化かし003 人好
翌日、ミズメは温泉の浸かり過ぎでのぼせた上にふやけて、さらに身体を乾燥させるための飛行のさいに冷えてしまった身体をさする羽目となった。
それから健康体操をひと踊りしたのちに、くだんの巫女を探すことにした。
ミズメは人探しが得意である。彼女は常人にはできない幾つかの特殊な探索法を心得ていた。
翼は勿論のこと、物ノ怪や巫覡僧侶に付き物の法術のたぐいを持つゆえだ。
一つ、音読みの力。天狗を名乗る娘は音にまつわる術に通じていた。
これを用いて偸み聴きを試みたり、遠方に怪音や奇声を届かせることができる。
山の中で獣を探したり、気に入らない通行人を脅かしたりするのにも持ってこいだ。
震えを物に伝えて振動させて起こす怪異は特にお気に入りである。
そう語れば聞こえは悪いが、悪戯以外にも悪たれを挫くにも役立てている。一応は。
一つ、風読みの力。天狗を名乗る娘は風にまつわる術に通じていた。
風は音とも密接な関係があり、彼女の翼を行使する上でも非常に重要である。彼女の視点は鳥の視点だ。
通常の鳥は視力頼りだが、彼女は音と風の術を操れば風に呑まれるような音を聞き分けることも可能であった。
風術といっても、専門の法力僧や風神の扱うような派手な竜巻を起こすことはできないが、自身を大きな鳶だと間違えて飛んでくる矢を落とす程度には風起こしにも通じている。
他にも、純粋に霊気を使った気配の探知法というものもあったが、それは避けておいた。
巫女や僧侶の特技であり、逆手に取られてこちらの気配を察知されかねないからである。
霊気を抑えて空から探索すれば、見上げさえしなければ感付かれはしまい。
……もっとも、その訪ね巫女には空を見上げる余裕など無いようだったが。
「あーあ。やっぱり痛い目見てら」
ミズメが巫女を見つけたのは先日に脅し損ねた受領の屋敷の庭で、雇い主に失敗を咎められている真っ最中であった。
「この役立たずの売女め! 違法術師として都の検非違使に引き渡してくれるわ! それが嫌なら……」
やはり外道の男。彼が巫女に対して行った仕打ちは、意趣晴らしにしてはあんまりであった。
銭はもちろんのこと、食料のひとつも支払っていなかったくせして、不始末への補填として“身体上の要求”をしたのである。
巫女は全力で断っていた。若い娘だ、操は惜しいだろう。
拒絶に怒った男は太刀を振りかざし、鎮兵上がりの用心棒たちをけしかけたのだ。
それから巫女は反撃をすることもなく、山のほうへと逐電だ。
どうなることやらと空から眺めていたミズメであったが、巫女の脚が思いのほか……というか異様に速かったために、しばらくは静観することにした。
蝦夷との戦争経験を持つ兵相手に、だぶついた巫女装束姿で逃げ切る芸当は中々の見物である。
「こ、ここまで逃げたら平気かしら……?」
山中の森。巫女は木を背に来た道を振り返っている。一足先に落葉した樹木であったため、空からは丸見えだ。
月下で魅せた柳髪には枝やら葉やらが引っ掛かり、まるで胡散臭い原始宗教者の様相であった。
「まったく。物ノ怪に関わると碌なことがないんだから。あの鳥人間め! ……人間じゃないんだっけ? 鳥物ノ怪め! 今度会ったらただじゃおきませんから!」
音術によって偸み聞かれる巫女の悪態。続いて彼女の腹の音が聞こえてきた。
「あたしのせいじゃないっての! 腹立つな。どれ、ちょっと意地悪をしてやるか」
ミズメは術を操り、付近の森で探索を続ける追っ手の音と、巫女の発する音を交換してやった。
