化かし027 老翁
ミズメはオトリに引っ張られて、ヒサギ少年の“お爺様”を探した。
「ヒサギの爺さん? アガジイか。“縣”の爺さんはあっちの天蓋に居るよ」
縣とは国を管理する国司を指す古来の言葉である。
聞くところによると、アガジイのそれは字のようなものらしい。
彼は子供ほどの大きさの人形を操り、劇を披露する芸能者だという。
演目によっていくつかの人形を使い分けるために、領民を束ねる縣の名を頂くそうだ。
「さあ、ミズメさん。お爺さんの所に行ってお手伝いです」
オトリに背中を押される。
「オトリは来ないのかよ?」
「私は水回りのご相談がないか聞いて回ります。それと蜈蚣の情報ももう少し集めたいので」
「ほったらかして逃げちゃうかもよ?」
「もしそんなことをしたら……」
相方が真っ直ぐとこちらを見た。
「がっかりすると思います」
“思います”なのにすでに顔がそうなっている。
「分かったよ。なるべく善処する」
下手に叱られたり術力で脅されるよりも効く。ミズメは観念して天蓋へ向かった。
「どうもー、山伏が善行をしに来たよ。何かご用事はないかい?」
中を覗き込むと直垂と烏帽子姿の老翁と、尼の装いの老婆が居た。
彼らはのんびり湯を飲んでいたようだ。
ミズメはここへ来た経緯を話し、蜈蚣の棲みかが見つかるまでの時間潰しとして何か手伝いはないかと訊ねた。
「わしか? わしは別に何も困っとらんな。全部ヒサギがやってくれとるし」
長い白髭を撫でるアガジイ。
「そんなこと言わずにさー。手伝わないと相方に叱られるんだ」
「不誠実な理由じゃの……。そもそもヒサギにやらせているのも、あやつがやりたがるからじゃし、もとより自分のことは自分でできる。強いて言うなら、話し相手くらいじゃな」
――ちぇっ。
一番面倒だ。会話は得意なつもりでいるミズメであったが、老人相手となれば話は別だ。
本来ならば何かお遣いを頼まれて、それを理由に直接の関わりを薄くして乗り切るつもりであった。
「じゃあ、何か旅の話でも聞かせよっか? 旨い食い物や酒の話ならできるけど」
「わしも旅暮らしは長いしの。どうせならこっちの“アマババ”とお喋りをしてやってくれんか?」
「尼の婆さんと? 説法かな?」
ミズメはアガジイの促しに従って蓆の上に胡座を掻いた。
「ヒサギちゃんかえ?」
アマババが薄目でこちらを見た。
「違うよ。山伏のミズメだ。ヒサギとは……友達だよ」
少し躊躇うが友と名乗る。オトリには止められたが、ミズメはまだ彼へちょっかいを掛ける気でいた。
「よく来てくれたねヒサギちゃん。今日もお話をしましょうねえ」
「いや、あたしはヒサギじゃなくてミズメ」
「水向け? 誰かお亡くなりになったのかえ?」
どうやら耳が遠いようだ。隣に座るアガジイが笑った。
「ミズメだよ。ミ、ズ、メ!」
「ああ、お馬さんのね」
「それは蹄!」
「それじゃあ、あれですね。お馬の背中に着けるやつですねえ」
「それは鞍! 一寸も合ってないよ! もう一度言うよ? あたしはヒサギじゃなくて、ミズメ!」
聞こえるように大きな声で言う。
「水攻め? どこかのお城でも落としてきたのかえ?」
「そんなことしないよ!」
「そうじゃったねえ。ヒサギちゃんは優しいからねえ」
「違うっての! ちゃんと目を開けて見てよ!」
「目……」
老婆の呟きには一抹の寂しさがあった。
尼姿の年寄りだ。耳だけでなく、目も不自由なのかもしれない。闇と静寂の中では湯呑みや少年の温かさはいかにありがたかったであろう。
今の自分はミズメではなくヒサギとされている。
オトリの求めているものには、こういった“事情への配慮”も含まれているはずだ。
ミズメは老婆へ申し訳なく思った。落胆させてしまっただろうか。しかし、一度出た言葉は戻らぬのだ。
