化かし021 決裂
翌朝ミズメが目が覚ますと、オトリは先に顔の清めや身支度を済ませて髪を結っている最中であった。
「よく眠れなかったの?」
「……」
訊ねるが返事はない。彼女は悩んだ翌日だけは早く起きる。そうでなければ、太陽が天を叩くまで眠るくらいに寝穢い。
「クレハにもうひとつだけ簡単な仕事を頼まれてるんだ。よその集落の様子を見て来いって。それが終わったら村を出よう」
「……」
返事なし。髪を結う手も止まり、見事な長い黒髪が放たれた。
さては髪を結いながら寝ているのであろうか。
「オトリ……?」
「昨晩のクレハさんとの話は聞きました」
「クレハが誰か居たって言ってたけど、あれはオトリだったのか。すっかり忘れてたけど、例の勾玉についても、ちょっと分かったんだよ」
「そうですか」
短くそっけない返事。
「なんか怒ってる? 昨日オトリの仕事を邪魔したことは反省してるよ。あんだけたっぷり説教されたんだし、もうやらないから」
意外と根に持つたちなのか、ますますクレハと気が合うんじゃないか。ミズメは苦笑いをした。
「そうじゃありません。クレハさんが都を攻め落とす話をしたとき、ミズメさんは誘われましたね?」
「断ったじゃん」
「面白そうと仰っていました」
「言葉の綾だよ。クレハだって本気でそんなことはできやしないよ。単に上手くいかないって話じゃないよ。あいつにこの村を危険に晒させるようなことはできないって意味だ」
「そうかもしれません。でも、あなたは私と居るあいだは悪さをしないとか、退屈しのぎで旅をしてるって言った……」
「それも言葉の綾じゃん!」
ミズメは額が静かに冷えるのを感じた。
全くの嘘ではないが、クレハの言を無理に否定せず、村のことを考えろと諭すために言ったつもりであった。
それは上手くはいかなかったが、まさかこんなところで裏目に出るとは。
言いたいことが重なり過ぎたせいか、二の句を継ぐのも難しい。
「私と一緒に人助けをしたことも、ただの暇潰しなんですよね……?」
「そりゃ、そういうところもあったけどさ。“共存共栄”はお師匠様に言われてることだし、オトリが帰れるか心配ってのも間違いじゃないよ!」
「ギンレイ様に言われなければ、悪い物ノ怪でいても平気だって言うんですか? クレハさんの術のことも軽く考えてたし、やっぱりミズメさんは私とは違うのね。せっかく信じてたのに……」
「そりゃ、違うさ。だから……」
だから、面白いんだろ。そう言いかけて言葉を呑む。
「面白い、ですか? 面白かったら、ギンレイ様に止められてなければなんでもするんですか!?」
見透かされていた。
呑んだ言葉が喉に詰まったかのように声が出ない。
「クレハさんのやろうとしてることは人殺しですよ? ミズメさんは殺生はしないって言ってたのに、どうして面白いなんて言えるんですか!? どうしてちゃんと止めないんですか!? 誰かの命を奪うことは恐ろしいことなのに! あなたのせいで、私は鬼や物ノ怪すら退治するのに悩まなきゃいけなくなったのに!」
オトリがこちらを振り返り、怒鳴るように言った。その頬は紅潮し、瞳は激しく光っている。
「そ、それはごめん。でも、中にはどうしようもない悪人だっているじゃん? クレハを手籠めにした、なんとかって奴だって……」
苦し紛れの言いわけであった。
「悪人なら殺すんですか? 殺したこと、あるんですか!?」
「……」
ミズメは答えられなかった。
「……どうなんですか?」
再度の問い。
「……」
口の軽いミズメが、これだけ押し込められるのは久方振りであった。かつて糞爺に飼われていた時以来である。
最低。
声は拾えなかったが、友人のくちびるがそう動いた。
彼女は手早く髪を結ぶと、立ち上がり、背を向けた。
「さよなら」
オトリは独りで小屋を出て行ってしまった。
「……いや、参ったね、どうも」
肩をすくめるミズメ。
仕方なしに独りでクレハに会い、頼まれごとを片付けに出掛けることを伝える。
オトリの所在を訪ねられたが、「先に出掛けた」と嘘を言った。
ミズメの耳はオトリの革の沓の音も、巫女装束の大袖がすれる音も忘れない。
それらが真っ直ぐと遠くへ離れ、落ち葉と枝々の中に紛れて音術ですら追えなくなったのも理解している。
仕事を手早く片付けて、空からあとを追うか、それとも去る者は追わず、彼女の望み通りに別れてしまうか。
“鼻つまみ者”とやらの集落へ向かいながら、ミズメは頭を抱えた。なん百歩も歩いたはずだが、頭を抱え続けた。
