化かし036 都巡
結局のところ、ミズメはオトリの涙に負けてしまって洗いざらい白状をした。
オトリは怒りはしたものの、自身も早とちりが過ぎたと恥じ入り、「もうしないでくださいね」とあっさりと赦した。
空き家の怪異の正体である化け狸、屋島八十郎は陰陽師の三善文行に預けられ、彼の識神としてその腕を磨くこととなった。
しかし、「魔都で名を上げればダンザブロウは恐れをなすかもしれない」という説は、ヤソロウのあるじとなったミヨシによって否定された。
ミヨシが言うには、「かつて朝廷が佐渡国と越後国を一纏めに管理しようとしたことがあったが、ダンザブロウの影響力が強過ぎて再び国を分けることとなった」ということがあったのだそうだ。
日ノ本を統べるスメラギですら配慮するほどの大物なのである。
「では、故郷の件はどうするのだ?」
ミヨシが訊ねる。
「こうなったら、直談判で見逃してもらうしかないでしょう。皆さんも人間なのに、素直にお話したら分かっていただけたんです。同じ狸なら話が通じるかもしれません」
ヤソロウが呟く。
「……でも、乗り込むには根性が足りませんから。恩返しも兼ねてしばらくはここで使っていただきたいのです」
畳に頭をくっつける豆狸。
「ふむ。それは構わぬが、独りが恐ろしいのであれば、ミズメやオトリに頼んではどうだ? 今は大目的があって多忙だが、そののちであれば手伝ってくれると思うぞ」
「誰かの威を借りては意味がないのです。狐じゃないのですから。狸は“きんたま”と根性で勝負です」
「そうか。同じ男としてお前を応援してやろう。その代わり、陰陽師の識神の任はしっかりと果たしてもらうぞ」
「はい!」
ヤソロウは力強く返事をした。
「……ということで、丸く収まったね。良かった良かった」
ひと仕事終え、飯も腹に入れ、ひと晩休んだミズメはご機嫌である。
「全然良くありません。私はまた格好悪いだけでした。都に来てから良いところ無しです……」
しょぼくれるオトリ。
「そう? あたしは格好良かったと思ったけどな」
昨晩の悪戯にて、自身を想って怒った相方を反芻する。
「どこがですか!? 次にやったら、水術を使って本気で抱きしめますからね」
そう言いながらオトリはヤソロウを捕まえた。
「もうしないから勘弁してよ」
とはいえ、ああいった悪戯心は月の晩には抑えがたい。今晩だってどうかすれば誰かを化かしたくなるであろう。
「あーあ。ヤソロウちゃんで癒されようっと」
オトリはヤソロウを撫で始めた。
「か、勘弁してくださいよう……おっかない」
豆狸がじたばたと暴れる。
「ミヨシ様。ほかにお仕事はありませんか? 巫女じゃないとできないような。私、古流派の寿ぎの技が使えるので、気高いたましいや……上手くやれば鬼だって高天國へ送れますよ!」
オトリは余程に活躍がしたいらしい。
「ううむ。妖しの難事はまだ何かあったかな……。浮気調査の件はいくつか目にしたが」
「浮気調査ですか?」
「うむ。都の貴女は夫が通わなくなるとすぐに陰陽寮へ卜占を依頼してくるな。件数でいえばこの手の依頼が一番多い」
「うちの里では浮気は厳禁! 男女いっしょに同じ屋根の下で暮らしてます!」
口を尖らせる田舎娘。
「都では、静かに泣いて待つのも美徳なんだがな。こういった依頼をしてくる者の大半は、のちに“呪いの依頼”まで持ち込んでくるのだ。ゆえに、俺は受けないようにしている」
「呪いかあ。おっかないね」
ミズメは「自分ならそんな男はすっぱりと切って忘れるな」などと考える。
「うむ、女の嫉妬は恐ろしい」
ミヨシが頷く。
「女性の気持ちを弄ぶ人には当然の報いです!」
「では、オトリが受けるか? 卜占や呪術もいけるなら回すが」
「えっと、そういうのはちょっと……。できれば皆が笑顔になるお仕事が良いです」
「我侭な奴だな。まあ、寮へ行ったときに探しておこう」