……が、老婆は目をかっと見開いた。
「あら、本当。ヒサギちゃんじゃないねえ」
「見えるのかよ!」
「ごめんねえ。目を開けるのが面倒臭くて」
「そんな横着はあたしでもしないよ。ね、ヒサギじゃないでしょ? あたしはミズメ。蜈蚣退治に来たんだけど、蜈蚣の足取りが掴めるまではここでお手伝い。何か必要なことはある?」
「蜈蚣の足取り。沢山あるから時間が掛かりそうねえ」
「そうそう。足を一本一本丁寧にもいで……って違うよ!」
「蜈蚣は串焼きが一番じゃよ。歯ごたえがあって顎に良いんじゃ」
「そっか。あたしは生でもいけるよ」
都暮らしだったミズメが幼いころから口にしていたのは、穀物や野菜や肉などの一般の人間が食するものと同じである。
しかし、物ノ怪と化してからは鴉や鳶の魂の影響か、なんでも食えるようになっていた。
旅の道中でも何度か蟲で胃袋の世話をしようとしたが、相方のほうがさっぱり駄目らしく、ミズメにも食べるなと強要、これが空腹と器を借りるための寄り道の原因ともなっていた。
今思えば、あの化け蜈蚣の死骸も食いでがあって食事として良かったのかもしれない。
「蜈蚣は串焼きが一番駄目」
老婆が前言を撤回した。
「えっ」
「歯に挟まるからねえ。蜈蚣は生が一番じゃよ」
さては呆けてしまっているのか。
「ヒサギちゃんや、生は一番駄目じゃよ。お腹を壊すからねえ」
「そ、そっか。気を付けて食べるね」
苦笑いのミズメ。
「そうじゃのう。お城からは矢が飛んでくるからの。気を付けなければならんのう」
「水攻めの話は終わったよ! っていうかしないし!」
「ミズメの話はおしまいかえ?」
老婆が首を傾げる。
「ミズメはあたしの名前! やめていいならやめるよ!」
「垣盾を置いて矢を避けるんじゃ。徐々に前へ詰めて盾を置く。盾を置いて前進の繰り返しじゃよ」
「詳しいね!」
「残念。頭ががら空きじゃ」
「生兵法は毒だよ!」
「そうじゃのう。生はお腹を壊すからのう」
「食べ物の話は終わったよ! あたしは何かお手伝いをしたいんだ」
「食べたら出す。ミズメさんや、樋箱はどこだったかのう?」
――げっ!
樋箱とは中に糞を垂れる箱である。年寄りの手伝いをしに来たミズメであったが、樋洗になる覚悟は無い。
せめて酒瓶の一本や二本はからにしないと無理だ。
「アマババや。わしら旅のもんが、そんな余計な荷物を持つわけないじゃろ。都暮らしの癖がまだ抜けとらんか?」
アガジイが笑う。
「そうじゃった。私らは野糞を垂れるんじゃったねえ。でも、腰が痛くて立つのは億劫じゃ」
老婆は目を細めてこちらを見た。
「……だから外に放って来てくれんかの? ほれ、手を出して」
「やめろよ糞婆!」
思わず叫ぶミズメ。我慢の限界だ。年寄りのもとより逐電して温泉探しに出掛けよう。
湯に浸かればオトリへのちょうど良い言いわけも見つかるはずだ。
「元気の良い童じゃのう」
アガジイが笑った。
それから、アマババも。
「ほんに、面白い子じゃ。武芸の腕前だけでなく、見事な合いの手まで入れてくれおるわ。どこまで辛抱するかと思ったが、まあ、こんなもんじゃろな」
愉快そうに言うばばあ。
「呆けたふりをしてたのか! ……まったく、やられたよ」
ミズメは自身の額を叩く。
「アマババは百足一座の相談役じゃ。元は都暮らしの貴人で、種々の事柄に通じておってな。髪を肩で切って頭巾を被ったとのことじゃが、どういうわけだが旅の一座に納まっておる」
「いかな事情じゃったか、私も忘れたがの。都で鬱々とやるよりは愉快かと思ってな」
年寄りたちが笑う。
――今日は負け続きだね。
溜め息をひとつ吐くミズメ。
まさか、自分より若い人間に化かされるとは。
この老人は都で酸いも甘いも噛分けて来たのであろう。
