化かし019 性分
「何をそんなに驚いてるんだよ?」
「今の術……直接、他人の血を扱った。それも陰ノ気で……」
オトリは座り込んだまま言った。
「言ってたじゃん。そうするって」
「確かに、水術でも他人の生きた水気を操ることは不可能じゃない。でも、普通の治療術は治る切っ掛けを与えるだけ。クレハさんの使ったのは、直接、肉体を操作する術。それができるのは“水術じゃない”んです」
「そうだな。われには水術のたしなみはない。これは血肉を直接操る術のようだ。子が流れてから身につけたが、なんの加護かは知らぬ。あるいは魔王の呪いか……。この力は村の者に随分と頼りにされておる。聖だ神だなんて言われてな」
鉄漿が笑う。
「陰ノ気を使ってるのが気になるのか? なんでもいいじゃん。良いことに使ってるんだから」
ミズメはオトリに手を差し出した。
オトリは手を借りずに、自分で立ち上がるとクレハを睨んだ。
「クレハさん、あなたは鬼ですね?」
巫女の指摘。クレハはまたも笑った。
「さあ……。鬼に会ったことがないから分からぬ。だが、少なくとも死人ではない。生きながらにして怨嗟で鬼と化したというのなら、否定はせぬ。それに、心のほうは自身でも鬼であると自覚しておる。われを手籠めにした男のことは、今でも殺したいほどに憎んでおるからな。夫は憤死をしたと言ったが、その実は呪殺だと睨んでおる。われを追い出した都の連中も気に入らん。スメラギともども炎に巻かれて灰燼と帰せば、さぞ愉快だろうと思う」
「おお、怖。鬼でもなんでもいいじゃん。クレハはこの村で静かに暮らしてるんだろ? そんなことよりお腹が空いたよ」
ミズメは腹をさすった。確かにオトリの言う通り、水術ではないようだ。
彼女に骨折を治してもらったときはその場で腹が減ったが、今の空腹は昨晩から続くものである。
「気の抜けた奴だな。連れ合いの巫女が鬼がおると言っとるのだぞ?」
「別に。あたしたちは鬼になった悪霊を改心させたこともあるし。それに……」
ミズメは不敵に笑うと、自身の隠し持つ物ノ怪の気配を現した。
「妙な気配だな。おぬしも妖しのたぐいか」
「あたしは物ノ怪。でも、悪人じゃないつもり。そもそも、そういうのは気にしない性分なんだ」
「物ノ怪が自らそう言うか。巫女も承知してるのならば、ますますおかしき奴らだな」
クレハはそう言ったが、笑わずにオトリのほうを見た。オトリもまた彼女を睨んだままである。
「そう睨むな。われのこの恨みがましいのも性分なのだ」
「オトリ、早まるなよ。クレハが悪い奴かどうかは村に行って確かめればいいさ」
巫女の背を叩き先に歩き出す天狗。連れ合いは返事をせず、一歩遅れてあとをついて来た。
柵の村。都から追い出されたり、故郷で暮らせなくなったわけあり者の集まる村。
首領であるクレハが言うには、大半の者は他者に非をおく挿話を抱えている。
クレハと同様に都絡みの怨嗟を抱えた者。
あるいはミズメと同様に、生まれながらにして身体の異形や瑕疵を厭われた者。
あるいはオトリと同様に生業を穢れのように扱われて流れて来た者。
平々凡々な村からの逃亡者には、生贄の掟や無残な風習に疑問を抱いた者も多い。
村に身を寄せる者の多くは女子が占め、子供を抱える者や、暮らしでは足手纏いになる老人や助けの居る者もあった。
大人の男は少数であるが、彼らもそういった女共に付随して来たものや、同じくなんらかの事情で爪弾きに遭った者である。
彼らは互いに助け合い、特段、厳しい法も令も設けずに大らかに暮らしているという。
強いていうなら、自分たちを追う者や疎む者から身を隠すために、なるべく他集落との繋がりを断たねばならない点が窮屈であるそうだ。