ミヨシも苦笑いである。
「ありがとうございます。ミヨシ様は何か困ってることはありませんか?」
「俺も陰陽師だしなあ。オトリに頼める仕事は自分で処理できてしまう。家のことは家人がやってくれるし……強いて言うなら、明日の付き合いが面倒で困っておる」
「人付き合いですか。私はそういうのは、多分得意じゃないんだろうな……」
呟く巫女の娘。
「具体的には何をやるの? 歌とか宴とかかい?」
ミズメが訊ねる。
「明日の集まりでは歌詠みと“賭弓”だ」
「良いね。あたしはどっちも得意だよ」
「ほう、ミズメは歌も弓もいけるのか」
「独学だけど、自称物ノ怪一の好士! 武器術も一通りはいけるよ」
「芸達者だな。俺は歌のほうは今ひとつだな。同じ“よむ”なら巻物や龍脈を相手にするほうが性に合っておる。武器も太刀一筋で、弓は苦手だ。流鏑馬になるとさっぱりになる。陰陽術があるゆえに実戦において困ることはないのだが、遊びの場では笑いの種にされてしまうのだ。ゆえに、人付き合いは嫌いだ」
筆の尻で頭を掻くミヨシ。彼は今日もまた何か書をしたためている。
「そうだ。良いことを思いついた」
ミヨシが、はたと手を叩いた。
「ミズメも一緒に来てくれぬか? 明日の集まりは堅い場でもないし、俺の身内として呼べば、おまえの活躍で面目を保てるやもしれぬ」
「あたしは構わないけど、女に負けたほうの面目が心配だよ」
ふと、いつか相手にした土蜘蛛の弓使いアナミスを思い出す。彼はミズメを女として見て、弓を握ったことそのものに腹を立てていた。
「あれれ? ミズメ様は昨晩は“きんたま”が縮まる、なんておっしゃってませんでしたか?」
ヤソロウが首を傾げる。
「あれは……あれは比喩だよ。ほれ、あたしは女だ!」
ミズメはオトリから豆狸を取り上げると、自身の衣の袂へと放り込んだ。
「あっ、盗られた! ヤソロウちゃんを返してえ」
「武芸者が弓で女に負けたとあっては恥であろうな。だが、ミズメの容姿であれば衣装さえ取り替えれば男子でも通るであろう?」
「そうかもしないね。この“邪魔なもの”さえなければね」
腕で乳房を挟み込むと中の狸が悲鳴を上げた。
「邪魔だなんていうなら分けてくれたらいいのに」
オトリが何か言った。
「しかたないなあ、じゃあ片方だけ分けてやろう」
「片方だけ!? 嫌ですよそんなの!」
「残りは次に来たときにくれてやる」
「なんですかそれ……」
「どこだったかな、田舎の山で起こった事件だよ。鬼がじいさんの顔の瘤を没収して、違うじいさんにくっつけたって話だ」
「ふうん。はあ、ギンレイ様は“おっきくする術”とかご存じないかしら。今度訊いてみよう……」
オトリは溜め息をつくとミズメの衣の袂に手を突っ込み、ごそごそとまさぐるとヤソロウを取り出して再び撫で始めた。
「なんかやらしい手つきだな」
ミズメは袂を直しながら言った。オトリはそっぽを向いた。
「……ともかく、男のふりをしたら手伝いはできそうだね。あたしは音術も扱えるから、歌もこっそりと代わりに詠んであげれるけど?」
「ううむ。同席は歓迎するが、そこまでやると流石に潔くないな。そこは男らしく散ることにしよう」
「良いね。ご愁傷様」
ミズメは手を合わせた。
「まだ散っとらんわ。苦手ゆえに、今もこうして書をしたためながら頭を捻っておるのだ。あらかじめ何を読むのか決めておけば楽であろう?」
「分かるけど、歌は気分で読むもんさ。今から愉しみだ」
物ノ怪のミズメには、他者と詠みあわせる機会はあまりない。
少し前のクレハや、先日のハリマロとの詠み合いを思い出し、「これもまたおもしろきことかな」と明日の集まりに心を弾ませた。
「はーい! はい! ミヨシ様!」
オトリが手を挙げた。
「どうしたのだ?」
「私も、一緒に連れて行って下さい。弓は見てるだけにして、歌のほうをご一緒したいです!」
腹減り虚仮歌娘が何やら無謀な提案をしている。
