化かし018 紅葉
「……さん! ミズメさん!」
相方の呼び声。
ミズメは土の上で目を醒ました。身体の感覚が無い。
「……おはよう。オトリが先に起きてるなんて、もしかしてもう昼かい?」
「良かった、目を醒ましてくれた。身体が冷え切ってしまってますよ! 翼なんて、すっかり凍って固くなってしまってる」
「寒かったからね。仕舞ってればそのうち治るよ」
ミズメは一晩中広げたままにしていた翼を背の中にしまった。
「翼も身体の一部だってことを忘れてました。この前、羽根を抜いたときに血も出ていたのを知ってたはずなのに」
オトリは今にも泣き出しそうな顔をしている。ぼやけてるが、頬に濡れた筋がある気がしないでもない。
「気にするなって。しかし、寒いな。雪はそろそろやんだ?」
立ち上がるミズメ。ふらついてしまい、巫女に身体を支えられる。
「晴れてるみたいです。とにかく、麓の集落まで行きましょう。火やお湯を借りて身体を暖めないと」
凍れた翼を体内に戻したせいか、芯からいっそう冷える。
それでもミズメは「今、温泉に浸かれたら極楽だろうね。あとは酒もあれば……」などと考えていた。
「おぬしらは何者だ? 見たところ、巫女と山伏のようだが」
唐突に何者かの声が響いた。
顔を上げると、そこには市女笠を被り、紅葉を散らした雅やかな模様の袿をまとった女が立っていた。
「どこかの貴いかたでいらっしゃりますか? ここで吹雪が去るのを待っていたのですが、私の連れ合いが凍えてしまって。どこか、暖を取れるところをご存じありませんか?」
相方が訊ねる。
「……」
壺装束の女は返事をしない。彼女は黙ってふたりの横をすり抜けると、洞穴の奥でかがみ込んだ。
「その人は旅姿だよ。このあたりの人じゃないかも。身体は動かしてればあったかくなるよ。あたしたちも旅を続けよう」
「駄目です。倒れてしまいますよ。……あの、ここはもしかしてあなたの場所でしたか?」
オトリが女に尋ねる。
「まあ、そんなところだな。人に見つかりたくない物を隠す時に使う」
女は石をどかすと小さな巾着を取り出し、中身を検めた。それを懐にしまうと立ち上がり、市女笠の下からこちらを睨んだ。
「もう一度問う。おぬしら、何者だ。どこからこの地へ来た? 目的はなんだ?」
「私たちは、旅の巫女と山伏です。故郷に帰る道中で、薬草を摘みにこの山へ立ち入ったら、吹雪に襲われてしまって遭難しました」
「漂泊の巫女か。おぬしらからは確かな霊力を感じる。どういった呪術を扱う? 何者の差し金だ? ここの誰を狙って来た?」
女の腰帯からは短刀らしきものの柄が覗いていた。彼女のしなやかな指はそれに触れている。
「違います! 私たちはそういった者ではありません。私は、紀伊国の霧の隠れ里より、水分の旅で全国を巡っている水術師で名を乙鳥と言います。こっちは出羽国の月山に住む山伏の水目桜月鳥。彼女は道に迷った私を里まで送り届けてくれる約束なんです!」
オトリは一息に説明をした。
「紀伊に出羽? わけの分からん奴らだ。隠れ里の者が出自と任を明らかにし、遠く日ノ本の果ての山伏に世話をされるとは。即興の偽りにしても出来が悪過ぎる。騙し討ちの必要な霊力にも思えぬし……さてはおぬし、阿呆か?」
傘の下の口元が笑っている。
「あの、信用頂けないならそれでも構いません。麓の村へ尋ねますから。でも、私たちは誰かの命を取るような真似は絶対にしません。行きましょう、ミズメさん。歩けますか?」
オトリに引かれて歩き出す。
歩けなくはない。実際、ミズメにはこの程度の凍えは経験があった。
あれは木の上で寝ているうちにうっかり吹雪に巻き込まれた時のことだ。
いや、飛んでる途中に隼と衝突しかけて、避けるために冬の池に突っ込んだ時であろうか。
なんにせよ、オトリの心配は少し過剰に思えた。
