化かし040 苛立
その晩は少々荒れたが、嫌なことはすぐに忘れるのがミズメの信条。
ここのところそれが上手くいかないことも増えていたが、翌朝はミヨシの屋敷で出た飯に味噌が添えられており、非番だという彼の勧めで朝から一杯やったおかげで、ころりと気を持ち直していた。
「さて、そろそろあの寝穢い娘を起こしに行きますかね」
オトリを起こすには雷の真似事が一番効果的である。寝惚けているせいか、本人もそれを理解していない。
本日は快晴。さあ行こう。あたしでなけりゃあの巫女は起こせない。
御使いの依頼は実質のところ、きりがないものだ。
神が新たな力を得るには信心が必要なのは当然であるが、それは一朝一夕どころか数年程度で成し得るものではない。
一番の近道はそれに仕える御使いや巫覡がよく仕事をこなすことであるが、けえねのしつけにもかなりの手間が掛かるであろう。
ミズメとけえねは長寿の身である故に解決が不可能な問題でもないが、オトリは人間であり修行の日程を過ぎた巫女頭候補でもある。
いかに彼女がお人好しとはいえ、そこまで他流派の問題に付き合うこともあるまい。
適当に説得し、けえねと稲荷の社に仕える巫覡を繋ぎ合わせれば一件落着。あとは当流派が自身の神や信仰の問題を解決すればよい。
そう気楽に構えて山へと降り立った。今朝は矢を射かけられることもなかった。幸先が良い。
「ありゃ? 起きてるぞ、あいつ」
参道を登る巫女装束の一団が居る。四名だ。小さい狐耳の巫女と手を繋ぐのはオトリであるが、その後ろを歩く男女の巫覡は何者であろうか。
「おはよう」
堂々と巫女たちの前に降り立つミズメ。後方の巫覡も驚いた様子はない。
「あ、ミズメさん。おはようございます」
オトリは笑顔で挨拶をしたが、目の下を黒く染めている。
「その後ろの連中は?」
「ここの巫覡のかたたちです。でも、ただの巫覡じゃないんですよ!」
オトリが道の脇によると、ふたりの中年の男女の姿が視界に現れた。
「アコマチです」巫女がお辞儀をする。
「オススキです」男覡がお辞儀をする。
「……あんたら、人間じゃないね?」
ミズメはふたりから妖しげな気配を読み取った。
「その通りでございます。私どもは狐の化生でございます」
「かつて都の近隣で人を化かしていたところ、運悪く弘法大師様を相手取ってしまい」
「改心させられて、仏門に入ったのですが」
「大師様がお亡くなりになってからはゆく当てがなく、こちらの御神に拾われた次第でございます」
交互に話す巫覡。
「あの空海の弟子ってことか。なんだよ、古流派のくせして立派な聖を抱えてるじゃないか」
「しかもですね。稲荷様は元々おふたりを“けえねちゃん”の教育係として指名していたらしいんです」
オトリが言った。
「空海が亡くなったのは百年以上前じゃんか。あんたらは何してたんだ?」
ミズメは童女をちらと見やった。けえねはそっぽを向いた。
「御神に筆頭の御息女を鍛え直すように命じられてはいたのですが」
オススキが言った。
「私どもが近付くと逃げてしまうのです」
アコマチが継ぎ足す。
「そ、それはじゃな。こやつらが人間だと思ってたからじゃ。稲荷の巫覡であろうとも、人間には近寄らないように気を付けておいたからの。百年経っても顔が変わらんしちっとも死なんから、妙だとは思ってたが」
「……」
ミズメは“どこからともなく”錫杖を取り出すと、狐娘の頭を叩いた。
「ぎゃっ! 何をするのじゃ!?」
「いい加減にしろよな。霊験や信仰の前に、おまえの努力不足じゃんか。自分の暮らす山のことすら分かってないくせに、都の陰陽師に頼ろうなんて手抜きにもほどがあるよ」
「ミズメさん、乱暴はよしてください。それにも事情があったんですよ! ほら、けえねちゃん。ちゃんと話して」
「だって、こやつらは夫婦での。子供も五人おって、それも今や立派な使いじゃ。百年前にぽっと山の中に現れたと思ったら、霊験を示して御神様に褒められるわ、子供どもと楽しそうにしてるわで気に入らんかったんじゃ」
オトリの陰に隠れて言いわけをするけえね。
「ね? 寂しかったのよ。ミズメさんもその……御両親が居なかったんだし、気持ちが分かるでしょ?」
オトリは童女の頭を撫でながら言った。
「……あたしには初めから居なかったんだから分かるわけがないだろ! もう、頭に来た。あたしは手伝わない。アコマチとオススキも、空海のところで何も学んでないだろ。弘法大師だって初めからできた人間だったわけじゃないんだぞ。若い頃には正義に燃えてたし、霊山で十何年も苦しい行を繰り返した激しい面もあったんだ。同業者と争ったこともある。失礼な信者を罰したことだって。あんたらも先達を見習って、道を教える相手にはもう少し手厳しくするべきだと思うよ」