「弱者……特に女には生きづらい世だと思う。三従の掟やら、五つの障りやら。都では学を持てば疎まれ、そのくせ学がなければ笑われる。男が訪ねるのを待たねばならぬくせに、行き遅れや石女は浮き名で弄ばれる。辺境では女は結婚するまでは“人”ではなく、“村の共有品”として扱われることも珍しくないのだ。ここに居る男はそうではないが、貴族の男は性根が腐ったような奴ばかりで、武士は殺しに明け暮れる蛮人どもばかりだ」
苦々しく言うクレハ。
「なあ、オトリ。おまえと気が合いそうじゃん」
ミズメは旅の巫女をつつく。
「……」
「こいつ、意地っ張りなんだよ」
ミズメは首を傾げた。
クレハに逢った当初は、自分のために自身の術や正体も隠さず頼み込んでくれたほどであったというのに、この態度の変化である。
それほどにあの術が気に入らないのだろうか。
「構わぬ。ここに暮らす者も、来たばかりのころは頑なな態度を取った者も多い。それより、食事を用意させよう。その代わり、おぬしらには何か村の役に立ってもらうからな」
クレハが村の者に指示をすると、ミズメとオトリに小屋がひとつ貸し出された。
それから、村の釜土で焼かれた“おやき”なる食物も供される。
肉や野菜を刻んで味付けをしたものを、穀物の粉を練ったもので包み、釜土で焼き上げる料理である。
「旨いじゃん。持ち運びにも便利そうだし、良い料理だね」
「粉や餡を変えれば飽きぬしな」
クレハもおやきを同じ大きな器から取って口にしている。
「クレハ様、これ私が捏ねたの。こっちはじじいが作った蕪菜の餡だよ」
紅葉柄の膝に縋る童女。
「そうか、おまえが捏ねたのか。大人がこしらえたものよりも良い形だ」
のけ者どもをまとめ上げているだけあって、クレハには人望があった。
村へ戻ると子供たちが駆け寄り、女は仕事の手を止め与太話を持ち掛け、男は小さな擦り傷を治してくれと甘え頼み込んでいた。
排他的でなければならないはずが、首領の紹介する旅の巫女と山伏へは不審の目が向けられることはなく、ごく自然に挨拶が投げられていた。
例の術に限った話ではなく、統率者としても、そのみやびやかな美貌を持ち上げる方向でも大人気であった。
暫く村を見て回っていると、クレハは慌てた村の者に呼び出されていった。
小屋で大人しくしているように告げられ、ふたりはそれに従った。
「確かに、この村は良いところですね。村のかたも良さそうなかたばかり」
「あたしもそう思うよ」
「でも、クレハさんは恐らくは鬼です。あの術は人の身で使いこなせるはずがありません」
「別に鬼でも平気だろ。荒神や鬼神を祀ってるところもあるんだし、生きた鬼を慕っててもなんの問題も無いよ」
取り立てて共存共栄を説き直す必要があるとは思えないが、相方の表情は固いままである。
「……あの血肉を操作する術ですが、あれは私の里では禁忌とされています」
「人前に出すなってやつ? まあ、便利だしね。医者や薬師要らずになったら揉めるよな」
「そうじゃありません。自然術と同じで摂理を歪めるにしても、程度が違い過ぎるんですよ。死の運命に逆らい、欠けた肉体を補い、一説には死者すらも蘇生するといわれます」
「死者も? そりゃ、神様みたいだね。あたし聞いちゃったんだけど、クレハの奴は村の人に“姫様”だなんて呼ばれてたぜ」
笑うミズメ。
「実際に蘇生ができるかは分かりませんが、ギンレイ様が扱われる借寿ノ術をも上回る内容です。それだけ強力な効果があるだけに、大量の霊気を消耗します」
「そりゃそうだろうね。治療にしても、治りを早くするのと、直接肉を補うのとじゃ違うだろうし。そういえば今回は、治療を受けるまえから腹は減ってたし、体力も落ちてない気がするな」
