化かし013 甲乙
明朝。東雲未だ青い時分にふたりは動き出した。
夢魘が眠りを浅くするのか、ああいった日の翌日はミズメが連れ合いを起こすのに苦労をすることはなかった。
森の鳥たちはすでに囁きを始め、茂みの中からも枝葉を鳴らす音があちらこちらから聞こえる。
一匹の狐が山を駆け下り、ミズメの眼下を無遠慮に通り過ぎた。同じく、囁きもけたたましい悲鳴に変わり頭上を通過した。
「獣たちが慌てて逃げてる。上に何かが居るってことだ」
「山鯨でしょうか? それともアナミス?」
「狩人が無遠慮に鳥獣を脅かすことはしない。猪のほうだよ」
ミズメは斜面を見上げ鼻を鳴らす。
――化け猪のにおいは感じない。でも、警戒臭がするな。
幾つかの種類の獣は、尿の臭気で言葉を交わし合う。長年山で生きた天狗なる娘はその意味を嗅ぎ取った。
「オトリはここで待ってて。手っ取り早く決めてくる」
ミズメは警戒の方角へ一歩踏み出した。またも一羽の頬白が逐電を試みて下って来た。
刹那、その茶色い腹が赤く弾けた。続いて離れた箇所で木を叩く乾いた音。
「鳥が!」
オトリが声を上げる。撃たれた鳥が羽毛を宙に残し、綺麗な頭部と砕けた肉を地に落とす。
「弓の射撃だ!」
遠方、木立の先で弦の弾ける音が立て続けに聞こえる。頭上で鳥の短い断末魔、斜面を転がってくる鼬、背後で巫女の驚嘆の声。
「オトリっ!」
慌てて振り返れば、オトリの真横の木に二枚羽の矢。それは丁度、彼女の視線をさえぎるように樹皮に突き刺さっていた。
「娘さんがたよ! 寝坊が過ぎるんじゃねえか? 猪狩りをするならもっと早く起きんとな。獲物はすでに朝餉の時間じゃ。どっちが先に奴を獲るか、勝負せんか?」
姿は見えぬが、遠方から喧しい声が聞こえてくる。
ミズメの足元では腰に矢を当てられた鼬が息絶えていた。
「望むところだ! あんたとあたし、山と生きる者として甲乙付けてやる!」
怒声混じりに応じる娘。
「甲乙? 腹が痛いのう! 甲乙の乙は乙女の乙じゃ! やる前から勝負は見えとるわ!」
森に哄笑がこだまする。
ミズメは言い返さず、八目草鞋で地を蹴った。後方で連れ合いの巫女が何かを言ったが、風の音に紛れて掻き消えた。
――気を乱しちゃいけない。集中するんだ。
霊感と五感を総動員し、流れる緑の中の気配を読む。
逃げる獣、並走する不快な男の気配、上方に幽かに水の打ち付ける音。
滝の音の中に不規則な水音を見つけ出し、それが体躯の豊かな生物が起こすものだと判断する。
アナミスの気配は途中までは付近にあったが、斜面を進むうちに離れて行った。別のところに見当をつけたか。
ミズメは男の視線が途切れたのをいいことに、岩崖に辿り着くと翼を広げて跳躍の助けとした。
更に走ると清流。丸石の広がる河原に出た。水の香りに混じって獣の濃い臭気が鼻を衝く。
特別な力に頼る必要もない。それは喪服か、瞳が空五倍子色の毛並みが川を乱暴に引っ掻き回している姿を認めた。
遠近が狂いかねない巨体。川もまるで水溜まりのようだ。
猪が頭を持ち上げると、水中から大きな魚が宙へと放り上げられた。
濡れるのも構わずに浅い川へと踏み入り、猪と直線に相対する。足元の水に濁り。獲物にはすでに無数の矢が刺さっていた。
それでも猪は愉しげに、鱒か何かを狙って鼻先を水に突っ込み遊んでいる。
ミズメは“どこからともなく”身の丈よりも長い真巻弓を取り出した。
――一手で決める。
矢を番える指。未だ青臭さを失っていないオトリの矧糸の香りがふわり。
風切りの音がした。ミズメが身を引くと、何かに睫毛を撫ぜられた。
「おい! 今のは中てるつもりだっただろ!?」
