化かし024 遭遇
旅は続いて美濃国。東西の流通のかなめであると同時に、東から畿内への敵の侵入を防ぐ軍事のかなめでもある。
北は山間、南は河川と洲が多し。東山道の駅路が広き平野を貫く。
このあたりまで都に近付けば、地元住民だけではなく、旅人の数もかなり目立つ。
早足で過ぎる彼らの言葉に耳を傾ければ「湖北ではもう雪が降った。あれは根雪になるぞ」と聞こえてくる。
そんな旅人の仮住まいにうってつけなのが平野に点在する小森である。
山から吹き下り無遠慮に平野を走る風を防ぎ、道ゆく面倒ごとの目から姿を隠し、喉や胃袋を満足させる自然の循環も豊富。
ふたりもまた、控えめに木々が立ち並ぶ森へと踏み入っていた。
草木の集まる場所は土の精霊の力も強く、流れる水も清い。
月も未だに上らぬ宵の口。小川のそばに妖しげな炎が宙に浮かぶ。
右手に釣り竿、左手にたいまつ。
ミズメは食料調達を兼ねて魚との真剣勝負に興じていた。いのちを頂くのであるから、法術には頼らない。
下流からは何者かが水を使う音が聞こえる。
少し震えた鼻歌混じり。耳を澄ませば、その指を冷水と共に素肌に滑らせているのがありありと浮かぶ。
「寒いのによくやるよ……っと、掛かったぞ」
竿に手応え。光源を動かさぬようにじっと待った甲斐があった。
餌代わりにした羽虫の仲間に随分と刺されたが、これもまた共存共栄かな。
「大きな鯉だね。いざ、勝負!」
竿を引くミズメ。
「きゃあ! 触らないで!」
下流から悲鳴。何ごとかと意識を奪われる。
「……ふふっ。お魚だった」
人騒がせな。気付けば竿の手ごたえが軽くなっていた。
「もう! オトリのせいで逃がしちゃったじゃんか!」
相方へ苦情を投げる。
「何か言いましたかー?」
間の抜けた返事が投げられる。直接文句を言いに行きたいが、一糸まとわぬ娘のそばには近寄りがたい。
ふたりは気を許し合う仲にはなったが、口には出さずともミズメの股座の問題を意識していた。
お互いに衣を着ていれば女扱いをされたが、どちらかが脱げばミズメは男として扱われる。
その差別に少々不満もあったが、万が一にも師の戒めを破る事態になれば困る。
この余計な意識は、師である銀嶺聖母が仕組んで温泉で蜂合わさせしめるまでは存在していなかった。
「まったく、お師匠様も酷なことをするよ」
遠き月山で、子供や世話女房と茶を啜っているであろう師に零す。
「ま、あたしを想ってくれてるんだろうけどね」
文句を垂れつつも、白髪と赤目の女を恋しく想う。道程は半ば。帰りは空を行くとしても、あとひと月は顔が見れぬだろう。
「鉤を垂れて 軽し手内 離るこい 楽ぶらむと 鳥女羨しぶ」
逃げた鯉の背中を目で追いながら一首詠じる。
「ミズメさん、何かおっしゃいましたか?」
オトリが帯を結びながら小走りでやってくる。水垢離をしていたにしてはいやに早いが、彼女は水術で身体や衣の乾燥も思いのままである。
「別に。ちょっと歌を詠んでただけ」
「ふうん。私もやってみたいなあ。歌なんて里では子供たちの歌うものくらいしかなくって」
「そう難しいものでもないよ。皆、自由にやってるし。私集や勅撰集に載せてもらいたいんでもなければ、てきとーで充分。その時の気分でやればいい」
「五、七、五、七、七になればいいんですよね?」
「大体ね。オトリもひとつ詠んでみなよ」
ミズメが勧めてみると、オトリは「うーん……うんうん」と唸り始めた。
「はらへった きょうのおゆうげ なんだろな できればおさかなたべたいです」
「……」
とんだ腰折れ歌である。