「私たちの流派では“霊性”といって、霊気の関係性を説明する三つの系統があります。他人の霊気を操作するのを“招命ノ霊性”と呼ぶのですが、これは単純な鍛錬だけでなく、他者との霊力の差がものをいいます。そして、相手が幾ら霊力を抑えて受け入れようとも、生きた肉や血に宿ったものを完全に無視してしまうことはできません。それを容易く操作することができるから特別な術とされるのですが……」
「長ったらしいな。手短に頼むよ、手短に」
オトリには自分の流派のこととなると長い蘊蓄を垂れる癖がある。ミズメはそういうのは苦手であった。
「私が心配なのは、あの術は利用する霊気の性質が“陰”に限定される点です。怒り、憎しみ、妬み、それから哀しみ。そういった心から生まれる気を利用したものになります」
「要するに、呪術師が使う呪いや悪霊の根源と同じってことか」
「はい。だから、力を使う者も、使われる者も、陰ノ気に冒されやすくなる危険があるんです。呪う者が穢れていくように、嫌な気持ちになったり、腹が立ったり……悪意を持ったり。力に頼れば頼るほどにそうなりやすい」
「今は良い鬼でも、いつか悪い鬼に成るんじゃないかってことか?」
「術者であるクレハさんがいちばん心配ですが、村のかたも当然のように彼女の力を受け入れて頼っている節があります」
「村の皆が鬼に成っちゃうって?」
「あの術を濫用し続ければ、いつかはそうなるはずです。みなさん、元よりつらい事情も抱えていますから。村の邪気が高まれば、悪霊を呼び寄せたり、悪い神に目を着けられます。そしていつかは……黄泉國と繋がりを持つでしょう」
オトリの顔は強張っている。
「黄泉國……なんだっけ。死者の行く地獄みたいなところだよね。伊邪那美命って神様が支配してるんだっけ?」
「はい。私たちの流派が祀る神様たちの多くは、彼女から生まれました。ゆえあって死者の国に身を置いていますが、彼女はこの世である覡國に生ける者の命を奪い続けることを望んでいるんです」
「何かの書物で読んだことがあるよ。おっかない神様だよね」
「クレハさんが使ってる術がそれとは言い切れませんが、私たちの流派では黄泉の加護を授かった術を固く禁じています。本業であるお祓いと正反対の結果を招きますから。おもに、各系統の術を陰ノ気を用いて扱う行為や、精霊をも静止させる氷結の術、血肉を直接操る血操ノ術、確かなものに相反する影や幻を扱う術を指します」
「なるほど、それであたしの幻術や、お師匠様の吹雪にも難色を示したわけだ」
「はい。呪術も含めて、善悪は扱う者の心根や目的次第なのは理解していますが、私たち巫覡は基本的に“晴れの気”、陽ノ気で術を使うように修行します。陰ノ気は陰ノ気を呼んで、際限なく禍を撒きますし、寿ぎやお祓いの技は陽ノ気以外では扱えませんから」
「でも、オトリって割とくよくよしてるし、陰気臭くない?」
「それはただの性分です……。もっとも、そういった気持ちを上手く切り替えるのも巫覡の修行です。呪術師でも、お祓いをするかたは陽ノ気も扱いますし。私も陽ノ気しか使っていませんよ」
「へえ。あたしはあんまり気にしてないな」
「すでに物ノ怪ですからね。それに、ミズメさんは性根が軽いかたなので、扱う霊気に穢れが少ないんですよ」
「いやあ、なんか照れるね」
ミズメは鼻をこすった。
「別に褒めてませんが……。私は今まで、自分の行いが良いことだって信じていたし、物ノ怪は悪いものだって割り切ってたんです。だけど、最近は間違いも犯してるし、自分の力を使うのも時々怖くなります。他人のこととはいえ、黄泉の術なんてとても……」