いつの間にか追い付いていた男へと怒鳴る。
「悪い悪い。手元が狂ったんじゃ。アナミス様も弓の誤りじゃ」
森の中から男が現れる。左手には強弓、右手の指のあいだには二本の矢。
「山鯨はあたしが斃す。あとから来た奴はそこで待ってな」
「その猪に刺さっとる矢は全部、俺のもんじゃ。一晩中追い回したがてんで疲れもせん。奴とやり合うのは昨日が初めてでもない。俺がこの地にこだわるのも、奴がおるのを知ったからじゃ。あれを獲れば日ノ本一の狩人に違いないわい。小娘の弓力じゃ、あの猪は絶対に射殺せん」
絶対にな。馬鹿にしながらもその目付きは鋭い。
「時に小娘よ。猪がここに居座ってるのによく気がついたな」
「あたしは耳も鼻も良いからね」
話しかけられては集中しづらい。猪が鱒に飽きぬうちに決めてしまいたいところであるが……。
「ま、狩人に珍しいもんでもないが……俺はこの地に長い。ここへ至る最短の道を選んだはずじゃが、おまえはどうやってここへ来たんじゃ?」
「それは山伏の秘密だよ。あんたみたいに獣を無闇に殺す奴には、一生辿り着けない境地さ」
「ふん、その袈裟は股を売り歩くための飾りかと思ったが。ええじゃろ。そこまで自信があるなら、三本まで先に撃たせてやる。それで決めれんかったら、俺も勝手に猪を射るからな!」
ミズメは男を視線から外すと矢を番え直した。
「そこからじゃ遠すぎるじゃろ。届いても威力が削がれるわ」
「黙って見てな」
ミズメが言うと、アナミスは鼻でひと笑いし口を一文字に結んだ。だが、型を検分するその瞳は鷹のごとしである。
――……。
脛を濡らす川の流れ。霊気練りあげれば、水に混じる猪の血の穢れも感じ分ける。
正眼その先に遊ぶ猪は、喰うでもなしに鱒を跳ね上げ続ける。
せせらぎは掻き消え、男の視線は溶け流れ、視界は朝霧に呑まれたがごとくにぼやける。
太き甲矢を番え、體の芯たる丹田を以て弓を引け。
野生の勘か、猪が頭を持ち上げてこちらを睨んだ。視線絡み合うも、弓手の瞳は何も映さない。
靄の先に見えたるは我がこころの獣か。己への戒めの一矢が指より離れる。
弦が手甲を叩く音が広がる。
脳天直撃。猪の額の中央に黒羽の甲矢が立てられた。
怒りの咆哮。小鳥が群れを成して木々から去る。
駆ける化け猪。あまたのいのちを貫いた血濡れの牙を向けるは娘の胎か。
すでに放たれたるは乙矢。
その先は定角の鏃に非ず。尖端平たく、鳶のごとき音色を奏でる鏑矢なり。
霊気は風に孕み込んで矢を抱き、渦巻く気流が矢速を早め、音の脚をも越えさせた。
その間、虚空のことであった。
ミズメの指より離れた乙矢の先は甲矢の筈を寸分狂わず叩き、そのつるぎに等しき切先を頭蓋の奥へと押し込んだのである。
猪は一度だけ身を弾ませると、そのまま喪服を己がためとし、派手に水飛沫を上げた。
「……」
魂魄ここにあらずのミズメ。残身、余韻に浸るか。
「女が! まぐれ中りでええ気になるなよ!」
土蜘蛛なる男は罵声と共に剛腕から殺人の一撃を放っていた。
「……」
いまだ離魂か、乙女の瞳は獣の骸を虚ろに映したまま。
玉響、川の水が大きく跳ね上がる。
土蜘蛛の毒牙は“水の膜”に遮られ、宙で静止した。
「な、なんじゃあ!? 俺の矢が……」
驚嘆の声を上げるアナミス。
「ミズメさんを殺す気だったでしょう。勝負に負けたくせに!」
駆け付けた巫女。彼女の手には藤蔓が握られている。
「……あっ、いけないいけない。集中し過ぎてた」
ミズメが現世に意識を戻す。
「へへ。どうだい、おっさん。あたしの弓術。魂消ただろ?」