「あーあ。お腹空いたなあ……」
巫女がぼやく。二度目の腹の音。
『今、でけえ腹の音さ聞こえた気がするべな? お腹が空いたって』
『まさか。冬眠明けの羆じゃあるめえし』
『気ぃ付けろ、手練れの術師じゃ。そろりそろり“あべえ”や』
『まったく、受領様も人使いが荒いべ。あの小娘を捕まえんと“こしゃがれ”るべ』
こちらは術で巫女のもとへ届けられた追っ手の声。
「もう追い付かれた!?」
巫女はびくりと肩を震わすと、脇目も振らずに駆け出した。
予想外だったのか、彼女は相当慌てており、途中で転倒する場面まで披露した。
「あっはっは! 愉快愉快!」
天狗なる娘は空の上で腹を抱えて笑った。
さて、巫女はとうとう体力が尽きたか、息も絶え絶えの鈍行となり、振り返り追手が見えないことを確認すると、道にへたり込んだ。
「意外と長く持ったな」
ミズメは握り飯を齧りながら言った。ちなみにこの握り飯は例の受領にへつらって身内を売った荘民の弁当をかっぱらって得たものである。
「どれ、そろそろ助けてやるか」
巫女に声を掛けようと高度を下げる。すると、付近に“別の人影”があることに気がついた。
一人の男の姿。
身なり汚く、髪は乱れ、髭も伸びっ放し。しかし筋骨逞しく、薄汚れた肌には大きな古傷が遠目にも見て取れる。
腰に下げているのは鈍く日光を反射する裸の得物である。やいばにはうっすらと邪気や怨念が霊視される。
追っ手ではないが、関われば確実に身の危険に晒されること請け合いの人物であろう。
――あれは山賊だな。今のあいつじゃ心配だし、ちょっと脅かして追っ払ってやるか。
ミズメは頭の中で好みの悪戯を選りすぐり始めた。
ところがすぐに、山賊の様子が“妙”であることに気が付いた。
「あいつ、何か抱えてるな? ……秘技、天狗の目!」
ミズメは指で輪っかを作ると、それを目に当てて山賊の男を見た。
秘技、天狗の目。特段、視力が良くなったりはしない。ただ言ってみただけである。
実際に山賊の抱えた問題を看破したのは目ではなく耳だ。
彼からは“相応しくない声”が聞こえてきたのである。
「おぎゃあ! おぎゃあ!」
「うへえ、勘弁してけろ。とうとう泣き出したべ。まったく、あいつはどこ行ったんだべか?」
山賊が腕に抱えているのは赤ん坊だ。どうも不釣り合いな組み合わせ。
「あ、あの。何か御困りですか?」
訊ねたのは巫女の娘。未だ遁走で息があがったままでの接触である。
――迂闊なやつだな。
義賊を自称するミズメも赤ん坊のことは気に掛ったが、物ノ怪の化かしや山賊の罠が頭によぎったために警戒を解いていなかった。
ミズメはふたりには近寄らず、手近な松の木に腰掛けた。それから、音の流れを操作する術を用いて注意深く観察をすることにした。
「やあっと、戻ってきたか……と思ったら、違えな。なんでこんな所に巫女が居るんだべ?」
山賊は首を傾げた。
「赤ちゃん、泣いてますけど、なにか御困りですか?」
「いやなに、女を捕まえて犯そうとしたらな、その前に小便に行きたい言うてな。湯放るあいだ赤ん坊を預かってけろって言うて持たせて、ちっとも戻って来んのじゃ。なんじゃ赤子の顔見てたら摩羅も萎えてしもたし、こいつ殺しておさらばしようと思ってたところだべ」
男は己の非道をさらりと言ってのけた。
「なんてことを! 駄目です! 女の人を襲うとか、赤ちゃんを殺すなんて!」
巫女の娘は足を踏み鳴らして鬼畜の徒へと接近すると、その野太い腕から赤ん坊をもぎ取った。