「何か釣れましたか? 術を使ったら余計にお腹が空いちゃった」
のほほんとした声。誰のせいで魚が逃げたというのだ。目の前をくすんだ色の鯉が泳ぐ。
「……おりゃあ!!」
ミズメは釣り竿を放って、鯉を鷲づかみにした。
ふたりは焚き火のそばで鯉を頂きながら、今後の旅の進路を相談する。
平野を南に突っ切って伊勢国を経由するのが紀伊国への最短経路であるが、ミズメの見つけた神器、月色の珍宝のことがある。
これにまつわる情報や、破壊するための手立てを探すには、日ノ本の全てが集まる平安魔都へ立ち寄らぬわけにはいかない。
ミズメの任であるため、オトリを届けてから向かってもよいわけであるが、「ギンレイ様のご心配通り、全国を揺るがす問題に発展するのなら」とお人好しは黙ってはいない。
「いっそのこと、勾玉の破壊を見届けてから里に帰りたいです」
「里に帰るのが怖いだけじゃないのか?」
意地悪く笑うミズメ。
「そ、そそそそそんなことはないですよ。一度里に顔を出してから旅を続けることもできます。日ノ本の危機なら、ミナカミ様にも巫女頭にも御許し頂けるかと」
「あたしはどっちでもいいけど、旅を終えたら巫女頭になるんじゃないの? そうなったら、村を離れられなくない?」
「旅を終えても、次代として確定するだけです。今の巫女頭は私の伯母さんなんですけど、まだまだ元気ですからね」
「伯母さんも凄い人なの? 滅茶苦茶に強かったり?」
「はい。里を出たときは私より全然上でしたよ。伯母さんはきっちりとした性格のかたなので、旅も一年きっかりで終えたといいますし、巫行や他の巫覡を取りまとめる腕前のほうにも長けています」
「へえ。やっぱり、オトリより強いのか。そういえば以前、“候補の筆頭”って言いかたをしてたけど、ほかにもオトリみたいなのが?」
「得手不得手の違いや、霊力の差がありますけど、私が駄目だったときは、その次に相応しい者が旅に出ることになっています。歳や腕前の近い子も一人、居ますね」
「最悪、帰らなくても里は困らないってことか」
「それはさすがに私が寂しいです。追い出されでもしない限りは、ちゃんとおうちに帰りたい」
苦笑を浮かべるオトリ。
「ま、そうだよね。あたしもたまに山が恋しくなるよ。お師匠様も面倒臭いところがあるけど、顔を見るとやっぱり安心する」
「きっと、ギンレイ様もミズメさんのことを想ってらっしゃいますよ」
「また変な健康法をやらせたいなあ、とかね」
「そんなことないですよ! ちゃんと身の心配もなさってます!」
オトリは言い切った。
「そーかな。遊びに出てちょこちょこ帰らないこともあったけど、どっちかというと構って貰えなくて寂しいみたいな反応だよ」
「ふうん。まあ、元気にしていらっしゃいますよ」
「だろうね。殺しても死ななさそうな人だし。そういえば、あの赤ん坊は元気にしてるかな」
「元気ですよ。きっと、三毛猫の耳とお髭を付けた可愛い子になってますよ」
オトリはにこにこしている。
「いやに具体的だな。蛇の舌や蜈蚣の脚かもしれないぞ」
「そんなの絶対やだ! 可愛くない!」
「あたしも遠慮したいけど。あの子は十日持つかどうかって言ってたからな。手頃な物ノ怪がいなければ、蟲や害獣から寿命を借りなきゃいけないかもしれないし」
実際、過去には大蛇の魂で生き長らえた子供もいた。感覚に優れた子であったが、鳥の魂の混じったミズメとしては少々苦手な気配であった。
よく、その子供から剥がれた鱗模様の皮膚が床に落ちていて、姑獲鳥が文句を言いながら掃除をしていたのが懐かしい。