オトリは視線を落とした。その先には彼女の手のひら。
「それでまた悩んでるんだね。オトリの割り切りが揺らいだのは、あたしやお師匠様に逢ったせい?」
「えっと、出逢えたことは間違いだとは思っていませんよ。前よりも良くなったことも沢山ありますし、知らないままよりは全然良いですから! でも、迷うことも増えてしまいました。以前より自分自身のことを信じられません。あの血操ノ術を使うのを止めさせたほうが良いはずなんですけど……」
「今も使ってるかな?」
「はい、きっと使っています……」
クレハが離席した理由は“出産の手伝い”であった。
産褥ではいつの時代、どの場所であろうとも命懸けの戦いが繰り広げられる。
母体がいかに大切にされて健康であろうと、出血、産道の狭さ、逆子、後産の狂いなどが立ちはだかる。
しかし血肉を操る術は、これらを全て解決してしまえるというのだ。
一説によれば人を蘇生するだけの力を持ちうる術。その代償の穢れもまた大きい。
これを産褥で扱うことは天秤を激しく揺らすであろう。
「やっぱり、私がちゃんとした方法でお手伝いすべきだったのかもしれません」
人の命を大切に扱い、同じく助産の任を持つはずの巫女は助力を当然申し出ていたが、クレハにこれを却下されていた。
「ここはクレハたちの村だ。責任を負うのは、彼女たち自身だよ」
「でも、皆が魔に堕ちてしまう恐れがあるのを放っておけません。この村が良い村なら、なおさらです! 赤ちゃんやお母さんだって、かえって危険かもしれませんよ!」
その声は嵐のごとく荒ぶっている。
――うーん……。なんて言えば納得するかねえ。
「オトリはちょっとさ、押しつけがましいっていうかな。もうちょっと、ほったらかすことも覚えたほうが良いと思うよ。ひとごとで肩を張り過ぎ!」
「無責任ですよ!」
「だからさ、あたしたちには責任なんてないんだって。相手が幸せそうなら、放っておけばいいじゃん」
「それが本心かどうかも分からないのに? 間違って後悔するかもしれませんよ?」
「そうだよ。自分で自分のことが分からないことだってあるんだから、他人のことなんて分からなくて当然。さっき言ってたお祓いの修行と一緒さ。割り切り、割り切り」
「納得がいきません。絶対、もう少し悩んだほうが良いですよ」
「そうかな? 時間の無駄だよ。あたしは自分で自分のこと信じてるし、ちゃっちゃと決めちゃうよ」
「ミズメさん、ときどき間違ってますけど……」
オトリは口を尖らせた。
「あたし、嫌なことと都合の悪いことはニ、三歩歩けば忘れるたちなもんでね」
ミズメはへらへらと笑って言う。
「もう、嫌な人! 人が真剣に悩んでるのに!」
「クレハに直接聞いてみたらいいよ。その術の危険性も教えたらいい」
「それがですね。当たり前のように使ってる割には、ここの村のかたの邪気が一般のかたより少ないというか。清いくらいなんですよね」
「んだよそれ。なんの心配をしてたんだ? それとも、悪を悪とも思わない根っからの悪人集団ってことかい?」
「うーん。そうは見えませんし、性根と感情は別の話です。そういったかたは、晴れやかな気持ちで悪事を行えますから。そもそも、鬼は正体を隠すのが得意なものなんですよ。もしかしたら村の皆は既に鬼なのかも知れません。そうだとしたら、私たちが頼まれる仕事も、酷いものかも……」
「悪いほうにばっかり考えるなあ。どっちにしろ、あたしたちには助けられた恩義があるんだからな。お返しくらいはしないと筋は通らないよ。共存共栄、一宿一飯の恩!」
そう言ってミズメは欠伸をする。
ふと、耳に遠く赤ん坊の泣き声が届いた。
