化かし035 悪戯
心が多少痛もうとも、物ノ怪の悪戯心はそう簡単に抑えられはしない。ここのところ誰も化かしていないので溜まっている。
ミズメは引き返し、裏手に回ったオトリを鷺足にて追跡した。
東の中門より中庭へ。
権利を争うだけあって、盗賊に忍び込まれはしても、立派な寝殿造りは健在。
庭は草こそ伸び放題であるが、池には鯉がいまだに泳いでおり、水面の月をおやきを食べるオトリのごとくぱくついている。
少し手入れをすれば歌のひとつも詠みたくなる情景になろう。
「伝説の仙狐だったらどうしよう……。でも、都に来てから良いところ無しだし、私も頑張らなくっちゃ」
オトリが独り言をつぶやく。
彼女は周囲を見回しながら庭をうろつくと、ミズメの名を呼んだ。
ミズメは草叢の中である。これからひとつ脅かしてやろうというのに、返事をするはずがない。
「ミズメさん……」
オトリは急に霊気を高めたかと思うと、寝殿のほうへと駆け出した。
彼女が無遠慮に廊下へ沓を踏み入れた瞬間、ミズメは鼻をつまみ、霊気を練って音術にて声を届けた。
『床に土を着けるでない!』
結界の中での術の行使。つまらない悪戯であるが、思いのほかに消耗が激しい。
――天狗そのものを名乗る以上、悪戯や怪異にも一所懸命でございます。
ミズメの訳のわからぬ矜持はおいて、声に気付いたオトリは足を止め、身構えてあたりを窺う。
「神気は感じない。弱い邪気だけ。神様なんて嘘でしょう!?」
オトリの声は殺気立っている。
『馬鹿者め。この地では神の力も抑えられるのを知らぬのか。立ち並ぶ家々にも数多の門神や竈神が宿っておる』
そう言いながらミズメは懐の勾玉を引っ張り出した。
矢張り満月が近くなると発する神気が強くなるようで、結界内でもそれらしい気配を感じられる。
「……失礼いたしました。御神様は、ご自分の領分の怪異をお見過ごしになられていらっしゃるのですか?」
まだ刺々しい。神をも恐れぬ巫女である。
『われとて怪異には難儀しておる。神とはいえ、家人が去り、祀る者がなくなれば力も失せる』
「それはいけません。御神様はなんの神様でしょうか? よろしければ御宿りになる品をお浄めいたします。多少は力がお戻りになるでしょう」
巫女が提案する。
『われは……藤原床舐といい、この屋敷の五代前の家主にして床の神である』
ミズメは笑いをこらえて名乗った。
「ゆ、床の神様ですか!? 都には八百万の付喪神が生まれるようになったってミナカミ様が仰ってたっけ……」
『おまえが今まさに足蹴にしておるのが、われの憑代であるぞ』
不満気に言うミズメ。
「し、失礼いたしました!」
オトリは片足を上げて珍妙な姿勢になった。
『ゆえに、われには袴の中の様子もしっかりと見えておる』
「きゃあ!」
今度は股に手を挟み座り込む。
『あっはっは! ……っといけない』
「今、何かおっしゃいましたか? 陰ノ気らしきものを感じましたが」
『じ、じつは、この屋敷に侵入した魔物の邪気に当てられて、信心を失ったわれは邪神に堕ちようとしておるのだ』
「それはいけません! すぐにお浄めいたしますね」
――危ねー。
額の汗を拭うミズメ。普段ならなんでもない悪戯であるが、都内では大仕事である。
だが、結界のお陰で自身の気配も容易く隠せていた。
オトリを騙すにはまたとない機会でもある。
「……やっぱり、神気を感じない」
床に手のひらを押し付けた巫女が呟く。
『零落したゆえに神聖さを欠いたのじゃ』
「床に霊的な穢れも感じませんが? 床神様に質問がございます。私と一緒に、山伏姿の女の子がここに来ていたはずです」
『し、知らぬなあ』
頬を汗が伝う。
「別れてからミズメさんの霊力が探知できなくなった……」
――あっ、感付かれた。
そろそろ姿を見せよう。本格的に怒らせてしまう。ミズメは草叢から顔を出した。
「あの人をどうしたんですか!?」
あたりが真っ白になった。