「痛たっ」
曲げた人差し指から血。無意識のうちに噛んでいたらしい。
これまでの長い生、彼女の人付き合いは淡泊なものが大半を占めている。
尋常の人間は数十年でその生を終えてしまうし、それを超えれば彼女が生理的に嫌悪する老人の仲間入りだ。
物ノ怪にも長寿でない種もあるし、なんらかの理由で滅されてしまうことも珍しくない。
月山の子供たちにしても、仲良くはするが、所詮は仮初めの命。情を移せば苦しいだけだ。
彼女にとって本腰を入れて付き合いをしてきた存在は、師である銀嶺聖母と戦地で拾って来た子供の世話役の姑獲鳥くらいである。
山の女神や神格に近い獣たちも、あくまで共存として認めあってるだけであり、友人ではない。
幻術の練習相手であった穴熊のクマヌシとは友人関係かも知れぬが、お互いに違う生きかたをしている。
なってしまったのだ、本当の友人に。人の娘だ。長寿の穴熊の物ノ怪とはわけが違う。きっとここで手放したら……。
二、三歩が駄目なら百歩、百歩が駄目なら千歩。
横を見ても振り返っても、あるのは紅白の幻だけ。
万歩を行かぬうちに、何やら鼻が“ただならない臭い”を感じ取った。
「くっさ!」
端的に言えば、肥溜めを飲み干したあとの口内のにおい。
「一体、どうしたらこんな酷いにおいになるんだ?」
ミズメは思わず霊気を練り上げ、風に森の香りを届けさせた。余りの悪臭に脳が破裂しそうだ。
行く先を見ると、石の屋根や曲げ庵らしきものが目についた。どうやら例の“鼻つまみ者”の集落であるらしい。
「まさか、そのまんまの意味だったとは……」
鼻をつまんで嘆くミズメ。
彼女は涙目である。今朝から踏んだり蹴ったりだ。
――様子を見るだけでいいって言ってたな。早く戻って、くさかったと伝えれば済むんじゃないか?
村には柵や逆茂木、濠のようなものは見当たらない。クレハの村と同様に、森の中にただ暮らしの場があるだけという佇まいである。
広場では多数の人々が何かに没頭しているようだ。ミズメが近寄っても気付かない。
接近するにつれて、風でも誤魔化せないほどに臭気が強くなった。
「うえっ!」
嗚咽。胃が跳ね返りそうになる。
それもそのはず。
集落の人々は、世にも悍ましい行為に及んでいた。
修行僧のような服装をしたもの、半裸、あるいは全裸の者。彼らは器に入れた“身体から出されたもの”を必死に口を通して身体の中へと戻していたのだ。
臭気は間違いなくこの行いが原因であろう。
彼らが食しているのはそれだけではない。儀式的なものであろうか、“食事?”に勤しむ彼らの前には人骨と思しきものが配置されている。
ものによっては、まだ肉を残していたり、肉そのものが山のように積まれていたりした。
彼ら……正確には女も居る。は一様に、何か異国の言葉を唱えながら、汚物や肉を体内に取り込み続けている。
「お若いの。風術を止めてくれんか。せっかくの行が台無しになる」
年老いた僧が言った。
「しゅ、修行か。てっきり気の狂った連中かと思った」
「よく言われる。早く風を止めてくれ。我々はおぬしらの言うところの“穢れ”を体内に取り込むことで、人間の真理へと到達するのを目的としておる」
――左道だ。
左道とは、本来の教えでは穢れや禁忌とされる行為を積極的に行うことで、なんらかの極致を目指す流派である。
これがなんの教えの亜流かは分からないが、唱えられている文言や身につけた衣からして、身近な教えに共通する気配もある。
小屋の中から、人の絶叫が上がった。
思わず覗き込めば、汚物に塗れた男女が“行為の終わり” を迎えている現場が現れた。
――ここまでくるとおっかないな。クレハが出て行って欲しいって言うのも分かる。それにしても、オトリが居なくて良かったな……。
耳をすませば他の小屋からも風に紛れてまぐわいの湿った音。
「お若いの。見学は結構だが、風を止めてくれ。鼻からも取り入れねばならぬのだ」
再三の勧告。
ミズメは観念して術を止めた。呼吸も同時に止めたが、臭気が目に染みて堪らなくなった。
「あんたら、よく平気だな」
手で口鼻を覆って言う。
「我らはこれが真の大印に至る法だと信じておる。本家の天竺でも少々新しく、異端ではある。しかし、大宇宙の真理に到達するには、己の中の小宇宙に深く潜ることが近道。自身の身より出る穢れを再び取り込み、女陰と男根の瑜伽をもって、大乗を越える金剛乗の……」
老人が口を開くたびに、ミズメの指のあいだから悪臭が忍び込んだ。
――勘弁してくれよ!