「待て。麓へは行かせん。その地はわれのものだ。怪しげな術師は入れぬぞ」
「では、近所の他の集落を御教え願えませんか?」
「あるにはあるが、そこは気色の悪い修行に打ち込む一派の暮らす地だ。われら以上の鼻つまみ者。蟲も好かぬ汚物どもよ」
女は声を立てて笑った。
「おしゃべりしてる暇は無いんです。友達の身体が冷えてしまって」
「ふん、友か。昨晩の吹雪は異常だった。山女神がおぬしの霊力と、ほのかに香る神威に嫉妬して起こしたものだ。その友がくたばり掛かっておるのも、おぬしのせいだ」
「私の……」
「はは、やっぱり吹雪はオトリのせいだったね。ま、気にするなよ。あたしは死にやしないって。山を出てさっさと焚き火でもしたら済む話だよ」
ミズメはオトリから離れて歩いて見せようとした。……が、肩に回された腕がまるで凍り付いたように放してくれなかった。
「巫女の気が乱れたな。その程度で動揺するようでは、とても呪術は扱えまい。それでも警戒はさせてもらうが、そっちの山伏が心配だ。われの村へ来るがよい。火を貸してやる」
女はそう言うと、さっさと歩き始めて洞窟を出てしまった。
「よく分かんないけど、来いってさ」
「良かった……。でも、私の何がいけないっていうのかしら?」
「オトリの神威って言ってたからね。山の女神がオトリの里の神様の加護を気に入らなかったんじゃないの? 縄張りを持つ獣が別の同種に威嚇するようなもんさ」
「だからって、命を取るほどのことをなさらなくっても」
「女神は嫉妬深いもんだろ。巫女なんだから、その辺のことくらい分かるでしょ」
ミズメが諭すが、オトリはぶつぶつと文句を言い続けた。
ともかく、ふたりは洞穴を出て、壺装束の女について行くことにした。
一歩外を出ると、昨日の白い闇とは一変。色鮮やかな世界が広がっていた。
「嘘、あんなに酷い嵐だったのに……」
吹雪は根雪を作るどころの話でないほどの豪雪であったはすだが、すでに木の根元に僅か残るばかりとなっており、代わりに大地に降り積もっていたのは色とりどりの落ち葉。
五百枝もまた風雪に衣を奪われてはおらず、椛や錦木が秋を語らっている。
そして、紅葉の斜面を視線に下らせれば、空を映す鏡のごとき大池が広がっていた。
「五十雀まで鳴いてるね。これが山神様の不思議ってわけだ」
「また吹雪にならなければ良いのだけど」
オトリは不安気だ。
「娘どもよ、安心するがいい。どこぞの行者とは違って、われは山女神を宥めるすべを知っておる。……といっても、ただ愚痴を聞いてやるだけだがな。われと共にいる限りは、山は和魂しか見せぬ」
市女笠の女は悠々と垂れぎぬを揺らしながら歩く。山の斜面は急であったが、彼女に歩を緩める様子はない。
紅葉柄の着物も相まって、どうにかすれば見失ってしまいそうである。
「しかし、良い景色だなあ。あとは酒があれば完璧だね。ほら、見なよオトリ。鹿がこっちを見てる」
ミズメは努めて明るく言った。しかし、ぴたりと寄りそう巫女は返事をせず、歩行の主導権も譲らない。
――ちょっと格好をつけ過ぎて失敗したかな。ま、男だなんだって避けられるよりはましだけど。
衣越しにも熱いほどに相方の体温が感じられる。
ミズメにとって、しくじりは赤恥であったが、立て続けに施しを受ければ、同じ恥でも面映ゆいものへと変じていた。
「ひとつ歌でもやりたくなるね……千早振る 神のねぐらに 寄り添いて 我が友と見る 天津日の雪」
ミズメは歌を詠んだ。
「ほう。田舎山伏の小娘が歌をやるのか。まずまずだが、落ち葉を日神の雪と喩えたのは、この地ではまずいな。日神も女だと聞く。われがいなければまた吹雪だ」
女は足を止めて振り返った。
「ありゃ、駄目出しされた。だったら、あんたはどう詠む?」