巫女の身体から大量の霊気が放出され、風が屋敷中を駆け抜ける。
庭の草木が激しく揺れ、池の水は風巻起こして宙へと吸い上げられ、鯉が一斉に跳ねた。
屋敷の外では誰かが驚きの声を上げ、どこか……寝殿の内部で何やら悲鳴も聞こえた。
「答えなさい。答えなければ床の板を全て引っぺがしますよ」
オトリが手をかざすと、池の水が横殴りの雨となって屋敷の内外に降り注いだ。
「私は水術師です。水気を含んだものは私の領分内。ここは揉めて禍の元になっていた屋敷です。曰く付きならば、解体したほうがよろしいでしょう?」
屋敷が揺れ始める。
「なんて馬鹿霊力だよ! これじゃ今さら嘘だなんて言えないじゃんか!」
頭を抱える阿呆の物ノ怪。
オトリの清めの光で誤魔化す邪気すら失せたが、今さら白状すれば良くても絶交、悪くすれば叩き殺される気がしてならない。
「私の大事なひとだったのに……」
巫女だというのに、気配に邪気が混じり始める。
陰陽の雑駁した気が、まるで見えない巨大な手のごとくに伸びてきた。
「……居た。そこでしょ」
殺気。ミズメは慌てて頭を引っ込めた。羽虫の飛ぶような音が頭上を通り過ぎる。
「肉のある存在なら、身体に水気を含んでいらっしゃるかしら?」
草葉の隙間から、オトリが光の中でこちらへ向かって手を翳したのが見えた。
全身に這い寄る冷たい気配。
いつしか鬼女に向けられた“あの術”に似た……。
ふと、あたりを包んでいた光が消え、巫女はその場に倒れ伏した。
凍えるほどの霊風もぴたりとやんでいる。
「……い、命拾いした。力の使い過ぎで倒れたか」
高鳴る心臓、全身からとめどなく汗が流れる。
オトリは気を失っているようであった。苦しげな顔で横たわっている。
ミズメは取りあえず、彼女に向かって手を合わせ「もう二度とやりません」と心の中で誓った。
それと有名な仏と神の名を適当に並べて、命あることに感謝しておいた。
「ははは! じょんならんかと思ったが、床の神と相打ちになりおった! 今なら勝てそうじゃ!」
別の気配。振り返れば宙に浮いた刀。
「……すっかり忘れてた。今日はこいつを退治しに来たんだった」
ミズメは錫杖を構える。
「誰が山伏なんかに負けるかっ! 屋敷から出ていけい!」
振られる刀。ミズメは杖で打ち返す。
――刃は本物。音は綺麗に宙を抜けてる。つまり、これが本体だね。
「そして、あたしの声が聞こえてるってことは……わっ!!!」
ミズメはなけなしの霊気を練り上げ、独りでに動く刀身に向かって短く叫んだ。
「ぎゃっ!!」
短い悲鳴と共に刀が床に落ちた。すると、妖しい煙がぼわんと噴出し、刀は一匹のけだものに姿を変えた。
「ありゃ? 狐かと思ったら狸じゃないか」
「なんてとつけもない音術じゃあ。全身の骨が粉々じゃあ」
妙に小さな狸が目を回している。
「結界の中でそんな力が出せるかよ。それにしても、やけに小さいなこいつ。仔狸か?」
狸の首根っこを捕まえて持ち上げるミズメ。
「や、やめろい! 俺は恐ろしい化け狸だぞ! “変化ノ術”を使いこなす仙狸じゃ!」
「何が仙狸だ。仙狸は狸って字を書くけど、山猫の物ノ怪だよ。豆みたいな“きんたま”しやがって!」
ミズメは指で狸の“きんたま”を弾いた。
「ぎゃっ!!」
悲鳴を上げる化け狸。
「お、おのれ、雄狸の誇りを。山伏のくせして仏心というものがないのか!?」
「一連の怪異はおまえの仕業か? 狸風情が一体なんの用で都に入り込んだんだ?」
「へっ! 聞いて驚くなよ小娘め! 俺は……ぎゃっ!!」
ミズメはもう一回爪を弾いた。
「口の利きかたが腹立つ」
「……ぼくの名前は屋島八十郎です。こう見えても、讃岐国では狸で一番の使い手なんですが」
狸はぐにゃりと脱力して言った。
「屋島って島の屋島か。田舎の狸が都になんの用だい? 魔都の噂は知ってるだろ。生半可に力のある物ノ怪が踏み込めば、他の悪霊に喰われるか術師に斃されるのが落ちだろうに」