普段のミズメは、他者の信仰を無理に否定せず、直接的な迷惑者を叩くに済ませていたが、さすがにこれには共存共栄も虚しく響く。
いくら大義を掲げようとも、それは借り物であり、身体的な拒絶を上回るには至らなかった。
――もう無理。帰る!
ミズメは咄嗟に翼を広げると、空へと逃れた。
「翼!? 魔物じゃ!!」
老人が叫ぶと、修行者たちが挙って空を見上げ、済んだ瞳を開いた。
曇りなき眼の群れ。汚物の中に浮かぶはまるで星空。
その瞬間、不可思議なことに村全体が聖なる光に包まれた。
それは空へ逃げた魔鳥を打ち、容易く地面に墜落させしめた。
――くそっ。お師匠様が言ってたのは冗談だと思ってたよ。
かつて酒の肴に師から聞かされたことがあった。
一般の者にとって穢れであっても、信仰の種類や信心の深さによっては、別の結末を生み出すことがあると。
五感全てが穢れと汚れを察知しようとも、今の一撃の威力と第六感が答えを出している。
「道を害する化生め。我々の湯を枯らしたのも貴様だな?」
数人がかりで羽を抑えられ、背中を激しく踏みつけられる。
「な、なんの話だよ? っていうか、汚い手で触るな!」
「我らとて身清めをせぬわけではない。貴様が枯らした湯は、我らにとってかけがえのないもの。枯らしたのであれば蘇らせることも可能であろう。さあ、だたちに戻せ!」
湯。思い当たることといえば、昨日にクレハに頼まれてオトリが沸かせた温泉だ。
――嵌められた!
クレハは“鼻つまみ者”には去ることを望んでいた。潜りの陰陽使いがどれだけの力量かは分からぬが、水脈を読んで湯がこの村に流れていたのを知っていたのかもしれない。
戻せと言われても、ミズメにはそのような力はない。肝心のオトリも、彼女のもとを去ってしまった。
またもミズメは碌に言いわけもできず、左道者たちに捕縛され、石室の中に放り込まれてしまった。
……。
閉じ込められてどのくらい経ったであろう。
闇の中、独り困り果てるミズメ。
どうやら修行者たちの術師としての腕前は相当なものらしい。全員合わせればオトリを越えるかもしれない。
この石室も、何やら厳重な封印術が込められているらしく、天狗をただの人間の娘へと戻していた。
身体は縄できつく縛られていたが、幸いなことに翼を出したままで捕らえられたため、翼を体内に納めれば楽に抜けることができた。
縄は解けたとはいえ、文字通りの八方塞がり。光すらも届かぬ石の中で、ただ胡座を掻くほかになかった。
「ほんと、踏んだり蹴ったりだよ」
わざと口に出してみるも、何も変わらず。
退屈しのぎに歌でも詠じようかと思ったが、何も目に映らぬのでは話にならない。
心に思い浮かぶのは、別れた巫女の顔ばかり。
想い人でもあるまいしと頭を振って掻き消そうとする。
同じ危機に思い浮かべるならば、かつて自身を救った師であるべきだ。
もっとも、当の銀嶺聖母も遠く北東、出羽国が月山で、茶でもすすっているのであろうが。
「おーい、助けてくれー」
……。
「やっほーっ!」
……反響すらせず。
「オトリーっ。寝坊助ーっ」
ただ虚しい。
「……」
いつの間にか眠っていたらしい。いや、音も光もないゆえ、夢もうつつも曖昧で……。
いやはや退屈地獄。これならまだ、血の池や針山があったほうがましやもしれぬ。
「明るい?」
はて、石室の中が明るい。しかし、四方は石壁。光源は宙に浮いた白い玉。
腰のあたりを、何か尖ったものが軽く突いた。
「誰だっ!?」
振り返ると見知った顔。
しょぼくれた顔が鼻をつまんでいた。
「助けてくれって言われたから来たのに。私までこんな目に……」
黒髪の娘は目を逸らした。
「オトリ!」
思わず抱き着こうとするミズメ。しかし、ぐいと押し退けられてしまう。
「近寄らないで下さい。ちょっとその……くさいので」
「助けに来てくれると思ったよ。いやあ、嬉しいなあ」
口元を痛いくらいに釣り上げるミズメ。
「それがですね。私も、ここじゃ大した術が使えなくって。思ったより強力な石の封印術みたいです」
「オトリでも破れないのか?」
「はい。私の流派の石術、道返ノ石と同質の封印術なんですけど、数年分の霊力が籠ってるようで、石室内では碌に。全力でやってこれです」