「そうだな……真澄鏡 しずく心は もの怨み 紅葉散りぬる 角隠しかな」
「ええ……。あたしたち、別にそんなじゃないよ……」
またも別の恥か、ミズメは頬が暖まる気がした。
「われは別によいと思うが。まあ、今の歌はおまえたちではなく、われの私情を詠っただけだ。不快ならば忘れてくれ」
「あの、おふたりはなんて?」
オトリが訊ねる。
「あたしは……友達といっしょに見た落ち葉が綺麗だなって詠ったんだよ」
ミズメがそう言うと、女が静かに笑った。
「ふうん。私、歌詠みはさっぱりで。里にも詠む人は居なかったし」
「読み書きはできるんだろう?」
「“ひらがな”だけですけど」
「へえ。隠れ里っていうから、むしろ漢字だけかと思った。自分の名前の字は知ってただろ?」
「まあ、そのくらいは。うちの里は神様が漢字は難しいし種類が多いからいやだっておっしゃるんです」
オトリがそう言うと、女が声を立てて笑った。
「神まで阿呆ときたか。女子ならばそれでも充分だ。都では女が漢語を無闇に読み解いたりなどすると、周りの連中の嫉妬が激しいものだ」
それから、市女笠に手を掛けるとその素顔を晒した。
額で分けられた黒髪は清水のように流れ、目鼻はっきりとした顔立ちに、白粉。
やや控えめに引かれた眉墨と、少し険のある二重。
小振りなくちびるから覗く歯は漆黒。
年齢は不詳であったが、麗しき貴人と呼んで間違いはないであろう。
「われの名前は更科呉羽。戸隠山の麓にある流人集落のかしらだ」
クレハなる女は微笑を見せると再び笠を被り、歩き始めた。
「流人か……」
「流人?」
オトリが首を傾げる。
「オトリは流人も分からないのか。罪を犯して都を追い出された人だよ」
ミズメは小声で耳打ちをする。
「聞こえてるぞ。罪とはいっても、都の連中が一方的に決めたものだがな。訴えた者に後ろめたいところがあって、今でも管やら識神やらを差し向けられるのだ」
「それで、私たちのことを疑ったのですね」
「われらは罪人とはいえ、死罪は免れておる。だが、その呪詛の念は命を奪うのを目的としている。身を護るのも当然の権利であろう?」
「あの、あなたは何の罪を?」
――余計なこと聞くなよな。話がこじれるだろ。
ミズメは心の中で愚痴を言った。
「姦通だ。公達に見初められて、手籠めにされた。われは生者で夫もある身であったゆえに、それが世間に知れて罰せられたのだ」
「夫を裏切ったら、罰せられても仕方がありません」
オトリは固く返事をする。
「権力者に言い寄られて、その辺の娘が断れるはずがないじゃんか」
ミズメが言った。
「そ、そうですね……。ごめんなさい」
オトリはしょぼくれた。
「そうだ、断れなかった。しかし、みやびやかな世界が魅力的だったのも嘘ではない。見事な衣を重ねられ、歌や琴を教え込まれたのは良い思い出だよ。だが、腹に子が宿ったと知った途端にお払い箱だ。愛していたはずの夫との契りもまだであったのにな。あまつさえ、われが魔王に通じたなどと噂を流されて、このざまだ」
「酷い。男の人って勝手だわ」
「そうだな。夫も勝手だった。われを盗られた苦しみで帰りも待たずに憤死したのだからな。流罪と掛けたか、授かった子も流れて御霊はわれを棄てて去ってしまった。残ったのはこの身と怨みだけ……」
「……」
オトリは黙り込んだ。
「顔を見なくとも分かる。オトリとやらからは哀しげな気が出てるな。容易く人を信じて同情するか。嫌いではない」
愉しげに言うクレハ。
「連れ合いの山伏……ミズメと言ったか。おぬしもなかなか聡いし、風流だ。おかしき奴らめ、気に入ったぞ」
彼女は足を止めた。
「見よ。これがわれと共に生きる爪弾きどものねぐら。現世の穢れた極楽浄土、柵の村だ」
振り返り小袖を広げる女。
更科呉羽の向こう、紅葉の広がる森のあいまに家々が建ち並ぶ。
