化かし033 好色
「ミズメさん」
オトリは立ち上がり、笑顔でこちらを見た。
「私、帰りますね」
「ちょっと待ってよ! 仕事仕事!」
相方の袖を引っ張るミズメ。
「だって、このかた、気持ち悪いんですもの」
オトリは貴人を指さして言った。
「指をさすな!」
「おっひょっひょ。もっと罵ってたもれ」
ハリマロが何か言った。
「多分、この人はミヨシのおっさんより位が上だよ!」
「その通り。縫殿寮の助で、正六位下じゃ」
ハリマロが楽しげに語る。
油小路針麿。
彼の務める宮中の縫殿寮は、女官の差配や宮中の着物に関することを支配している。
更に、彼には親族に針磨の名人がいるという。
製造される針は上質であり、宮中の縫殿寮でも当然、重用されている。
「麿は、縫殿の女官たちの口を縫うのも、番登を縫うのも自在と言うわけじゃ」
立場を利用して、毎晩のようにどこかの女子の住まいを訪ねる好色ぶりで、針妙は勿論、下は裳着も済まぬ娘から、上は采女に、なんと後宮で仕えられる側の立場にあった経験のある尼にまで噂を持ち、接点のある者で彼に声を掛けられたことのない女子は無しと言われているそうだ。
「どうじゃ、オトリも麿に“ちくり”とやられてみんか?」
オトリは無視をした。
ハリマロは中々の浮気性で、特定の女性のもとへ通い続けることは稀で、身を固めることもなく、また女子のほうも“そういうもの”として割り切っているという。
それでも子を宿せば、彼の人柄はさておき、そこそこの官位と名産品への接点は、生活への保障や出世への足掛かりとなる。
取り合いによる揉めごとが起こっていないのは、彼が“そういうもの”だからである。
彼は一種の共有物で、曰く「皆のハリマロ様」なのだそうだ。
「大人気ゆえに、呪いや生霊を向けられる筈もないんじゃがのう。悪質な物ノ怪や鬼の仕業ではないかと恐れて陰陽師に頼んだのじゃ。それが、麿のことを侮ってか、中々仕事に着手してくれんかったのじゃよ」
扇子を振り振りハリマロが言う。香のどぎつい臭気。
「それで、具体的にはどういったことが起こるんですかね」
ミズメが訊ねる。
「音じゃの。天井や床から妖しげな音や声がしおる。あなおそろし、いとおそろし! よもや、大江山の鬼ではなかろうか?」
「鬼の仕事にしてはみみっちいですね」
ミズメの知る鬼はどれも目的に対して真摯である。
「いやいや! これだから山伏の小僧は。麿は恐ろしい鬼の仕業だと思うのう。オトリよ、巫女のおまえはどう思う?」
ハリマロは扇子で指して訊ねる。ついでにちゅちゅちゅと水っぽく口を鳴らした。
「気持ち悪いですね」
「おひょひょ、もっと罵ってたもれ」
「真面目にやれよ」
ミズメがぼやく。
「男はお呼びではない。帰ってもよいぞ。オトリだけでよい」
ハリマロはオトリのことをいたく気に入っているらしい。
座ったまま膝で距離を詰め、オトリの両手を取った。
「妖しげな物音は夜に酷くなるのじゃ。最近は昼夜を問わずになって、いよいよ辛抱ができぬ。のう、そちも麿と共に妖しげな物音を立てぬか?」
「立ててどうするんですか。止めたいのでしょうに」
素で言っているのか、突っぱねているのか。どちらにしろ、オトリは無表情である。
――そうやって流せるなら、さっきももう少し冷静になって欲しかったよ。
ミズメは路で童女を見つけた場面を思い返す。
「立てたら、挿すに決まっておろう」
ハリマロはさらに迫り、オトリの衣の肩へ手を掛けた。彼女は助けを求めるようにこちらを見ている。
――まあ、十中八九こいつが原因だろうね。何が色事師だよ。都にもこんなに直接的に迫る無粋な男が居るもんなんだな。
ミズメは心の中で溜息をついた。
都の男女は色恋に忙しくするが、共に床に入るまでは無闇に手を触れぬし、直接的な誘い文句を投げることもない。
男が歌を用いて気持ちを伝え、女も歌で返すか、仕草をもって答えるかするものである。