「おお、オトリも詠めるくちか。心強いな」
「えっ……多分! 私も頑張ります。是非ともミヨシ様の役に立ちたくって!」
ミズメは何も言わずにおいた。無論、これも面白いからである。
さて翌日。ミヨシの知人の屋敷で催された歌の詠みあわせと賭弓。
ミズメは歌会では「きららかである」との評価を頂き、賭弓でも一番の成績を残した。
作法上、肩をはだけさせる場面があったものの、胸にきつく布を巻いた“さらし”姿であったために女子であることはばれずに済んだ。
「うう、私は恥の上塗りになっただけでした」
一方でオトリは歌会の惨劇を思い出してか、座敷の隅で丸くなっている。
「いやはや。ふたりには感謝してもしきれんな」
そしてミヨシはご機嫌である。
オトリがあまりにも間抜けで残念な歌を披露したおかげで、ミヨシは笑いの種にならずに済んだのである。
「ところで、これは貰ってしまってよいのか?」
ミヨシが手にしているのは、漆黒の塗りに金箔で牡丹の蒔絵の描かれた見事な弓と、薄美尾の羽の矢である。
これは賭弓で好成績を収めたミズメへと贈られた品である。
「あたしはお師匠様が作ってくれた弓で馴染んでるし、世話になってる恩もあるからさ」
「矢は滅多に射らぬが、悪霊払いでは鳴弦ノ術で弦を弾くからな。遠慮なく使わせてもらおう」
「うう、ミヨシ様もお祓いができるんですね。私の出番はないのかな……」
巫女はいじけてしまっている。
「オトリも役に立ってたよ。皆、笑顔だったじゃん」
からかうミズメ。
「またそんなこと言って。ミズメさんはずるいなあ。なんでもできて。狩衣も似合ってて格好良かったし。私も十二単が着たいなあ」
「それはさすがに難しいな」
ミヨシも苦笑いである。
「オトリ様、撫でるのをよしてください。くすぐったいです!」
ヤソロウはオトリと居合わせると撫でられっぱなしである。
「……あっ! そこは!」
「張りがあってぷるぷるしてる……」
辱められる豆狸。
「オトリに相応しい仕事はまた探しておくとして、勾玉のことについて調べなければならんのだろう? 余暇のあいだに都を回ってみてはどうだ?」
「そうだね、そうするか。ほれ、行くぞオトリ」
「はあい。ミヨシ様、きっとお仕事を見つけてきてくださいね。きっとですよ」
ミズメとオトリは連れ立って屋敷をあとにした。
ふたりは都の寺々を巡った。
初めこそは坊主たちに怪訝な顔をされたものの、免許や三善文行の名、それから勾玉を見せれば渋々ながらも記憶や蔵書を辿って貰えた。
しかし、特に目立った収穫はなく、中には社を作って祀り上げるべきだとか、陛下に任せるかべきだとの進言も多く聞こえた。
「結局、何も進展しませんでしたね」
「そうだね。都内の寺は回っちゃったし、陰陽師の当てのほうもミヨシのおっさん待ち。もっと時間が掛かるかと思ったけど、こりゃもう数日後には諦めて紀伊国行きかな」
「旅も、もうおしまいかあ。独りだとあんなに長く迷っていたように思えたのに」
「お別れになっちゃうね」
「寂しいです。せっかく仲良くなれたのに」
言葉通りの表情でこちらを見つめるオトリ。
「あたしはどうせ退屈だし、翼もあるから、たまにオトリの里に遊びに行ってもいい? できればちょっと世話になりたいな、なんて」
よし、良い機会だと持ち掛けてみる。
「その話なのですが……難しいと思います。私個人としては大歓迎ですけど……」
色よくない返事。
彼女が言うには、里の神々が許さないだろうとのこと。
特に、里を総轄する神でもある水神は物ノ怪のことも、武芸者のことも嫌っているらしい。
そのうえ、普段は不思議な神の霧で里を覆い隠して、部外からの侵入を防いでいるという。
ときおり山に修行に来た坊主や修験者が迷い込むことはあるそうだが、そういった者も里の内部へは入れずに、門代わりの庵に導いて、一晩泊めて寝ているあいだに外へ放り出すのだとか。