罪人という言葉に似合わず、畑仕事に勤しむ男や、粘土や皮を相手に精を出す女、そして子供たちが石蹴りに興じている姿も見えた。
ミズメの耳にもその子供たちの嬌声が届き、紅葉流す颪が止まれば、村からは飯の炊けるにおいが漂い始めた。
腹が「ぐう」と唸った。
「そっか、私たち何も食べてない。食べないと身体が暖まらないわ。あの、クレハさん。私は水分の巫女で、旅先で水の難事や各種巫行のお手伝いを行う旅をしているんです。なんでも言いつけてくれればお助けします。その代わり、何か温かいものを出していただけませんか?」
喰いつくように頼み込むオトリ。
「慌てるな。施しはしてやる。ミズメのほうも顔色が幾分か良くなっておるし、生気も鈍っておらぬだろう」
クレハが笑う。
「ミズメさん、本当に平気ですか? 本当にごめんなさい」
「ごめんより、ありがとうのほうが嬉しいかな。クレハの言うように、死ぬようなことはないって」
ミズメは少し面倒になってきた。
「そんなに不安であるなら、今すぐに治療してやろうか? われも少々術のたしなみがある」
「お願いしようかな。あたしは我慢できるけど、こいつが駄目そうだからさ」
意地の悪い笑いを浮かべるミズメ。
「夫婦のごとき仲睦まじさだな。出羽より娘ふたりで連れ立って来るだけのことはある。どれ、おぬしの血に霊気を通してやろう。それで身体が暖まるはずだ。くれぐれも抵抗するなよ。心の臓が弾けるからな」
クレハは鉄漿の歯列を見せて言う。
「はいはい、オトリの治療術みたいなもんね」
ミズメはオトリの腕から離れ、クレハの前へと出た。
紅葉の袖が近付けられ、両肩に手が置かれる。
ミズメが身体から力と霊気を抜くと、一瞬、怖寒い気配が身体中を這いまわった。
しかし、すぐに血が熱くなり、その流れが瞬く間に全身を暖めた。
「終わったぞ」
「いいね、ありがとう。一発で元気になったよ。なあ、オトリ。クレハはおまえと同じ水術使いじゃないのか? 村を手伝うにしても出番がないかもね」
などと言って振り返る。
「う、嘘……」
しかし、横に立っていたはずの巫女は落ち葉の上に尻餅をつき、何か恐ろしいものを見るかのようにふたりを見上げていたのであった。
*****
市女笠……市場で商品の売り歩きをした女性が被っていた笠。虫の垂れぎぬという顔を隠す布がついている。元は下流層が使い始めたものだが、のちに貴族のあいだでも流行した。
袿……重ね着する衣のうちの一つで、軽装のときは上着を指す。
壺装束……中世日ノ本の貴人の女性が旅をする際にした服装。袿の裾をつぼねて歩きやすくしている。
流人……罪を犯して流罪を受けた者。
流罪……死罪の罪に重い。都を追われ、辺境の地や島で暮らすことを強いられる。
管……特定の血筋の者が使役するのことのできる物ノ怪や神。
識神……式神のこと。陰陽師などが使役する物ノ怪や神。自身の呪力で紙に命を与えて操るものもある。
生者……身分の低い者や愚か者を指す。
公たち……公卿などの身分の高い者たち。
今日の一首【ミズメ】
千早振る 神のねぐらに 寄り添いて 我が友と見る 天津日の雪
(ちはやふる かみのねぐらに よりそいて わがともとみる あまつひのゆき)
……荒ぶる神様の住まいで寄り添って見た紅葉はまるで太陽色の雪である。あるいは詠んだ彼女の心がどこか乱れていたのかもしれない。
今日の一首【クレハ】
真澄鏡 しずく心は もの怨み 紅葉散りぬる 角隠しかな
(ますかがみ しずくこころは ものうらみ くれはちりぬる つのかくしかな)
……鏡池に映る心は嫉妬である。下の句は、散った紅葉といちゃつく二人に白い花嫁衣裳の角隠しに雪を掛けたようだが、細かくは不明。何やらクレハの私情が絡むらしい。角隠しが花嫁衣装になったのは近代であるがご容赦を。