方の空を見上げる。
「……何も居ない。鳶か鷹か」
瞬間、鬼の手から童女の姿が消えた。
「しまった!」
鬼が振り返る先には童女を抱くオトリが地に伏している。彼女は起き上がる様子はない。
「むしろ好機!」
痩せた鬼は思いがけない幸甚に顔を歪ませ、大口を開けてふたりへと飛び掛かった。
その光景が、須臾の間に大きくなってゆく。風を切り、急降下を仕掛ける翼の娘。
手は空手。気付かぬ鬼の背に迫る。
まるで、鷹が獲物を狩るように、地から離れた鬼を空へと攫う。
「なっ、何が起こった!?」
慌てる鬼。痩せているとはいえ、これを抱えて空を昇るのは無理があったか。
傷付いた翼に激痛が走り続ける。それでもミズメは羽ばたき高度を上げた。
「羅袮観さんだっけか? また会ったね」
「誰だ貴様は!? 放せ! 放せ!」
暴れる鬼。抱えた腕の肉が裂ける音。
「酷いなあ。あたしのこと覚えてないんだ。正義の山伏ここに見参。昨日、ぼこぼこにしてやったじゃん?」
「トウネンと共にいた山伏の小僧か!」
「小僧じゃないわよん」
離すものかと鬼を強く抱きしめる。
「女か!? なんでもよいわ、貴様の肉も喰らってやる! あの使いも! 巫女どもも! 力を蓄えてトウネンに仕返しをするのだ!」
「あんたが喰うのは、あたしら小娘でも、坊主でもないよ。……もっと尊いものだ」
翼がへし折れる音が聞こえた。
頭からの急降下。いや、落下。鬼を連れての地獄への旅。
しかしそこは天狗。墜落の刹那に鬼を手放し、自分独りは片翼に鞭打ち脱出を試みる。
滑空は安定を欠き失墜。地面に身を打ち転がる娘。
なんとか顔を上げれば、頭部を地面にうずめて逆立ちする腕無し鬼の姿があった。
「どうだい、母なる大地の味は。必殺、天狗落とし! なんてね……」
軽口を叩き、大根のごとしとなった鬼を見て嗤うミズメ。
翼は折れ片翼に、右腕も肉が爆ぜたか自由が利かぬ。
……満身創痍の娘の表情が凍り付いた。
ぴくり、鬼の脚が動く。
「あっはっは。……参ったね、どうも」
力無く嗤い直す天狗。
見えぬ腕が衝撃を和らげていたか、よく見れば地面に二つの穴。鬼は身体を揺らすと地面から白髪の頭を収穫した。
「おれの勝ちだ、小娘どもめ」
鬼は折れた首をだらりと垂らしながら言った。
「いいや、おまえの負けじゃ!」
幽かな神気と童女の声。
突如、鬼の身体が青白い焔に包まれた。
穢き大絶叫が山中に響き、焔の中で腕無し鬼の姿が塵と化していくのが見えた。
「どうじゃ。わしの聖なる狐火の味は」
倒れたオトリの側でけえねが両袖を持ち上げていた。
「やるじゃん」
笑い掛けるミズメ。
「おぬしは来るのが遅い!」
童女は文句をひとつ垂れると、その場にへたり込んだ。
「ちょっと坊主と茶を飲んでてね。オトリは無事か?」
駆け寄り相方の無事を検める。呼吸はある。
「寝ておるんじゃないのか? オトリは鬼を全く寄せ付けない強さじゃった。とんでもない奴じゃ。わしらは参拝者が一人喰われてから鬼の存在に気が付いてな。“これ”をやったのは鬼ではなく、怒った彼女なんじゃ」
あたりを見回す。ここはもともと広場だったわけではないようだ。周囲の木々は薙ぎ倒され、いたるところに不自然な水溜まりがあった。
「じゃが、アコマチとオススキが鬼に遅れを取って足を引っ張った。そのうえにわしが奴に捕まってしまい、一晩中膠着しておったのじゃ」
面目ないと狐耳のこうべを垂れるけえね。
「ミズメさん……」
オトリが目を覚ました。
「もう起きたか。百年は寝てると思ったよ」
笑い掛けるミズメ。
「眠くて動けなくなってただけです。でも、信じてずっと待ってて良かった」
相方が微笑む。
「いや、あたしは謝らなきゃならない。あの鬼は、東寺の僧侶に紛れ込んで近隣の遺体を喰い漁ってたんだ。あたしが近所の坊主と一緒に退治したはずなんだけど、どうやら取り逃しちゃってたみたいだ」
不始末のすえに犠牲者一人。ミズメもこうべを垂れる。
「気に病むでない。あるじの領域に忍び込まれて、なお気付けなかったこちらの落ち度じゃ。わしら使いも術力は充分にあったが、鬼の素早い動きには全く対応できんかった。オトリやおまえが居らんかったら皆殺しだったかもしれぬ」
「そうかもね。だけど、けえねたちはともかく、当の神様やあんたの母親は何をやってたんだ?」