あるいは一旦は気持ちを持ち帰って、文でやり取りをするのだ。
ハリマロは色事師として自信があるようだが、これでは方々で問題視されていても不思議ではない。
「どうじゃ、山伏などと組まずに、麿と組み合わんか? ミヨシなどに仕えず、縫殿へ来んか? 猿女の席も宛がってしんぜようぞ。都の女の相手ばかりで食傷気味なのじゃ」
オトリは組み伏せられ、衣の袂に手を掛けられている。彼女の中で霊気が練り上げられてるのがひしひしと伝わる。色々とまずい。
ミズメは“どこからともなく”錫杖を取り出すと、床板を強く突いた。
「な、なんじゃ! 麿に盾突く気か!」
と、言いつつもハリマロは素早くオトリから離れて座り直した。
「ありゃ?」
ミズメは首を傾げた。床下の気配と物音。
ハリマロへのちょっとした威嚇のつもりだったのだが、今ので霊障の正体が判明してしまったのである。
「何を呆けた顔をしておるのじゃ! 乱暴を働く気であるなら、検非違使に突き出すぞよ!」
扇子を指し指しハリマロがいきり立つ。
「乱暴をしようとしたのはどっちですか!」
オトリが声を上げる。するとハリマロは嬉しそうな顔をして再び手を伸ばした。いよいよ大袖が振り上げられる。
「ふたりとも、やめなよ。鼠が居るよ」
ミズメは杖で床をつつきながら言った。それから立ち上がると「上にも居るんだろ!」と大きな声を上げた。
「あれ? 今、天井で音がしました。陰ノ気も感じないので隠れた鬼でしょうか?」
「ひょええ! 鬼に違いない! あなおろそしや! 早く退治してくれたもう、早く退治してくれたもう!」
オトリに抱き着こうとするが押し退けられるハリマロ。
「鬼が昼間っから床や屋根に潜むもんかね」
杖で肩を叩き呆れ声。
「オトリ、ちょっと捕まえてきてよ」
「私が独りでですか!?」
「独りで充分だろ」
ミズメは“どこからともなく”草蔓を取り出してオトリに手渡す。
「む、縄じゃなくてただの蔓」
オトリが睨んだ。
「最近はこっちのほうが便利かなって」
「もう! ひとのことをすっかり当てにして」
そう言いながらも、オトリは腰をあげて屋敷を出て行った。
「なんじゃ? どういうことじゃ? オトリが鬼に喰われてしまう。小僧め、男なのだからおまえが行けばよかろう!」
床を踏み鳴らすハリマロ。
すると下から床を強く叩く音が返ってきた。
「出ていけ~。出ていけ~」
ついでに“人の声”も。
「ひいいいっ!! 退治してくれたもう!!」
飛び上がるハリマロ。
「女に手を出すな~。男も大切にしろ~」
今度は天井から。ハリマロは頭を抱えて床に伏した。
それからしばらくすると、天井の物音が激しくなり、
「ひえっ!? どうやって登った!?」
などと聞こえて、すぐに静かになった。
「逃げても無駄だよ。お仲間は捕まったよ」
ミズメは下を這いまわる気配の行く先々の床を杖で叩いて追い回す。
さて、こうして霊障の原因はあっさり捕縛された。
「なんと! 悪鬼悪霊はそちらであったのか!」
袖を口に当て身を引くハリマロ。
「男だからって散々扱き使いやがって! 挙句に、俺のかかあにまで手を出して!」
「あんたに言い寄られるのはもううんざり! 近所の人たちだって迷惑してるんだからね!」
どうやらハリマロの屋敷に仕えていた者たちらしい。
声を上げた二人以外にも、数名の捕縛者がずらりと並んでいる。
「ハリマロさん、あんたの日頃の行いの賜物だよ。霊的な気配は感じないから、原因は彼らで間違いない」
「どうしてこのようなことをするのじゃ? 麿はとても恐ろしかったぞよ」
「どうしてって、理由をおっしゃってたじゃないですか」
オトリが溜め息をつく。
「おひょひょ。オトリよ、達者な縄捌きじゃったのう。それに見事な大力じゃ。麿も縛ってくれんか?」
「もう、この人いや! ミズメさん、縛ってもいいですか?」