「糞。認めたるわ。じゃが、日ノ本一は俺のもんじゃ! 妖しげな術を使いおって! 次はおまえらが獲物じゃ!」
まさに矢継ぎ早に放たれる二立羽の矢。
「人の身で射った矢なんて、あたしの風で落としてやるよ」
天狗たる娘の周囲で霊気を孕んだ風が渦巻いた。
しかし、川の水が一斉に光り輝きしぶきを上げて、すべての矢を叩き落としてしまった。
「護るって言いましたから。ミズメさんのおっしゃった通り、猪には手出しをしませんでしたし」
オトリがそういうと、宙に浮いた水滴たちが流星群のように蟲の男へと飛び掛かった。
「ぎゃふん!」
男は全身を固い水に撃たれてもんどり打った。
「アナミスさん。あなたの悪行もこれまでです。大人しくお縄になりなさい」
オトリの手から藤蔓が蛇のように飛びかかり、あっという間に性無者を召し取った。
「なんじゃい!? こんな縄……ち、千切れんぞ!」
「私の霊気を通した蔓は鉄のように頑丈ですから。もう逃げられませんよ」
オトリはそう言うとこちらへ向き直り、にこやかに笑ってみせた。
「ちぇっ、ぎゃふんと言わせるのはあたしの役目だったのに」
笑い返すミズメ。
こうして娘たちの手によって、村を困らせる化け猪と土蜘蛛を名乗る狩人、双方の悩みの芽が摘み取られた。
村の男衆が呼び集められ、山鯨はその場で解体された。さすがに一度にすべては持ち帰れず、痛みの早い臓物は山へと還元された。
乱暴者たちに困らされていたのは村人だけではない。山の生き物たちも同様である。猪はその身で罪の代償を支払うこととなった。
「本当にあの化け猪を討ち取ってしまうとはのう」
宴の席で坊主が笑った。
「できると思ってなかったんでしょ? あたしたちはあんたら坊主の言う“徳”を積んで来てるんだ」
ミズメは出された盃を煽ってけらけらと笑った。その顔は鳥居のごとき赤に染まっている。
「ミズメさん! 酔いに効く榛実の持ち合わせは無いんですから、ほどほどにしておいてください」
「大丈夫だって。あたしって、顔に出やすいたちなんだよ。頭も舌もちゃんと回ってるだろ? それより、坊さん。あんた、思いっ切り猪肉食ってるけど、良いのかい?」
ミズメが訊ねる。
坊主は鍋に煮込まれた猪肉を野菜といっしょに口へ放り込んだ。
「猪肉? いやはや、これは牡丹かと思った。ほれ、そこの器に綺麗に盛られてる肉を見てみよ。まるで牡丹の花のごとしではないか」
そう言って坊主は酒を呷った。
「ははは、うちの坊様はこびりに肉の塩漬けで一杯やる人こてえ」
村民の一人が笑って言った。
「まあ! 仏様に罰を当てられても知りませんよ」
横に座るオトリが口を袖で隠して笑う。
「肉どころか女子もしかも食うこてえ、ほーんにまめらなおかたですてえ」
「ん、何のことやら? 歳を取って耳も悪くなったかの? 牡丹と猪肉を見間違えるほどじゃしのう。鮑をうっかり口にすることもあるかもしれんのう?」
坊主は何やらとぼけている。
「……ねえ、ミズメさん。あの人なんて言ったのかしら?」
オトリは首を傾げた。村民の訛りが酷くて意味を計りかねたらしい。
「肉だけじゃなくて、女もやるってよ。とんだ破戒僧だね。良かったなあオトリ? 昨日は寺に泊まらなくて」
ミズメは再びけらけらと笑った。
「ほんと、それだけが残念じゃな」
坊主が何か言った。
「もう! ミズメさん、今夜も一緒に寝てくださいね。それか、寝ないで私を護ってください!」
「やだよ、今日はもう疲れた!」
――それに、護られたのはあたしのほうっぽかったしな。
忘我を襲った殺意の矢もあったが、ミズメは猪の死骸を検めた時に、乙矢で叩いた甲矢が裂けているのを発見していた。