貴女が尼になる場合は、女として終わっても発言権を持ちたいためか、何かへの別れに服すためが大抵である。
基本的には性根の湿った連中だと思っていたが、この老婆はそうではないらしい。
「ま、こういうのは嫌いじゃないよ」
ミズメも口元を緩めた。
「そういわけで、私は若いもんに構ってもらうよりも、悩みを構ってやるほうが得意じゃ」
「あたしには悩みなんてないよ」
「それは、おぬしがそう思ってるだけじゃ。仮に悩みがなくとも、これから先のたましいの標を知っておいて損は無かろう」
「教訓や卜占かい? 生憎、あたしは先のことが分からないほうが面白いと思うたちでね」
「まあ、そう言わずに。年寄りがやりたがってるのならやらせればよい。手伝いだと思ってな」
「へいへい。じゃあ、話半分で聞いてあげるよ」
「聞く、は少し違うの。おぬしはこれから覗かれる」
「なんだい? いやらしい話かい?」
からかうように笑うミズメ。
「私は星読みができるのじゃ」
老婆がしっかりと目を開いた。
「星読み? 占星術をやるにしたって、今は真昼間だよ。やっぱり、呆けてるんじゃないだろうね?」
「私が視るのは空ではない。おぬしの瞳じゃよ」
「眼医者か? 視力は良いし、病気でもないのに診せたくないんだけど」
少し身を引く。
「そうではない。星宿……則ち、その者に宿る星を視ることができる。人には生まれながらにして、その運命を決める星座があるのじゃ」
「へえ、面白いね。自分の星座か。夜空を眺めるのは好きだからね。退屈凌ぎに、それを探すのも悪くないかな」
正座に座り直し、アマババと相対する。
皺だらけの顔が焦点の合わぬ半目でこちらを見ている。
占い師がこういった半離魂の表情をするのは珍しくないが、老人がやると本当に魂が抜けてそうだ。
「……ううむ?」
首を傾げる老婆。
「どう? 見えた?」
「妙じゃの。大抵の者は二十八宿のいずれかに納まるのじゃが……」
「珍しいの?」
「それが、月と太陽の両方が入れ替わり立ち代わりに視えた」
「二つ? それに星座じゃなくない?」
「星宿を複数持つ者も居なくはない。月や太陽を持つ者も稀におるが、相反する存在ゆえに、共存などはできるはずがない」
「なんだよそれ。ちゃんと視えてないんじゃないの?」
――ひょっとして、あたしが物ノ怪だからかな。魂も寿命を借りたせいで混じってるし……。月と太陽じゃ探しても面白くないね。
「なんにせよ、数奇な運命を辿ることとなるであろう。悩みを構うなどと偉そうなことを言ったが、私にも手に負えぬ」
「いいよ。人生は自分で切り拓いてこそだよ」
「それも上手くいくかどうか。星が入れ代わり立ち代わり。そのうえ、月は満ち欠けが乱れ、太陽も喰われつつある」
「太陽が喰われる?」
「私にもよく分からぬ。星読みに長けた陰陽師であれば、なんらかの解を示すかも知れぬが……」
老婆が首を捻る。
「謎掛けした本人が答えを知らないんじゃね」
「すまぬの。じゃが、おぬしの道を示す天が乱れておる以上、その生もまた烈しきものになるじゃろうな」
「退屈するよりはましさ」
「それが、おぬしだけの問題にとどまればよいがの……」
アマババは瞳を閉じて黙り込んだ。
横に居るアガジイもまた鋭い目でこちらを見ている。
――なんだよ。感じ悪いな。悪いことなら黙っといてくれたらいいのに。
「ミズメさん。ちゃんとお相手してらっしゃいますか?」
天蓋の布が持ち上がり、オトリが顔を覗かせた。
「ちゃんとやってるよ。今ね、このアマババにあたしの星宿を見て貰ってたところ。折角だし、オトリも見て貰ったらどう?」
「星宿ってなんですか?」
「まあ、星占いみたいなものかな。今後の運命を見てくれるってさ」
「ふうん……ミズメさんがお世話されてるじゃないですか」
苦笑しつつもオトリはいそいそと隣に正座した。
