化かし016 表裏
昼間とは一変。沢の付近には強烈な陰ノ気が立ち込めていた。
それは単純に薄ら寒い気配ではなく、可視化された夜黒き靄となっている。
『太刀だ……太刀が要る……兵を集めて、将門を誅するのだ……』
沢の底から、震えるような霊声と共に土を掘るような音が聞こえてくる。
「マサカドに敗れた武将の悪霊か。どうやら悪気があって沢に太刀を突き立ててるわけじゃないみたいだ」
「悪霊に悪気がないっていうのもなんだかおかしいですね。とにかく、生気も感じませんからさっさとお祓いしてしまいましょう」
オトリが霊気を練り始めた。
「危ないっ!」
即応射撃。ミズメは弦の音を聞き逃さなかった。巫女の身体を引き寄せると、一本の矢がそこを通過した。
「あ、ありがとう」
「礼を言ってる場合じゃないよ! 次が来る!」
ふたりはその場から飛び退いた。達人の連射が黒靄を掻き混ぜ襲い来る。
『刀を隠したのはおまえたちか。さてはマサカドの手の者であるな?』
がちゃりと甲冑の音。眼前に現れた鎧姿の悪霊。
割れた兜の額の右寄りに、一本の牛の角のようなものがそそり立っていた。
「強い陰の気配に角。鬼だわ。ミズメさん、今日は私に任せてください!」
言うなりオトリは白い祓え玉を召喚。彼女と玉の周りから靄が消え失せる。
「はっ!」
掛け声とともに玉が敵へと襲い掛かる。だが、甲冑の鬼は人外の跳躍を用いてこれをかわした。
宙からの射撃。オトリが飛び退くと、朽ちかけた矢が地面に並び刺さる。
巫女は何度か祓えを験すも、ことごとく回避されてしまう。
「あの星空みたいに沢山の玉を出す術は使わないのか?」
「あれは里を離れてから使い始めた技なので。鍛錬を兼ねて封印します」
にこりと笑ってみせるオトリ。
『侮るなよ小娘め』
落ち武者が太刀を構えて迫る。
しかし、巫女は跳ね上がると沓で武士の兜を踏みつけて反撃と共に回避した。
巫女に踏まれた頭部は白い光と共に爆ぜ、髑髏を晒す。
「侮ってなんていませんよ。あなた程度の鬼なら、私に触れるだけでその霊気を削がれるでしょう。村の人のため、私の鍛錬のため、少し付き合っていただきますよ!」
そう言うとオトリは両手を前に突き出し霊気を練り上げた。
晒され頭の鬼の背後、沢の底から光り輝く大きな水の玉が浮き上がって来た。
「意志弱き植物や、命無き水へ呼び掛けるは“探求ノ霊性”……!」
巫女が得意げに何ごとか呟くと、光の水球はその姿を大蛇へと変じた。水蛇は武者の背後からその牙を剥き出し襲い掛かった。
鬼武者は振り返り、太刀を大きく斬り上げる。蛇はまっぷたつに割れるがその意志を失わず、二頭となって武者の両腕を食い千切った。
刀が地面に転がる。
するとあたりの黒い靄が傷付いた武者の身体へ集まり、欠けた部分を再生させ始めた。
死して鬼となった者は、なまの骨を憑代に、邪気によりその肉を構成する存在である。肉を祓い、骨そのものを清めねば無限に復元を繰り返す。
根を断たねば怨みは永遠に消えぬということである。
徐々に復元していく鬼武者。しかし、彼の周りでは二頭の蛇が光の輪を描いて浮遊している。
――楽勝だね。けど……。
ミズメは白い光に浮かぶ巫女の横顔を眺める。どことなく微笑を孕んだ初心な顔つき。
いっぽうで表情を取り戻した武者は歯を見せ唸っていた。
『口惜しや。マサカドの手先の小娘に弄ばれた挙句、大義も果たせず朽ちるのか』
「手先なんかじゃありません。私は人々の暮らしと水を守る巫女です! 不幸を撒き散らす武士なんかと同じにしないで下さい!」
巫女が返すと、鬼の身体から赤黒い気が勢いよく噴出した。
「怒らせたぞ」
「ふふん。私の水弾は骨をも貫きますよ」
オトリが両手を叩き合わせると、水蛇が宙で合体。大きな水球に戻った。
すると、鬼武者が繰り返し繰り返し身をよじり始めた。まるで滅多打ちにされているかのようであった。