二連の射撃で矢が辛うじて破壊されず猪の頭蓋を打ち砕くことができたのは、オトリの霊気の籠った矧糸がしっかりと箆に巻きついていたからであった。
もしも仕留められなかったら、あの猪の牙が己の腹に突き刺さっていたやもしれぬ。それだけ集中を要する技であった。
「今、触ろうとなさったでしょう!?」
坊主の手を払いのける巫女。うむうむ、良い相方になれそうな気がしてきた。ミズメは酒気も手伝って上機嫌である。
「はあ。男の人って、どうして皆ああなのかしら……」
溜め息をつくオトリ。
「男じゃなくったって、あたしが悪さするかもしれないよ」
そう言ってミズメはオトリの緋袴の上から尻を撫ぜた。
「いやん!」
オトリが悲鳴を上げると村の男共から歓声が漏れた。いいぞもっとやれ。それから女共が男どもの頭をぶっ叩いた。
「何をするんですか!」
涙目の抗議。
「いやー。昨晩はあたしがそーいう声を聞かせてやったんだしさ。おあいこだおあいこ」
手を振り振り笑うミズメ。
「ほほう、御二人はそのような仲で? それもまたよろしいことじゃのう……ねもころに肌着湿らす 恋乙女 散りゆく百合に 我が身を預く 願いかな」
坊主がにんまりと笑った。
「骨無し! 風情もへったくれもない歌だね! そもそも坊さんは抜きで頼むよ」
言いつつもなんだかにやけてしまう天狗の娘。
「今のはどういう意味ですか?」
不安げに見回すオトリ。宴会の場は娘たちを囃し立てる愉しげな笑いに包まれていた。
「いーじゃないの。ささ、今日はお手柄でしたねオトリさん。肩をお揉み致しましょー」
ミズメはオトリの背後に回り、肩へ手をやる。
「なんですか? どういうことですか? ちょっと! くすぐったい! ……もう、私もやられっ放しじゃないんですからね!」
オトリは“ずる”をしてミズメを組み敷くと、脇腹をくすぐり始めた。
「あっ、水術! そんなことしたらあたしが勝てるわけが……」
ミズメは抵抗するも、為されるままに笑い声を上げるほかにない。
平和の戻った村に、人々の笑いが絶えない月待ちの夜であった。
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空五倍子色……褐色がかった淡い灰色。平安時代の喪服の色としても使われた。
甲矢、乙矢……羽根は割って使用されるため、左右で羽根の反りが反対となる。同じ種類で揃える必要があるため、それぞれで回転方向の違う矢ができ上がる。
右回りのものを甲矢、左回りのものを乙矢と呼ぶ。これら二つを一対とし一手という。通常、甲矢を先に射る。
手甲……手の甲から前腕に掛けてを防護する衣類。
定角……射貫くのに向いた剣型の鏃。
鏑……殺傷を目的としない鏃で、穴が空いておりそこに風が入り込むことで鋭い音を発する。いくさの開戦や仲間への知らせとして使われる。
虚空……数字の単位。刹那の百分の一。
残身……心や姿勢を途切れさせないこと。弓を引き終わったあとのそのままの余韻の姿勢。
筈……矢の羽側の先。
二立羽……二枚羽の矢。原始的で安定性に欠けるが細工が楽。
こびり……おやつ、間食。
しかも……かなり。
まめら……健康。達者。
破戒僧……仏の教えを破る僧侶。
骨無し……無骨である。華やかでない。
今日の一首【坊主】
ねもころに 肌着湿らす 恋乙女 散りゆく百合に 我が身を預く 願いかな
(ねもころに はだぎしめらす こいおとめ ちりゆくゆりに わがみをあずく ねがいかな)
……熱心に乳繰り合う娘たち。そのあいだに是非とも挟まりたいことだなあ。という破戒僧の心情を詠った即興の一首である。