「忙しいのじゃろう……」
「物事には優先順位ってもんがあるぜ。神や使いにだって情はあるだろうに。そこのふたりもけえねの教育の前に、自分たちの修行が要るんじゃないのか?」
苦言を呈するミズメ。視線の先には倒れたままの巫覡たち。
けえねの同僚で教育係のアコマチとオススキは狐の物ノ怪である。
ふたりは斃されたはずなのに、人間の姿を維持したままだ。
「死んだふりなら穴熊のほうがもうちょっと巧いよ」
ミズメが吐き捨てるとふたりは身を起こした。
「違うのじゃ。役に立てんことが分かっておったから、わしがお使いだけに通じる霊声を用いてオトリの足を引っ張らぬように起き上がるなと命じたのじゃ」
「私どもも鬼の隙を窺っていたのですが」
「万が一を考えると動けなく」
ふたりもよく見れば頬から狐の髭らしきものが生えてしまっている。
「そっか。お疲れさん。とにかく、今度こそあいつはくたばったね」
小振りな角の生えた頭蓋骨の一部が転がっている。先回の時の骨は、恐らく奴の食事の残骸か何かを見間違えたのであろう。
「ミズメさん、身体は平気ですか? 何か大きな音がしてましたけど」
「鬼を地面に叩きつけてやったんだ。腕と羽が折れた。ぼろぼろだよ」
「治療してあげたいんですけど、私も霊気と“お腹”が不十分で」
格好の悪い腹の音。それから欠伸も。
「いいよ。あたしも今治療されたら、かえって動けなくなりそうだ。とりあえず、ミヨシのおっさんの屋敷に帰ろう」
ミズメは立ち上がった。
……ふと、あたりの木々が風もなく騒めき始めた。
緑の喧噪と共に神聖な気配が周囲を包む。
「こ、この気配は!」
けえねが声を上げる。
「ようやくおいでなすったね」
広場の中央に光の人影。次第にその正体が明らかになる。
背の高い女。巫女装束に長い銀髪。同じく白銀の九つの尾が炎のように揺らめいている。
「母様!」
「なんじゃ、この有様は?」
九尾の女はあたりを見回し言った。
「ごめんなさい。私がやりました。鬼が参拝者を食べてしまって。鬼を退治しようと戦っているうちに……」
オトリが頭を下げる。
「見かけぬ巫女じゃが、霊力はうちの連中よりは遥かにましじゃな」
お使いの筆頭がつと視線を逸らす。その先には中年の男女の使いが神妙な顔付きで正座をしている。
「しかし、部外の巫女か」
冷たい視線がオトリに戻る。
「オトリを責めるのはお門違いだよ」
ミズメは態度そのままに腕を組んで言った。腕が痛むが虚勢は譲らぬ。
「わ、わしが手伝うように依頼をしたのじゃ」
「部外の巫女にか? その山伏は妖しの者の気配がしおる。おまえたちは何をやっておったのじゃ?」
筆頭は娘を睨みつけた。
「お咎めはわしが受ける。ふたりはわしの使いとして戦ったんじゃ。わしの責任じゃ」
けえねは視線を地面に落とした。
「そーだね。使いの責任は使い手の責任だ」
ミズメが一歩踏み出す。
「ミズメさん! けえねちゃんも、皆も頑張ったんですよ!」
「……まして、子のやったことなら親の責任だよ」
女の前に立ち、見上げて睨みつける。
「……」
九尾の女は表情を変えず見つめ返した。
「オトリの責任は使いたちの責任。使いたちの責任は使いの筆頭の責任。あんたの不始末は稲荷の神に責任がある。神様を出しなよ」
「……できぬ。我があるじ宇迦之御魂神は不在である」
「国津神なのにかい? まさか消えちまったってことはないよね?」
「ご存命だ。日ノ本はこの千年のあいだに農耕の技術を磨いた。田畑の数が増大し、そのぶん稲霊も増えた。だが、ここ数百年で結界や信仰の衰退により、田畑に反比例し神の力不足が目立つようになった。おまえの指摘通り、我が神は覡國に住まい、自身の領分を佑うべき存在であるが、不足を補うために全国の稲荷神社の領域を巡り続けておる。天津の五穀の神は神去って久しい。我があるじがどうにかするしかないのだ」
「事情は分かった。だけど、そういうことならここの責任者はあんたってことになるね。あたしやオトリが居なきゃ、鬼は暴れ放題だった。オトリはろくに寝ないで他流派であるあんたの信仰の手伝いをしたんだ。何か礼があって然るべきだと思うけどね」
「なんて奴じゃ。神に近しい母様を強請っておる……」
けえねが呆れたように言った。
「良かろう。なんでも申せ。我の力の及ぶ範囲であれば、なんでも一つ願いを叶えてやろう」