「ふむ。こっちの娘さんは……天帝星じゃな」
「天帝?」
オトリが首を傾げる。
「北極星の異名だよ。北の空の真ん中にある明るい奴」
「ほう。天帝の言い回しをご存知か」
「あたしのお師匠様が、震旦の出なんだ。まあ、聞きかじった程度だけどね」
「北極星だとどうなんですか?」
オトリは喰いつくように訊ねた。
「天帝星は北辰とも呼ばれる極北のしるべ。みかどの名のとおり、民を統べて導く星じゃ」
「へえ、合ってるじゃん。オトリは里の巫女頭になる予定なんだ」
「この旅はその修行も兼ねているんです。旅が上手くいくってことかな?」
オトリがこちらに笑い掛ける。
「ううむ。天帝星は確かに支配者の星じゃが。真北とは僅かにずれる。頼りにし過ぎれば、その輝きの強さに惑わされて道を誤ることもしばしばじゃ。目指す先が遠ければ遠いほど、その歪みは大きくなる」
「そんなあ」
オトリは不満そうな声を上げる。
「それも合ってそうだな」
笑うミズメ。
「しかし、人々に星が宿るように、旅においても星は欠かせぬもの。北極星だけでなく、月にしろ太陽にしろ、日々揺らぎ動いておるものじゃ。どれか一つに頼ればいつか己の道を見失う。月と太陽、そして極北。その三星を仰ぎ、森羅万象、春夏秋冬を感じることで真の答えに辿り着くものじゃ」
「はいはい。要するに、分からないけど色々験せってことね。占いはこれだから嫌いなんだ」
溜め息をつくミズメ。
「もう、占って頂いてそんな言い草はいけませんよ! ねえ、お婆さん。ほかには何か見えませんか? 運命だけじゃなくって、将来に添い遂げる人がどんなとか、子供は何人くらいかとか!」
興奮気味に訊ねるオトリ。
「む? まあ、ほかにも占術の持ち合わせがあるゆえ、視れぬこともないが。断っておくが、占いは現状より導き出す答えじゃからな。歪めることも覆すことも可能で……」
「お婆ちゃん、お願い!」
巫女の娘は拝んだ。
結局、オトリは雑多で詰まらなぬことまで質問を繰り返して占ってもらい、話し相手もそこそこに日が暮れてしまった。
……。
「面白かったですね。私も占いは嗜んでますが、占われるほうはあまり機会がなくって。……はあ、将来あんな風になるのかなあ」
オトリは暮れの空を眺めて言った。焚き火が彼女のうっとりとした表情を照らす。
「ま、あてにはするなよ。婆さんも言ってたけど、現状だとそうなる可能性が高いってだけだからね」
「私も巫女です。分かってますよ。悪い結果なら覆す。素敵な結果なら信じる。良いじゃないですか、夢を見たって……」
子供を抱くような仕草をしている。
「夢ねえ。別にやりたきゃやればいいじゃん。男を作って子供を産んで育てる。田舎ならそれで上等だよ」
「田舎なら? 都じゃ違うの?」
「そーだね。魔都じゃ願っても険しい。本当に夢だ。それに、貴族の女は自分で子供を育てない」
「えっ? そうなんですか?」
「女房っていってね、世話役の女に乳をやったりするのを任せるんだ。母親の役目は子供に作法や勉学を教えること。その役割も爺さん婆さんがとっちゃうこともあるね」
「折角、苦しい思いをして生んだのに?」
「寧ろ、自分で世話をしなきゃならなくなったら恥だなんていわれてるよ」
「同じ屋根の下で暮らしてて手出しができないなんて、私なら我慢できません。男のかたはどうしてるのかしら?」
「両親だって夫婦になっても同じ家に住まないことが多いよ」
「それはちょっと、寂しいかもしれませんね。でも、こころやたましいが繋がっていれば……いいのかな?」
静かに疑問を呟く娘。
「さーね。あたしは棄てられたし、その辺は分かんないよ。獣だって種類によっちゃ産みっぱなしだし、都のやりかたのほうが自然なのかもしれないよ」
「でも、ミズメさんは人間と鳥の物ノ怪です。鳥だって産んだ卵を大切に温めるでしょう?」