「産まれたみたいだぞ」
「嘘、早い」
「まだ半刻も経ってないだろうけど、ちゃんと音術で偸み聞いたから間違いないよ。まるで、糞をひるくらい早かったな」
「もう少し違う例えをしてください!」
「オトリは便秘か?」
「お薬で整えてますから大丈夫です! ……ってそうじゃなくって、もう!」
オトリは口をへの字に結んで、そっぽを向いた。
――どうもまた悪い癖が出てるみたいだね。礼をしたら早いうちに村を出るか。仕事が厄介ごとじゃなきゃいいけど。
それから暫く、オトリを元気づけようと茶化したり怒られたりしていると、クレハが戻って来た。
「待たせたな。村に新しい仲間が増えたよ」
柔和な顔。貴人の装いと相まって姫呼びも相応しく見える。
「おめでとう」
「おめでとうございます」
「われに掛かれば“ぽんっ!”よ」
愉快そうな頭領が力こぶを叩く仕草をする。
「悪霊とかは寄って来なかったかい?」
ミズメが訊ねる。
「気配すらなかったであろう? 都でもないのだしな」
「都だと悪霊が来るんですか?」
オトリが首を傾げた。
「お産の血を嗅ぎつけて間違いなく現れるな。それゆえに、出産に適した暦や風水も気にするし、陰陽師を呼び立てて何度も祓えを行ったり、門神を立てる場合もある。月のものや出産で流れた血は“穢れ”だそうだからな。無事に生まれても、成長の節目節目に護りや祓えは必須だ。そうでなければ、子供は元服を迎えられぬまま死に絶えるだろう」
「そこまでしないといけないなんて。都はそんなに酷い状況なんですか?」
「魔都の名はだてじゃない。結界が悪霊の侵入を防いでる代わりに、内側で生まれたものは祓われない限りはずっとそこに留まるからな。一説によると、子供が悪霊になると、同じ子供の魂を求めて連れて行ってしまうんだという」
そう言ったクレハは、少し寂し気な顔をした。
「……」
オトリもうつむく。
「あんな都は一度、全て焼け落ちてしまえばいい。神をも封じる結界も、取り払ってしまえばいいのだ。せっかくの仏も、寺を都の近くに囲い込んでは無意味だ。坊主連中は慈善を謳うが、貴族どもが土地を掌握していて弱みがある。金と力のある者だけが生き長らえる世界など、くだらぬ。神も仏も頼れぬのなら、鬼にでも魔王にでも頼るほかにあるまい」
吐き出すように言うクレハ。
「あたしもそう思うよ。都には面白いものも沢山あるけど、気に入らないものも多いね。あんたたちを罪だ穢れだと言って追い出したけど、連中のほうが嫌な奴だよ」
「そうだ。真に穢れておるのはどっちか分からぬ。人は変われる。それでも胤を理由に穢血と差別されることもあるが、そんなものなどは迷信だ」
「でも……村のかたたちが頼りにしてる術が、穢れなのは間違いありません。いつか禍ごとを招きます。絶対に」
オトリが口を開く。
「ほう、言ってくれるな。とはいえ、われもこの術が陰ノ気を用いる術であることは承知している。巫蠱や呪術と同様に忌み嫌われるのも仕方のない話だ」
「きっと、正しい想いのもとに扱っていらっしゃるのだとは思います。でも、陰ノ気に頼り過ぎると、施術者だけでなく被術者……つまりはあなたの村の皆さんまでもが黄泉に伊邪那美われてしまいます」
「なんだ、そんなことか。それなら心配ない。われの領民は、ろくに術にも通じてないただの人だ。怨みもここで暮らすうちに薄れておる。巫女に鬼だと呼ばれるような者は、ここにはわれ一人のみだ」
軽く流すクレハ。
「こいつ、それをずっと心配してたんだ」
「要らぬ心配だが、礼を言っておこう。それはともかく、そろそろオトリの水術で一つ仕事を頼まれてくれぬか?」
「なんでしょうか?」
返事は未だに硬さを残している。