相変わらず無表情の筆頭。
「じゃあ、これを破壊できないかい?」
ミズメは懐から勾玉を引っ張り出した。
「……」
九尾の女は一歩後ずさった。
「できぬ。それは我があるじの力をもってしても難しい仕事となる。国津の神の力ごときではとても不可能だ。封じるにしても何柱もの神を立てる必要がある」
「壊しても構わない品なんだよね?」
「我にはそのように思える。その石より感ずるは陰気な天津の意志。それも、天津でも古ノ大御神と呼ばれる上位の存在だ。天津は気紛れゆえに、碌なことを招かん。それは覡國にないほうがよい」
「破壊したかったらどうすればいい?」
「その気配に触れると化生になった頃の記憶が蘇る。恐らくは月讀命の戯れの品であろう。月讀本人か、それより上位の御神の力が必要となる」
月讀命。天照大神や素戔嗚尊と共に三貴神として並べられる大神。
夜の世界を司る月の男神である。
「あーあ。あたしでも聞いたことのある神様の名前が出てきちゃったよ。満月に反応するから、まさかとは思ってたけど……」
やっぱり面倒臭くなってきたなと溜め息ひとつ。
「更に上位に当たる神々の父母がこの覡國に現れることはまずない。これを破壊できる可能性があるのは日神くらいだが……」
日神、天照大神。太陽の巫女と呼ばれる存在。
「ちょいと小耳に挟んだんだけど、スメラギの住まいに天照が封じられてるそうじゃないか。あんたのあるじの同僚の……なんとかって女神様が機嫌取りをしてるんだろ? 取り次いでもらえないかい?」
「大宮能売大神のことか……。あやつはともかく、日神と関わるなんて御免だ」
「願いを聞いてくれるんだろ? ちょっと呼んでくれるだけでいいからさ」
「……」
これまで無表情を保っていた筆頭は、心底嫌そうに顔を歪めた。
「そこをなんとか。石が破壊出来たら、稲荷の信仰が固くなるように奉仕するからさ」
「嫌じゃ。絶対に嫌じゃ。小さな天津でさえ面倒な奴ばかりなのに、高天のあるじなどと関われるか。ただでさえあいつは宮中の女どもを煽って面倒ごとを起こして遊んでるというのに。仮に我が取り次ごうとしても、あるじも大宮も絶対に首を横に振るわい!」
筆頭が一息に断りの文句を垂れると、身体が光輝き始めた。
「願いは他のことで頼む。忙しいのでまた後日申せ。ああ、忙しい忙しい! ……では、さらばじゃ」
光が収まると、筆頭の姿も神聖な気配も綺麗さっぱりと消えてなくなった。
「母様が逃げた……」
「やれやれ。揃いも揃って腰抜けばっかりじゃんか。ま、お咎めは有耶無耶になったし、あとはあんたらが精進するだけだね」
「そうじゃな……母上やあるじに叱られぬように修行を積まねばな。それにしたって、もう少しわしに何か言ってくれても良かったじゃろうに……」
狐の娘が寂しげに呟いた。
「そういうわけで、あたしたちはこの勾玉を破壊する手段を探さなきゃならない。この近辺の難事よりも、よっぽどの大仕事だ。だから、いつまでもここの手伝いをしてるわけにもいかない」
「分かっておる。おぬしらにはもう充分に働いてもらった。わしもアコマチとオススキと繋いで貰ったし、あとはなんとかやってみせるさ。オトリよ。おぬしには特に世話になった。なんでも申しつけるがよい!」
けえねは胸を張りオトリに向き合う。
「えっと、では、皆さんと同じ衣を用意していただけたら嬉しいな。この袴、ハリマロさんの屋敷のにおいがして気持ち悪い……」
「よいぞ。お揃いの巫女装束を支度してやろう。おぬしにとってはささやかであろうが、わしのなけなしの神気と加護も込めてやる。神衣と呼ぶに及ぶかは分からぬが、決して汚れず、少々のことでは破れぬ素敵な品じゃぞ」
「やったあ。ありがとう、けえねちゃん!」
狐娘を掻き抱くオトリ。けえねは幸せそうに目を細めた。
「ミズメのほうは何かないか?」
けえねが訊ねる。
「あたし? あたしはいいよ。とにかく疲れたから早く帰りたい」
「それではわしの気持ちが収まらんのじゃが」
「気にすることはないよ。友達じゃん?」
「と、友達……」
童女の頬から狐の髭が生えた。
「オトリの友達はあたしの友達だ。次に来るときは御供えをかっぱらうんじゃなくって、油揚げの手土産を持って来てやるよ」
ミズメは狐娘に笑い掛けてやった。
さて、数日後。