「佐渡国の二ツ岩団三郎という狸の大将をご存知ですか?」
「知ってるよ。日ノ本じゃ、指折りの名のある物ノ怪だ。いつから生きてるか分からない古だぬきで、神になるのも時間の問題だっていわれてる」
「そのダンザブロウを越えようと志して、特訓をしておりまして、一つ名を上げてみるのも良いかと都に足を踏み入れたのですが……」
予想外に結界の力が強く、本来の力も制限されてしまい、この空き家を根城に掏摸を繰り返して生計を立てていたという。
「ははあ。噂の小さな掏摸童子ってやつはおまえか」
「はい。子供の姿なら警戒されないかと思いまして」
「小さすぎるよ。あれじゃ生まれたての赤ん坊のほうがまだ大きい。化けるんだったらもっと大きくしないと」
「無理ですねえ。自分の身体より大きなものには化けられません」
――女の姿に化けたような話も聞いたけど……。
あたりを見回す。ほかに気配はない。
「大変、お恥ずかしい話なんですが、このなりだと変化ノ術も形無しなのです」
ヤソロウは両前足で目を隠して言った。
「言っとくけど、おまえは陰陽師に目を着けられてるんだぞ。都の泯滅を企んでるんじゃないかって」
脅すように言うミズメ。再び指を構える。
「ひと様の都を滅ぼすなんて、そんな恐ろしいこと! 洗いざらい話しますから勘弁してください!」
さて、この小さな狸、屋島八十郎は単なる物ノ怪ではないらしい。
信濃国が屋島でただの狸の夫妻から偶然生まれた天性の霊才の持ち主らしく、生まれてすぐに物ノ怪と化し、めきめきと力をつけて人語や術を身につけたのだそうだ。
しかし、才と引き換えか、通常の狸よりも遥かに小さな身体をもって生まれており、普段の暮らしや喧嘩のほうはさっぱりで、仲間には虐められることもしばしばだったという。
「見返してやろうと思いまして、ぼくは更に修行に明け暮れました」
「いいぞ。一発お返しをしてやれ!」
しかし、彼はその力を仕返しに使うことなく、仲間たちを襲う山犬や熊、それから人間の猟師を退けることに使った。
「根の良い奴だなあ」
「そうでもありません。本当は仕返しをしてやりたかったんですけど、修行をしているうちにぼくを虐めていた連中は皆、代がわりしてしまいましたから」
すん、と鼻を鳴らす狸。
ヤソロウは仲間たちを助けているうちに、讃岐を始め阿波や伊予、土佐などにもその名を馳せて、そのうちに狸の英雄と称えられるようになった。
「名前が知れ渡ったのがいけなかったのか、佐渡のダンザブロウの子分が喧嘩を吹っ掛けに国へ現れるようになりました。子分はなんとか追い返せたものの、いつかダンザブロウ自身が攻めてくるかもしれません。そうなれば、ぼくの勇名のせいで故郷の皆が迷惑してしまいます。だから僕は故郷を発って……」
「先手を打ってダンザブロウの“きんたま”をひねってやろうと思ってるわけだ」
「ぼくみたいな若輩者がダンザブロウに勝てるわけありませんよう。都で名を上げれば、恐れをなして攻めて来なくなるかと思ったのです」
「情けないな! それに、掏摸に身を堕としてたら名前が広まるわけなんてないだろ、この玉無し!」
「そうなんです。玉無しなのがいけないのです。いくら術を磨こうが人間を化かそうが、狸の本分は変化にあります。ダンザブロウと戦争になれば、化け合戦になります。あいつの玉袋はこの屋敷くらい大きいそうです」
「うえっ、気持ち悪いなあ。邪魔なだけじゃんか」
「いいえ。“狐は尾っぽで狸は玉袋”と申しまして、変化ノ術は実体のあるものに化けられる代わりに、身体の総量に準じたものにしか化けることができません。幻術と違って、大きなものを見せるには、術者自身の身体も大きくなくてはいけません」
「そういやクマムシの奴にそんな話を聞いたことがあったな」
故郷に暮らす穴熊の物ノ怪を思い出す。あれもよく喋る物ノ怪であった。
「狐は修行を積んで長生きすれば尾の数が増えて、そのぶん大きなものに化けれるのですが……」