「なんて豪胆で大力の女じゃ。あのな。わしゃ、意地悪で殺そう言うてるんじゃないべ? 母親は戻って来んし、人の赤ん坊はさすがに食えんし、かといってわしの乳は吸うても多分……なんも出ん。ほんなら捨てるしかないが、打ち棄てたら生きたまま犬や熊に齧られるべ? 殺してやるのがせめてもの慈悲ってもんだべさ」
「それでも駄目です! 母親を探すとかできるでしょうに!」
巫女はかんかんになって怒っている。
「そこまでしてやる義理はないべ。しっかし、女の癖に肝の座った奴だったべなあ。子供を囮に逃げおおせるなんて“けげしい”のう」
山賊は腕を組んで深々と頷いている。
「お母さんがそんなことするはずありません!」
巫女が声を上げた。赤ん坊も合唱するかのように泣き声を激しくした。
「んー、言うても母親当人が押し付けたんだべ? ともかく、そいつは任せたからな。わしゃ一晩中待っとったんじゃ。くたびれたわ。そろそろ寝かせてけろ」
男はそう言うと大きな欠伸をして、さっさと立ち去って行ってしまった。
「えっ、私が世話するんですか!? ちょっと待ってください!」
巫女は泣きじゃくる赤ん坊を抱えて右往左往し始めた。
――お人好しだなあ。どれ、面白いからどうするか見てるか。
若い巫女が迂闊なのは、見ていてはらはらしたが、善行に対してまっすぐなのは気に入った。
山賊も騙し討ちということはないようで、素直に巫女から離れていっている。
ならば、赤子を押し付けられた彼女がどう立ち回るか、握り飯の残りでも齧りながらお手並み拝見といこう。
まあ、本物の巫女であれば種々の雑用に通じていても不思議ではない。案外、早々に問題を解決して見せるやもしれない。
……しかし、世の中はそう甘くはなかった。
巫女は下山し、近隣の村で赤ん坊のことを訊ねて回っていた。
だが、村人は一様に首を振るか、巫女が逃げてきた方角……つまりは受領の荘園の方角を指差すばかりだ。
それから巫女はもう一度、一軒一軒巡り、乳が借りられないか訊ねていたが、怪しげな漂泊の巫女に親切にする者は皆無であった。
「どうしよう。このままじゃ赤ちゃんが死んじゃうかも……。私もお腹空いたな……」
巫女はしつこく聞き回ったせいで村からも追っ払われ、元来た道を引き返す。
だが、追っ手のこともあってか、途中で歩を止めてしまった。
それから自身の衣の袷を開き、乳を吸わせるのを試みたようだったが、溜め息で終わった。
そもそも出るなら家々を訪ねることもなかったであろう。
しかも不運なことに、赤ん坊が歯を立てたらしく、巫女は涙目で悲鳴を上げた。
それでも巫女は諦めなかった。
人が駄目なら獣ということか、あるいは自身の空腹のためか、今度は赤ん坊を抱えたまま山中をうろつき、獣を捕まえようとし始めた。
無論、威勢だけで捕らえられる獣など野山には存在しない。手が塞がっていれば尚更だ。
そして陽が傾き始めたころ、巫女はとうとう力尽きて、道端に倒れ伏してしまったのであった。合唱。
「どれ、あいつが助けるに値する奴だってよおく分かったし。ようやく、あたしの出番だね」
ミズメは満足そうに頷くとようやく地上へと降りた。
*****
検非違使……今でいう警察や検察などの仕事を担った役人。
逐電……逃走すること。
蝦夷……北海道から青森、時期によっては秋田辺りを指す。当時、その地はまだ日ノ本の律令の及ぶ範囲ではなかった。
あべえ……行こう。
こしゃがれる……叱られる。
湯放る……小便をする。
摩羅……仏道の修行の邪魔をする者。あるいは男性器を指す。
けげしい……賢い。