「けえねちゃんは可哀想な子なのに! 共存共栄はどうなったんですか?」
「確かに見た目と頭は可哀想だけどね。共存共栄を謳っておいて、自分たちのことがおろそかになったら本末転倒じゃんか! ほら、オトリも帰るぞ」
錫杖で地面を強く突くミズメ。
「冷たいですよミズメさん! 依頼はまだ終わってません!」
「神が新たな力を得るのにどれだけ時間が掛かると思ってるんだよ。あんたは人間だ。旅の日程も過ぎてるんだろ? 気長に他流派の神や物ノ怪の修行に付き合ってる暇なんてないはずだ。そいつらに任せて、さっさと旅に戻ろう」
「だ、だったらせめて、けえねちゃんが何か一つでも自力で解決できるところを見届けてから……」
情識な女である。ミズメは懐が冷えてゆく心持がした。
「へっ! 勝手にしたらいいよ。百年掛かるかもしれないけどね。あたしも暇じゃないから、この辺の坊主にでも勾玉のことを訊いて回っとくよ」
またも翼を広げて立ち去るミズメ。
天狗の聡い耳は、「いつもなら一緒にやってくれるのに、どうして」という呟きを拾った。
ミズメが稲荷山を去ろうとすると、ふもとに馬と貴人らしき女の姿が見えた。
腹いせに化かしてやろうかとも考えたが、どうやらそのような雰囲気でもないらしい。
馬は横倒しで血だまりの中。女は身なりの悪い男に囲まれて太刀を突き付けられている。
白昼堂々。神やスメラギのお膝元での悪行三昧。
「まったく。丁度良いところに居てくれるじゃないか」
不機嫌の頂点にあった彼女は、悪党どもを半殺しの目に合わせてやった。
「あんた、大丈夫かい?」
錫杖で肩を叩きながら訊ねる。
「ああ、ありがとうございました。黒き翼の生えたおかた。ひょっとして、ありがたい化人様でございましょうか?」
「さあね。少なくとも、その山の役立たずの使いどもじゃないのは確かだ。この山の神には大した霊験は期待できないよ。ましてや命や貞操を賭けてまで参る価値なんてね」
転がる男どもを一瞥するミズメ。
手足の二、三本は叩き折ったが、頭には手を出していない。これが原因で死ぬことは無いだろう。
「そうでございましょうね。私も、二日に一遍はかよっておりますが。願いは果たされませんから」
「あんたの願いはなんだい?」
ミズメは女に訊ねた。丁度、稲荷の連中に嫌がらせがしたいと思ってたところだ。
「私の願いは、生き別れた息子の声をもう一度聞きたい。それだけでございます」
「人探しか。いきさつを話してみな」
女が事情を話す。
彼女には腹を痛めて産んだ一人の子供があった。しかし夫と死に別れ、次の夫が嫉妬深かったために、その子は寺に預けなければならなかったという。
子などまた産めばいいと割り切っていたのであるが、つい先日、子の姿を都で見掛けてしまった。
すると、一度は自ら手放したはずの子への情がふつふつと沸いてきて、夜も眠れず、袖を濡らして月を見上げるばかりの身となった。
今更になって一緒に暮らしたいと願うのは烏滸がましい。子にも新しい暮らしがあり、仮に連れ戻しても夫が許すはずもない。
しかも姿を見れば、お互いに一層と恋しくなるだけだ。だから、声だけを聴いてせめてもの慰めにしたい……という次第であった。
「寺だったら、そばまで行けば経を読む声くらいは聞こえると思うけど。遠いのかい?」
「近場でございますが……小僧としての読経の声と、我が子の声は同じようで異なるもの。なので、あの山の神に祈ったのですが、どうやら難しい注文だったようです。ああ……私の愛しい種助!」
女はさめざめと泣き始めた。
――これなら、あたし独りでも楽勝だね。
どれ、ひとつ連中の信者を偸みとってやろうか。天狗たる娘が薄笑いを浮かべる。
人の術が届かぬのなら神仏頼り。神仏が応えぬのならば、我自らがそれを騙ればよい。
「任せなさい。何を隠そう、この山伏は鬼子母神の化身である。そなたの子を想う切なる思いに応えてくれようぞ」
そう言ってミズメは妖しげな霧を巻き起こしてその姿を、袈裟を着て胡坐を掻いた天竺の女神の姿に変じてみせた。
化かされた女はすっかりミズメのことを信用し、彼女の息子が預けられたという都の外れの寺……“妙桃寺”へと案内した。
ミズメが単独で小僧に会い、会話の内容を外で待つ母の耳へと音術で届けるという寸法だ。
「頼もーう」
寺の前で声を張り上げる。
「はいはい。どのようなご用件でしょうか」
現れたのは箒を持った幼い小僧である。