そう言ってオトリは宙に浮いた白い玉を指差した。
「そっか。ごめんな、あたしが下手打っちまって」
「ここの人たちに言われたんですが、クレハさんのところで湧かせた温泉は、本当はこの村の湯垢離の泉に流れていたようです。でも、私が頼まれてやったから枯れてしまって。クレハさんたち、やっぱり悪い人だったのかな……」
「騙されたんだとは思う。だけど、ここの修行者たちが何もしないとしても、近くに居ると思ったら嫌じゃない?」
「ほれは嫌でふけど……」
オトリは鼻声で言った。
「とにかく、オトリなら湯が戻せるだろ? なんとか頼んでここから出して貰おう」
「しばらくは無理そうですよ。さっきお食事を頂いた時、何か揉めてましたから」
「揉めてた?」
「はい。クレハさんの名前も聞こえたので、温泉の件もやっぱり元から疑っていたんじゃないでしょうか」
「なるほどな。っていうか、飯を貰ったのか? あたしのぶんは?」
腹が減って仕方がない。昨晩から何も食べていないのだ。
「そこにありますよ。あんまり美味しくないですけど、術をあれこれ験したらお腹が空いちゃって……」
オトリが下を指差す。土の上に二つの器。片方はからだ。
「おっ、肉じゃん。修行者連中は肉食を避けることが多いんだけどな。いやあ、運が良いな!」
ミズメは嬉々として手を伸ばした。
――……違う、ここの連中は!!
「オトリ、おまえこれを喰ったのか!?」
ミズメは巫女の肩を激しく揺すった。
「くさい! ……はい。食べましたけど。硬くて変な味でしたけど、鼻がおかしくてよく分からなかった……」
「吐け! すぐにだ!」
「へっ!?」
ミズメはオトリの頭を抑え込むと、強引に彼女の口の中へ指を挿入した。
暖かなぬめりと痙攣。娘は力一杯抵抗したようだったが、石室の中ではミズメに分があったようだ。
一度だけでなく、何度も喉の奥を突き、胃の中のものを繰り返し吐き出させた。
「吐いたか!? 全部吐いたか!?」
怒鳴るように訊ねるミズメ。
「……なんで……どうしてこんな酷いこと……」
嗚咽とすすり泣き混じりの返事。
「オトリは、ここの修行者たちがどんな行をやっているのか見なかったのか?」
「見ていません……。とにかくにおいは酷かったけど……」
「左道は分かるか?」
「知りません! 私、何を食べたんですか?」
ミズメは少しためらったが、修行者たちの流儀や行の内容を話して聞かせた。
するとオトリは石室の中にもう一度濡れた音をぶちまけた。
「大丈夫か?」
オトリの背中をさすってやる。落ち着くには少々時間が要った。
「でも、口にした食事に穢れなんて感じなかった」
「多分、肉の持ち主が食べられることを望んでいたからだよ。あたしたちのあいだでは穢れとされることでも、本人たちが望んで真の教義と化してしまえば、穢れどころか聖なる力さえも得るんだ」
「だから、ここの人たちが良い人に感じたんだ。においは凄かったけど、持ってる気は凄く神聖だった……」
「……ごめん、あたしのせいだ」
ミズメは謝罪するも、地面は地に落としたまま。到底、彼女の瞳を見ることなどできない。
「もういや! あなたなんかに、出逢わなければ良かった……」
冷たい拒絶の言葉がミズメの胸を刺し貫く。
こんな言葉を聞かされるくらいなら、助けになど来てくれないほうが良かった。
「……?」
哀しみと共に視線を地に落とすと、巫女の祓え玉が照らす土の上に何かが落ちているのを見つけた。
「紙切れだ。二枚ある」
紙を拾い上げる。長方形の紙には特殊な描法で描かれた漢語が並んでいた。同様のものが二枚。
「霊苻だ。どうしてこんなところに? これが石室の封印を強めてるとか? いや、違うな……これはどこかで見たことがある」
はて、どこで見たものか。紙は貴重だ。牢屋に煩雑に打ち棄てるには惜しい。とはいえ、封印の力も呪いの気配も感じない。
おもにこういった霊苻を用いるのは、風水に長ける陰陽道か神仙道である。
思い浮かんだのは師の姿。
何やらわけのわからぬ霊苻を作成し、それをなんと折りたたんで飲み込んで「飲苻健康法!」などと宣っていた記憶がある。
ミズメも付き合わされたが、意外なことに腹の調子が良くなった。