ミズメとオトリのふたりは、いよいよ都を旅立つことにした。
向かうはオトリの故郷である水分の隠れ里である。
オトリが言うには、新年には天照大神が水神たちと歓談するために降臨するのが恒例となっているらしい。
勾玉を破壊する手立てと、オトリを送り届ける任がぴたりと一致した形となる。
「近くに寄った時には、頼りにしてくれよ」
寂しそうな髭面が言った。
「ミヨシのおっさんも元気でね。他の連中に馬鹿にされないように」
「はっはっは。精進するよ」
「ヤソロウちゃんも元気でね」
オトリが小さな狸に話し掛ける。
「はい! ぼくも識神として修行を重ねて、いつか佐渡の大将と話を着けに行きます」
「頑張れよ」
「頑張ってね、ヤソロウちゃん」
こうしてふたりは、世話になった三善文行の屋敷をあとにした。
「いよいよ里に帰るのかあ……」
大路を歩きながらオトリが呟く。
「勾玉もすんなり壊せれば良いけど」
「それも気になりますけど、まずはミズメさんが里に入れて貰えるかどうかが心配です……」
オトリの里は排他的で、神も物ノ怪嫌いときているそうだ。
「ま、なんとかなるさ」
気楽に構えるミズメ。
「……あの、ミズメさん。今更なんですけど、先日はありがとうございました!」
オトリが礼を言った。
「いいよ。あたしも来るのが遅れたし、そもそも鬼が死んだと勘違いしてたせいなんだから」
「来てくれたのも嬉しかったですけど……これ!」
オトリは懐から“柘植の櫛”を取り出した。
「そういや、そんなもんもあげたね」
そっけなく言うミズメ。
「すごく、すっごく嬉しかったです! 一生大事にします!」
「一生なんて大袈裟だよ」
ミズメは歩調を速めた。相方にだらしのない顔を見られないように。
「ミヨシ様に櫛の話をしたら、“櫛を贈る意味”について教えてもらいました。本当なら、私のほうが櫛を贈りたいくらいなのに」
「なんか意味なんてあったっけね。オトリが欲しがってたから買った。それだけだよ」
「櫛は旅の別れの時に渡すんだって。旅立つ相手の無事を祈って、また出逢えるようにって。里に帰って、勾玉も破壊してしまえば、私は里を出る理由がなくなります。むしろ、里に縛られる身になっちゃいます。仮に抜け出しても、私じゃちゃんと月山まで行けるとも限らないから……」
駆けてくる足音。腕が掴まれる。
「南に飛ぶのは燕の領分のはずなんだけどね。生憎、羽があるのはあたしのほうときてる。絶対会いに行くよ。オトリの神様に雷を落とされたってね」
ミズメは笑い掛けた。腕と腕が絡みあう。
「……別れる時の話より、残りの旅のことを考えましょう! きっと楽しいことがありますよ!」
「それ、あたしが言おうと思ってたんだけど」
「うつったみたいです」
笑い合う娘。
「まずは、稲荷山に寄って行きましょう! お願いを使わないともったいないです!」
「あー、あのお願いね。オトリが寝坊してるあいだに使っちゃったよ」
「えーっ!? 酷い! ふたりで頑張ったご褒美じゃないですか!」
声を上げるオトリ。絡んだ腕が放されてしまう。
「良いことに使ったから、勘弁してよ。オトリは新しい衣装も貰ったんだしさ。山にも寄らないで先を急ごう」
「なんですか、良いことって? それに、けえねちゃんにもお別れをしておかないと」
疑いを孕んだ抗議。
「……それも野暮なんじゃないかな」
含み笑いをするミズメ。
正面から、旅装束の貴人らしき母子が歩いてくる。
母親の顔は垂れぎぬで隠れてよく分からぬが、市女笠から銀色の長い髪が覗いている。
そして、童女はどこかで見たような顔をしていた。
母子は談笑しながらふたりの前で路を曲がり、市場のほうへと向かって行った。
「今のって……」
「親子水入らずってね。あたしたちはあたしたちの旅に戻ろう」
「もう! ちゃんと教えてくれたら良かったのに!」
オトリがもう一度腕を取り、水も入らぬほどに身体を密着させてきた。
「歩きにくいんだけど?」
苦笑するミズメ。
「いいから、いいから!」
ぴったり寄り添う山伏と巫女。衆目を集めるもお構いなし。
ふたりの流れる先に続くは水分の里。
物ノ怪を嫌う女神と、太陽を司る女神。待ち受ける二柱は、どんな運命の糸を紡ぎ出すのであろうか。
*****
稲霊……稲や畑に宿る神霊。
神去る……神が死ぬこと。