騒がしいふたり。
「縛ってたもう。縛ってたもう」
――原因は見つけたけど、ここからが面倒だろうね。
主人に対して仇をなした者の末路は、追放や死と相場が決まっている。
オトリの倫理から見れば道理は下人たちのほうにあるであろうが、都の倫理や律令でみれば彼らはもう死んだも同然である。
「あんたら、気持ちは分かるけどさ。こんなことしてただで済むと思ってるのか?」
下人たちに問いかける。
「我慢の限界だったんだ。こいつのせいで、仕えてる俺たちまで嫌われちまって」
「おらは、ハリマロの種の子をふたりも抱えているよ。乳も枯れちまった」
「どうせ、他に当てもない、いずれ遣い潰されるなら、いっちょ仕返しをしてやろうと思ってな」
下人たちは声を上げてハリマロを非難し、顔を真っ赤にして罵詈雑言を浴びせ始めた。
「そ、そそそそそそちたち! 麿に向かってそのような口を! 麿は、麿は……!」
怒っているのか哀しんでいるのか。真っ白な顔を白黒させるハリマロ。
彼は官人である。それも、ミズメたちの後見人よりも上位の。当然、腰にも太刀が提げられている。
「……ハリマロさん」
重苦しい声を発するオトリは、すでに霊力満点のご様子。
暴れ巫女を止めるのに何か良い手はないか。ハリマロよろしく腰に齧りついて気を散らすか、下女の子供の話を訊ねて気を逸らすか。
いや、どちらも逆効果であろう。
「麿は……麿は正直興奮してきた! そちら、普段から不満に思っておるのなら、どうして言わなかったのじゃ? どうして罵倒してくれなかったのじゃ!?」
ハリマロは太刀ではなく扇子を手に問いかけた。見事な鮎の絵柄が開かれる。
「そ、そりゃあ。言ったら斬られるからに決まってるだろ! 皆、おまえの悪口を言ってるんだぞ!」
「陰口や怨みなど、おぞましいものじゃ。不満があるならば、直接罵りたもれ。なんなら、烏帽子がずれぬ程度であればぶってもかまわぬ!」
そう言うと油小路針麿は下人たちに向かって尻を向けた。
「オトリよ、そこの下女の縄を解いてくれ。そして、そちは麿の尻をぶってくれたもう」
オトリは黙って縄を解いた。女は鼻息荒く、命じられた通りに平手を振り下ろした。
屋敷中に良い音が響いた。
「いと心地好し!! あな気持ち良し!!」
ハリマロが恍惚の表情で叫ぶ。
「気持ち悪……」
オトリがぼそりと呟く。
「もっと大きな声で!」
ハリマロはオトリに叫ぶ。
「なんなのこの人!?」
悲鳴を上げるオトリ。
「他の者の縄も解いてくれたもれ。そして揃って麿の耳と尻を苛んでくれたもう! さすれば、何もかも水に流し、そちらの勤めの上の不満も聞いてやるぞよ」
尻を振り振り言う奇人。
縄は解かれ、ハリマロの尻は侮蔑の言葉と共に滅多打ちにされた。
「阿呆くさ……」
だがまあ、丸く収まったようで(?)何よりである。
ハリマロが浮気をしても恨まれぬのも、女たちのあいだで呪いの投げ合いにならないのも、恐らくはこの性癖のお陰なのであろう。
――いやはや。長生きはしてるけど、こーいうのは初めて見たよ。
「極楽が見える……素敵な家人を持ったものじゃ……」
ことの済んだハリマロは床に伏したまま腰を痙攣させている。
下人たちも立ち去ることはなく、晴れの表情をしていた。
「ハリマロさんよ。解決したとみていいね?」
「もちろんじゃ。礼は三善地相博士の屋敷へ届けさせる。たっぷりと上乗せをしての。最後にひとつだけ頼んでよいかの?」
「なんだい?」
「オトリの大力で麿の玉を蹴って欲しい……」
「あっはっはっは!!」
ミズメは腹をよじって転げ回った。
「ミズメさん! うちもう嫌やわー! はよう里に連れて帰っておくんなーい!」
オトリはとうとうお邦言葉と共に涙を流し始めた。
「なんと! 里を想い涙する田舎娘。いと美し……。この床が青田の泥であればどんなに良かったことであろうか」