「この村に“もぐりの陰陽師”がおってな。霊力もろくに持たない錆び刀なのだが、地脈は少々読める。ここの地下にはどうやら“変若水”が眠っているらしくてな」
「温泉ですか。それなら任せてください」
オトリは胸を撫で下ろして返事をした。
ミズメたちは連れ立って小屋を出て、“もぐりの陰陽師”たる盲の老人を呼び、共に村の外れへと来た。
「ここじゃ、ここに変若水がある」
老人が言った。見えぬだろうに、手には大事そうに羅経盤と魯班尺を握りしめている。
「確かに水脈がありますね。金気や濁りも感じますし、温度も高い」
「良いねえ、温泉。さっさと沸かそうぜ」
「ちょっと踏ん張らないと出ないかも知れません。水は中に含まれる不純物や精霊が多いほど重くなるんです。温泉もそうですし、海の水なんて銅鐸みたいです。地面のほうは土術で視るぶんでは、ちょっと硬い程度ですね。岩盤ではないので、私にも崩せそう……」
オトリはぶつぶつ言うと、地面に手を当てた。
「地中の水を水術で引っ張り上げます! せーのっ!」
しかめっ面の娘が唸った。
「頑張れオトリ!」
「ふぅぅぅーーーん!」
鼻息荒くして術を繰る。
「ええぞ、娘っ子!」
「もう少しで出そう……。ふんぬぬぬぬぬ……」
真っ赤な顔で歯を食いしばっている。
「さっきの産婦よりも酷い顔だな」
クレハは苦笑いだ。
――ここで腰を擽ったら面白いだろうなあ。
水術師が悩み頑張る一方で、その相方は“余計なこと”を考えていた。
血脈の浄穢はさておき、その者の性根性分というものは確かに存在する。
オトリが心配性で魔や不幸を嫌うたちであるなら、ミズメは軽はずみで刹那的な幸福を好むたちである。
自身を良くしてくれる相方のためならば、少々のおふざけや悪事も厭わない。
けだし、同じ人を想うのならば、哀しみや不安からよりも、笑いから目指すほうがより良いであろう。
つまるところ、ミズメは“余計なこと”を実行に移したのであった。
急に腰をまさぐられた巫女は笑い転げ、彼女の霊気によって操作されていた水脈は出鱈目に地中を跳ねまわった。
狙っていたと思われる箇所とは見当違いのほうから灼熱の湯が噴出し、油断していた一同はあわや大火傷といったところである。
幸い、怪我人は出なかったものの、流れ出た温泉が畑の畝を一つ駄目にしてしまった。
天狗なる娘は、相方の巫女と村の頭領の二人に、陽が沈むまでの長ったらしい説教を受けたのであった。
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門神……門番をしてくれる神。
三従の掟……女は幼いころは父や兄に従い、嫁しては夫に従い、夫の死後は子に従うべきだという大陸からきた教え。
五つの障り……女は修行しても仏などの尊いものには成れないという一部の仏教の教え。また、仏道を行く者の障害をいう。
石女……子のなかなかできない、あるいは産めない女性の蔑称。
浮き名……噂。特に男女の情事にまつわること。
当時の時間単位……一日を干支で十二分割とし、時ひとつで現在の二時間ぶんで、刻が三十分となる。都の陰陽寮や寺が鐘を鳴らして知らせていた。
穢血……穢れた血。ここでは血筋からして穢れてるという意味。
変若水……若返りの水。酒や温泉をそう呼ぶこともある。
羅経盤……羅鏡とも。細かい方角に分けて文字が刻んであり、中央には方位磁石がついている。これで風水や事象を司る方角を調べる。
魯班尺……定規のような道具でこれにも文字が刻んである。風水では長さや高さも吉凶に入れて考える。建設や測量などに使われた。
巫蠱……呪術などにより、蟲や小動物を操る技。