「大丈夫ですって! 猫ちゃんですよ!」
「はいはい。じゃあ、猫ってことで」
「あーあ、もう一度月山に行きたいなあ。勾玉のこととは別にして、出羽に行くお許しを貰えないかしら」
「また送り届けなきゃならないのか」
苦笑するミズメ。
「良いじゃないですか。いつも星空なら迷わないのになあ」
「星も動いてるんだよ」
「でも、あの星はいつも同じところにありますよね」
一等明るい極北の星をオトリが指差す。
静かな語らいのひと時。遠慮がちな木々のあいだから見上げる星は、騒がしいくらいに瞬き散らしている。
ミズメはその見事な星空を捨て置いて、それを眺める相方の横顔をなんとなしに見つめ続けた。
……そこへ突然、闖入者があった。
「うわっ!?」「きゃっ!?」
ふたりは驚き飛び退いた。
背後の茂みより、焚き火の前へ飛び出して来た四つ足の生物。
妖しげな気配は一切なく、伽羅色と白色の毛並みをもち、尖った耳をぴんと立て、毛の豊かな尾をくるんと巻いて、桜色の舌を出して呼吸は小刻み。
そしてその鳴き声は……。
「わんっ!」
犬である。
「わんちゃん……」
オトリが呟く。
「い、犬だ……」
ミズメは腰を抜かしたまま尻をずって離れた。
「人に慣れてますね。焚き火も平気みたい」
犬はふたりの食べ終わった鯉の滓のにおいを嗅いでいる。
「お腹が空いてるのかな? あなたの御主人様はどこ?」
嬉々として犬を撫でるオトリ。犬のほうも尻尾を振っている。
一方で、ミズメは距離を置いたままである。
彼女はその人類の伴侶たる生物を嫌厭していた。
幼い時分に噛まれた記憶があり、仔犬であろうと飼い犬であろうとついつい避けてしまうのであった。
――犬には良い思い出がないんだよなあ。
かつて、その苦手を面白がった銀嶺聖母により、旅先で遭った神の使いの狛犬を冗談でけしかけられて酷い目を見た記憶が想起される。
師は平謝りののちに機嫌を取ろうとあれこれしてきたが、ミズメは月齢が二周するまで許さなかった。
「ミズメさん、どうして離れてるの? わんちゃんは苦手ですか?」
「ちょ、ちょっとね……」
例の醜き翁の記憶のような深手ではないものの、此度は登場が唐突だったのがいけない。
すっかり心臓が早鐘を打っている。
「こんなに可愛いのに。お腹空いてるのかしら。あなた独りで帰れる?」
迷子娘が何か言っている。
「この辺は路からも人里からも少し離れてるし、狩人の飼い犬か何かかな。その割には馬鹿っぽい顔してるけど」
ミズメは距離を置きつつ、けだものを嘲笑ってやる。
「賢そうな顔だもんねー。ねえ、ミズメさん。この子にも何かご飯をあげたいんだけど」
「なんであたしに言うんだよ?」
「今日の夕食当番はミズメさんですから」
「犬っころにやる義理はないね」
そっぽを向く。
何やら、腹の音が聞こえてきた。
「私も足りなかったり……。今日は人目を避けて走ったり、身体を洗ったりで術を使ったのでお腹が空いちゃって……」
恥ずかし気な声。
「知らない! 水術を使えば魚なんて取り放題なんじゃないの?」
「えーっ。そんな乱暴なことをしたら神様や精霊に嫌われてしまいます。それに、余計お腹が空いちゃいそう」
文句を垂れる連れ合い。
ミズメは無視を決め込んだ。
「ようし。それじゃあ……」
ようやくやる気になったか。獣の気配に警戒しながら溜め息ひとつ。
「ミズメさんを食べちゃえ!」
愉しげな声。
「はあ!?」
驚いて巫女のほうを見ると、彼女の指がこちらをさしていた。
それに従うは茶色いけだもの。