どういった事情でここに札があるのか、効能はなんなのか。
ミズメにはさっぱりであったが、打つ手がない以上、やることはひとつであった。
霊苻を折りたたみ、師に倣って飲み込んでみる。
……するとどうであろうか。封じられて萎えていた霊力がむくむくと頭をもたげ始めてきたのである。
「オトリ! ここから脱出しよう」
「どうやって? 術も使えないのに」
「これを呑め!」
畳んだ札を抓んだ手を、またも強引に口へ押し込もうとするミズメ。
今度は指を思いっ切り噛まれてしまった。
「あいたっ!」
「何するんですか!? 今度は何を食べさせようとしたんですか!?」
「霊苻だよ」
「霊苻って、紙じゃないですか! 紙も食べ物じゃありません!」
「違うんだって! お師匠様の流派では、札を体内に取り込むことで効果を得る技があるんだよ! あたしも飲んだけど、術が使えるようになったと思う! あたしの使える術じゃここからは抜け出せない。オトリ、頼むよ。これを呑んでくれ!」
札を突き出すミズメ。
「ミズメさんのこと、信用できない」
石のような拒絶。ミズメはすぐに風を巻き起こし、証拠を示してみた。
「札は本物だよ。頼むよ」
「そうじゃありません。あなたが、ここから出たあとのことがです」
「助けに来てくれたじゃん。まだそんなこと……」
言葉を飲む。オトリは真っ直ぐにこちらを見つめていた。
「どうなんですか。面白ければ、良いんですか? 私との旅は、ただの暇潰しですか? あなたは、人を殺す、ただの物ノ怪ですか?」
繰り返しの問い。逃げ場などはない。顔を隠す闇すらも祓えの光によってはぎ取られている。
「……ごめん。あたしはオトリの言う通り、その日暮らしのてきとーな奴なんだと思う。気に入らない奴がたまたま誰かを虐める奴で、お師匠様に言われたから、なるべく善行をしようと努めてて、退屈から逃げたいためにオトリに近付いたんだ」
「そうですか。じゃあ、人殺しは?」
「憶えてるぶんは一回」
「どうして、そんなことをしたんですか」
「あたしが年寄りは嫌いって話は、知ってる……よね」
「例の老人にやらされた、とか? 都合の悪いことなのに覚えてるってことは、楽しんで殺したんですか?」
「それも、ちゃんとできてるなら、何度も言わないよ。あの糞爺とのことは忘れられない……。それで、物ノ怪になって間もないころ、力をつけたあたしは調子に乗ってやり過ぎてしまったことがある。老い先短い、あいつに似た性悪だったから、ざまあみろとしか思わなかったんだけど、そんな奴でも慕う人がいたんだ。お師匠様に叱られて、人殺しはもう絶対にしないって、約束したんだよ」
「……・そうですか。どうして、今朝はちゃんと答えてくれなかったんですか?」
「オトリは絶対、嫌がると思ったから。嫌われると思ったからだよ」
沈黙、巫女の祓え玉も消え、石室の中から何もかもがなくなった。
「あんたと一緒に居たら、あたしもちょっとだけ変われる気がしてたんだけど、そんなことなかったみたいだね……」
那由多に思える一瞬の中にただひとつ、手の中から霊苻がもぎ取られる感覚だけを残して。
「……道返ノ石の封印術には弱点があります。それは、土がむき出しになっている部分!」
何かを叩きつける厳めしい音。続いて地震。
轟音の中、石室の天井に亀裂か。僅かな光が入り込む。
拓かれる天。全てに広がる星屑の海。その中にひときわ目立つ大きな光。
今宵は新月、それは月に非ず。
極北の標を仰ぎ見るは、我が友の横顔。
「一緒に行きましょう。ミズメさんがもう二度と間違わないように、私が導いて差し上げますから」
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逆茂木……進行を妨害するために置かれた木。根や枝、あるいは荒い樹皮を利用する。
濠……深い溝。獣や敵の攻撃から身を護るために掘る。底に罠を仕掛けることもある。
左道……本来の道を右道とし、通常の教義に反するものを多く取り入れた流派。あくまで本流から見ての呼び方である。ここでは中世に隆盛し解体された左道密教を指す。
天竺……インドのこと。
那由多……十の六十乗。転じて極めて大きな数字を表す。