油小路針麿はひとつ洟を啜ると立ち上がった。
「かたほとり 若草に唯に 袖の時雨 我つばくらに なりたしと思ふ」
掴みかからず、距離を詰めず。ただ、巫女の娘を見つめて詠う。
「えっ? えっ?」
オトリは戸惑いハリマロを見返す。家人たちすらも物珍しげに雇い主を見ている。
「返事を待ってるんだよ」
苦笑い。
「えっと、燕になりたいっておっしゃったの? なれるのなら別に勝手に……」
――……。
ミズメはハリマロとオトリのあいだに割って入った。
「……射干玉の 黒き羽交と 袖交わし 真旅誓いし 吾が渡り鳥」
詠み上げてオトリの腰を抱き寄せる。
「えっ!? 何、なんなんですか!?」
引き寄せた相方の熱っぽい頬を感じる。
「な、ななななんと、この小僧め!」
ハリマロは頭を掻きむしるとミズメへ飛び掛かり、服の袂を掴んで激しく揺さぶった。
「下賤な男のくせして、みやびに詠い上げおって! 矢張り我慢がならぬ! 麿の力をもって、貴様とミヨシを……」
激しく揺さぶられたせいで、鈴懸の袂が涼しくなった。
「は……? 女の胸?」
ハリマロの手が乳房を優しく圧した。
「誰が小僧だって? 見抜けなかったなんて、平安いちの色事師が聞いて呆れるねえ!」
天狗たる娘がにやり。
「な、なんということじゃ」
ハリマロは力無くへたり込んだ。
「あーっはっはっは! それじゃ、お仕事も済んだし、帰ろうかオトリ」
オトリの腰を抱いたまま踵を返すミズメ。
「えっ、えっ? どういうこと? 放してください、ミズメさん!」
抵抗は弱々しい。
「ま、待て!」
――ちぇっ、軽はずみだったかね。逃がしてくれないか。
「まだ……まだじゃ! まだ、そちのことを口説いておらぬ!」
「だから、オトリは……」
「そうではない! 水目桜月鳥、そちのことじゃ!」
ハリマロは何度かすっ転びながら立ち上がった。
「へ、あたし!?」
「そうである! 惚れた! 手早く難事解決するその手腕! 荒々しき態度に反した歌力に、隠されし母なる丘! そちが一番じゃ! 麿に通わせてたもう!」
ハリマロがこちらに向かって駆け出した。
「勘弁してくれ!」
ミズメもオトリを放していざ逐電。
「えっ? なんでですか? なんなんですか!?」
相変わらずわけの分かっていないオトリ。
それからミズメは陽が沈むまでハリマロに追い掛け回されたのであった。
これにて事件解決。
*****
縫殿寮……宮中の裁縫を司る機関であり、この時代は女官の人事も司っていた。その性質上、女子の憧れの仕事場であった。
助……長官である頭に続く地位。次官。
針磨……針を作る職人。
針妙……貴人や寺院や名のある家に雇われて裁縫仕事をする人。
裳着……公家の女子の成人の儀で、裳を着て祝う。
采女……当時の天皇の食事に奉仕した女官。官位は高くないが、お気に入りの女性が多かったとか。
後宮……后妃などの住む場所。
猿女……神事に関わる縫物に携わる役目で、巫女が務めた。
今日の一首【ハリマロ】
「かたほとり 若草に唯の 袖の時雨 我つばくらに なりたしと思ふ」
(かたほとり わかくさにただに そでのしぐれ われつばくらに なりたしとおもう)
……かたほとりは田舎。袖の時雨は涙。つばくらは燕。ほとりと掛かる乙鳥のは燕の異名。オトリの涙をみて都から田舎に言ってでも添い遂げたいということか。
今日の一首【ミズメ】
「射干玉の 黒き羽交と 袖交わし 真旅誓いし 吾が渡り鳥」
(ぬばたまの くろきはがいと そでかわし またびちかいし あがわたりどり)
……射干玉は黒い実であるが、黒や髪、闇などに掛かる枕詞で、それ自体は関係がない。
羽交は翼の意で、袖交わすは男女が……解説は野暮なので、一言で言うと「俺の嫁」という歌。ハリマロの歌と同様にオトリを題材に詠んだ歌で、かなりストレートである。