牙ではなく舌であったが、ミズメは散々な目に遭わされた。
余程に味が気に入ったのか、犬は顔がひりつくほどに舌を這わせてきた。
あまりのしつこさに、けしかけた張本人も犬を引き剥がしにかかったが、同じ目に遭わされてしまった。
「ちょっと、ミズメさん! 助けてください!」
「ばーか! 自業自得だよ!」
袖で犬の涎を拭きながら笑うミズメ。
「えーん! 誰か助けてー!」
間の抜けた悲鳴が響く。
すると、空から何かが降って来て、燃え盛る焚き火の中へと突っ込んだ。
「今度はなんだよ!?」
虚空に向かって文句を垂れる。
火に飛び込んだものの影もまた、小柄ながら四本足の物体。走っていた獣が事故でも起こしたか。
「ありゃ、なんだこれ?」
ミズメは木の枝を使って炎の中の物体を外へ出した。
「これ……兎ですね」
オトリも覗き込む。犬もまた興味をそちらへと移した。
焚き火へと飛び込んだのは一羽の兎。それも、恐らくは既に息絶えていたものである。
兎は毛皮も奪われ、血抜きも済んでおり、あとは焼くだけの状態であった。
「あの人……」
オトリは立ち上がり、遠くを見つめている。ミズメも視線を追うが、特に誰の気配も霊気も感じない。
「何かいたのか? 音も感じないけど」
「えっと、白髪のお婆さんが居た気がしたけど、気のせいでした! ……って痛い!」
オトリが頭を抑えた。足元に小石が転がる。
「悪戯か? 山姥が平野の森に出るなんて聞いたことないぞ」
ミズメが文句を垂れると、彼女の頭にもどこからともなく石が飛んで来た。巫女の頭にぶつかった物よりも一回り大きい。
「……ぎゃっ!? この野郎! さては猿だな!? 出て来たらただじゃおかないぞ!」
地団太を踏むミズメ。
返事も気配も無し。
「お肉はありがたく頂戴しましょう。ほら、あなたにも分けてあげる」
オトリは兎を裂いて犬に分け与えてる。
「そんな得体の知れないもんを食って、腹を壊しても知らないよ!」
「大丈夫ですよ。もしそうなったらお薬を煎じますし」
「治っても、痛くなったぶんは丸損じゃん。もうなんか疲れたし、あたしは寝る!」
ごろんと横になるミズメ。
しばらく相方と犬が喧しくしていたが、思いのほか気には触らず、じゃれ合う声を脳裏に残響させて、ミズメは夢の狭間へと落ちていった。
さて、二度あることは三度ある。珍事との遭遇の翌朝。
犬がやけに吠えると思って目を醒ますと、彼女たちの焚き火の側に“大木ほどもある蜈蚣の死骸”が転がっていた。
昨晩から、奇妙なことが次から次に起こる。
天狗そのものを名乗る妖しの娘であったが、矢継ぎ早に起こる珍事に頭がついていけなくなっていた。
「分かった。これは夢だな」
ミズメは頷き、夢ならばとすやすやと寝息を立てる巫女を枕に二度寝を試みた。
しかし、犬の警戒色と昨晩にやられた顔の涎の乾いたにおいが眠りを妨げ続けたのであった。
*****
美濃国……現在の岐阜県あたり。
伊勢国……現在の三重県あたり。
腰折れ歌……下手な歌。
伽羅……優良な香木の一種。
今日の一句【ミズメ】
「鉤を垂れて 軽し手内 離るこい 楽ぶらむと 鳥女羨しぶ」
(ちをたれて かろしてのうち はなるこい たのしぶらむと とりめともしぶ)
釣竿を垂れていたけど軽くなり“こい”が逃げてしまった。楽しくしているのだろうなと鳥女を羨ましく思う。
ところで鳥女とは誰を指すのであろうか。師匠? 姑獲鳥? オトリ?
今日の一句【オトリ】
「はらへった きょうのゆうげは なんだろな できればおさかながたべたいです」