「お、もしかしてタネスケかい?」
「いいえ、わたくしはタネスケではありません。稲助です」
「あたしは山伏のミズメ。タネスケと少し話がしたいんだ。呼んで来てくれないかい?」
「ミズメ様。お生憎ですが、タネスケは麦太郎と近所の村へ和尚様のお遣いに出ております。出掛けてからもうかなり時間が経っておりますので、しばしお待ちいただければ宜しいかと存じます」
小僧はにこにこしてミズメを敷地内へと促した。
「見知らぬ山伏を招いても平気なのかい?」
「うちの和尚である“桃念”様は来る者は拒まずが信条。あちらの庭で桃の木のお手入れをなさっているはずです」
イナスケに案内されて庭へ行くと、握り鋏を片手に、裸の木の枝を剪定している中年の禿げ頭があった。
「さてはて。狐の挑戦か、それとも帰依を望む物ノ怪じゃろうか」
坊主は振り返らず仕事を続けている。
「ちゃんと修行を積んだ坊さんみたいだね。あたしが妖しいもんだって見抜かれてら」
頭を掻くミズメ。
「ふむ、聞き覚えのある声じゃの」
坊主が振り返る。
「いつぞや都で会った、優しき巫女の連れ合いさんじゃな」
「会ったことあったっけ?」
「道端で息絶えた童女を葬ったトウネンじゃよ。巫女のお嬢さんが哀しみで荒ぶっておられた時の」
「ああ、そんなこともあったね。あの時の坊さんか。あの子はきちんと送ってくれたかい?」
「勿論じゃ。湯灌と火葬を済ませて裏の墓地に納めておる」
「珍しいね。貴人並みの扱いじゃんか」
「子は七つまで神のうちじゃよ。わしは放棄されたご遺体を集め、焼き清めて土の下に安置する役目を負わせていただいておる」
「立派だね。念仏を唱えるだけじゃないんだ」
「魂はなくとも、腐った肉は不浄を招くからのう。最近は寺を持ちたいだけ、書をしたためたいだけの輩が増えた。霊力を鍛えようとも、それでは神仏も離れてしまう。人の力だけで成し得ぬ難事にぶつかった時にありがたみを知っても遅いものじゃ。仏門へ入る切っ掛けはなんでもよいが、神仏のためであっても、私欲のためであっても、どちらかに想いが偏ったら駄目じゃな」
溜め息をつくトウネン。
「それに……。遺体を放置すると“奴”が現れ、生きた人にまで危害を加えるからの」
「奴?」
「うむ。洛中で穢れを嫌って出た奴婢の遺体は門外へ打ち棄てられるゆえ、その死肉を喰らう悪しき餓鬼が近寄るのじゃ。火葬をするのも、先手を打って肉を喰えなくする意味がある。それでも都では飢えや病だけでなく、殺賊まで現れるゆえに、餓鬼が居座っておるようじゃ」
「あたしもこっちで賊を何度も退治してるよ。田舎みたいに退屈はしないけど、いい加減うんざりだ」
「悪鬼悪霊、それに人のさもしさ。息苦しい世の中じゃて」
「全くだね。どれ、あたしもちょいと墓参りといこうかな」
ミズメはトウネンと共に寺の裏にある共同墓地へ向かった。
地面に立てられた、経の一文を記してある木簡の前で静かに手を合わせる。
「それで、ミズメ殿は今日はいかなるご用件でここをお訪ねなされた? おぬしらであれば、わしに頼るような難事などそうはありはせんじゃろ?」
「そうだった。用件ってのはね……」
――折角だし、タネスケの話だけじゃなくって、稲荷やオトリへの愚痴も聞いて貰うかな。
有難い聖と話をしたお陰か、ミズメの苛立ちは霧散していた。真の聖者は動的に癒そうとせずとも、自ずとその霊験を示すのであろう。
「大変だ、大変だ! トウネン様、トウネン様!」
箒を持った小僧が駆けて来た。
「どうしたのじゃイナスケよ?」
「ムギタロウが帰って来たんだけど、タネスケが居なくて。タネスケはどうしたのかって聞いたら、ムギタロウがタネスケが人喰い鬼に攫われてしまったって。それでムギタロウにトウネン様を呼ぼうって言ったら、タネスケを追い掛けて走って行っちゃったんです!」
一息に説明して息をつくイナスケ。
ミズメは人目もはばからず翼を広げて飛び上がった。
「わっ! 物ノ怪だ!」
イナスケが悲鳴を上げる。
「居た。ムギタロウはあっちだ!」
走る小僧の姿を錫杖で指し示す。
「坊さん。今日はタネスケに用事があって来たんだ。鬼退治に助太刀するよ」
*****
情識……勝手、我がまま、強情。
化人……仏が人に教えるために人間の姿を取って現れたもの。
鬼子母神……ヒンドゥ教由来の夜叉で、元は子供喰いの鬼であったが、自身の子を人質に取ってみせた釈迦に己の所業を思い知らされて帰依した。
湯灌……遺体を洗い清めること。当時は身分が高くなければ個別の墓はなく、川などに打ち棄てられるケースもあったという。