「そうだね……。鴉も鳶も、雛が独り立ちできるまでは夫婦そろって面倒を看るね」
「人間もそうです。お母さんとお父さんがいちばん頑張って、足りなければ近所の人が助けてくれる」
「それはあくまで田舎の理想。オトリのところがちゃんとやっていけてる里だからだよ」
「……そうですね」
ふと、オトリの表情が翳った。
「都はそういう考えじゃないんだ。面倒を見てくれる召使いも確かに多いけど、単なる仕事で役目に過ぎないと考えてる人も多い。中には自分の子を後回しにして仕える相手の子の面倒を優先する人もいるって話だけど……。都に行ってその辺が気に入らないからって、嘴を挟んじゃ駄目だからな」
「うん。……でも、私は夢を見ていてもいいですよね?」
「夢じゃなくて、そうすれば良いじゃん」
首を傾げるミズメ。
「あのね。里のしきたりで、巫女頭を務めている人は処女じゃなきゃいけないの」
「それって男神に仕える場合でしょ。オトリのところは女神だって言ってなかったっけ?」
「うちの巫女頭には神和……神降ろしの仕事があるから。うちの場合は神様と血と性を一致させなければいけないの。水神様はね、元々は人間の女性のかたで、生涯独り身を貫いたかたと言い伝えられているの。それでいて、私たちの里の始祖」
「処女だったってこと? それじゃ子孫が続かないでしょ」
「そうなんですけどね。神様の子を授かって生んだとか、人ではない鬼の子だったとか言われてるのだけど……まあ、そんな言い伝えがあるの」
「言い伝えか。そんな不確かなことで自分の人生を歪められて、嫌じゃない?」
「ちょっとだけ……。でも、里から出て色々なことを目にしてきたら、我がままなんて言ってないでお役目を果たさなきゃ、とも思います。それに私って、男のかたが苦手なので、そもそも難しいのかなあ、とも」
緋袴の膝を抱える巫女。
「あたしは納得いかないな。自分を殺してまで人のためなんてさ。共存共栄じゃないよ」
「そうですね。でも、共存共栄はミズメさんとギンレイ様の役割ですから。私はお手伝い。本分はミナカミ様の巫女なんです。水分の巫女にしかできない役割がある以上、このたましいを捧げないと」
揺らぐ炎を見つめる瞳。焚き火の音が響く。
「……」
ミズメは何も言わなかった。
オトリの代わりに空を見上げる。西空はまだ遠く赤みが残る。浮かぶは三日月。
なんとなく懐に手を入れると、勾玉が幽かに神気を放っていた。冷たい気配である。
その寂しさから逃れるように、北へと視線を移す。
ひときわ強い光の極北もまた、大地の果てと同じく寂しげな光を湛えていた。
――どれ、ここで何か一発、明るくなるようなことをしてやりますかね。
風と音を頼りにあたりの気配を探る。何かオトリをからかう良い種はないか。
「ありゃ? この気配って」
ミズメが見つけたのは昼間に記憶した人間の気配。
忘れっぽい彼女でも、自身を負かせた対戦者のことを容易く忘却するほど阿呆ではない。
霊気の無いヒサギ少年の気配。
方角的に駅路から離れて、森や山の多い方角へと向かっている。
それも、どうやらたった一人でのようだ。
*****
垣盾……合戦などで前方からの攻撃を防ぐために置いて並べる大型の盾。
樋箱……平安後期までは建築構造の便所は珍しく、持ち運びのできるおまるのようなものを利用していた。
樋洗……貴人の樋箱の管理をする従者。
二十八宿……当時は黄道十二宿で有名なヨーロッパのものではなく、中国の星座が用いられていた。
北極星……真北を示すと言われる北極星だが、その実は僅かずつ動いている。現代と平安時代はポラリスで知られるこぐま座α星が真北に向かって移動している最中で、当時は今よりも北からずれた位置にあった。また二千年後には別の星が極に近くなる。