「なので、私から外へ出ないと会うのも難しいかも知れません」
「別にあたしは悪さもしないし、里の秘密を知っても公言したりしないんだけどな……」
「昔は……全国の各地に、ミナカミ様のお知り合いの神様が佑わっていらっしゃった里や村が多くあったそうですが、長い歴史のあいだに衰退したり、いくさの戦火に巻き込まれて亡くなってしまいました。ミナカミ様はそれを酷く悲しく思われて、自身の里だけは絶対に泯ぼさせまいと、世間との関わりを極限まで断ってしまったのです」
「そっか。それじゃ仕方がないな」
「それでも……意固地なばかりではないと思います。里だけでなく、日ノ本中の水のことを気にかけていらっしゃりますし、大きな災害が起こった時にも巫覡を派遣なさいますから」
「オトリの神様を悪く言ったりしないよ」
「ありがとうございます。お許しさえ出れば勾玉の件のお手伝いを続けたいと思います。共存共栄にお力添えして、少しでも世の中を良くしたいとも」
「うん、歓迎するよ」
ミズメは笑い掛けたが、オトリは「お許しが出れば」と寂しげに繰り返した。
「ですから、里のそばまではしっかり送ってくださいね。私がまた迷ってしまわないように」
それからふたりは、思い出作りも兼ねて都の“市”へと足を運んだ。
市は国や朝廷へ納めた品の残りものの販売や、全国各地から持ち寄られた名産品が売られる場である。
珍しい反物や装飾品、米や味噌、中には牛までもが売りに出されている。
「人が沢山いますね!」
「迷子になるなよ」
市場には奴から貴人まで区別無しに人が溢れている。中には陰陽師の使役する識神や、ひょっとしたら物ノ怪や鬼のたぐいも紛れているやもしれない。
「お店を構えてるかたよりも、歩き売りのかたのほうが多いみたいですね」
「市場で店を構えるには許可が要るからね。それに、一店舗につき一品目の取り扱いしかできないから、それより多く商売をしようと思ったら、こっそりと歩き売りをするしかないんだ」
「ちょっと不便ですね」
ふたりのそばを市女笠姿の振り売りの女が通り過ぎる。彼女は“槐子”や“露蜂”なる薬の名前を連呼している。
「不便はちょっとどころじゃないかもね。都は広いでしょ? でも公式の市は、この西市と向こうの東市しかないし、そのうえに扱う品目や商える時期が細かく決められてるんだ。今日はだいたい満月だから、誤魔化してどっちの市でも商売してるけどね」
「叱られないのかしら」
「実際に取り締まられることは滅多にないよ。取り締まる側も不便しちゃうからね。本当なら北のほうにも市場を作ったほうが良いとは思うけど」
ふたつの市はどちらも南側にあり、朱雀大路を挟んでどちらもそれほど遠くない位置にある。北側の住人は市と屋敷の往来だけでも半日仕事になってしまう。
そのため、闇市も多く構えられていたが、矢張り本場は公式の商いを認められている東西の市であろう。
日ノ本最大の賑わいへ田舎の隠れ里の娘の反応は目の保養になるものであった。
「見てください。綺麗な絹の布地! これで衣が作れたらなあ」
星空のごとく瞳を輝かせるオトリ。彼女の見ているのは蘇芳や萌黄色の鮮やかな反物。
「買いに来てるかたも綺麗なお召し物……良いなあ」
意図ありかどうかは分からぬが、ちらとこちらを見た。
あいにくミズメの懐には高官の給与にも与えられるような品と交換できるほどの貯えはない。
――何か形に残る物を一つ買いたいな。
連れ合いの喜ぶ顔が見たい。特に、先の行き過ぎた悪戯への詫びも兼ねて。
ミズメは懐を探ったが、あてになるのはどこぞの受領からくすねたひとつ前の世代の銭束ひとつのみ。振り売りの安い品を買うのが限度であろう。
「おい、聞いたか? あっちで“火付け男の処分”をやるってよ」
ふと、不穏な話を天狗の耳が拾った。衆目を集める市場では珍しくない話だ。だが、遊びに来ている今のふたりにとっては不要なものである。