目には見えぬが、恐らく球体から水が素早く弾き出されて彼を貫いているのであろう。
『……』
武士は膝を付いた。それでも彼のどす黒い腕は、地に転がった自身の刀を求めて伸ばされていた。
「水は柔らかいように見えて、押し込めれば矢よりも早く発射したり、刀よりも鋭く切断することだってできるんですよ」
オトリが片手をかざして握ると、大きな水球はこぶしほどの大きさに圧縮された。
「なあ、オトリ」
ミズメは声を掛けた。
「なんですか?」
「あたしにもやらせてくれない? 鬼ってもんとは戦ったことがないから、手合わせしてみたいんだ。今後のためもにさ」
オトリは少々不満げな貌を見せたが、ミズメが拝むと水球は元の大きさに戻った。
「危なくなったら私が祓ってしまいますからね」
「心配ご無用!」
ミズメはオトリと入れ替わり、武者へと対峙する。そして、“どこからともなく”抜き身の剣を取り出した。
「その剣って、今朝の山伏の柴打刀じゃないですか……」
オトリは溜め息をついた。
「身体を再生したら太刀を取りな」
どこ吹く風。ミズメは剣を構えた。
『また小娘……いや、男か? 人ならざる妖しの気配も感ずる……』
武者は身体に靄を集めながら太刀を拾った。
「そんなこと、どうだっていいでしょ。あたしの名前は水目桜月鳥。不幸に喘ぐ弱者を救うために善行の旅をしてる者だ。沢に刺さった刀の金気が村の水を汚して皆が困ってる。取り除いた刀を戻したあんたを調伏しにここへ来た次第だ」
天狗なる娘が名乗る。
『我が諱は他田真樹。信濃国小県郡が郡司を仕りし者。これより朝廷へ反旗を翻した平将門を、その従兄弟である平貞盛と共に陛下への忠義を示さんと兵を率いらんとする次第である』
武者が太刀を構えて答えた。
「マサカドは何十年も前に討たれたよ。彼は新皇を名乗ったけど、今も正当なスメラギの後継が日ノ本を治めてる」
『……忘れておった。平氏の争いは他人事。だが、サダモリとマサカドはこの地で衝突しかねなかったのだ。我の治める領民が無用の戦禍に巻き込まれぬようにと、サダモリ側に百騎の兵と共に助力を申し出たのだ。しかし、逆賊討つこと敵わず、我は討ち死にしてしまった。あまつさえ、正気を失って武士の魂たるこの太刀で無実の人を斬った』
「武士の本願は、自身の仕える者への忠義と、己へ仕える者への庇護にあるって聞く。その志を道として、弓刀に魂を預けるのがもののふだ。さぞ無念だったろうね」
『同情は要らぬ。今や我は領民へ害為す邪鬼と成り果てた。祓い滅するがよい』
武士は太刀を降ろした。
「いいや。あんたは武士だ。武士として死んだんだから、武士としてその魂を潰えさせなきゃならない。人の身体が朽ちようとも、たましいの道はまだ続いているんだ」
ミズメがそう言うと、武士は再び太刀を構えた。
闇夜の中、相対するふたり。
月待たずして、どちらからともなく駆け出す。
先に刃を煌めかしたのは大振りの太刀。受け止めるは山伏の剣。剣戟一閃。太刀を滑る刃が火花散らして武士の顎を狙う。
武士は仰け反りかわすと同時に太刀を地へ叩きつける。烈しき太刀風。天狗なる娘はそこに在らず。
側面より突き出される儀式のやいば。繰り返す突きは古びた籠手によっていなされる。
間合いの差。距離を詰めた娘の腕と短い柴打刀を前に長い得物の武士は防戦一方。やいばが武者の腕の肉を削いだ。一瞬の怯み。
天狗なる娘は大きく振りかぶり、袈裟斬りをお見舞いする。
苦悶の声。漏らしたのは武者に非ず。太刀の柄が娘の鳩尾に喰い込んでいた。
武者による返礼の袈裟斬り一閃。娘は突かれた胸を抑えながらも風のごとき跳躍で回避。その背に翼は見当たらず。
鬼なる男も、その身より黒き気配は醸しつつも、太刀は刃を静かに白く光らせていた。
「……」『……』
得物を構え、再び対峙するふたり。どこかで梟が啼いた。
たましいの交差。更け闇の山に一閃煌めく。