狸の“玉”は生まれつきで大きさの限界が決まっているらしく、ヤソロウは身体そのものが小さい。
「噂じゃ十二単の女が出たとか聞いたけどな」
「ああ、それはですね……ちょっと放していただけますか? 逃げませんので」
ミズメがヤソロウを放してやると、彼は少し離れて宙返りをした。すると、妖しげな煙が立ち込め、中から一人の妖艶な女が現れた。
「横から覗いて見てください」
言われるままに覗けば、女は紙のように薄っぺらい。
「ありゃ、これじゃ化け合戦にはとても勝てないね」
「狸のあいだでは“玉は根性をつければ大きくなる”なんて言われてまして、それを信じて敢えてここで特訓をしていたのですが……あなたが指で弾いた粗末なものが答えです。すっかり手の打ちようを無くしてしまって、ここで掏摸とおばけの真似事をするしかなく……」
さめざめと泣き始める平べったい女。
「泣くなよ。最初の威勢はどこへいったんだ」
「最近は人間相手に暴れてばかりいたのと、満月が近いせいで気性が荒くなっていたのです。そのうえに神殺しを行うおっかない巫女が倒れたからといって、つい調子乗ってしまいまして……」
ヤソロウは煙と共に小さな狸に戻った。
「神殺し?」
「だって、この屋敷に居たという“床神”をやっつけてしまったでしょう? ぼくはあの巫女がおっかなくて、初めて人間を追い返さずに殺してしまおうと思いました」
「……ああ、あれはあたしも金玉が縮まる思いだったね」
「でしょう? あなたは彼女のお仲間なんでしょう? ぼくは都の人々に害をなし続けた物ノ怪です。滅されても文句は言えません。ですが、どうか故郷の狸たちのことだけは見逃してやってください」
ヤソロウは両前足を合わせて鼻先を床にくっ付けた。
――ははあ、これは“使える”ね。
天狗たる娘はにやりと笑った。
「見逃してやろう。その代わり、悪戯者同士で手を組もうじゃないか」
「えっと、悪戯者同士ですか?」
「そうそう、つまり……」
ミズメは背中から翼を生やして見せた。満月が近いせいか、羽根は初めから黒に近い色合いである。
「あなたも物ノ怪だったんですね!」
「そういうこと。そして、あたしとこいつは親友だ」
寝かされた巫女を指差す。
ミズメはオトリを騙したことをヤソロウに話して聞かせた。
そして、「床神を名乗ったのは自分ではなく、ヤソロウということにしてくれ」と持ち掛けた。
「そ、そそそんなことをしたら狸鍋にされてしまいますよう!」
「大丈夫、大丈夫。おまえの故郷を想う気持ちを伝えれば、このおっかない巫女も菩薩様になるからさ」
ミズメは小さなヤソロウを両手で掴んで言った。
「うう……。どっちにしろ死んだ気でいたんです。生き残れる機会があると仰るのなら、ミズメ様のお話に乗りましょう」
「頼むよ。その代わり、ヤソロウの修行の手伝いになりそうな人物を紹介してやるよ」
「本当ですか!?」
「勿論。身体の大きさは流石にどうにもならないと思うけど、根性や術に関しては磨けると思う。それに、都でも今よりは安全に暮らせるようになるし、上手くやれば掏摸よりは名を上げる機会も得られるよ」
髭面の陰陽師を思い浮かべるミズメ。
――これで一件落着だね。いやあ、あたしも中々に頭が回る。
などと思っていると……。
「ミズメさん……」
オトリが起き上がった。
「ミ、ミズメ様、聞かれたのでは? どうやらぼくたちは死んでしまうのではないでしょうか?」
「あたしもそう思う」
顔を見合わせる物ノ怪ども。
しかしオトリは「良かった」と呟くと、ミズメを抱きしめて静かに泣き始めたのであった。
*****
鷺足……鷺が歩くように移動すること。抜き足差し足忍び足。
じょんならん……どうしようもない
とつけもない……とてつもない
讃岐国……うどんや狸で有名なあの香川県。
二ツ岩団三郎……団三郎狸として知られる、日本三大狸のうちの一匹で伝説の狸。二つ岩大明神としても祀られている。