「ねえ、オトリ。向こうの市女がなんか売ってるみたいだ。見に行こう」
ミズメは連れ合いの手を引き、公開処刑とは反対のほうへと導いた。
「わっ、手を引っ張らないでください」
「手を離すと迷子になっちゃうよ。ほら!」
処刑から逃れ、別の人だかりへと足を運ぶ。
「あれはなんですか?」
「見世物だね。あれでお客さんを集めてるみたいだ」
「遠く天竺から連れて来た白鼻芯だよ! あっちではこいつが狸のように人を化かすって評判だ! 誰か餌をやってみたいものはないかい? この根っこが餌だ。餌を買えば触らせてやってもいいよ!」
とても食えたものでなさそうな野菜を振り振り女が言う。
「可哀想……」
連れ合いが呟く。
「仕方ないよ。取り上げるわけにもいかないし。根っこを買って、撫でてみようか」
ミズメの提案に静かな拒絶が返される。
「よく見たら、白鼻芯だけじゃなくって、ほかの動物も売られてる……。いのちなのに……」
オトリは鵯の入った鳥籠を見つめている。
「鵯……鳥を籠に閉じ込めてしまうなんて、あんまりよ……」
鵯や鶯などの鳥もまた、籠に閉じ込めて貴人が姿や声を愉しむものであった。
「オトリ、向こうに行こっか」
次の提案には相方のほうから手が繋がれた。
ふたりは獣たちから離れ、陽が傾くまで市を見て回った。
ミズメは、自身の懐と願いに釣り合った品を見つけることがなかなかできないでいた。
一方で連れ合いは都の子女が喜ぶ品を見かけるたびに、その瞳に憧憬を宿らせ続けた。
天狗たる娘は何度か他人の懐へ手が伸びそうになったが、ぐっとこらえた。
悪事を戒めるだけでなく、そういった手段で得た金で買った品ではオトリへの贈り物として無価値に思えたからである。
だが残念かな。結局、何も買えずに西市をあとにし、屋敷で供される夕餉を予想し合いながら日暮れの帰り道を歩くこととなった。
――あたしも少し変わったのかな……。
市場では隙だらけの人間が山ほどおり、今宵はいよいよ満月だともいうのに。
決して離さず、悪に染まることもなかった盗癖娘の掌。
「面白かったですね。素敵なものが沢山ありました」
「そうだね」
交わし合う笑みはどこかほろ苦く。
……。
大禍から望の十五夜へ。
ミズメは僅かな胸騒ぎを弄びながら、友の寝顔を眺めていた。
寺巡りは空振りに終わった。ここは神の力も抑え込む結界の内部。
それでも、前回の満月のときと比べて勾玉の神気は僅かに強くなっているように感じる。
この程度で何かが起るとは考えられないが、もしもを考えて寝ずの番をしてみる。
否、言い訳であった。
静かな寝息。邪気ない寝顔。
「……ミズメさん、買ってくれるんですか!? ありがとうございます……むにゃ」
オトリは何やら随分と勝手な夢を見てるようで、幸甚に顔をとろろかした。
陰陽持つ物ノ怪は疼きを覚え、思わず彼女へと手を伸ばした。
――おっと、いけないいけない。あたしは女、女。
師の戒めを思い出し、慌てて手を引っ込める。
「焦がりつき 片敷く人の 顔景色 こころ和めせ 秋の氷輪」
独り月に詠む水目桜月鳥。
「お別れ……か」
次の望の彼女は、果たしてどのような夜を過ごすのであろうか。
*****
賭弓……商品を用意したり、品物を賭けて行う弓の的中て対決。
流鏑馬……馬に乗って走りながら弓を構えて的に中てる競技。
好士……歌の上手い人。
虚仮歌……中身のない歌。
薄美尾……オジロワシ。
奴……奴隷に近い身分の低い者。
大禍……夕暮れを示す逢魔が時の語源。
望、十五夜……満月の異名。
今日の一首【ミズメ】
焦がりつき 片敷く人の 顔景色 こころ和めせ 秋の氷輪
(こがりつき かたしくひとの かおげしき こころのどめせ あきのひょうりん)
……氷輪は冷たく輝く満月を指す。満月のせいで心を焦げつかせながらも、その月に冷やせと命ずる一首。