かたや太刀を薙ぎ抜いた武者。
かたや山に伏せし天狗。
……下段も下段。その調伏の刃は、もののふの右膝から下を奪っていた。
『完敗である。我を滅するがよい』
「背中は斬らない。あたしは気に入らない奴しか滅さないんだ。その仕事はあいつに任せるよ」
ミズメは振り返り、鬼武者の背に言った。
「オトリ!」
ミズメが呼ぶと巫女が駆けて来た。
彼女の表情は先程までとは一変。いつもの不足のあとのしょぼくれた顔になっていた。
「あ、あの、ごめんなさい。あなたにも意思や願いがあったのに、あんな風に弄んで」
頭を下げるオトリ。
『若き娘よ。気に病むな。今や晴れやかな気分だ。怨みと後悔の権化であった我が、今更誰かを責めようとは思わん』
膝を突いた武士が見上げる。その顔からは邪気は失せ、丹精な一人の男があった。
「あの、オサダノマキさん。もし宜しければ、私も最後まで巫女として貫かさせてもらって宜しいでしょうか」
『構わぬ。滅するがよい』
「滅するだけが巫女の役目ではありません。あなたが怨嗟の魔道から武士の道へ戻ったように、私も本当の自分の願いを験してみたいのです」
そう言うと巫女は武士の前に立ち、視線合わせてひざまずき、両手を握り合わせた。
「貴き魂の還るべき場所は無でも黄泉國でもなく、高天國です。葬り、祝り、寿ぐのが巫覡の務め」
巫女は見上げた。
「高天國におわす天津神々よ。益荒う武士の御霊をどうか受け入れ給え。たといその心を鬼に染めようとも、気高き人のたましいを宿したる骸。人と鬼は表裏一体でございます。どうか道を……」
巫女は希う。
天から光が差した。
それは月光に非ず。月より静かで、太陽よりも激しい光の柱が降り、鬼武者を包み込んでいた。
巫女は玉響のあいだ目を見開いたが、すぐさま祝詞を口にした。
「高天に、還りし命を寿ぎます」
鬼の黒き肉と甲冑が霧散し、純白の頭蓋が現れる。その中から青白き焔が抜け出てくると、光の柱を辿って天へと昇り始めた。
『感謝しよう、若き巫女ともののふよ。いつの日かそなたらへの恩に報いるため、この地を佑わう神として戻ることを誓う……』
武者の魂は誓いと共に空の彼方へと消えていった。
「やるじゃん」
ミズメは笑い掛けた。
「……信じられない」
オトリが呟く。
「信じられないって、何が?」
「普通、鬼にまで堕ちた人の魂は“寿ぎ”を受け付けないんです。魂が夜黒に染められると、受け入れ先が地下である黄泉國になってしまうんです。たとえ鬼のほうに天に還る希望があっても、高天も道を示すことはないはず。私たちの里の始祖のかたも、鬼を憐れんで祝詞を上げたんですが、上手くいかなかったと言い伝えられています」
「へえ。オトリは始祖の巫女以上ってこと?」
「まさか。嘘みたいな伝説のあるかたですし、私なんてとても。きっと、オサダノマキさんが人の心を取り戻したからですよ」
「そうなのか? ま、何にせよ成仏できたんなら良かった」
「成仏とはちょっと違いますね。成仏は仏に至ることを指すでしょう? 私たちの流派でいうところの神様に成るということ。でも、寿ぎは他人が御魂を浄化して天の国に送り届けるだけなんです。道はなかばです。そこから神様に成れるかどうかは、この覡國に暮らす人々の願いに掛っているんです。だから……」
オトリはかつての郡司のこうべに手のひらを乗せた。
それからふたりは、郡司の骸と回収し直した刀を抱えて村へと戻った。
戻ると村の宴はお開きとなっており、村民たちは暢気に眠りに就いていた。
翌日、問題の真の解決を伝えると共に、老巫女にひとつ指示をした。
当時の村は争いごとに知らぬ存ぜぬを貫いていたようであったが、戦火に巻かれずに済んだのはオサダノマキその人の尽力の賜物に他ならない。
悪鬼と成り果てていた彼の魂であったが、山伏による調伏と巫女による祝詞で改心し、神の国へと還った。
この骸を大切にし続ければ、いつしか彼はこの地に神として天降り佑い給うことであろう。
オトリがそれを説明すると、祠を作ってオサダの遺骨を安置し、祀って信仰の対象とすることが決定された。
「あとは巫覡が要りますね。神様がいらっしゃるまで年月が要りますから、できれば若くて、ちゃんと霊感のあるかたが」
オトリは老婆を見た。老婆はこうべを垂れて唸った。
「それなら、丁度良い奴がいるよ」
ミズメはそう言うと、一人の童男を連れて来た。
「この子は霊感ありだ。あたしの幻術も見破ってたし、最初に落ち武者の霊が刀を取り返しに来たのに気付いたのもこの子だよ。怠けてたのを叱られるって呆けてた巫女と違って抜け目もないぜ」
にやり歯を見せるミズメ。
「私が落ち武者に気付けなかったのは彼が鬼に至っていたからです! 鬼っていうのは、気配を隠すのが上手なんです!」
オトリが憤慨した。
「ええと、この童を後継として育てれば良いのかの?」
老巫女が問うた。
「えー! 婆と同じなんていやだじ! おらは山伏になる! 山伏様、おらを弟子にしてくらしー!」
拝む童子。
「残念だけど、あたしは善行の旅の最中で、まだまだ修行中の身だ。だが、どうしてもと言うなら、術を一つ授けよう」
ミズメはそう言うと、おもむろに懐から檜扇を取り出して何やら仰ぎ始めた。
「一体、何の術を? ……って、くさいっ!」
オトリが袖で鼻を覆う。老婆も顔をしかめた。
「天狗の秘技、屁送りの術なり。風術にて己の放屁を邪なる者の鼻へと届けるのだ!」
「もう! 変なこと吹き込まないで下さい!」
「変なことではない。屁なことを吹き込んだのである」
ふんぞり返る天狗。
「……ま、術も人に教えて貰って容易く手に入るものじゃないしね。風術が習得できなかった時のために、この扇を授けよう」
ミズメは檜扇を童男に手渡した。
「ありがとうございます! おら、立派な山伏になる!」
「お手本がちょっと……。山伏よりも巫女になりましょうよー」
オトリが言った。
「冗談でなしにさ、山伏ってのはありだと思うよ。修験の行は厳しいけど、武芸者も多いし、武に通じたほうが予定してる神様とも相性が良いでしょ?」
「確かに。あのかたなら戦禍から村を守ってくれるでしょうし。疫病や田畑に悪さをする物ノ怪も追っ払ってくれそうです。やっぱり、山伏のほうが良いのかしら」
「そういうこと。じゃ、そろそろ村を出ようか」
ミズメは促す。
「うー。帰りたいような帰りたくないような……」
オトリはまた頭を抱え始めた。
村の者たちに送られ、ふたりは南へと足を向けた。
「ところでミズメさん。あの扇、あげてしまって良かったんですか? あれを持ってるからって、風術が使えるわけではないでしょう? それに、随分と綺麗な造りで貴重そうでしたけど……」
横を歩くオトリが訊ねる。
「いーのいーの! どーせ、あたしのじゃないし!」
ミズメはぐるぐる巻きにされた山伏を思い出して笑った。
「あっ! まさかあれも掏り取ったものですか!? もう! ギンレイ様に見張っておくようにって言われたのに! あちらのほうにも顔が立たない!」
オトリはがっくりと肩を落とした。
「しかたないじゃん。悪人に手が出ちゃうのはあたしの性分さ。オトリが鬼や物ノ怪を嫌うようにね」
「はあ……ミズメさん」
オトリは立ち止まった。
「昨夜はありがとうございました」
黒髪跳ねさせ礼を言う。
「いいってことよ。約束したし、それにオトリとは友達だからね」
立ち止まった巫女へと手を差し出す。
「はい!」
元気の良い返事と共に手が握り返される。
並んで歩く物ノ怪の娘と人の巫女。
彼女たちの行く先には日ノ本の中央にそびえる峻山。その頂きは白く、修験の行のごとき厳しさを見せている。
しかし、それら全てを包み込むように、晩秋の太陽が明るく照り輝いていたのであった。
*****
檜扇……山伏の持つ扇。